『静寂の咆哮 ── 港区、地上200メートルの幽霊(ゴースト)』
ーあらすじー
東京・港区。地上200メートルの超高層オフィスでは、鳴り止まない通知音と人々の欲望が渦巻いていた。
巨大IT企業で働く双子の兄妹、「音」と「静」は、誰にも言えない異能を抱えて生きている。
妹・音は、人の心の“不協和音”を聴き取り、魂を導く代わりに自らの命を削っていく。
一方、兄・静は、世界のあらゆる音を停止させる「絶対静寂」の力を秘めていた。
やがて二人は、現代社会に潜む“デジタルな怨念”と対峙することになる。
破天荒なご先祖様も巻き込みながら繰り広げられるのは、笑って泣ける現代オカルト×超常SF×ダークファンタジーです。
【著者より】
この作品は、一話一話が積み重なり、最終的に文庫本一冊分に相当する大きな物語へと成長していきます。一気に読み進めるもよし、少しずつ二人の成長を見守るもよし。どうぞ、最後までお付き合いください。
『静寂の咆哮 ── 港区、地上200メートルの幽霊(ゴースト)』
第一章:不協和音のディストピア
1. 虚飾の摩天楼
東京、港区六本木。地上200メートルを超える超高層ビル『グランドゲート・タワー』の38階から40階を占めるのが、日本屈指の成長率を誇るIT企業『ゼニス・クリエイト』の本社オフィスだ。
午前9時。フロアの自動ドアが開くと、冷たく調整された空調の風とともに、微かな「電子の匂い」が鼻を突く。それはサーバーの排熱と、高価なルームフレグランス、そしてそこで働く人間たちが発する、焦燥感の混ざった独特の匂いだった。
全面ガラス張りのオフィスからは、眼下に広がる広大な代々木公園の緑と、その向こう側にそびえる新宿のビル群が一望できた。しかし、ここで働く社員の誰一人として、その絶景を眺める余裕など持っていない。彼らの視線は常に、ブルーライトを放つモニターの中にある数字と、分単位で更新されるスケジュール表に縛り付けられていた。
「おはようございます、音さん。今日のUIミーティング、10時からに早まったから。アジェンダ、Slackで送っておいたよ」
通り過ぎざまに、ディレクターの男が早口で告げる。
音(おと)は、自分のデスクに鞄を置く間もなく、「はい、承知しました」と小さく答えた。彼女の声は、このフロアを流れる絶え間ないタイピング音や、コーヒーメーカーの駆動音の中に、一瞬で溶けて消えてしまうほど細く、頼りない。
音はUIデザイン部門のシニアデザイナーだ。彼女が作る画面は、驚くほど静謐で、使う人の心を落ち着かせる不思議な魅力があると評判だった。しかし、彼女自身は極端に口数が少なく、いつもどこか遠くを見ているような、儚い雰囲気を纏っている。
音は席に着くと、まずデスクの隅に置かれた小さな砂時計をゆっくりとひっくり返す。透明なガラスの中で、さらさらと落ちる白い砂。音にとって、この三分の砂が落ち切るまでの時間は、自分の「存在」を現世に繋ぎ止めるための重要な儀式だった。
(……今日も、砂が落ちる。私はまだ、ここにいる)
そう自分に言い聞かせなければ、いつか自分も、このフロアを彷徨う「彼ら」の仲間になってしまうのではないか。そんな恐怖が、常に彼女の胸の奥に澱のように溜まっていた。
音の視線が、フロアの隅にある大型のコピー機に固定される。そこには、数人の社員が列を作っていたが、その列の最後尾に、もう一人「誰か」が立っていた。
それは、透き通るほどに薄いグレーのスーツを着た男だった。男は首を異様な角度に曲げ、コピー機のトレイから吐き出される真っ白な紙を、じっと見つめている。周囲の社員たちは、その男をすり抜けるようにして歩いている。誰も彼に気づかない。
男は、数年前にこのビルで過労の末に心不全を起こした元社員だと、音は知っていた。彼は自分が死んだことにさえ気づかず、未だに「終わらない仕事」を求めてこのフロアを彷徨っているのだ。
(救ってあげなきゃ……でも、今の私にその余裕がある?)
音が心の中で葛藤したその時、背後から世界を揺るがすような強烈な「振動」が伝わってきた。
「おーーーい! 音! 生きてるかぁ!? 朝から暗い顔してんなよ!」
爆音のような声とともに、静(せい)が音の肩を強く叩いた。
あまりの衝撃に、音の身体が小さく跳ね、砂時計の砂がわずかに乱れた。
「……静。ここ、職場。声、大きい。鼓膜が痛い」
「いいじゃねえか、元気があって! 朝から景気良く行こうぜ、景気良く!」
静は、営業部門のトップセールスマンだ。整えられた髪に、仕立ての良いスリーピース。常に自信に満ちた笑顔を浮かべ、社内では「歩くパワースポット」と呼ばれている。
だが、音だけは見抜いていた。静の肩が、微かに震えていることを。そして、彼の瞳が、決してコピー機の方を向こうとしないことを。
「……静。お守り、また増えた?」
音の指摘に、静は一瞬だけ顔を引きつらせた。彼のジャケットの内ポケットからは、幾つものお守りが擦れ合う、ジャラジャラという不気味な音が聞こえてくる。
「うるせえな! これはファッションだよ、最新の魔除けトレンド! さあて、今日もバリバリ数字作るか!」
静は足早に自分のデスクへと向かっていった。彼は、逃げているのだ。自分の中にある、あまりにも鋭敏すぎる「センサー」から。そして、自分たち双子に課せられた、血塗られた「役割」から。
2. 摩滅する鼓動、隠された契約
午前11時。音は社内のリフレッシュルームの窓際に立っていた。
眼下の街を走る車が、まるで模型のように小さく見える。彼女は自分の左胸にそっと手を当てた。
(……一回、導くごとに、一秒ずつ砂が早くなる)
心臓の鼓動。それは、霊的な干渉を行うたびに、確実な対価として削り取られていく。
先ほど、音は隙を見てコピー機横の男を「導いた」。男の肩に触れ、彼の中に澱んでいた「未練」を、自分自身の生命力を触媒にして光に変えたのだ。
男は、最後に一度だけ、音に向かって深々と頭を下げて消えていった。
その代償として、音の視界には今、砂嵐のようなノイズが混じっている。指先が微かに震え、体温が奪われていく。
「音さん、顔色が悪いわよ。また低血圧? ちゃんと食べてるの?」
通りかかった他部署の女性社員が、心配を装いつつも、どこか蔑むような視線を投げかけてくる。この会社において、弱さは悪だ。音は「大丈夫です」とだけ答え、壁を伝いながら自席に戻った。
彼女のMacBookの画面には、作成中のアプリのデザイン案が映し出されている。しかし、今の音にはそれが、血を流しているように見えた。
その時、音のスマホが激しく震えた。静からのメッセージだ。
『ランチ、屋上な。緊急事態だ。今すぐ来い。じゃないと俺、失禁する』
屋上庭園。地上200メートルの風が吹き抜けるベンチに、静は真っ青な顔でうずくまっていた。
「……今度は、何」
「何どころじゃねえよ……。さっきの会議中、部長の頭の上に、誰かの手が乗ってたんだよ。生白い、爪の剥がれた手がさ……部長が喋るたびに、その手が部長の首を絞めるんだ。俺、プレゼンどころじゃなくてさ……」
静は震える手で、コンビニの高級おにぎりを口に運ぼうとするが、喉が拒絶している。
「……それは、部長自身のストレスが呼んだ悪意。静、あんたが反応するから、その手はあんたのことを見たんでしょ?」
「ああ、見たよ! ばっちりと目が合ったよ! ああもう無理だ、この会社呪われてる。音、お前もさっき誰か消しただろ。顔が土気色だぞ」
静は、妹の指先がほんの少しだけ「透けて」見えることに気づき、怒りと恐怖で声を荒らげた。
「やめろって言っただろ! お前のそれは、ボランティアじゃねえんだ。命の削り合いなんだぞ。25だぜ? 俺たちはまだ、何にも成し遂げてねえんだ」
「……放っておけないの。だって、聴こえてしまうから。彼らが最後に残した、砂を噛むような後悔の音が」
音の言葉に、静は唇を噛んだ。静にも聴こえている。いや、静の方が音よりもずっと「出力」が強いのだ。もし、静がその力を解放すれば、このビルにいるすべての霊を霧散させることさえ可能かもしれない。だが、彼はそれを「怪物になること」だと恐れ、頑なに拒絶していた。
「俺は、普通でいたい。結婚して、子供ができて、定年まで働いて……そういう『音のある世界』で死にたいんだよ」
静は、自分の内に眠る「静寂(しじま)」という名の怪物を、誰よりも恐れていた。それは、音を救う力であると同時に、世界そのものを消し去りかねない絶望の力だと確信していたからだ。
3. 澱みの決壊
午後3時。
オフィス内の温度が、物理的な法則を無視して急激に下がり始めた。
空調の故障を疑う社員たちが、ざわつき始める。
「寒いな」「誰か窓開けた?」
だが、音と静には、その原因がはっきりと見えていた。
フロアの天井、スリット状の空調吹き出し口から、ドス黒い、コールタールのような「何か」が染み出し始めている。
それは特定の個人の霊ではない。
このIT企業の過酷な労働環境、成果主義が生む焦燥、そして港区という煌びやかな街の影に沈む膨大な数の孤独。それらが数十年の時間をかけてビルの中に積み重なり、意志を持ってしまった「集団的無意識の澱(よどみ)」だった。
その黒い塊は、じわじわとフロア全体に広がり、社員たちの影に溶け込んでいく。
「……あ。なんだか、急に仕事がどうでもよくなっちゃった。もう、いいかな」
隣の席の優秀な新人デザイナーが、虚ろな目でカッターナイフを手に取った。
「プレゼン、失敗したら終わりだ。人生、リセットした方が早い」
営業部門の方からも、絶望に満ちた声が次々と上がり始める。
(……ダメ。これ以上は、このフロアの人間が全員連れて行かれる)
音は立ち上がる。足取りは鉛のように重い。心臓は、壊れた太鼓のように、痛みを伴う不規則なリズムを刻んでいる。
彼女は、黒い霧の源流が「避難階段」にあることを察知し、重い扉を開けた。
そこには、巨大な悪意の渦があった。霧の中から、無数の苦悶の表情が浮かび上がっては消える。
「……あ、あ……」
音が指先を向ける。だが、敵があまりにも巨大すぎた。彼女が光の糸を伸ばすたびに、黒い霧はそれを嘲笑うように飲み込んでいく。光が届かない。導くべき「出口」が見つからない。
「やめろ、音!! 逃げろ!!」
背後から扉を蹴破るようにして、静が飛び込んできた。
「……静。来ちゃダメって、言ったのに……」
「来ねえわけにいかねえだろ! フロアが全滅しかけてんだぞ! 部長なんて、シュレッダーに頭突っ込もうとしてんだぞ!」
静は、音を自分の背後に無理やり突き飛ばした。
「おい、この真っ黒いデカブツ! 俺の妹に触るな! これでも食らえ!」
静はポケットから盛り塩や数珠、得体の知れない除霊スプレーを闇雲に投げつけるが、悪霊の塊には何の効果もない。霧はそれを冷笑するように、静の足を絡め取った。
「ひっ……!? き、効かねえ!? なんでだよ、これ京都の有名な神社で買ったんだぞ!」
恐怖のあまり、静の脚が笑い始める。彼は強い。本来は誰よりも強いはずなのに、その力が「恐怖」という重厚な防壁の中に閉じ込められているせいで、今の彼は無防備な赤子同然だった。
「……静、逃げて。あんたの手に負える相手じゃない。私が、ここで食い止める」
音の身体が、微かに発光し始めた。それは寿命を薪にして燃やす、最後の灯火だった。
「やめろ……やめろよ音! そんな顔して死ぬ気かよ! 二人で25の誕生日、ケーキ食ったじゃねえか!」
その時、黒い霧が鋭い槍のような形に変え、音の胸元を貫こうと放たれた。
静は叫んだ。それは言葉にならない、魂の悲鳴だった。
死を覚悟したその瞬間。
階段室の最上階、非常灯の明かりすら届かない暗闇から、すべてを浄化するような、まばゆい「白」の閃光が降り注いだ。
4. 女神の裁定と、零れ落ちた砂
光の中から現れたのは、息を呑むほどに美しい女性だった。
白磁のような肌、切れ長の冷徹な瞳。その背後には、神々しい後光が差している。
しかし、その女神のような存在は、手にした扇子で、自分を襲おうとした黒い霧をパシッと叩き落とした。
「……やかましいわね。静かにしなさいな、この塵芥ども」
女神は、腰を抜かしている静と、血を吐く思いで立ち尽くす音を見下ろした。
「……ご先祖、様……?」
音が、血の気の失せた唇で、消え入りそうな声を絞り出した。
『そうよ。あんたたちの家系の、ずっとずっと遠い“始まり”に座する者よ。……音、あんたは本当に愚かね。自分の砂時計がもう残り数粒だということも分からずに、こんな巨大な掃き溜めの掃除を引き受けるなんて』
女神は、静を射抜くような視線で睨みつけた。
『静、あんたよ。あんた。いつまで「普通の人間のふり」をしてままごとを続けているつもり? 妹が目の前で擦り切れていく。このビルの数千人が絶望に呑まれようとしている。それでもまだ、安物のお守りに縋るつもり?』
「俺に……俺に何ができるってんだ! 俺は幽霊なんて大嫌いだ! 普通に生きて、普通に年を取りたいだけなんだよ!」
女神は冷ややかに微笑み、静の目の前までゆっくりと降りてきた。
『いい? あなたの名前は「静(せい)」。それは安らぎの名前じゃない。すべての「音」を奪い、すべての理を停止させる、残酷なまでの“絶対静寂”の名前よ』
