差を見せないことが、社会性(の一つ)
現代の日本社会において、「社会性がある」と評価されるための条件の一つに、場の空気を読み、自分の言動が周囲にどのような影響を与えるかを事前に予測する力がある。
これは昔から存在していた感覚だが、近年はとくに「自慢」「マウント」「承認欲求」といった言葉が広く浸透したことで、より強い形で意識されるようになったように思える。
以前であれば、問題とされたのは主に「自慢すること」そのものだった。
自分の成功や幸福を必要以上に誇示し、相手より上に立とうとする態度が嫌われる、という比較的わかりやすい構図である。
しかし現在では、評価の焦点が少し変化している。
問題なのは、自慢したかどうかだけではなく、
「その話をすれば周囲がどう反応するかを予測できなかったのか」という点に移っている。
たとえば、結婚、出産、昇進、転職、旅行、収入の増加、家の購入、仕事の成功などは、本来どれも普通の人生報告である。
しかし、それらは同時に他者との差を可視化する情報でもある。
結婚していない人にとっての結婚報告、
仕事がうまくいっていない人にとっての昇進報告、経済的に余裕のない人にとっての旅行の話は、
本人に自慢する意図がなくても、聞き手に比較意識や嫉妬を生じさせる可能性がある。
そして現代では、そうした可能性そのものが広く知られている。
「マウント」「自慢」「SNS疲れ」といった話題が膨大に流通している以上、「そんなふうに受け取られるとは思わなかった」という説明は、以前ほど通用しにくい。
周囲から見れば、「それを言えば誰かが嫌な気持ちになる可能性くらい分かったはずだ」と判断されるからである。
「予測できた」ことと「だから黙る義務がある」ことは別ではある。
幸福を語る自由はある。
しかし、あるコミュニティでその話をすれば空気が悪くなることが十分予測できたにもかかわらず、あえて話したのであれば、
「この人は場の力学が読めない」
「メタ認知が弱い」
「社会性が低い」と評価されることがある。
現代の社会性の一つとは、単に礼儀正しく振る舞うことではない。
自分の発言が周囲にどのような感情を引き起こすかを予測し、その結果に応じて自己表現を調整する能力なのである。
そのため、現在の日本社会では
「差をなくすこと」よりも、
「差を見せないこと」が強く求められているように見える。
人々は現実に収入、結婚、家族、仕事、能力、健康、運などに差があることを十分理解している。
それでも、その差を会話の中で露出させることには強い慎重さが求められる。
とくに興味深いのは、不幸については比較的語りやすいことである。
「仕事がつらい」
「お金がない」
「最近うまくいかない」
といった話は、共感や親近感につながることがある。
一方、
「仕事が楽しい」
「夫婦仲が良い」
「生活に余裕がある」
「子どもが順調に育っている」
といった話は、相手との差を可視化するため、より慎重な扱いを要求される。
その結果、現代的な対人能力として、「幸福をそのまま表現しないこと」が評価される場合がある。
成功していても大したことではないように話し、
楽しかった出来事にも苦労話を添え、
恵まれている部分ほど目立たせない。
そうした自己調整が、「謙虚」「大人」「空気が読める」と評価される。
これは人間関係を平穏に保つ技術としては合理的である。
しかし同時に、大きな代償も伴う。
差を見せないことを優先しすぎれば、人は本当の喜びや成功を共有しにくくなる。
幸福そのものより、幸福をうまく隠す能力のほうが社会性として評価される社会にもなり得る。
現代の社会性とは、他者と協調する能力であると同時に、自分の幸福や成功が生む「差」をどこまで見せるかを管理する能力でもある。
その自己調整の巧拙が、人間関係の評価に強く影響する。
そこに、現代社会の円滑さと息苦しさの両方が存在している。
