「余白」とは流れを感じることなのかもしれない
何だか疲れたなぁと、1日に何度も思ってしまうことがある。好きな曲を聴こうとしても、本を読もうとしても、人に会おうとしても、全てが濁って灰色に感じる。
体の中に消化できない小さな塊があるように、もやもやとする。その塊は次第に巨大な重力をまとい、私を下へ下へと引き寄せる。
体が重くてだるい。
小さいのに、ただ重力を生むだけではない。言いようのない無力感、疎外感、焦燥感…。地面にのめり込むような体の重みと一緒に、そんなことを感じさせるようにできている。
こういう時に「自分には今、余白がない」と感じる。
その小さな塊は、実は幾重にも折り畳まれた布なのではないかと思っている。外側からどんどん力がかかり、圧縮されて硬い石のようになってしまった、一枚の布。心とは本来そのような一枚の布で、「余白」がある時は自由にはためいている。
布が折りたたまれるのは、些細な出来事がきっかけで、一つ一つは大したことがない。
少しミスをしてしまったとか、
人からの言葉に少し棘を感じたとか、
作った料理の出来が良くないとか、
何だか部屋が散らかっているとか、
信号に何度もつかまってしまっただとか…。
そうした些細な出来事が一枚の布を小さく何度も折り畳み、やがて硬い石のような塊へと変え、重力を持たせ始めるのではないだろうか。
「余白」というと、「空いたスペース」のように感じるが、私は「余白」とは「流れを感じること」なのではないかと思う。
小さな塊のままでは、風が吹いても、水が流れても、生き物が動いても、時が流れても…布よりそれらの「流れ」を感じにくい。その変化の少ない停滞感が、自分が石のように地面に縫い止められているような感覚を生んでいるのではないだろうか。
自分の中のもやもやが無くなり、体がふと軽くなる時を考えてみる。
人から温かい言葉をかけてもらった時、
温かいご飯や飲み物を体に入れたり、
運動や入浴などで体温が上がった時…
自分の体に血の流れがあることを思い出す。
心踊る楽しい体験をした時、
未知なる興奮と出会った時、
脳を揺さぶる素敵なものと対面した時…
静かな摩擦が起きて、小さな火花が散る。
やがてそれは大きな炎となり揺らめく。
歩いて風を感じた時、
せせらぎや木のざわめきを聞いた時、
水の流れを肌で感じた時…
体が風や水の中をたゆたう。
「余白」とは空いたスペースを意味するように思える。だから「余白」を作ろうとする時、何かを捨てたり、手放したりしなくてはならないような気持ちになる。
けれども、自分の中から何かを捨てることだけが「余白」を作ることではない。何かを自分の中に入れることで流れが生まれるなら、自分が「流れを感じられるもの」であったことを思い出せるのだろう。
「一瞬の余白」を作るのは実は簡単で、やはり「流れ」を感じれば良い。
窓を開けて風を感じる。
流れる水で手を洗う。
冷たい水を飲む。
深く呼吸をする。
これらはすぐに1人でもできるものだが、そうした小さな「流れ」が自分に「一瞬の余白」を生んでくれる。そのほんの小さな「余白」が、石に当たる最初の雨粒のように、後の雨を感じるための突破口となるのだと思っている。
様々な流れを感じられる時、心はその流れに合わせて自由に形を変える。しかし「流れ」に身を任せるだけでも、やはりそれは窮屈であるのかもしれない、とも思う。
自分が長く茎を伸ばした花である時、風や他の生き物の時の流れを感じる一方、自分への影響の強さから身を守る術が乏しい、という心許なさがある。
旗めく布である時、絡まったり垂れ下がってシワになったり、自分の形が保てない苛立ちもある。
水や風である時、どこまででもいけるという万能感とともに、自分の輪郭の曖昧さや居場所の無さに、自分というもの自体を見失う心細さがある。
そうしてみると、折り畳まって硬くなった塊であるのも悪くないと思う。その場にただ留まっていること。それは悪いことのようにも思えるが、じっくりと「流れ」を感じることができるともとれる。
石のような塊であっても、じっと感覚を研ぎ澄ませると、雨や風、太陽や星の動き、うごめく生き物たち、地面の下を流れる水脈…そんな流れを感じることができる。
「余白がある」ということは、全てが余白というわけではない。余白のないところがあるからこそ、余白も生まれる。
硬く縮こまってしまった時、一度思考を止めて感覚を研ぎ澄ませる。それは停滞ではなく、また一枚の布に戻るための休息であるのかもしれない。
そう考えると、「余白がない」時もまた悪くないのかもしれない。また余白がなくなってしまった時は、自分を許して地面に身を委ね、周りをじっくりと観察してみたいと思う。
⭐︎「余白がないと感じる時」「余白とは」というテーマを選んで書きました!