その時、一度叩き落された黒い霧が、さらに巨大な質量を持って再集結した。それは女神の守りを迂回し、無防備な音の背後から襲いかかる。
「……あっ」
音が、崩れ落ちた。
彼女の胸から、最後の「光」が零れ落ちる。
バクン、という異様な音を立てて、彼女の心臓が、その活動を停止した。
砂時計の最後の砂が、ガラスの底に落ち切ったのだ。
「……音? ……おい、音? 冗談だろ?」
静は、妹の冷たくなっていく身体を抱きしめた。
体温が、急激に失われていく。
25年間、常に隣にいた鼓動が、消えた。
静の頭の中で、何かが、爆発するように壊れた。
怒り。悲しみ。自分自身の無力さへの絶望。そして、妹を奪ったこの不条理な世界への、根源的な嫌悪。
それらが混ざり合い、彼の魂の奥底に100年もの間閉ざされていた「禁忌の扉」をこじ開ける。
女神が、満足そうに目を細めた。
『……そう。叫びなさい、静。あんたの「真の声」で、この醜い喧騒を黙らせなさい』
静が、天を仰いで口を開いた。
彼の喉からは、叫び声は出なかった。
代わりに、「完全なる無」が、世界を侵食し始めた。
5. 家族の風景と、歪みゆく日常
物語は、少しだけ時間を遡る。
港区の高級マンション。静と音が両親と暮らすその家は、この殺伐とした東京において唯一の「聖域」のはずだった。
「お父さん、またテレビつけたまま寝てるわよ。音、消してきなさい」
母親の何気ない言葉。25年間、当たり前に繰り返されてきた日常。
リビングのソファで、スポーツニュースを流したまま微睡む父親の横で、音は静かにリモコンを操作する。
音が消える。
その瞬間、音の耳には、テレビの音の代わりに「階下の住人のすすり泣き」が聴こえてくる。
「……お母さん。最近、このマンション、少し重たいね」
「そう? 湿気のせいじゃない? 加湿器、買い換えようかしら」
母は何も気づかない。
静は、自分の部屋に閉じこもって、海外から取り寄せた「最強の盛り塩」を玄関に隠して回っていた。
「静、あんた何してるの? 掃除の邪魔よ」
「魔除けだよ! 最近、会社で変なのが流行ってるんだってば!」
二人が必死に守り抜いてきた「普通の家族」という虚構。
だが、その虚構は、あのオフィスビルで澱みが決壊した瞬間から、修復不可能なまでにひび割れていたのだ。
音が会社で倒れる数日前。
彼女は自分の部屋の砂時計を見つめながら、日記にこう書き残していた。
『砂が、あと少ししかない。でも、静には言えない。
あの子は、静かな場所が嫌いだから。
あの子には、ずっと、うるさいくらいの世界で笑っていてほしいから』
その願いは、今、静自らが放った「絶対静寂」によって、皮肉にも打ち砕かれようとしていた。
6. 真空の目覚め
階段室に戻る。
静から放たれた「無」は、一瞬にしてフロア全体の音を奪い去った。
電灯のジリジリという音、悪霊たちの這いずる音、そして、静自身の激しい呼吸音さえも。
静寂は、物理的な圧力となって黒い霧を押し潰していく。
「……(う……あ……)」
静は口を動かしているが、声は出ない。
彼の周囲数メートルは、空気が消えたかのような真空状態に陥っていた。
女神は、その破壊的な静寂の中で一人、楽しそうに髪を弄っている。
『いいわよ、静。そのまま、その不快な塊を消し飛ばしなさい。……でも、忘れないで。あんたが力を振るえば振るうほど、音の魂は遠ざかるわよ』
静の目から、大粒の涙が零れる。だが、その涙が床に落ちる音すらしない。
彼は、腕の中に抱いた音を見た。
彼女の指先は、今や完全に透明になり、この世の存在であることを辞めようとしていた。
静は、初めて自分の意志で、その忌まわしい「力」を制御しようと試みた。
破壊するための静寂ではなく、守るための静寂。
音の心臓に、自分の中にある膨大なエネルギーを、無音のまま流し込んでいく。
「(戻ってこい、音!)」
声にならない叫びが、音の魂の最深部に届く。
その時、消えかけていた砂時計の底から、一粒の砂が逆流するように上昇し始めた。
(第一章・完)
第二章:女神はオフィスに降臨する
1. ゼロ・デシベルの静止画
世界から、音が消えた。
それは、耳を塞いだ時の籠もった静寂とは全く異なるものだった。鼓膜を震わせる空気の振動そのものが空間から根絶され、宇宙の真空に放り出されたかのような、脳が本能的な拒絶を起こすほどの「絶対的な無」だ。
静(せい)は、口を大きく開けたまま、非常階段のコンクリート天井を仰いでいた。
叫ぼうとした喉は、千切れんばかりに震えているはずだった。肺からは大量の空気が押し出されているはずだった。しかし、そこからは空気の抜ける微かな音すらしない。ただ、彼の全身から溢れ出した透明な「波」が、階段室の壁を、空気を、そして目の前のドス黒い悪霊を、物理的に停止させていた。
(……なんだ、これ。何が起きてるんだ。俺、叫んだよな? なんで何も聞こえねえんだ!?)
静は激しいパニックに陥り、自分の喉を手で掴んだ。声帯は確かに激しく振動し、熱を持っている。しかし、そこから生み出されるはずの音波が、口の外に出た瞬間に消失しているのだ。自分の指が首の皮膚を擦る音すらしない。完全な「音の死」が、この空間を支配していた。
視線を落すと、抱きかかえた音(おと)の身体は氷のように冷たかった。彼女の顔色は、陶器を通り越して硬質な大理石のように白く、唇は完全に血の気を失って紫に沈んでいる。
そして、彼らの目の前で静止している黒い霧の怪物──ゼニス・クリエイト社の全社員の怨念が凝縮された塊──は、静の放った「無音の波動」に貫かれ、彫刻のように空中でカチコチに固まっていた。
襲いかかろうとした無数の牙も、音の首を引き裂こうと伸ばされたドロドロの触手も、すべてがガラス細工のように静止している。怪物の表面を流れるコールタールのような黒い液体さえも、その動きを完全に止められていた。
だが、ハラハラとするような亀裂が、その静止した怪物の表面に走り始めていた。ピキ、ピキ、と、耳には聞こえないはずなのに、静の脳裏にはその不吉な破壊音が直接響いてくる。怪物の奥底に眠る巨大な怨念が、静の「無」の檻を内側から食い破ろうと、凄まじい質量で暴れ始めているのだ。
『……あら。やっと「栓」が抜けたと思ったら、随分と不器用な抜き方をしたものね』
その完全な静寂の中で、唯一、明瞭な「声」を発した者がいた。
階段の上、非常灯の薄暗い緑の光の中に、一人の女性が立っていた。
息を呑むほどに美しい。白磁のような肌に、切れ長の冷徹な瞳。その身に纏っているのは、現代の衣服ではなく、細かな金糸の刺繍が施された十二単のような、しかし現代のモード系ファッションのようにも見える洗練された和装だった。彼女は手にした扇子を優雅に弄びながら、重力を無視して空中を歩くようにして階段を降りてくる。
『あんた、自分が思っている以上にうるさいわね。無音の力を使っておきながら、心の中の悲鳴がデシベル超過よ。少しは落ち着きなさいな、みっともない』
「(……ご、先祖、さま……?)」
静は必死に言葉を絞り出そうとしたが、やはり音にはならない。口パクのまま間抜けに固まる静を見て、女神は呆れたように大きな溜息をついた。そして、静の目の前まで静かに降り立つと、彼の額をパチンと指先で強く弾いた。
──パァン!!!
突如として、決壊したダムから濁流が吹き出すように、世界に音が戻ってきた。
「あがっ!? ……げほっ、ごほっ! 聴こえる……声が出る! クソ、頭が割れそうだ!」
激しい耳鳴りと共に、階段室の反響音が静の鼓膜を襲う。
しかし、音が戻ったということは、同時に「恐怖」も戻ってきたということだ。静止していた黒い霧が、再びどろりと蠢き始め、数十人分の怨嗟の声が一斉に重なり合って階段室に響き渡った。
『ギ……ギギ……殺ス……働ケ……数字ヲ、作レ……! ナゼ終ワラナイ……!』
「うわあああ! また動き出したじゃねえか! おい、ご先祖様、何とかしてくれ! 死ぬ、俺たち死ぬって!」
『さあ、静。あんたの妹は今、本気で死の淵に立っているわ。その汚らしいゴミを片付ける気があるなら、私の指示に従いなさい』
2. UIデザイナーの「命の砂時計」
「音! おい、音! 目を開けろ! しっかりしろ!」
静は女神の言葉を遮るようにして、音の身体を激しく揺さぶった。
しかし、音の意識は戻らない。呼吸は浅く、胸の鼓動は指先で触れても判別がつかないほど不規則で、今にも止まりそうだった。
その時、音の胸元から、ぼんやりとした淡い燐光が染み出し始めた。
光は中空で急速に形を成していく。それは、音がオフィスのデスクにいつも置いていた、あの小さな砂時計の形をしていた。
だが、その中身を見た静は、全身の血の気が一気に引くのを感じた。
透明なガラス容器の中で、光り輝く砂は、すでに上の部屋には一粒も残っていなかった。
すべての砂が中央の細い管を通り抜け、下の部屋に落ちきっている。底に溜まった最後の数粒が、まるで消えゆく線香の火花のように、チカチカと不規則に明滅しては、今にも光を失おうとしていた。
「なんだよこれ……お守りの一種か? 音のやつ、こんなマジックアイテムをどこで手に入れて……」
『違うわよ、大馬鹿者。それは音の「命の質量そのもの」よ』
女神が扇子をぴしゃりと閉じ、冷酷な現実を突きつける。その瞳には、一抹の哀れみの色が浮かんでいた。
『この子はね、あんたが幽霊を怖がって、安物のお守りを買い漁って逃げ回っている間、たった一人でこの街の、そしてこの会社の負債を肩代わりしてきたの。迷える霊のノイズを聴き、それを浄化して導くたびに、その砂は下に落ちる。そして、一度落ちきった砂は、二度と上には戻らない』
静の脳裏に、これまでの日常が激しくフラッシュバックする。
夕食の席で、いつも眠そうに箸を動かしては、すぐに「おやすみ」と言っていた音。
「少し疲れちゃった」と力なく微笑んで、週末もずっと自室に引きこもって出てこなかった音。
自分がお守りのコレクションを自慢している横で、どこか遠い窓の外をじっと見つめていた彼女の横顔。
「……じゃあ、俺が霊を怖がって、お守りだ何だって騒いでる間も、こいつは……」
『そうよ。あんたが「怖い怖い」と喚き散らす霊的ノイズを消すために、この子はさらに力を使い、さらに自分の寿命を縮めてきたの。皮肉な話よね。音がうるさくすればするほど、音の命は静かに、終わりへと向かっていったのよ』
「くそっ……!!」
静は拳をコンクリートの壁に叩きつけた。皮膚が裂け、生々しい血が壁に付着するが、そんな痛みなどどうでもよかった。
あまりの情けなさと悔しさ、そして自分への激しい怒りで、視界が涙でボロボロに歪む。
自分は営業部門のトップセールス、大手IT企業の営業エースとして人生を謳歌していると思い込んでいた。だがその実態は、隣にいる妹の命を削って作られた平穏の上に、何も知らずに胡坐をかいていただけの無能だったのだ。
「……ご先祖様。どうすればいい。俺に、何ができる」
『決まってるじゃない。あんたの名前を使いなさい』
女神が扇子で、天井を覆い尽くそうとする黒い霧を鋭く指し示す。
『いい? 音を導くには二つの方法がある。一つは、音のように自分の命を削って光の道を作る方法。そしもう一つは……あんたのように、不浄なノイズを「無」に帰す方法よ』
3. ITオフィスの除霊学
女神は、静のスーツのポケットから勝手にスマートフォンを抜き取った。
『今どきの霊は本当にタチが悪いのよ。昔みたいに恨みつらみで化けて出るだけじゃない。「システムのバグ」や「サーバーの遅延」に紛れ込んで、人間の精神をじわじわと削る……デジタル時代の悪霊、いわば「情報災害」ね』
女神がスマホの画面をタップすると、ゼニス・クリエイト社の社内チャット『Slack』の画面が開いた。そこには、異常な速度で更新される、絶望した社員たちのリアルタイムの書き込みが流れ続けている。
『もう無理だ』『死にたい』『全部消えてしまえ』『誰も俺の頑張りを見ていない』
書き込みの文字は次第に文字化けし、不気味な黒い記号へと変わっていく。
黒い霧の正体。それは、このビルで働く者たちの「負のデータ」が、オフィスのWi-Fiやサーバーの電磁波と結びついて集積したモンスターだった。
『静。あんた、営業のトップなんでしょ? 相手のニーズを汲み取って、問題を解決するのが仕事じゃないの』
「……ああ、そうだ。それが俺の仕事だ」
『なら、この悪霊が何を欲しがっているか、その足りない頭で考えなさいな。彼らは「沈黙」を欲しがっているのよ。終わらない通知、終わらない仕事、終わらない喧騒……それらから解放されたいという願いが、皮肉にもこの怪物を作ったの』
静は立ち上がった。
足の震えは、まだ止まっていない。だが、腕の中で眠る音の、消えそうな鼓動が彼に力を与えていた。
「わかったよ。沈黙が欲しいなら、俺が最高のやつをプレゼントしてやる」
静は一歩、黒い霧の怪物に向かって踏み出した。
怪物は無数の口を開け、数千人の絶望が混ざり合った「不協和音」を放つ。
耳を劈くような悲鳴。金属が擦れ合うような嫌な音。空間全体が、鼓膜を破らんばかりの精神的爆音に支配される。
「うるせえんだよ……。静かにしろ」
