傀儡化依頼
万年筆の先が、和紙の上を滑る。
微かな摩擦音が静まり返った応接間を支配し、やがて独特な曲線を描いて止まった。
「これでよろしいですか、父上」
息子は顔を上げ、几帳面な声で尋ねた。
かつて夜の街を我が物顔で練り歩いていたとは思えないほど、息子の顔は能面のように穏やかだった。
以前までの派手な装飾はすべて剥ぎ取られ、代わりに、私の書斎にあるような地味な柄のネクタイが首元を締め付けている。
「ああ。ご苦労」
私が短く応えると、息子は一礼して静かに退出した。
彼が先ほどサインした書類は、私の財産が、私の意図した通りの比率で管理されることを約束する遺言書だ。
数ヶ月前なら、息子はこの紙を破り捨て、私に向かって灰皿を投げつけたことだろう。
「上々ですね」
対面のソファに座る男が、ティーカップを置きながら微笑んだ。
灰色のスーツを着た彼は、裏社会で名高い心理操縦士だ。
その顔立ちは、一度目を離すとすぐに見失ってしまいそうなほど、平凡に馴染み過ぎている。
「君の技術には恐れ入るよ。手がつけられなかった野獣が、今やすっかり従順な羊だ。これで私の晩年も安泰というものだよ」
私は金庫から取り出した厚い封筒をテーブルの上に滑らせた。
男は中身を確認することもなく、それをスーツの内ポケットに収める。
「お役に立てて光栄です。ただ、手放しで安心するわけにもまいりません。人の心は、時として想定外の揺らぎを見せるものです。せっかく築き上げた秩序を、より強固なものにするため、私からさらに提案がございます」
男はアタッシュケースから、書類を一枚取り出した。
「息子さんの定期的なメンテナンスと、不測の事態に備えた自律的な秩序維持の組み込みです。もちろん、追加で費用はかかりますが」
男から提示された金額は、はじめの報酬の三倍は下らなかった。
しかし、私からすれば、その数字がなぜかひどく妥当なものに見える。
息子が再び私に牙を剥くリスクを思えば、むしろ安い投資ではないか。
「構わん。安心には代えられないからな」
私は、先ほど息子が使っていた万年筆を手に取り、迷うことなくサインを刻み込んだ。
男は満足げに頷き、書類を回収すると、風のように屋敷を後にした。
一人残された応接間で、私はソファに腰を深く沈めた。
窓の外では、手入れの行き届いた庭の木々が黙って揺れている。
すべてが、私の思い通りに動いている。
盤石な支配、心地よい静寂。
ふと、テーブルに残された追加オプションの控えに目が留まった。
ゼロが連なる金額をぼんやりと眺めているうちに、私の胸の奥に小さな棘のようなものがあることに気が付いた。
なぜ、私は、これほどあっさりとサインをしたのだろうか。
長年のビジネスで培ってきた私の直感は、あのような法外な請求に対して、まず疑ってかかるようにしていたはずだ。
それが、まるで見事な手品のように、ペンを握らされていた。
自分の意思で判断したと確信しているのに、そのプロセスにはところどころに空白がある。
年齢のせいで思考がぼやけているのかと思ったが、考えを巡らせるうち、断続的にできた空白はさらに広がり始めていた。
そもそも、あの操縦士をどこで見つけたのか。
記憶をたどる。
裏社会の伝手を使ったわけではない。
数ヶ月前の午後、この応接間での話だ。
息子の妻が、私の好む紅茶を淹れてくれた時のこと。
『お義父様、最近ご心労が重なっていらっしゃるようですね。実は先日、私の友人の紹介で、とても有能なカウンセラーの方と知り合いまして。彼はなんでも、人の考えや行動を根本から改善する技術をお持ちだとか』
彼女は気遣いの笑みを浮かべ、一枚の名刺をテーブルにそっと置いた。
けれど、その時の彼女の瞳に、得体の知れない光が宿っていたことを、私は今頃になって思い出した。
息子の妻は、大人しく、主張の少ない女だ。
私の前では特に、おびえたように小さくなっていることも多かったように思う。
しかし最近、彼女もどこかおかしかった。
家事を置いて頻繁に外出するようになり、帰宅すると、香水かタバコのような、卦体な匂いを漂わせていることが何度かあった。
そういえばある日、街角で彼女が若い男と歩いているのを見かけた。
彼女は男の発言にこくこくと頷き、男が声を上げて笑えば彼女もケラケラと笑い、男が立ち止まれば彼女もピタリと立ち止まっていた。
まるで、糸に操られているかのように。
私は立ち上がり、冷たい窓ガラスに額を押し当てた。
庭の向こう、鉄柵越しに見える通りを、人がまばらに行き交っている。
携帯電話を耳に当てて歩くスーツ姿の男。
きびきびと先を急ぐ若い女。
リードに繋がれて歩く犬と、それに引かれる老婦人。
一見、平和な日常の風景だ。
しかし、今の私には、それがひどく異様なものに映った。
スーツの男は電話の向こうの誰かの指示で歩幅を変え、若い女は待ち合わせに遅れないように息を切らせ、老婦人は犬の機嫌のために歩く速度を落としている。
誰もが、誰かの影響で、誰かを動かしている。
無数の糸が街中に張り巡らされ、絡み合いながら、巨大な蜘蛛の巣を形成している。
そして、私自身の手足にも、いつの間にか太く強靭な糸が何本も結びつけられていることを、今になって実感してくる。
操縦士の糸、息子の妻の糸、その彼女を操る見知らぬ誰かの糸。
私は息子を支配したつもりでいた。
しかし現実は、彼を操るための費用を捻出する財布として、私自身もすっかりプログラムの一部に組み込まれているだけなのかもしれない。
恐怖が、湧き上がるはずだった。
もしくは怒りで視界が赤く染まるはずだった。
ところが、不思議と私の心は静かだった。
誰かの糸の引きに身を任せることが、これほど心地よいものだとは知らなかった。
「お義父さま、紅茶が入りましたよ」
背後から、息子の妻の声がした。
振り返ると、彼女が銀のトレイでティーカップを運んでくるところだった。
足取りは規則的で、落ち着いた顔には微笑みが浮かんでいる。
彼女はいつから、こんなに笑うようになったのだろうか。
「ありがとう」
私は自分の意思でそう答えた。
礼を言うのは気持ちがいいものだと、つい最近なって覚えたからだ。
差し出されたカップを受け取り、温かい液体を喉に流し込む。
上質な茶葉の香りが鼻を抜けていく。
自分がいったい誰に踊らされているのか、もはや知る由もない。
知る必要さえないのだろう。
私は誰に指示されたわけでもないのに、カップをソーサーに戻し、息をついた。
「まあ、悪くない気分だ」
私は誰に向けるでもなく呟いた。
窓ガラスには、口角を釣り針で引っ張られているかのような、愚かな老人の顔が、ぼんやりと映り込んでいた。
