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失敗を隠した日〜見落としと、保身の呪縛〜 | 【船長への羅針盤 第4話】

海が教えてくれたこと

船長となった今でも、部下から報告を受けるたびに、かつての自分を苦々しく思い出す。 そして、今も昔も変わらない、人間の根源的な心理について考えるのだ。

「なぜ人は、失敗を隠したくなるのだろうか」

ミスそのものを責められるのは誰だってつらい。怒られたくない。自分の評価を下げたくない。周囲に迷惑をかけたくない。組織で働く人間であれば、誰もが抱く防衛本能のようなものだ。私自身、新人時代はまさにその塊だった。

だが、海という逃げ場のない現場で揉まれるうちに、私は身震いするような事実を知ることになった。

本当に恐ろしいのは、失敗そのものではない。失敗を「隠すこと」、あるいは「報告を躊躇うこと」のふたつだ。 これは船乗りに限った話ではない。オフィスビルでパソコンに向かうビジネスパーソンから、巨大なプロジェクトを動かすリーダー層まで、組織に身を置くすべての人間に共通する、生死を分ける分岐点なのである。

私がその本質を文字通り痛感させられたのは、巡視船に乗り始めて間もない、ある日の着岸作業でのことだった。

あの日の海

巡視船での容赦ない生活にも、ほんの少しずつだが慣れ始めていた頃だった。 配属初日の絶望的な寝坊に始まり、荒海での落海事故の恐怖。新人なりに手痛い失敗を重ね、そのたびに先輩たちから雷を落とされながら、私は必死に仕事を覚えていった。

それでも人間とは、実に傲慢で脆い生き物だ。環境に慣れ、作業の手順が見えてくると、心に妙な「余裕」のようなものが芽生え始める。そしてその余裕は、本人が気づかないうちに、じわじわと「油断」へと姿を変えていく。

その日、私は前部甲板で係留(けいりゅう)作業の準備にあたっていた。 巡視船が岸壁へ着岸する際、太いロープを使って船体を固定する、一歩間違えれば大怪我に繋がる緊張感のある作業だ。大型巡視船の係留索(けいりゅうさく)は、大人の腕ほどもある太さで、一本だけでも相当な重量がある。それを巻き上げるウインチや周辺の器具の点検は、新人である私の重要な任務だった。

作業開始前の点検。ロープの摩耗具合、シャックルの締まり、周囲の安全。どれも耳にタコができるほど叩き込まれた「基本中の基本」だ。私は先輩から指示された通りに各部を見て回り、「よし、問題なし」と判断した。

ところが、作業が実際に始まり、激しい音を立ててロープが巻き上げられている最中、私はある異変に気がついた。 係留設備の一部を固定している金属製のピンが、本来あるべき位置から、ほんの数センチだけずれていたのだ。

(あ……少しずれてるな)

心臓が小さく跳ねた。今すぐ設備が壊れるような致命的な状態ではないように見えた。現に作業は何事もなかったかのように進んでおり、船の動きにも支障は出ていない。 私は作業の邪魔にならないよう動けないまま、頭の中で激しく計算を巡らせた。

「今ここで作業を止めて報告したら、大騒ぎになるんじゃないか?」 「『お前の事前の点検は見落としだらけか』って、また怒られるんじゃないか?」

評価を下げたくない、無能だと思われたくないという、あまりにも小さく卑屈な自己保身だった。 「……後で、作業が終わってからこっそり直しておけばいいか」 私はそう結論づけ、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。誰にも報告しなかった。新人の私にとって、その程度のズレは「わざわざ報告するまでもない、大げさなこと」に思えたのだ。

だが、海はそんな甘えを許してくれない。

その日の夕方、別の班の先輩が夕食前の設備点検を行った際、その異常を鋭く見つけた。 「おい、これを見ろ。いつからだ?」 船首甲板に、低く冷たい声が響いた。一瞬にして周囲の空気が凍りつく。

私は一目で、それが昼間に自分が目を瞑ったあのピンだと分かった。胸の奥が、冷たい氷を押し付けられたように凍りついた。だが、言い出せない。すでに数時間が経過している。 「なぜ、気づいたその時に言わなかった?」と追及される恐怖が、私の足を床に貼り付けた。

先輩たちは即座に原因調査を始めた。 何か強い衝撃が加わったのか。金属疲労か。誰が最後にこの設備を触ったのか。いつから異常があったのか。 小さな部品の不具合のはずが、原因が不明であるがゆえに、「作業管理全体の重大な欠欠陥」へと疑惑が膨れ上がっていく。先輩たちがシリアスな顔で図面や記録を確認しに走る姿を、私はただ黙って見つめることしかできなかった。

胃が雑巾のように雑に絞られるような、強烈な罪悪感とストレスが襲う。私の隠蔽(いんぺい)のせいで、現場の全要員が不必要な確認作業に追われているのだ。 耐え切れなくなった私は、ついに蚊の鳴くような声で申し出た。

「すみません……。実は、昼の作業中に気づいていました」

甲板を、じっとりとした沈黙が支配した。先輩たちの視線が一斉に私に集まる。 怒鳴られる、殴られる。そう身構えた。しかし、返ってきたのは、激昂ではなく、私の魂を深く射抜くような静かな問いだった。