静が右手を前に突き出した。
彼の中にあった「恐怖」という感情が、急速に凍りついていく。
それは冷酷な拒絶ではない。すべてを許し、すべてを等しく無に帰す、究極の慈悲としての「静寂」。
「静(せい)……!」
静の魂の叫びとともに、再び世界から音が奪われた。
真空の波動が、黒い霧の怪物を直撃する。
怪物は悲鳴を上げることさえ許されない。その構成要素である「悪意のデータ」が、静の放つ絶対零度の静寂によって、次々とフリーズしていく。
静の視界から色が失われ、白と黒だけのノイズの世界が広がる。自分の心臓の音さえ聞こえない極限状態の中、静は歯を食いしばり、さらに右手に力を込め、前方へと押し出した。
「(消えろ……!)」
無音の圧倒的な圧力が怪物を全方位から押し潰す。巨大な黒い塊は、音を立てずにサラサラと、ただのデータの塵となって虚空へと消え去っていった。
4. 女神の正体と、江戸っ子気質
フロアの向こうから、肌を刺すような冷気が引き、元の生ぬるいオフィスの空調の風が戻ってくる気配がした。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
世界に音が戻ると同時に、静はその場に激しく膝をつき、肺に酸素を送り込んだ。全身から滝のような汗が流れ落ち、指先が強烈に痺れて動かない。
『ほう、やるじゃない。案外、筋がいいわね。新人のクレーム対応としては及第点をあげてもいいわ』
女神は、満足そうに頷いた。
彼女が扇子を広げると、そこには豪華な金箔で「天下太平」の文字が書かれていた。
「ご先祖様……あんた、一体何者なんだ。女神なんて言ってるけど、その口の悪さはどう見ても……」
『失礼ね。私はね、江戸時代に名を馳せた……まあ、いいわ。今はただの「家族」よ』
女神……高祖母のさらにその先、江戸時代に八百八町を裏から守っていたとされる伝説の巫女。彼女は、あまりにも奔放に生きすぎたために天界の退屈な生活に飽き果て、自分の血を引く双子が面白そうな難儀に直面しているのを目ざとく見つけ、神域のルールを無視して遊び半分で降りてきたのだった。
『ベンチで休む暇もないわよ、静。今の力はただの「破壊(フリーズ)」。怪物を黙らせることはできても、音の寿命は戻らない。音を救いたいなら、あんたはその力を「反転」させる必要があるわ』
「反転……?」
『そう。無から有を生み出すことはできないけれど、無をもって命の器を「保護」することはできる。……まあ、今のあんたには100年前のパソコンで最新のゲームを動かすくらい無理な話だけどね』
女神は、倒れている音の額にそっと手を当てた。
すると、音の蒼白だった顔に、わずかだけ赤みが戻る。
『とりあえず、今日のところはこの子を家に連れて帰りなさい。マンションの結界を強化しておいたから、そこなら少しは休めるでしょう』
「結界……? うちのマンションにそんなものがあるのか?」
『私がさっき作ったのよ。リビングにあったポテトチップスの空き袋と、あんたが玄関に置いてた胡散臭い盛り塩の成分を触媒にしてね』
女神はケラケラと笑い、煙のように姿を消し始めた。
『あ、そうそう。静。明日も仕事、休んじゃダメよ。あんたの会社、今度のプロジェクトでさらにデカい「淀み」を呼ぶことになってるから。……楽しみにしてるわよ、子孫くん』
5. 港区の夜と、残された砂
最後の一粒の砂が、重力に従って、ゆっくりと下へ向けて落ちていく。
それが底に触れた瞬間、音はこの世界から完全に消滅する。
静はなりふり構わず、音の冷たい身体を強く抱きしめた。
「頼む……動け、動いてくれよ! 音! いつもみたいに、うるさいって俺を怒れよ! 頼むから……!」
静は自分の胸の奥、先ほど暴走させた「冷たく尖った力の源泉」に意識を集中させた。
牙のような暴力を、丸く、柔らかく、毛布のように包み込む形に変えるイメージ。
営業の現場で、激怒して怒鳴り散らしている大企業の取引先の懐に飛び込み、相手の怒気を受け流しながら、すっと場を鎮める──あの極限の精神コントロールを、今、自分の魂の中で再現する。
「(頼む……静まれ……穏やかに、静まれ……!)」
静の手のひらから、先ほどのような破壊的な無音ではなく、どこか温かみのある、シンシンと夜の街に降り積もる新雪のような「静謐な光」が放たれた。その光が、音の胸の砂時計を優しく包み込んでいく。
──その瞬間。
カチリ、と、世界の歯車が噛み合うような奇妙な音がした。
ガラスの底に落ちきろうとしていた最後の一粒の砂が、物理法則を完全に無視して、ふわりと上の部屋へと「逆流」を始めたのだ。続いて、底に溜まっていた砂が数粒、光の粒子となって上の部屋へと戻っていく。
「あ……」
音の胸が、小さく、微かに上下した。
「……せ、……い……?」
消え入りそうな、本当に小さな声が、音の唇から零れ落ちた。
「音! 気がついたか!?」
しかし、音がそれ以上目を開けることはなかった。砂がほんの数粒戻っただけで、彼女の命の危機が完全に去ったわけではない。ただ、最悪の瞬間(心停止)を、静の力が無理やり「未来へと引き延ばした」に過ぎなかった。
女神の気配が完全に消え去ると、非常階段には、静まり返った空気と、静と音の二人だけが残された。
ビルの空調が正常に動き出す音が、遠くでかすかに聞こえる。
避難扉の向こうのフロアからは、先ほどまでの絶望が嘘のように、「……あれ、俺、何をそんなに悩んでたんだっけ?」「さっきの寒気、なんだったんだろ」という、社員たちの当惑しつつも日常に戻った声が漏れ聞こえてきた。
静は、音を背負って立ち上がった。
以前よりも、ずっと軽くなっている気がした。
それは彼女が痩せたからではなく、彼女の「存在の質量」そのものが、寿命の減少とともに薄れてしまっているからだと気づき、静は強く奥歯を噛み締めた。
「……音。帰るぞ。母さんの作った、うるさいくらい出汁の効いた味噌汁、飲みに行こうぜ」
静は、エレベーターを使わずに、一歩ずつ階段を降りていった。
都会の喧騒、車のクラクション、行き交う人々の話し声。
今まで当たり前だと思っていたそれらすべての「音」が、今は愛おしく、そして恐ろしい。
タクシーを拾い、ライトアップされた東京タワーを横目に、二人は家族の待つマンションへと向かう。
窓ガラスに映る自分たちの顔。
静は、自分の瞳の奥に、かつてなかった「冷徹な静寂の光」が宿っているのを見つけた。
それは、妹を守るための武器であり、同時に、自分を人間から遠ざける呪いでもある。
(第二章:完 )
第三章:六本木除霊大作戦
1. ステルスモードの妹と、居間の女神
「──ねえ、静。それ、私の分のネギも入ってない?」
朝の食卓。実家のダイニングテーブルで、静(せい)は危うく味噌汁を吹き出すところだった。
声が聞こえた方向を見る。そこには、いつの間にか音が座っていた。
気配が、全くなかった。
「うおっ!? びっくりさせんなよ! お前、いつからそこにいたんだよ」
「最初からいたよ。静が席につく前から」
音(おと)はいつも通りの眠そうな目で、静の持つお椀を指差していた。
彼女の顔色は、昨日の死線が嘘のように、普段の「ちょっと低血圧な25歳の女性」に戻っている。しかし、静の胸はざわついていた。音が席を立ち、台所へ向かう姿を見て、その違和感の正体に気がついた。
足音が、しないのだ。
フローリングの床をスリッパで歩いているはずなのに、摩擦音すら聞こえない。それだけではない。彼女が台所の自動ゴミ箱の前に立っても、赤外線センサーが彼女を感知せず、蓋が開かなかった。音が諦めたように手動で蓋を開けるのを見て、静は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
(……存在の質量が、薄くなってる)
昨夜、自分の力で「命の砂時計」の最後の一粒を逆流させ、辛うじて彼女を現世に繋ぎ止めた。しかし、戻った砂はほんの数粒。全体の九割以上の砂は、まだ下の部屋に溜まったままだ。彼女の命の器は、今やストロー一本で支えられているかのように脆く、その結果として「世界から認識されにくくなる」という不気味な後遺症──ステルスモード──を引き起こしていた。
『あーあ、可哀想に。このままだと、そのうち自動ドアにも無視されるようになって、最終的には誰の記憶からも消えちゃうわね』
リビングのソファから、緊張感の欠片もない声が響いた。
ご先祖様(女神)だ。彼女はどこから持ってきたのか、静が買い置きしていた激辛ポテトチップスの袋を抱え、テレビのバラエティ番組を見ながらケラケラと笑っていた。その姿は完全に現代に馴染んでいるが、彼女が放つ神聖なオーラと、手にした金箔の扇子だけが異常に浮いている。
「おい、人ごとみたいに言うなよご先祖。どうすれば音の砂を元に戻せるんだ」
静はスーツのネクタイを締め直しながら、小声で詰め寄った。
『焦るんじゃないわよ、子孫くん。あんた、今日は大事なお仕事があるんでしょ?』
女神は扇子でパチンとテレビを消し、切れ長の瞳を妖しく光らせた。
『六本木の超高層ビル。東京中の「過労」と「虚栄心」が、ギチギチに凝縮された最高に美味な特異点。……そこにね、あんたたちを破滅させるための「淀み」が用意されているわ』
「何だと……?」
『ビジネスも、除霊も、本質は同じよ。相手の求めているものを理解し、黙らせる。……さあ、営業エースの実力、見せてもらいましょうか』
2. 六本木ヒルズの「見えない蜘蛛の巣」
午前11時。六本木ヒルズの巨大なオフィスロビーは、洗練されたビジネスパーソンたちで行き交っていた。
高級なスーツを纏い、最新のガジェットを手に、足早に歩く人々。一見すると、そこは日本の経済を動かす成功者たちの最前線だ。
しかし、昨日「静寂の力」に目覚めてしまった静の目には、全く別の景色が見えていた。
(……なんだ、この数は)
ビルの高い天井から、ドロドロとした黒い糸が、まるで蜘蛛の巣のように無数に垂れ下がっている。その糸は、歩行者たちの肩や頭へと繋がり、彼らの生気をじわじわと吸い上げていた。
『もっと評価されたい』『あの同期には負けたくない』『なんで俺がこんな目に』
すれ違う人々の心の奥底にある「承認欲求」と「マウンティング」の精神的ノイズが、物理的な重低音となって静の鼓膜を震わせる。頭痛がひどい。
「──おい、静。緊張してんのか? 顔色が悪いぞ」
背後から声をかけてきたのは、上司の山城(やましろ)部長だった。ゼニス・クリエイト社の命運をかけた、超巨大デベロッパー「森羅地所」の大規模再開発プロジェクトに関するコンペ。そのメインプレゼンターが、今日の静だった。
「いえ、大丈夫です。少し風邪気味なだけですから」
「頼むぞ。このコンペを落としたら、我が社の来期の予算はガタガタだ。競合の『帝都アド』の奴らも、かなりエグい提案を持ってきているらしい」
プレゼン会場である最上階の特別会議室に入ると、すでに独特の緊張感が張り詰めていた。
部屋の片側には、森羅地所の重役たちがズラリと並んでいる。中央には、見るからに冷徹そうな初老の役員が座っていた。彼が、今回のプロジェクトの最高意思決定者だ。
そして反対側には、競合相手である「帝都アド」の営業チームが、静たちを嘲笑うかのような視線で見つめていた。
『あら、随分と面白いノイズが揃っているじゃない』
突如として、静の耳元で声がした。
「うわっ!?」
思わず声を上げた静に、山城部長が「どうした?」と目を見開く。
静は慌てて「なんでもありません、発声練習です」と誤魔化し、ポケットの中のスマートフォンを見た。画面が勝手に起動しており、そこにはデフォルメされた女神のドット絵アイコンが表示されていた。
『静、帝都アドの男たちの後ろを見なさいな。どす黒い「嫉妬」のデータが、会議室のWi-Fiを通じて、天井の巣とリンクし始めているわよ』
静がそっと目を凝らす。
確かに、競合他社の営業マンが放つ「ゼニス・クリエイトを潰す」「失敗しろ」という呪詛のような負のエネルギーが、オフィスのアクセスポイントに吸い込まれ、不気味に増幅されていた。
3. 会議室の「インフォメーション・ディザスター」
「──それでは、ゼニス・クリエイト株式会社のプレゼンテーションを始めさせていただきます」
ステージに立った静は、深呼吸をしてマイクを握った。
どれほどプライベートでオカルトな修羅場をくぐろうとも、仕事は仕事だ。プロとして、この神プレゼンを成功させてみせる。
静がスマートな操作でプレゼン資料をスクリーンに投影し、滑らかな口調で語り始めた。完璧な導入、魅力的な市場分析、クライアントのニーズを120%汲み取った完璧な構成。森羅地所の役員たちも、興味深そうに身を乗り出し始める。
(よし、いける。このままペースを掴めば──)
そう確信した瞬間、会議室のすべての照明がパツンと消えた。
「なんだ? 停電か?」山城部長が声を上げる。
しかし、ただの停電ではなかった。壁一面のスマートガラスが、内側からコールタールを塗られたように、ドロドロとした黒い霧で覆われていく。プロジェクターの光が狂い、スクリーンには大量の文字化けしたエラーコードと、『死ネ』『働ケ』『価値ガナイ』という無数の文字が、フラッシュバックのように高速でサブリミナル投影され始めた。
