第5話 : 轍の先の光 ―十三年目の検診路―
愛知県の自宅を出発する時、空はいつも夜中で暗い。
助手席に座る私の隣で、夫が静かにハンドルを握っている。
私たちはもう十三年も、この「祈り」に似た旅を続けていた。
三ヶ月に一度、やってくる検診の日。
私の体の中には、十三年前から居座り続けている「病」がある。
「寛解」を目指して足踏みを続けているような日々。
その病を診てくれる医師は全国でも限られており、私たちは三ヶ月ごとに、東の千葉、あるいは西の岡山へと車を走らせる。
「大丈夫か? 寒くないか」
夫が短く問いかける。
「大丈夫。いつもありがとうね」
そう答える声が、少しだけ震えた。
検診の結果を待つあの時間。
白い診察室の前で、自分の名前が呼ばれるまでの永遠とも思える空白。
もし再発していたら、もし数値が悪化していたら。
何度も暗闇に叩き落とされ、そのたびに夫の手に引き上げられてここまで来た。
彼がいなかったら、私はとうの昔に、立ち上がる気力を失っていただろう。
経済という名の、もう一つの重圧
この病は、心と体だけでなく、容赦なく家計をも削り取っていく。
ふと、これまでの数字を頭の中で整理してみる。その現実は、時に病状よりも重くのしかかる。
• 直近5年間の医療費(窓口負担額)
…… 865,000円(私のみの医療費)
これでも高額療養費制度を利用した上での金額だ。
毎年欠かさず確定申告を行い、医療費控除を受けているが、戻ってくるのは年間で10,000円程度。
大海に一滴の水を垂らすような、微々たるものだ。
「少しでも節約しないとね」
それが、私たちの合言葉のようになっていた。
愛知県から千葉へ、あるいは岡山へ。
普通なら新幹線や高速道路を使う距離だが、私たちは頑なに「下道」を走る。
国道を延々と進み、高速料金を浮かす。
幸い、相棒のヴォクシーはハイブリッド車だ。
燃費の良さには助けられている。
• ガソリン代(往復)…… 約7,000円
一度の給油で家まで帰って来られるのが今の私たちにとっての小さな救いだった。
宿泊も、以前はビジネスホテルを利用していたが、最近は「RVパーク」を活用している。
車中泊ができる施設だ。
• 宿泊費(RVパーク1泊)…… 約3,000円
こうして切り詰めることで、一回の遠征費(交通費+宿泊費)を約10,000円に抑えている。
それでも、これを年4回、数年続けてきた。
そしてこれからも、寛解の日が来るまで続いていく。
「医療費さえなければもう少し貯金ができたのに…」
積み重なった金額を思えば、溜息が漏れないはずはなかった。
変わらない景色、変わらぬ願い
窓の外を流れる景色は、十三年前からさほど変わっていないように見える。けれど、私たちの髪には白いものが混じり、車の走行距離は着実に増えた。
夫の横顔を見る。
仕事で疲れているはずなのに、文句ひとつ言わず、三ヶ月に一度のこの長距離運転を担ってくれる。
彼の心労や苦労は、計り知れない。
私を支えるために、彼はどれだけのものを犠牲にしてきたのだろう。
「ねえ」
「ん?」
「私、まだまだやりたいことがあるの。あなたと一緒に、検診じゃない理由で、もっと遠い場所へ行きたいところもたくさんあるのよ」
夫は前を見つめたまま、ふっと口角を上げた。
「ああ。全部行こう。だから、まずは今回の検診を乗り越えよう」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
経済的な負担、忍び寄る再発への恐怖、終わりの見えない通院路。
それらすべてを飲み込んでもなお、私はこの人と共に「生きたい」と強く願う。

国道を延々と走り続け、夜を越えてきたヴォクシーが、ようやく目的地の病院の駐車場へと滑り込む。
エンジンを止めると、それまで車内を満たしていたハイブリッドシステムの静かな唸りが消え、代わりに圧倒的な静寂が降りてきた。
窓の外は、深い紺色から薄い紫へと変わりゆく、夜明け前の淡い光に包まれている。
診療時間までは、まだしばらく時間がある。
「少し休もうか、横になろう。」
夫のその言葉に甘えて、後部座席で横になることに。
夜通しハンドルを握り続けてくれた夫もまた、大きく伸びをしてから後部座席へ移動する。
カーテンを閉め切った車内は、外界から切り離された二人だけの小さなシェルターのようだった。
三ヶ月に一度、夜を徹して走り、こうして診療開始時間を待つ。
かつては当たり前のように布団の中で迎えていた朝を、今は病院の駐車場という、日常と非日常の境界線で迎えることが、私たちの「生活」の一部になっていた。
フロントガラス越しに見える大きな病院の建物は、まだ眠りの中にある。けれど、あと数時間もすれば、あの白い壁の向こうで私の運命を左右する審判が下されるのだ。
心地よい疲労感と、それ以上に重い緊張感が交互に押し寄せる。
夫の規則正しい寝息が聞こえてくると、少しだけ胸のざわつきが収まった。
(また、ここに来られた)
それは、この三ヶ月を無事に生き延びたという証明でもあった。
暖かい毛布の上で体を丸め、掛け布団を肩まで引き上げる。
隙間から差し込む朝日が、少しずつ車内を照らし始めていた。
私たちは、この静かな空白の時間を分け合いながら、戦いの場が開くのをじっと待っていた。
この小説はノンフィクションです。
(つづく)