「なぜ、その時に言わなかった」

怒声よりも、その静けさの方が何倍も重く、痛かった。私はしどろもどろになりながら、必死に言い訳を探した。 「……大したことではないと、自己判断してしまいました。それに、点検で見落としたと言われるのが怖くて……」

先輩は深く、深くため息をついた。 「お前が見つけた瞬間に『ピンがずれています』と一言報告していれば、叩き込んで5分で終わった話だ。今、その確認のために何人の人間が、どれだけの時間を無駄に動かされているか分かっているか?」

何も言い返せなかった。 異常そのものは小さかった。それを「致命的な問題」へと肥大化させたのは、設備の不具合ではなく、私の「保身」と「沈黙」だったのだ。

先輩は私の目を真っ直ぐに見据えて、こう言った。 「新人だから失敗する。見落とす。それは当たり前だ。誰も最初から完璧なんて求めていない。でもな、隠すな。組織はお前一人で仕事をしてるんじゃない。お前の小さな沈黙が、全員を殺すんだぞ」

夕暮れの海風が、やけに冷たく頬を刺した。 報告とは、自分を叱責から守るための防具ではない。組織全体を破滅から守るための、もっとも重要な「武器」なのだと、私はこの日、骨の髄まで理解した。

船長席から見える景色

時が流れ、大型コンテナ船の船長となった今、私はブリッジ(船橋)で部下たちから日々、無数の報告を受けている。 「計器にわずかなノイズが出ます」 「予定の針路から、わずか1度ズレています」 「書類の数字に一箇所、誤記がありました」

客観的に見れば、取るに足らない小さな事象がほとんどだ。しかし、私は部下から報告を受ける際、その内容の大小よりも、遥かに重要視している「評価基準」がある。 それは、「違和感が生じてから、何秒で私の耳に届いたか」という速さだ。

現代の船舶運航において、最も重要視されている概念に「BRM(Bridge Resource Management:船橋チームマネジメント)」というものがある。 これは、船長という絶対的な権限を持つ人間に、新人の航海士であっても「おかしな点」があれば躊躇なく意見し、情報を共有することで、チーム全体でエラーを防ぐという、航空業界のCRMから発展したマネジメント手法だ。今や世界のあらゆる船会社が、このBRMの徹底に血眼になっている。

なぜなら、海難事故の歴史を振り返れば、そのほとんどが「一瞬の巨大な天災」ではなく、「小さな違和感の放置」の連鎖によって起きているからだ。

誰かが気づいた小さな異常。それを「これくらい大丈夫だろう」「怒られたくない」と握り潰した瞬間に、事故へのカウントダウンが始まる。逆に言えば、どんな些細なミスや異常であっても、発生した瞬間に全員で共有(シェア)できていれば、対策の選択肢はいくらでもあるのだ。

だから私は、船を預かる長として、部下たちに口酸っぱく言い続けている。

「原因の分析も、責任の追及もすべて後回しでいい。だから、今すぐ俺に共有してくれ」

ビジネスの世界でも、まったく同じではないだろうか。 プロジェクトの遅れ、クライアントからの小さなクレーム、数字の微細なズレ。「まだ大丈夫」「自分でリカバリーできる」と抱え込み、傷口を広げてから上司に報告した経験は、誰にでもあるはずだ。

組織で働く意味とは何か。それは、個人の未熟さやミスを、チームの仕組みによって補い合うことにある。そして「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」の本質とは、上下関係の義務ではなく、チームのBRMを機能させ、全員の命と利益を守るための安全装置なのだ。

新人の頃の私は、報告を「叱られる恐怖の対象」だと思っていた。だがそれは間違いだ。 本当に恐れるべきは、自分の小さなプライドのために、仲間を危険に晒すこと。 エラーを隠さない強さを持つことこそが、プロフェッショナルとしての「信頼の第一歩」なのである。

あの日、甲板で自分の未熟さを思い知らされた私は、これで一つ階段を登ったのだと信じていた。 「報告の大切さ」を知り、「隠す恐怖」を学んだ自分は、もう同じ轍を踏まないはずだと。

しかし、人間という生き物の「業」は、そんなに浅いものではなかった。 この時の私はまだ知らなかったのだ。

知識がなくて「見落とし」、恐怖から「隠す」という新人期の失敗など、まだ可愛いものだということを。 これから数年後、現場に慣れ、仕事ができるようになり、周囲から信頼され始めた「中堅期」を迎えたとき、私はこの新人時代よりも遥かに恐ろしく、遥かに独善的な、経験者ならではの「牙」に喉元を突き立てられることになる。

その罠の名前は、「見落とし」ではない。 自分の五感がハッキリと捉えたはずの異常を、自らの慢心によって揉み消す――「無視」という名の病理だった。

【羅針盤の一針】

失敗は隠した瞬間に事故へ変わる。 そして本当に恐ろしいのは、「知らないから隠す」ことではなく、「知っているから無視する」ことだ。

(第4話 了)

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