「な、なんだこれは……! プレゼンデータがハッキングされたのか!?」
帝都アドの社員たちがパニックを起こす。
だが、異変はそれだけにとどまらない。天井の蜘蛛の巣のような黒い糸が集結し、巨大な質量となって、会議室の中央へと降臨した。
それは、「終わらないタスク」と「他者からの低評価」の具現体──無数の歪んだ人間の顔がびっしりと張り付いた、巨大なミカド蜘蛛のような姿をした「情報災害」だった。
「ギ、ギギギ……評価シロ……数字ヲ出セ……代わりハいくらデモいる……!」
怪物が放つ凄まじい精神的爆音(ノイズ)が、会議室を直撃する。
「う、あたまが……!」山城部長が頭を抱えてその場に倒れ込んだ。森羅地所の役員たちも、白目を剥いて椅子からのけぞっている。帝都アドの面々に至っては、恐怖のあまり言葉も出ず、床に這いつくばってガタガタと震えていた。
会議室にいる全員が、怪物の放つ「自己否定の呪い」によって、精神汚染(フリーズ)されているのだ。
動けるのは、昨日「静寂」の領域に足を踏み入れた、静だけだった。
『さあ、お仕事の時間よ、営業のエース』スマホの画面で、女神がニヤリと笑う。
『この怪物、このビルの全社員の「過労」と「プレッシャー」を喰らって肥大化してるわ。まともに戦ったら、あんたの精神ごと消し飛ぶわよ』
静は、腕の中で眠っていた音の、あの消えそうな鼓動を思い出していた。
ここで自分が怯んで逃げ出したら、会社は倒産し、音の治療費を稼ぐこともできなくなる。何より、目の前で化け物に怯えている上司やクライアントを放っておけるほど、静は冷徹な男ではなかった。
「……上等だよ」
静はマイクを強く握り締め、怪物に向かって、堂々と一歩を踏み出した。
「ビジネスも、除霊も、本質は同じなんだろ? だったら──」
4. 営業エースの「神プレゼン(除霊)」
「──森羅地所の皆様、および、迷えるタスクの塊であるお客様」
静は、スピーカーが死んでいるはずの室内で、驚くほど通る声を発した。
怪物が、ギチギチと音を立てて、その無数の赤い眼球を静へと向けた。強烈なプレッシャーが静の身体を押し潰そうとするが、彼の足の震えはもう止まっていた。
「お客様が抱えていらっしゃる『終わらない業務』『終わらない比較』『他者からの容赦ない低評価』。それらすべての課題(バグ)に対し、我がゼニス・クリエイトは、最高のソリューションをご提案いたします」
静は、プレゼンを続行した。
表向きは、背後のエラー画面を無視し、身振り手振りを交えた完璧なプレゼンテーション。しかし、彼の声の波動には、昨日掴みかけた「すべてを等しく無に帰す、究極の慈悲としての静寂」が乗せられていた。
怪物が激怒し、無数の黒い脚を、槍のように静に向けて突き出してきた。
「お前など、必要ない!! 数字を出せない奴に、生きている価値はない!!」
室内に、数千人分の罵倒のノイズが響き渡る。耳がちぎれそうなほどの音圧。
「うるせえんだよ……。静かにしろ」
静が、すっと右手を前に突き出した。
彼の中にあった「恐怖」という感情が、急速に凍りついていく。
それは冷酷な拒絶ではない。相手の抱える醜いストレスも、過労の苦しみも、すべてを優しく全肯定し、その上で「もう頑張らなくていい」と包み込む、深い慈悲の静寂だ。
「我が社の提案するシステムは、すべての無駄なノイズを完全に『検収完了(クリア)』いたします。──静(せい)……!!」
静の叫びとともに、世界から完全に音が奪われた。
ゼロ・デシベルの衝撃波が、六本木の最上階を吹き抜ける。
襲いかかろうとしていた蜘蛛の怪物の脚が、空中でピキリと凍りついた。怪物の表面にある「歪んだ人間の顔」たちが、静の放つ絶対的な静寂に包まれ、一瞬にして穏やかな、安らかな表情へと変わっていく。
(……このまま、すべてを承認(許可)して、無に帰す!)
静は、営業マンとしての全精神力をコントロールに注ぎ込んだ。ただ破壊するのではない。相手のニーズ(静かに眠りたいという願い)を満たしてやるのだ。
怪物の身体が、光の粒子となってサラサラと崩壊していく。それは、数十年分の社畜たちの怨念が、静の「完璧な提案」によって成仏していく瞬間だった。
スマートガラスの黒い霧が晴れ、六本木の眩しい正午の太陽光が、会議室に一気に差し込んできた。
5. 掴み取った成果と、命の砂の逆流
「──以上の理由をもちまして、我が社の提案が、御社の未来を最も明るく照らすものであると確信しております。ご清聴、ありがとうございました」
静が深く一礼すると同時に、部屋の照明がパッと元に戻った。
「あ、あれ……?」
最初に意識を取り戻したのは、森羅地所の最高意思決定者である初老の役員だった。彼は、自分の目から涙が溢れていることに気づき、慌ててハンカチで顔を拭いた。
彼の心の中にあった、長年の重圧と孤独が、静の「静寂」によって綺麗に洗い流されていたのだ。
「す、素晴らしい……! 涙が出た。これほどまでに、我々の『本質的な苦しみ』に寄り添い、それを解決してくれる提案は初めてだ……!」
役員が立ち上がり、激しく拍手を送る。他の役員たちも、何が起きたのか正確には理解していないものの、胸を打つ強烈なカタルシスに包まれ、総立ちで拍手を始めた。
「勝った……勝ったぞ、静……!」山城部長が静の手を握りしめ、涙ぐんでいる。
競合の帝都アドのチームは、完全に戦意を喪失し、呆然と書類を片付けていた。
コンペは、ゼニス・クリエイト社の完全勝利(大お買い上げ)で幕を閉じた。
オフィスに戻り、山ほどの祝福を浴びた後、静は定時を待たずに急いで実家へと引き返した。
「音! おい、音!」
玄関を開け、リビングに飛び込む。
そこには、相変わらずソファでポテチを食べながらテレビを見ている女神と、その横で、少しだけ「足音が聞こえるようになった」音が、お茶を淹れている姿があった。
「静、おかえり。プレゼン、うまくいったんだね。会社のSlackがすごいお祭り騒ぎになってた」
音はいつも通り微笑んだ。その瞬間、静は彼女の胸元に目をやった。
ぼんやりと浮かび上がった「命の砂時計」。
驚くべきことに、昨日までは完全に底をつき、最後の一粒がチカチカしていたはずの砂が、中央の管を逆流し、全体の約一割ほど、上の部屋へと戻って輝いていたのだ。
「砂が……増えてる!? どういうことだ、ご先祖様!」
静が驚愕して叫ぶと、女神はポテトチップスを指先でつまみながら、ニヤリと不敵に笑った。
『気づいたようね、子孫くん。音の力は、霊の未練を自分が引き受けて「消費」する力。だから命が縮む。でもね、あんたの力は、霊のノイズを全肯定して、その未練をビジネス(対話)で「解決」して成仏させる力よ』
女神が扇子を広げ、静の胸をトン、と叩いた。
『あんたが怪物のクレームを完璧に処理して成仏させたから、その怪物の中に囚われていた「人間の純粋な生命エネルギー」が、同質の魂を持つ音へと還元されたのよ。つまりね、静。あんたが外で悪霊を黙らせて成果を上げれば上げるほど、音の命は元に戻っていくの。……まぁ、今回は全体の十分の一だけどね』
音を救う、明確な道が見えた。
静は、自分の手のひらを見つめた。営業トップとしてのスキルが、そのまま妹の命を救うための武器になる。これなら、戦える。
しかし、女神の笑顔はすぐに、どこか冷徹なものへと変わった。
『でも、あまり浮かれんじゃないわよ。今回の六本木の件で、はっきり分かったわ。あんたたちの会社……「ゼニス・クリエイト」そのものが、意図的にデジタル悪霊を引き寄せるための“撒き餌”にされている』
「何だって……? 誰がそんなことを」
『さあね? でも、その撒き餌の主は、次はさらに巨大な仕掛けを動かすつもりのようよ。……いい? 次の戦場は、若者たちの欲望が文字通りドロドロに溶け合う街。──「渋谷の地下鉄跡地」よ』
(第三章:完 )
第四章:マンションの聖域
1. 鳴り響く日常、そしてカーテン裏の「神変」
六本木の超高層ビル『ミッドタウン・タワー』の最上階で繰り広げられた、あの息もつかせぬ死闘から、早くも丸一日が経過していた。
東京の街は何事もなかったかのように、今日もまた無数のノイズを吐き出しながら駆動している。昨夜、ゼニス・クリエイトが大型コンペを勝ち取ったというニュースは、業界内を駆け巡り、静のスマートフォンには社内外からの祝福と問い合わせのメールが、文字通り分刻みで通知され続けていた。
しかし、そんな輝かしいビジネスの表舞台の裏で、静の肉体と精神は限界近くまで摩耗していた。
トントン、トントン、トントン……。
静の自宅マンション。リビングに響き渡るのは、どこか調子の外れた、しかしひたすらに温かい「日常の音」だ。母親がキッチンでまな板に向かい、熱心に包丁を動かしている。
「静、ちょっとそこにあるサラダボウル取ってちょうだい。あと、お父さんがもうすぐ帰ってくるから、お箸とコップも並べてね。何ぼーっとしてるの、コンペに勝ったからって気が抜けたのかしら?」
「あ、あぁ……分かってるよ、母さん。今やる」
静は、まだ重い頭を振りながらソファから立ち上がった。
その視線が、ふとキッチンの隅で手伝いをしている妹・音へと向く。
音は、母親から手渡された小皿を、壊れ物を扱うように慎重にダイニングテーブルへと運んでいた。その足取りは、昨日までに比べれば、明らかにしっかりとしている。
六本木のコンペ会場で、あの「世界のバグ」とも言える地縛霊を、静の能力──すべてのノイズをフリーズさせる『静寂の咆哮』──によって成仏させた恩恵は、確実に現れていた。
音の胸元にひっそりと浮かぶ、彼女の寿命そのものである「光の砂時計」。その底に溜まっていた絶望的な砂が、昨夜の勝利によって、ほんの一割ほどではあるが、ふわりと上の部屋へと逆流したのだ。
そのおかげで、ここ数日まったく反応しなくなっていた自宅の自動ドアやスマートフォンのタッチパネルが、今は辛うじて音の指先を「人間」として認識するようになっている。家族の目から見れば、音の様子は「最近ずっと続いていた酷い立ちくらみが、少しだけ良くなった」という範疇に収まっていた。
だが、静の持つ『静寂の目』は、世界の真実を容赦なく捉え続けている。
音の砂時計は、確かに一割戻った。だが、裏を返せば、残りの九割は未だに空っぽのままだ。砂時計のガラスの表面には、微細なヒビさえ入っているように見える。彼女がデザインという行為を通じて「命を削る音」を発し続ければ、このささやかな平穏など、一瞬で吹き飛んでしまう。
静がそんな思考に沈み、コップをテーブルに並べようとしたその時──視界の端で、リビングの厚手の遮光カーテンが、不自然にボコッと大きく膨らんだ。風など吹いていない。窓は完全に閉まっている。
(また出たな……)
静が冷ややかな視線を向けると、カーテンの隙間から、まるで絹のような美しい白髪がさらりと覗き、続いて、平安時代の貴族のような絢爛豪華な十二単を纏った美女が、ずるずると這い出てきた。
この家の「ご先祖様」であり、自称・美の女神。しかしその実態は、静にしか見えない、ただの我が物顔なニート幽霊である。
女神は、リビングのローテーブルの陰に完璧に身を隠しながら、静が自分の今月の小遣いから奮発して買い置きしていた、一粒数百円もするお取り寄せの高級トリュフチョコレートの箱を、当然のように膝の上に抱えていた。
『……ちょっと、そこの不届きな子孫くん。私にそんな、まるでゴミを見るかのような冷たい視線を向けないで頂戴。私はね、この神聖なる家を不浄なものから守るために、こうして霊的エネルギーを補給しているのよ。というか、このカカオ85%のビターな味わいと洋酒の香りのマリアージュ、現世の人間もなかなか粋なものを作るじゃない。褒めてあげるわ』
脳内に直接響き渡る、鼓膜を一切震わせない透明な声。緊迫感など微塵もない。
静はこめかみにピキリと青筋を立てながら、キッチンにいる母親に背を向け、唇の動きだけで激しく突っ込んだ。
「静かにしてろ、馬鹿女神。それ、俺が来週のプレゼンが終わったら食べようと思ってたやつだぞ! あと母さんにバレたらどうするんだ!」
『フン、凡人たるお前の両親には、私の姿も、このチョコレートが物理法則を無視して空中で消えていく現象も、認識のバイアスによって「最初から無かったもの」として処理されるのよ。神の奇跡を舐めないで。……でもね、静。そんな下らない駄菓子(高級チョコだが)の心配をしている場合じゃないわよ。安心するのは早いわ』
女神は、最後の一粒を口に放り込むと、それまでのふざけた態度をわずかに潜め、手にした扇子で静の鼻先を指した。
『この家には、私が張った最高級の「結界」があるけれど……外からやってくる人間の“生霊”に近い、生々しい怨念はね、結界のフィルターをすり抜けて侵入してくることがあるのよ。お化けはルールに従うけれど、生きている人間ってのは、ルールそのものを歪めてくるからタチが無いの。特に……身勝手な「好意」と、それが裏返った「強欲」の念はね』
「……生霊? 強欲だと?」
静が声を漏らしそうになった瞬間、背後から「はい、お待たせ!」と、母親が弾んだ声でお盆を運んできた。
「今日は大奮発よ! 静が歴史的な大コンペで勝ったって、会社の上司の方からお家にわざわざお電話があったんだから! お父さんがね、張り切ってデパ地下で一番いい国産黒毛和牛のステーキ肉を買ってきてくれたのよ。あ、あなた、お帰りなさい! 早く座って!」
「おお、静、本当によくやったな!」
玄関のドアが開く音と共に、ネクタイを少し緩めた父親が、満面の笑みでリビングに入ってきた。手には高級なビール缶の6缶パックが握られている。
「まさか、あの最大手のゼニス・クリエイトで、お前が全体の指揮を執って競り勝つなんてな。俺の若い頃にそっくりだ。いや、俺以上だな。ガハハ!」
「お父さん、それは言い過ぎ。静は私に似て、本番に強いのよ」
母親が嬉しそうにクスクスと笑い、父親がプシューッ、と心地よい炭酸の音を立ててビール缶を開ける。グラスに注がれる黄金色の液体と、豊かな白い泡。キッチンからは、上質な肉の脂が熱いフライパンの上で弾ける、ジューシーな音が鳴り響いていた。
これ以上ない、絵に描いたような温かい家族の団欒。誰もが笑顔で、誰もが静の勝利を祝っている。
しかし──そんな光景の中で、音だけが、ダイニングの椅子の端に窮屈そうに腰掛け、テーブルの下でスマートフォンの画面を何度も、何度も見つめていた。
彼女の指先は、辛うじて動く液晶画面を狂ったようにスクロールしている。その横顔は、いつもの眠そうな、世界のすべてを諦めたような表情とは違っていた。明らかな「怯え」と、過剰なストレスによる「吐き気」を必死に堪えているような、痛々しい拒絶の色に染まっていたのだ。
「音? どうした、飯食わないのか? お前の好きな、ミディアムレアのステーキだぞ」
静が努めて普段通りのトーンで声をかけると、音はびくりと肩を大きく揺らし、慌ててスマホの画面をひっくり返してテーブルに伏せた。バタン、とプラスチックのケースが木製の天板にぶつかる、不自然に大きな音が響く。
「……あ、ううん、なんでもないの、静。ちょっと……最近ずっと体調が悪かったから、急に胃にお肉を入れるのが、怖くて。あの、静、私の分もお肉食べていいよ。はい、どうぞ」
音は、いつもの覇気のない、しかしどこか無理に作ったような微笑みを静に向けた。
だが、静の『静寂の目』は誤魔化せなかった。
音の細く、陶器のように白い首筋。そこに、まるで変色したドロドロの黒いタールのような、粘着質な「糸」が、何重にも、締め付けるように絡みついているのが見えた。
それは、昨夜の六本木ビルで見た、数十年蓄積された地縛霊の呪いとは、明らかに毛色が違っていた。もっと生々しく、熱を帯びていて、特定の「個人」の意志が込められた──執拗な、独占欲という名のノイズだった。
2. 「音が欲しい」──歪んだプライドと、スマートフォンの狂気
夕食が終わり、両親が満足そうにリビングでテレビのバラエティ番組を見始めると、静は「ちょっと部屋で明日の資料をまとめる」と言い残し、自室へと戻った。
だが、彼が向かったのは自分の部屋ではない。廊下を挟んで向かい側にある、音の部屋だった。
トントン、と、家族に聞こえないように微かな音でドアをノックする。
「音、入るぞ」
返事を待たずにドアを開けると、部屋の中はカーテンが閉め切られ、照明も点けられていなかった。真っ暗な空間の中、ベッドの上で体育座りをして膝を抱える音の顔だけが、スマートフォンのブルーライトによって青白く、不気味に浮かび上がっていた。
「……静」
音の声は、かすかに震えていた。彼女は、静が部屋に入ってきたことに安堵したようでもあり、同時に、自分の見ている絶望を兄に知られることを恐れているようでもあった。
静は無言で歩み寄り、ベッドの脇に腰掛けた。
「音。隠さずに全部言え。お前の首に巻き付いてるあの黒い糸、何だ。飯の時、ずっとスマホを見てただろ。何があった」
静が極めて冷静な、しかし心の奥底に燃え盛るような怒りを秘めたトーンで問いかけると、音はしばらく唇を噛み締めていたが、やがて諦めたようにぽつりぽつりと話し始めた。
「……一ヶ月くらい前、会社の同期の人に、告白されたの。営業部の、藤堂(とうどう)くんっていうんだけど……」
「藤堂?」
静の脳内のデータベースが、即座にその名前を検索し、引き当てた。
営業一部の藤堂。静の二つ下の世代で、入社以来、常にトップクラスの営業成績を収めている若手のホープだ。ルックスも爽やかなイケメンで、人当たりも良く、社内での女子社員からの人気も非常に高いと聞いていた。静自身も、オフィスのエレベーターですれ違った際に「静さん、今度のプロジェクト、僕も負けませんから」と、爽やかな笑顔で握手を求められた記憶がある。
「あいつが、お前に告白したのか」
「うん……。でも、断ったの。私には、他にやらなきゃいけないことがあるからって。自分の命の期限のこともあったし、誰かと付き合って、その人の人生に迷惑をかける余裕なんて、どこにもなかったから。それに……」
音は、膝の間に顔を埋めるようにして、声を低くした。
「彼の言葉を聞いていると、頭が痛くなったの。藤堂くんの言葉の裏には、私への純粋な好意なんかじゃなくて、ものすごいノイズが渦巻いてた。『営業エースの自分にふさわしい、誰もが振り返るような神秘的な彼女が欲しい』『物静かで大人しい私を、自分の色に染めて優越感に浸りたい』……そういう、身勝手な独占欲の音が、彼の声からブチブチと聞こえてきて、気持ち悪くて……だから、ごめんなさいって、はっきり言ったの」
静は、妹の言葉の意図を正確に理解した。
音はUIデザイナーとしての並外れた直感と、命を削るがゆえの過敏な感性で、藤堂の本質を見抜いていたのだ。藤堂にとって音は、自分のステータスを高めるための「高級なアクセサリー」に過ぎなかった。
「断られて、あいつは逆上したのか?」
「最初は……引き下がってくれたように見えた。でも、メッセージアプリのアカウントを変えて、毎日、信じられないくらいの量の連絡が来るようになって……」
音は、震える手でスマートフォンの画面を静に向けた。
静はその画面をスクロールした瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
そこには、常軌を逸した「文字の暴力」が敷き詰められていた。
『音、どうして僕じゃダメなんだ? 理由を教えてくれ。僕の年収か? ルックスか? 僕ほど君を理解できる男は他にいない』
『君が毎日、会社で今にも倒れそうな顔をしているのは知っているよ。社内の奴らは誰も気づいていないけれど、僕だけは君のその儚さに気づいている。僕なら君を僕の部屋に閉じ込めて、完璧に癒してあげられるのに』
『今日の昼、他の男の社員と話していただろ。あの男のどこがいいんだ? 汚らわしい。君は僕だけの聖域にいるべきなんだ』
そして、メッセージの内容は、昨夜のコンペを境に、明確な「狂気」と「呪詛」へと変貌していた。
『なんで昨日のコンペ、静さんが英雄扱いなんだ? おかしいだろ。あの企画の骨子は、僕が前に出したアイデアの焼き直しだ。静さんが僕の手柄を盗んだんだ』
『僕の営業成績が下がった。上司からも冷たい目をされた。全部、君が僕を拒絶して、僕の運気を下げているからだ。君のせいで、僕の完璧な人生が狂い始めた』
『音、君が欲しい。君を僕だけのものにして、僕をバカにした社内の奴らを見返してやりたい。君のその静かな瞳を、僕への恐怖と、僕なしでは生きられない愛情だけで満たしてあげたい』
「……っ、ふざけやがって……!」
静の手の中で、スマートフォンの筐体が軋むような音がした。凄まじい怒りが、彼の理性を焼き切ろうとしていた。
藤堂は、音が夜な夜な命を削り、世界のバグである悪霊たちと戦い、人々を陰から救っていることなど、微塵も知らない。
ただ、いつも消え入りそうで、儚い音の雰囲気に自分の歪んだ理想を投影し、それが思い通りにならなかったというだけで、そのエリートとしての肥大化したプライドと「強欲」を最悪の形で爆発させているのだ。
『あーあ、可哀想に。その藤堂って男、完全に“線の向こう側”へ行っちゃったわね』
天井から、女神が静かに降りてきて、音のスマホ画面を覗き込んだ。
『ただのストーカーなら、警察に突き出せば済む話なんだけど……タイミングが悪すぎたわ。昨夜、静が六本木でド派手に霊的エネルギーを解放して、世界のバグを「ミュート」したでしょ? その時の余波で、現世の空間のあちこちに、一時的な『歪み』ができちゃったのよ。その歪みに、この男の強烈な「嫉妬」と「独占欲」がスポッとはまり込んじゃったのね』
「どういうことだ、女神。分かりやすく説明しろ」
『つまりね、彼の生霊──現世への執着が、空間のバグと融合して、本物の悪霊以上の質量を持った「化け物」に変異しちゃったのよ。ほら、スマホの最後のメッセージを見てごらんなさいな』
静が画面の最下部に目を落とすと、そこには、一分前に届いたばかりの、一行だけのメッセージがあった。
『今、君の家の、すぐ下にいるよ』
──ドン。
その瞬間、マンションの遥か階下から、重苦しい金属の擦れるような音が、静の耳にだけ届いた。
1階のオートロックの自動ドアが、物理的な認証を完全に無視して、無理やりこじ開けられた音だ。
いや、それは音ではない。静の『静寂の耳』には、人間の声を引きちぎったような、「オトが欲しい、オトをよこせ、オト、オト、オト、オト、オトオトオトオトオト……!」という、粘着質で呪わしい精神的重低音が、建物のコンクリートの階段を、不気味な速度で這い上がってくるのが、はっきりと聞こえていた。
3. 聖域の浸食、そして迫り来る足音
「音、ここにいろ。絶対に部屋から出るな」
静はスマートフォンの画面を消し、妹の肩を強く掴んで言い聞かせた。
「俺が下に行って、あいつを物理的に、あるいは……別の方法で叩き出してくる」
しかし、音が静のスーツの袖を、細い両手で固く、引きちぎらんばかりの力で掴んだ。
「待って、静……! 行っちゃダメ! 藤堂くんのノイズ……これ、ただの生霊じゃない。私がデザインの仕事でずっと世界のバグを見てきたから分かる。彼の後ろに、もっと巨大な、何か『仕組み(システム)』みたいなものが見えるの。藤堂くんの個人的な怨念を、後ろから何百倍にも増幅して、この家に送り込んでいる別の発信源がある。不用意に近づいたら、静の力でも飲み込まれちゃう……!」
「だからって、お前をここに置いて逃げるわけにいくだろ」
静は、音の震える手を、一つずつ優しく、しかし圧倒的な意思の力で振り払った。
「お前は今まで、一人でこういう化け物たちと戦ってきたんだろ? 自分の命を削りビクビクしながら。……そんな真似、もう二度とさせない。お前が『静』って呼んでくれた時から、俺の仕事は決まってるんだよ。お前に迫るすべての不条理(クレーマー)を、俺が全部『出入り禁止』にしてやる」
静は、音をベッドの上に残し、部屋のドアを静かに閉めた。
一歩、廊下に出ると、そこはすでに異様な空気に満ちていた。
我が家の見慣れた廊下の床。そこに、まるで水槽の底に溜まった泥のような、どす黒い液体が、玄関のドアの隙間からじわじわと侵入してきているのが見えた。
その液体は、時折、無数の小さな「人間の目」のようにプチプチと泡立ち、静をじっと見つめては消えていく。藤堂の、全方位に対する猜疑心と監視欲の具現化だ。
(ご先祖様の結界を……完全にすり抜けてきてやがる)
『言ったでしょ? 生霊ってのは、現世に戸籍を持つ“生きた人間”のエネルギーなのよ』
廊下の壁から、上半身だけを突き出した女神が、いつになく冷徹な表情で扇子を構えていた。
『私の結界は、死んだものや、この世の理から外れた不浄なものを弾くように設計されているわ。でも、藤堂という男は、今もどこかで息をしている人間よ。だから結界のセキュリティシステムが、彼を「ただの訪問者」として誤認識して通しちゃったのね。……静、ここから先は一歩も引けないわよ。リビングを見てごらんなさい』
静が慌ててリビングのドアを少しだけ開けると、そこには、テレビのバラエティ番組を見て声を上げて笑っている父親と、明日のパートの準備をしながらスマホをいじっている母親の姿があった。
彼らは、自分たちの足元のフローリングを、あの黒いドロドロの液体が今まさに浸食し、ソファの脚を汚そうとしていることに、全く気づいていない。
「あなた、なんだか急に部屋が寒くならない? エアコン、ちょっと温度下げすぎじゃないかしら」
母親が、自分の肩を抱きすくめながら首を傾げる。
「ん? そうか? 俺はビールを飲んでるから丁度いいけどな……。おや、なんだか急に、テレビの電波の入りが悪くなったな。画面がブレるぞ」
父親が、液晶画面に走る激しい砂嵐(ノイズ)に顔をしかめる。
静の目には、テレビの画面だけでなく、リビングの壁紙全体に、藤堂が音に送り続けたあの狂気的なメッセージの文字列──『君が欲しい』『僕の何が気に入らないんだ』『全部君のせいだ』──が、血のような赤黒い文字でびっしりと浮き上がってきているのが見えていた。
(このままじゃ……両親が精神汚染(ノイズ)に巻き込まれる。この家そのものが、あいつの怨念で腐り落ちる!)
「女神、どうすればいい。ここで俺が『咆哮』を使えば、両親の耳がおかしくなるし、何より、俺が化け物と戦っているところが丸見えになる」
『簡単よ、営業マンのエースくん。あなたの力を、広範囲に撒き散らすんじゃなくて、極限まで「局所的」に集中させなさい。両親のいる空間と、玄関の廊下の空間を、音の概念ごと切り離すのよ。あなたには、それができるはずよ。六本木で、あの地縛霊の『叫び』を丸ごと飲み込んだ時の感覚を思い出しなさい!』
「……言うのは簡単だがな!」
静は深呼吸をし、ネクタイの結び目をぐっと緩めた。
心臓の鼓動が、トクン、トクン、と、耳の奥で爆音となって鳴り響く。怒りと焦りで理性が弾けそうになるのを、彼は強引に抑え込んだ。
これまで、何百人という理不尽な取引先、怒号を飛ばすクレーマー、無理難題を押し付ける上司と対峙してきた。その度に、彼は自分の感情を完璧な「ゼロ」にし、相手の怒りのエネルギーを笑顔という名のブラックホールに吸い込んで処理してきたのだ。その営業スキルは、今や現世の技術を超え、オカルトの領域へと昇華されようとしていた。
ウィィィン……。
静かなマンションの廊下に、エレベーターが静の住む階に到着したことを告げる、電子音が響いた。
続いて、チン、という無機質な到着音。
ガシャリ、と、数メートル先の玄関のドアの向こうで、何かがぶつかる音がした。
生霊──藤堂の執念の化身が、ついに静の家の玄関前に、到達したのだ。
4. 静寂の折衝(バースト)──廊下の死闘
静はリビングのドアを静かに、しかし完全に閉め、両親のいる空間を背にした。
そして、玄関のドアへと向かって歩みを進める。一歩踏み出すごとに、床の黒い液体が静の革靴の底にまとわりつき、ジュウ、と不気味な精神的な異音を立てる。
ガチャガチャガチャガチャ!!!
突然、玄関のドアノブが、人間の限界を超えた速度と力で、激しく回転し始めた。鍵はかかっているはずなのに、金属のパーツが悲鳴を上げ、今にも引きちぎられそうになっている。
「開けろ……開けろよ、音……! 僕だ、藤堂だ! 君を助けに来てあげたんだよ! なんで鍵をかけるんだ! 僕を拒絶するな! 君のお兄さんも、君の家族も、みんな僕たちの邪魔をする悪者だ! 僕が全員、消してあげるからぁぁぁ!!」
ドアの向こうから響くのは、かつての爽やかなホープの面影など微塵もない、何重にも歪んだ、金属をヤスリで削るような不快な絶叫だった。
静は、玄関の三和土(たたき)の前に立ち、ドアノブにそっと右手を添えた。
彼の『静寂の目』には、鋼鉄のドアを透過して、外の光景が見えていた。
そこにいたのは、スーツをズタズタに引き裂かれ、皮膚の下を無数の黒い虫が這い回っているかのように脈打つ、藤堂の姿だった。彼の背中からは、巨大な蜘蛛の脚のような、黒い「欲の触手」が何本も生え、マンションの共用廊下の壁や天井を破壊しながら、静の部屋へと侵入しようとしている。
「藤堂。……アポなしの訪問は、営業の基本として『マナー違反』だぞ」
静は冷徹に呟くと、一気に玄関の鍵を解錠し、ドアを外側へと押し開けた。
ヒュオオオオオッ!!!
ドアが開いた瞬間、凄まじい精神的な暴風が、静の顔を襲った。
藤堂の生霊が、待ってましたとばかりに、津波のような黒いドロドロの塊となって静の身体へと掴みかかってきた。その塊の先端には、無数の鋭い牙を持つ「口」が形成されており、静の肉体を魂ごと噛み砕こうとしている。
「死ねぇぇぇ! 静さん! お前さえいなければぁぁぁ!!」
藤堂の咆哮が、狭い廊下に炸裂する。
普通の人間なら、この精神攻撃の直撃を受けただけで、脳の血管が弾け飛び、一生正気に戻れないほどの、凄まじい「自己正当化」のエネルギー。
しかし──。
「──静(せい)」
静は、自身の中心にある、最も冷たく、最も深い『無音の領域』へのスイッチを入れた。
──パツン。
世界から、すべての「音」が完全に消失した。
数センチ後ろのリビングから漏れ聞こえていたテレビの笑い声も、母親がキッチンで皿を片付けるカチャカチャという音も、外の道路を走る車のエンジン音も。そればかりか、今まさに静の目の前で藤堂が放った、あの鼓膜を裂くような絶叫さえも、一瞬にして「ゼロ・デシベル」の絶対的な静寂へと吸い込まれ、消滅した。
静が展開した、半径わずか3メートル。玄関と廊下だけを包み込む、完全局所的な『静寂の聖域(ミュート・バリア)』。
この空間の中では、どんなに巨大なエネルギーが暴れようとも、物理的な「音」としても、精神的な「ノイズ」としても、外へ漏れ出すことは決してない。両親のいるリビングとは、次元ごと切り離されている。
「な……に……!? 僕の、僕の声が……消えた……!?」
藤堂の生霊が、自分の声が響かない恐怖に、目を見開いて硬直した。空間そのものが、ねっとりとした無音のセメントのように、彼の身体を全方位から圧迫しているのだ。
「藤堂。お前、さっきから聞いていれば、自分の言いたいこと(ニーズ)ばかりを喚き散らしやがって」
静は、黒い津波の目の前で、ゆっくりと歩みを進めた。彼のスーツの裾が、無音の空間の中で静かに揺れる。
「営業の基本中の基本を教えてやるよ。取引を成立させたいならな……まず『相手のニーズ』を聞け。お前が音に送り続けたあの山のようなメッセージ、その中に一度でも、音の体調を気遣ったり、音の本当の願いに耳を傾けたりする言葉があったか?」
「うるさい、うるさい! 僕は優秀なんだ! 僕は愛しているんだ! だから、彼女は僕の所有物になる権利があるんだぁぁぁ!」
藤堂の背中から、4本の巨大な黒い触手が、静の胸を貫こうと、音速を超える速度で突き出された。
しかし、静は避けない。
「お前がやっているのは、愛じゃない。……ただの『押し売り』だ」
静は、迫り来る触手の前に、右手をすっと差し出した。
六本木の時とは違う。今の静は、力のコントロールを完全に掌握しつつあった。手のひらの先、わずか数センチの空間に、彼の持つ『静寂の咆哮』のエネルギーを、レーザー光線のように極限まで収束させる。
「押し売りされた顧客が、どんな顔をするか、お前ほどのトップ営業なら分かるだろ」
静の瞳が、絶対零度の青い光を放った。
「──『二度と我が家の敷居を跨ぐな』。……これで、商談成立(お引き取り)だ。…静まれ」
静の手のひらから、無音の『衝撃波(バースト)』が放たれた。
ドォォォォォン!!!
物理的な音は一切しない。しかし、空間そのものが数センチほど「歪む」ほどの、圧倒的な無の質量が、藤堂の生霊を正面から直撃した。
藤堂の放った黒い触手は、静の手のひらに触れた瞬間、先端から一瞬で「カチコチ」にフリーズし、黒いガラスのように変質していった。そして、その凍結は一瞬にして藤堂の全身へと伝播していく。
「あ、が……あ、あ……ば、かな……僕の、僕の完璧な、人生が……」
藤堂の生霊の表面を流れていた、あの無数の『君が欲しい』という赤黒い文字のデータが、静の放つ絶対的な静寂の波動によって、次々とフリーズし、機能を停止していく。
静の力は、ただの破壊ではない。相手の放つエネルギーの周波数を、完全に「ゼロ」に同調させることで、その存在の理由(バグ)を現世のシステムから消去する、究極のデバッグ作業だ。
「藤堂。お前は優秀な営業マンだ。だったら、今回の『失恋』という手痛い失注を糧にして、次の現場でまともな提案を磨き直せ。……今回は、俺の勝ちだ」
静が右手をぐっと握りしめると、完全に凍りついた藤堂の生霊の巨体が、パキィン……と、美しい音を立てて(もちろん静の耳にしか聞こえないが)、何万個もの微細な光の破片へと砕け散った。
廊下を埋め尽くしていたあの黒いコールタールの液体も、壁に浮き上がっていた血の文字も、すべてがサラサラとした白い灰のようになって、空気中に溶けるように消滅していった。
静がゆっくりと息を吐き出し、手のひらの出力を下げると──。
パツン、と、世界に「音」が戻ってきた。
「──だからさ、あの監督の采配が間違ってるんだよ!」という父親のテレビへの愚痴が、リビングのドア越しに、何事もなかったかのように廊下に響き渡る。
時計の針は、藤堂がドアノブを回し始めてから、わずか「45秒」しか経過していなかった。
玄関の外の共用廊下を確認すると、そこには、高級なスーツを少し着崩した状態で、壁に頭を預けてへたり込んでいる、本物の藤堂の姿があった。
彼の身体からは、あの禍々しい黒いオーラは完全に消え去っていた。その瞳は、狂気から覚め、まるで酷い悪夢から目覚めたばかりのように、ただただ困惑と疲労に満ちている。
「あれ……? 僕は、なんで、静さんの家の前に……? 僕は、何を……」
藤堂は、自分の泥だらけの手を見つめ、信じられないというように頭を振った。
静の静寂の力によって、彼の心の中に渦巻いていた「異常な執着」と「脳のバグ」が完全にミュートされ、本来の、ただの「失恋してひどく傷つき、仕事のプレッシャーに怯えている20代の青年」へと戻ったのだ。
静は、へたり込む同期の前にしゃがみ込み、その肩をポンと叩いた。
「藤堂。疲れてるみたいだな。明日は土曜日だ、ゆっくり休め。月曜日、オフィスでまた美味いコーヒーでも飲もう。……お前は、まだやれるさ」
「静、さん……。すみません、僕……何か、ひどいことを……」
「何もしてないよ。ただの、営業の意見交換だ」
静は藤堂の身体を支えて立ち上がらせ、エレベーターのボタンを押してやった。藤堂は何度も頭を下げながら、ふらふらとした足取りでエレベーターの中へと消えていった。
5. 紡がれる双子の絆、そして明かされる「渋谷」の深淵
玄関の鍵をしっかりと閉め、静が廊下の空気を換気してから音の部屋に戻ると、音はベッドの上で、自分の胸元をぎゅっと両手で押さえたまま、静静と待っていた。
部屋のカーテンを静が開けると、月明かりが部屋の中に差し込み、音の顔を優しく照らす。
静の『静寂の目』が、音の胸元にある光の砂時計を捉えた。
驚くべきことに、先ほど藤堂の巨大な怨念を「破壊するのではなく、満たして眠らせた」ことにより、またしても砂時計の底から、光り輝く砂がふわりと上の部屋へと逆流していったのだ。
その量は、先ほどの比ではない。全体の「二割」にまで、彼女の寿命のメーターが回復している。
音の顔色には、ここ数ヶ月間ずっと見られなかった、健康的な少女らしい、仄かなピンク色の血色が戻っていた。首筋に絡みついていたあの黒い糸も、跡形もなく消え去っている。
「……終わったよ、音」
静がネクタイを完全に外してベッドの端に腰掛けると、音はゆっくりと手を下ろし、深く、深く息を吐き出した。
「ありがとう、静。……藤堂くんのノイズ、本当に消えたね。頭の中が、びっくりするくらい静か。こんなに耳の奥が静かなの、何年ぶりだろう」
音は、ベッドから自分の足でしっかりと床に降り立ち、静の目の前に立った。その足取りには、もうあの危ういふらつきは一切ない。
「音。……俺は、お前が今まで、どれだけ孤独で、どれだけ重いものを一人で背負ってきたかを、昨日と今日で思い知らされたよ」
静は、自分と全く同じ顔立ちをした、しかしどこか壊れ物のように繊細な双子の妹の目を、正面から見つめた。
「お守りを集めて、ただ怪奇現象から逃げ回って、お前が倒れそうになっているのを見て見ぬ振りをしていた自分が、本当に情けない。……だから、もう絶対に一人で背負うな。お前はUIデザイナーだろ。だったら、お前の好きな、誰もが使いやすい、美しいデザインのことだけを考えてろ。命を削ってまで、世界のバグを掃除する必要なんてない」
静は、自分の大きな手のひらを、音の前に差し出した。
「これからは、俺がお前の『シールド』になる。どんな理不尽なノイズが迫ってきても、お前がその声を聴く前に、俺がその力を完璧にコントロールして、すべてのノイズを『ミュート』してやるから。信じろ、これでもゼニス・クリエイトのエース営業マンだぞ」
音は、静の手のひらをじっと見つめていたが、やがて、その瞳に大粒の涙をぽろぽろと溢れさせた。彼女が静の前で涙を見せるのは、高校生の時以来だった。
「うん……。よろしくね、静。私も……静がその暑苦しい営業トークで、世界のバグと無理な取引をまとめようとしたら、横でちゃんと、もっとスマートな解決策のインターフェース(設計)をデザインしてあげるから。……二人で、生き残ろうね」
音は、小さな、しかし確かな力で、静の手を握り返した。
『あーあ、本当にご馳走様。双子の美しい和解シーンなんて、千年ぶりに見たわ。ポテチを食べる手が止まって、思わず神としての尊厳を取り戻しそうだわ(嘘だけど)』
部屋の隅の空間がぐにゃりと歪み、ポテテチップスの袋(これも静の私物である)を抱えた女神が、ふわりと天井近くまで浮遊した。その手にある扇子が、パッと音を立てて開かれる。
その瞬間、女神の瞳から、それまでのふざけた色彩が完全に消失した。神としての、冷酷で、圧倒的な神威が、部屋の温度を再び急降下させる。
『でもね、二人とも。感動の涙を拭うのは、そのくらいにしなさい。今回の藤堂という男の件で、私の神としてのログに、決定的な「痕跡(データ)」が残ったわよ』
「痕跡……? どういうことだ、女神」静が顔を上げ、声を鋭くする。
『さっき、音が言っていた通りよ。藤堂という男の個人的な嫉妬や強欲のエネルギーは、確かに強かったけれど、人間の生霊があれほどの速度で結界を破り、バグの怪物に変異するなんて、本来の現世の仕様(システム)ではあり得ないの。……誰かが、ネットの回線を通じて、彼の脳のバグ(狂気)にアクセスし、後ろから強烈なブースター(増幅器)を繋いで、この家に送り込んだのよ。明確な殺意を持ってね』
「殺意……。俺たちを、狙っている奴がいるのか?」音が、静の背中に隠れながら呟く。
『ええ。それも、ただの嫌がらせじゃないわ。東京というこの巨大な都市そのものを、人間の醜い承認欲求と、消費される欲望のゴミ、そして歪んだデジタルノイズで満たし、現世のシステムを完全にクラッシュ(崩壊)させようとしている、大元の『サーバー(バグの根源)』が存在するわ。その発信源の座標が、さっき藤堂をデバッグした瞬間に、逆探知できたのよ』
女神は、扇子の先端を、窓の向こう──遥か北西の方角、不夜城のごとき輝きを放つ、あの若者たちの聖地へと向けた。
『次はいよいよ本番、本当のデスマーチよ。──「渋谷の地下鉄跡地、未公開エリア」。何百万人という若者たちの“バズりたい”“認められたい”“アイツが羨ましい”という刹那的なエゴが、ネットの電波を通じて地下深くのゴミ溜めに流れ込み、そこで巨大な化け物の心臓(コア)を形成しているわ。
そこに、音の命を完全に吸い尽くし、この街の王になろうとしている“すべてのバグの元凶”──自称『システム・デザイナー』が潜んでいる』
静は、窓の外の夜景を見つめながら、静かに、しかし壊れぬほど強く拳を握りしめた。
東京の美しいネオンの裏側、その地下深くで蠢く、真の闇。
妹・音を救うための、そして自分たちの日常を取り戻すための戦いは、一人のストーカーの怨念を超え、この大都市のシステムそのものを揺るがす、壮大なサイバー・オカルトバトルへと突入していく。
「渋谷、アンダーグラウンド……。上等だ、どんな大口のクレーマー(黒幕)か知らないが……俺の営業力(静寂)で、まとめて『経営破綻』させてやるよ」
静の隣で、音もまた、自分のスマートフォンに新しいUIの設計図(バリアの指向性デザイン)を打ち込みながら、静かに微笑んだ。
二人の魂は今、初めて完全にシンクロし、最強のバディとしての産声を上げたのだ。
(第四章:完 )
第五章:奈落の決別、あるいは暗黒の門へ
1. 欲望のスクランブル、地下へと続く歪み
週末の渋谷スクランブル交差点は、文字通り「現世の地獄」だった。
五月半ばの、少し汗ばむような夕暮れ時。大型ビジョンからは、新曲のプロモーションビデオや、煌びやかなスマートフォンのCMが、互いの音をかき消し合うような大音量で垂れ流されている。
交差点を埋め尽くすのは、数千、数万の人間たちの足音、話し声、そして彼らが手にする四角い画面から発せられる、目に見えない無数の電波(ノイズ)だ。
「……うっぷ。頭が、割れそう……」
音が、自分の頭を両手で抱え込むようにして、駅の出口の柱に寄りかかった。
彼女の胸元にある「光の砂時計」は、前回の戦いで二割まで回復したものの、この渋谷の街が放つ圧倒的な濁流のようなエネルギーに当てられ、ガラスの表面が微かにビリビリと共鳴していた。
「大丈夫か、音」
静がすかさず妹の肩を支え、自身の『静寂の聖域』を極小の半径で展開する。二人の周囲だけ、スタジアムの喧騒から防音室に入ったかのように、ふっと雑音が消えた。
「ごめん、静……。でも、ここ、本当に異常。ただの雑音じゃないの。ネット上の『誰かを見下したい』『バズって承認されたい』っていうドロドロしたエゴの周波数が、この街の地面の下に、まるで竜巻みたいに吸い込まれていってる……」
静の『静寂の目』にも、それは見えていた。
行き交う若者たちのスマートフォンから、目に見えない黒い糸のような「執着のデータ」が、無数に伸びている。その糸はすべて、アスファルトを透過して、渋谷の地下深くへと収束していた。
『ふふん、さすがは私の可愛い子孫たちね。気づくのが早くて神としても鼻が高いわ』
二人のすぐ横で、いつの間にか現世の女子高生から盗んできた(と思われる)タピオカミルクティーをストローでチュウチュウと音を立てて吸いながら、白髪の女神が和傘を差して佇んでいた。もちろん、周囲の人間にはその姿は見えていない。
『いい、二人とも。ここから先は、これまでのストーカーだの地縛霊だのといった「個人のバグ」とはスケールが違うわよ。東京という大都市が抱える、数百万人の“欲望の排水溝”。それがこれから向かう場所よ。気を引き締めなさいな』
静はネクタイを締め直し、音の顔を見つめた。
「行くぞ、音。この街の喉元に刺さったトゲを、俺たちの手で引き抜く」
「うん……! 静の営業力(シールド)、信じてるから」
三人は、東急東横線の旧地上駅跡地から続く、一般人は立ち入り禁止の地下工事エリアのフェンスを潜り抜けた。
静が『音の概念を消す』ことで、周囲の監視カメラや巡回中の警備員の認識を完全にミュートする。足音も、衣擦れの音も、彼らの存在そのものが、現世のシステムから「存在しないデータ」として処理されていた。
地下1階、地下2階、そして地下3階……。
階段を下りるごとに、コンクリートの壁は湿気を帯び、ひんやりとした空気が肌を刺す。
しかし、それとは裏腹に、耳の奥を焼き付かせるような「キィィィン」という精神的な高周波(ハウリング)は、ますますその密度を増していった。
そして、一般の地下鉄の線路よりも遥かに深い、地下4階。
大正時代に造られ、今や現代の地図からは完全に抹消されたとされる「巨大地下排水路跡」の鉄の扉を押し開けた瞬間、二人はその光景に息を呑んだ。
2. 電脳の蜘蛛の巣、システム・デザイナーの提示
「……何、これ……」
音が、絶句したまま一歩後退りした。
そこは、もはや現世の建築物ではなかった。
直径数十メートルはある広大な地下トンネルの空間。
そのコンクリートの壁や天井のすべてを埋め尽くしていたのは、のたうち回る黒い光ファイバーケーブルのような「有機的な触手」と、何千、何万という無数の液晶モニターだった。
モニターの画面には、今この瞬間にSNSで呟かれているであろう、無数の「匿名の悪意」が、狂ったような速度でスクロールしている。
『死ね』『消えろ』『あいつムカつく』『不倫』『炎上』『偽善者』……。
緑色に発光する無数の文字群が、空間全体を不気味な蛍光色で染め上げていた。
そして、その中央。何万本ものケーブルが心臓のように集約するオフィスのデスクのような場所に、その男は腰掛けていた。
カタカタカタカタ、カタカタ。
静かな空間に、キーボードを叩くプラスチックの音だけが、異様に大きく響く。
男がゆっくりと振り返った。
その体型や仕立ての良い黒い高級スーツは一流のビジネスパーソンのようだったが、彼の「顔」があるべき場所には、何もなかった。いや、小さな液晶画面がモザイクのように何百個も組み合わさり、常にノイズの砂嵐を映し出しながら、チカチカと明滅していたのだ。
「定刻通りのご到着ですね。ゼニス・クリエイトのエース営業マン、静くん。そして、天才UIデザイナーの音くん」
男の顔(液晶画面)から、合成された機械音声のような、しかしどこか人間味のある不気味な声が響いた。
「お前が……この街のバグの根源か」
静が左腕で音を背後に庇いながら、右手を前に構えた。いつでも『静寂の咆哮』を放てる体勢だ。
「バグ、ですか。現世の人間は、自分たちに都合の悪いシステムのエラーをそう呼びたがる」
男はキーボードから手を離し、優雅に立ち上がった。
「僕はね、元は国家規模の通信インフラを設計していたプログラマーだったんですよ。しかし、気づいてしまった。人間という生き物は、どれだけ美しいネットワークを提供しても、そこを流すのは常に『嫉妬』と『他者への呪い』だけだということに。現代のネット社会は、情報量が多すぎて間もなく自重でクラッシュする。だから、僕は新しい仕様(新秩序)を提案しているのですよ」
男が両手を広げると、周囲のモニターのスクロールがピタリと止まり、すべて静と音の過去のデータ──二人のこれまでの戦いのログ──へと切り替わった。
「静くん。君の『すべてを消し去るデバッグ能力(無音)』は素晴らしい。しかし、それはただの破壊、対処療法に過ぎない。僕が本当に欲しかったのは、音くん。君の持つ、類稀なる『世界のバグを美しく構造化し、配置する』という、デザインの才能(スペック)だ」
「……私、の?」音が声を震わせる。
「そうだ。人間の悪意(ノイズ)を消すことはできない。ならば、それを最も効率よく循環させ、この世界を僕の支配下でリブートするための『最悪のシステムのインターフェース』を、君にデザインしてほしい。
君の才能があれば、世界中の人間を、僕の作った電脳の檻の中に美しく飼い慣らすことができる。……さあ、素晴らしい商談(プレゼン)を始めようじゃないか」
「断る」
静の瞳が、怒りで完全に冷え切っていた。
「お前のような、顧客の同意も得ない一方的な押し付け(クソシステム)はな……ビジネスの世界じゃ『ただのゴミ』って言うんだよ。お引き取り願おうか!」
3. 暗黒のソード、引き裂かれる絆
「交渉決裂、ですか。優秀な営業マンの割には、話が通じなくて残念だ」
システム・デザイナーのモザイクの顔が、真っ赤な警告色へと染まった。
「ならば、力ずくで『仕様変更(アップデート)』を実行するまで!」
男が指をパチンと鳴らした瞬間、空間全体の液晶モニターがパチパチとショートし、そこから黒いドロドロとした液体が、津波のように溢れ出してきた。
その液体は、空間のノイズを吸収しながら人間の形を形成していく。それは、SNSの海で溺れ死んだ者たちの怨念──「いいね」を求めて狂った亡霊たちの集団だった。
「オト……オト……デザインシテ……」「ボクをミテ……ミテヨ……!」
何百、何千という亡霊たちが、狂ったような声を上げながら、静と音に向かって殺到する。
「静、敵の周波数が多すぎて、バリアの計算が追いつかない……!」
音がスマートフォンを操作し、必死に敵のノイズを構造化しようとするが、情報の濁流が多すぎて、画面のUIが次々とバグを起こして赤く反転していく。
「くそっ、大人しくしてろ、お前ら!!」
静が胸の奥から魂を絞り出すようにして、『静寂の咆哮』を全方位に放った。
──パツン!
空間の音が消え、押し寄せていた亡霊たちの第一陣が、無音の衝撃波によって一瞬でカチコチに凍りつき、砕け散る。
しかし、ここはシステム・デザイナーの「ローカルサーバー(絶対領域)」だ。床から、天井から、無限にデータが補給され、亡霊たちが秒単位でリスポーン(再生成)してくる。
「静、後ろ……っ! キャアアアアッ!?」
突然、音の足元の床から、巨大な黒い光ファイバーの「影の腕」が飛び出し、彼女の細い足首を掴んだ。
「音っ!?」
静が振り向いた時には、音の身体は宙へと吊り上げられ、システム・デザイナーの背後の壁に開いた悍ましい「真っ黒な次元の裂け目(暗黒世界への門)」へと、猛烈な速度で引きずり込まれようとしていた。
「放して! 嫌だ、静! 助けて!!」
音が、必死に静に向かって手を伸ばす。彼女の胸元の砂時計が、ストレスと恐怖で激しく明滅し、パキ、と小さな音を立ててさらにヒビが入った。
「音ーーーーッ!!」
静の頭の中の、すべての理性のリミッターが消し飛んだ。
彼は自分の背後から襲いかかってくる亡霊たちの爪や牙を一切無視して、ただ前だけを向いてダッシュした。背中のスーツが引き裂かれ、血が飛び散るが、そんな痛みなど脳が認識していない。
泥のような影の触手を踏み越え、静は全力で跳躍した。
伸ばした右手の先。あと十センチ、あと五センチ、あと数ミリで、音の指先に届く。
(届け……届け、届け、届けぇぇぇ!!!)
二人の絆が、空間を超えて結ばれる。音が伸ばした陶器のように白い指先と、静の汗と血に塗れた指先が、完全に重なり──静がその細い手を、二度と離さないと誓って、ぎゅっと握りしめた、まさにその刹那だった。
──世界が、スローモーションに反転する。
静の『静寂の耳』は、現世のどんな音よりも冷酷な、空間そのものが「切断」される無音の風を感知した。
システム・デザイナーの横の空間が、グニャリと歪み。
そこから、すべてを絶望の黒で塗りつぶしたような、漆黒の輝きを放つ大剣──『黒いソード』が、電閃のごとく突き出された。
その刃は、音を救おうと必死に伸ばされていた、静の『右腕』の肘の上を──。
まるで熱したナイフでバターを切り裂くかのように、あまりにも容易く、一瞬で通り抜けた。
「えっ!?」
静の思考が一瞬、停止した。
視界の中で、自分の『右腕』が、音の手をしっかりと握りしめたままの状態で、自分の身体から離れ、宙を舞っているのが見えた。
次の瞬間。
「が、ああああああああああああああああああああああああああッッッッ!?!?!?!?!?」
人間の限界を超えた激痛が、静の脳髄を直接焼き切らんばかりに炸裂した。
断面から、信じられないほどの量の鮮血が、スプリンクラーのように地下のコンクリートへと噴き出す。
静の肉体は重力を失ったように回転し、床へと無残に叩きつけられた。激しい出血のせいで、視界が急速にセピア色へと染まっていく。
「静!! お兄ちゃん!! お兄ちゃん、嫌だぁぁぁ!! 放して、放してぇぇぇ!!」
暗黒の門の向こう側へと引きずり込まれていく音の、引き裂かれるような絶叫が響く。彼女が最後に叫んだのは、かつて幼い頃、迷子になった時にいつも自分を助けてくれた兄を呼ぶ「お兄ちゃん」という言葉だった。
しかし、その声も、彼女の伸ばした左手も、そして静の切断された右手もろとも──黒い次元の裂け目は無慈悲に閉じ、空間にはただ、静の流した赤い血の海だけが残された。
4. 暗黒の玉座、抜け殻の少女
静の意識が、深い闇の底からゆっくりと浮上してきた。
「静、しっかりしなさい! 目を開けなさい、この莫迦子孫!!」
耳元で、聞いたこともないほど必死な、女神の叫び声が聞こえた。
静が辛うじて薄目を開けると、いつものふざけた様子は微塵もない、涙で顔を濡らした女神が、自分の純白の十二単の袖を破り、静の右腕の断面に強く巻き付けているのが見えた。
「……神事の権能、停止(フリーズ)! 血よ、止まりなさい! 魂よ、ここに留まりなさい……!」
女神の指先から放たれる黄金の神気が、静の傷口を焼き固めるようにして止血していく。彼女の神の力がなければ、静は一分と持たずに失血死していただくるう。
「音……は……」
静は、かすれた声で呟き、片腕のまま、血の海の中でフラフラと上体を起こした。
「静、落ち着いて聞きなさい」
女神が、静の残された左肩を強く掴み、その瞳を正面から見つめた。その表情は、千年の歴史を生き抜いてきた神ならではの、深く、冷徹な悲しみに満ちていた。
「私の神の目で、門の向こうの『暗黒世界(バグの隔離サーバー)』を覗いたわ。……最悪の事態よ。あのシステム・デザイナーという男、音をただ誘拐しただけじゃない。音の胸にある『光の砂時計』に直接ファイバーを突き刺して、彼女の持つ命のエネルギーと、世界のバグを構造化する才能を、根こそぎ『アップロード(抽出)』しているわ」
「抽出……だと?」
「ええ。音が今まで命を削って培ってきたデザインの力は今、あの暗黒世界の最深部で、世界中のネットの悪意を最も効率よく増幅させ、世界を書き換えるための『メインシステム(心臓部)』として強制利用されているのよ。……そして、その反動で……」
女神は、言葉を詰まらせ、扇子を固く握りしめた。
「音は……すべての『記憶』を失ったわ」
「な、に……?」
「自分が誰なのか、デザインが何だったのか。そして……双子の兄である、あなたの存在もね。今の彼女は、感情も、言葉も、自分の意志すらもすべて抜き取られ、黒い茨の玉座の上で、ただ息をしているだけの『虚ろな人形』のようになって、システムに組み込まれている。あなたが今そこへ行っても、彼女はあなたの顔を見ても、何も思い出さないわ」
──すべてを、忘れた。
──人形のようになって、座らされている。
その事実が、静の耳から脳へと染み渡った瞬間。
彼の心の中で、何かが完全に、音を立てて『壊れた』。
それは、これまで二十数年間、真面目な社会人として、エース営業マンとして、社会のルールに従って生きていくために自分にかけていた「理性の枷」だった。
理不尽な上司の説教にも耐え、クレーマーの怒号にも笑顔で頭を下げ、世界の不条理をすべて「自分の大人の対応」で収めてきた、そのサラリーマンとしてのプライド。
そんなものは、妹の魂を無残に踏みにじられたという絶対的な絶望の前には、紙切れほどの価値もなかった。
「記憶がない……? 人形みたいにされてる、だと……?」
静の身体から、ドクドクと、不気味なほどの「無音の波動」が湧き上がり始めた。
それは、今までの青い爽やかな静寂ではない。すべてを無に帰す、漆黒と白銀の混ざり合った、悍ましいほどの圧倒的な霊圧(エネルギー)だった。
5. 異形の覚醒、暗黒の世界へ飛び込む片腕の王
「──ふざけるなよ、クソシステムが」
静が立ち上がった。その声には、もう何の感情も乗っていなかった。絶対零度の、純粋な殺意。
その瞬間、静を中心に、半径百メートルの地下空間のすべての「物理法則」が、強制的にフリーズした。
天井から滴り落ちていた水滴が、空間でピタリと動きを止め、壁の液晶モニターの砂嵐が完全に静止し、床の血の海さえも、波紋を失って鏡のように固まった。
『静……!? あなた、何という力を引き出しているの……! それは人間の魂が持っていい容量を超えているわ! あなた自身がバグ(化け物)になってしまうわよ!?』
女神が、その圧倒的な霊圧に気圧されながらも、必死に静を止めようとする。
しかし、静は止まらない。
「あいつが全部忘れたなら……俺がもう一度、あいつの前に立って、名前を呼んでやる。あいつの心が人形になったなら、そのクソみたいなシステムごと、俺のこの手で、全部『工場出荷状態(初期化)』に戻してやるだけだ」
静の失われた右腕の断面から、パチパチと白銀の電閃が走り始めた。
次の瞬間、噴き出した無音のエネルギーが凝縮し、静の身体の欠損を補うようにして、『光と静寂の粒子で形成された、透き通るような新たな右腕』が、実体化するように形作られていった。
肉体という器を捨て、自身の魂のエネルギーそのものを『静寂という概念の武器』へと変質させた、「第二段階(真・覚醒)」の姿。
静の左目は完全な闇の漆黒へと染まり、右目は世界のすべてを見通す白銀の輝きを放っている。
「女神。あの暗黒の世界へ続く門を、もう一度こじ開けろ。お前の神としてのスペック、全部俺に投資(ベット)しろ」
静の新しい右手が、空間をぐっと掴むと、それだけで周囲のコンクリートの壁がギチギチと悲鳴を上げて歪んだ。相手の音を消すのではない。世界そのものを「無」に書き換える、絶対的な権能。
女神は、静のその姿を見つめ、やがてフッと不敵な、神としての妖艶な微笑を浮かべた。
「……いいわ。そこまで大口を叩くなら、私の全財産(神力)、あなたに融資してあげる。……行きなさい、静。人間の分際で神の領域に踏み込んだ、私の自慢の莫迦子孫。あの電脳の泥棒猫に、エース営業マンの恐ろしさを思い知らせてやりなさい!」
女神が和傘を地面に強く突き立てると、空間全体に黄金の魔法陣が展開し、静の放つ白銀の静寂の波動と混ざり合いながら、誰もいない地下排水路の空間に、再び──今度は先ほどよりも遥かに巨大な、禍々しい『暗黒世界への門』が、空間を引きちぎるような音を立てて出現した。
門の向こうからは、現世の光をすべて吸い尽くすような、冷たい闇の嵐が吹き付けてくる。その最深部には、感情を失い、人形のように座らされている最愛の妹が待っている。
静は、新しく手に入れた光り輝く右腕を強く、壊れるほどに握りしめ、迷うことなくその闇の深淵へと身体を投げ出した。
「待ってろ、音。──次の商談(たたかい)で、お前のすべてを、必ず奪い返す」
妹の魂を奪還するため、人間の理性を捨てて漆黒の奈落へと飛び込んだ片腕の営業マン。
物語は、現世のビジネスステージを完全に超え、神と悪魔、そして歪んだ電脳のシステムが支配する『暗黒世界奪還編』へと、怒涛の勢いで加速していく。
(第五章:完 )
第六章:暗黒世界奪還編 ──混沌の道標と静寂の調停──
1. 漆黒の檻と、血まみれの残像
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