【創作大賞2024】深海で、灯火を捏ねる③
―いくつかに、分割される
午後になって、勝木に呼び出された。
朝一番に提出した、意見書の件だろう。紬麦は軽い足取りで呼び出された先へ向かった。
小さめの会議室に、勝木と対面して座る。後ろに押されるような圧を感じた。気のせいだと座り直すが、壁が迫ってくるような感覚は消えなかった。
「意見書、読んだよ」
勝木の手元に、意見書がある。昨日の真城とのやり取りをまとめたものだ。部下の問題行動を正すのは、上司の仕事。そのことを伝えるためのものだった。
「読んで、真城にも話を聞いた。紬麦からも、再度話を聞かせてほしい。私が知りたいのは、事実だけ。できるかぎり客観的に話すよう、心がけて」
どうぞ。
勝木にそう言われ、昨日起こったことを話し始めた。新商品の規格をブラッシュアップさせようと提案し、頭ごなしに否定されたこと。これまでの経験まで含めて否定されたこと。さらには退職を促すような発言を受けたことを、冷静でいるように努めながら説明する。
勝木は瞬きすらせずに紬麦と向き合い、耳を傾けていた。呼吸も止まっている。そう感じるほど、緊迫した空気を纏っている。
喉が渇いた。喋り続けているからだ。紬麦はそう考えようとした。
「うん、起きたことはわかった。確かに、真城の言い方は悪かったと思う。本人も、反省しているようだ。このあと真城も呼んで話がしたいんだけど、いい?」
直接謝罪をさせるのか。紬麦は頷く。勝木が退出した。
再度入室した時には、真城を連れていた。彼女の両目は赤く染まっている。泣いて被害者面するつもりではと、不快に感じる。
「昨日は言い過ぎました。ごめんなさい」
真城が頭を下げた。彼女の足元に、ぽたりと水滴が落ちる。自分の方が悪者みたいだと、気まずく感じた。
いや、自分は悪くない。そう言い聞かせて、頷いた。
「紬麦、どうだ? 何かあれば、遠慮なく言ってほしい」
謝罪してくれたので問題ない。そう言う紬麦の口は尖っている。勝木は神妙な面持ちで「そうか、ではこの件は落着でいいな」と2人を交互に見て頷いた。
「では、別の件に移る」
勝木が言う。先ほどまで目を潤ませていた真城が、睨むように紬麦を見た。
何が始まる。紬麦は心の首を傾げた。
「一昨日、真城が紬麦に試作用のレシピと工程の作成依頼をしたそうだが、覚えがあるか?」
急な話題転換に慌てる。頭を働かせ、記憶を辿る。確かに依頼されたことを思い出した。「覚えがあります」と答える声は弱弱しい。
「真城から、毎日退勤前にその日の業務報告をするよう指示されていたはずだが、覚えはあるか?」
「あります」紬麦の身体に力が入る。
「一昨日は、その業務報告がなく、真城が気づいた時には退勤しており、依頼していたレシピも完成まで半分ほどの進捗だったそうだ。当日真城からレシピを渡した際、弁明も謝罪もなかったようだが、事実と異なる点はあるか?」
「はい」と答えてから「いえ、ないです」と言い直した。紬麦の身体はレーズンぐらい縮んでいる。
営業の先輩から飲み会に誘われ、急いで退勤したことを思い出す。業務報告も、依頼内容も、焦って頭から抜けていた。「そうか」勝木が腕を組み、考え込む。
「頼まれたことを完璧にこなせ、と言いたいわけじゃない。むしろ、できなくて当たり前だと我々は思っている。あなたができない分は、周りがフォローする。それは当然のことだ。
ただ、できない場合は、締め切り前に相談しろ。早めの方がいい。そのための業務報告だ」
勝木の声は優しい。赤ん坊をあやしているように聞こえて、紬麦は赤面した。
「今は業務報告なんて無駄に思えるのかもしれない。けれど新人の業務進捗を把握することは、先輩や上司にとって大きな意味を持つ。今後業務をどう進めるか、進捗具合で調整していかなきゃいけないからね。
調整しないと、スケジュールが守れない。今回真城が前日に気づいてフォローしてくれていたから助かったが、もし気づいていなかったら、当日レシピがなくて試作開始が遅れ、会議に必要なサンプル準備が間に合わなかったかもしれない。
そうすると社長に怒られるだけじゃ済まない。余計な仕事が増えるし、最悪新商品の発売がなくなるかもしれない。そうすると売上は落ちて会社全体に迷惑がかかる。
何より新商品を楽しみにしているお客さまの信頼を裏切ることになる」
お客さまの安全と笑顔は、守らなくてはならない。
勝木の言葉が、胸を刺す。
「私は紬麦の教育係を、真城に任せた。だから真城の指示は、私の指示だと思いなさい。今回はまだ慣れない期間のことだから許すが、同じことが続くようなら、職務怠慢とみなす。いいね」
勝木が立ち上がる。真城も立ち上がった。
彼女の目を、見ることができなかった。
勝木がドアを開き、真城を先に退出させた。まだ出ていかないのか。俯いたまま、彼女が出ていくのを待つ。
「これは、確認だけど」
まだ話があるのか。紬麦はうんざりした。
「もし異動希望があるなら、遠慮なく言いなさい。ちゃんと受理するから」
「2週間、おつかれー」
新入社員の同期会。気兼ねのない戦友たちといると、会話が弾む。食も進む。紬麦はビールと焼き鳥を高速で交互に口へ放り込んでいた。
誰もが仕事を話題にしている。工場での実習明けから2週間。配属部署での仕事にはまだ慣れず、苦労しているようだった。状況は同じ。そうわかると、安心する。
同期は営業が多い。必然的に、話は営業部の内輪ネタになる。マーケティング部の石田部長は頼りない。営業部の桃原部長はナルシスト。話題は尽きないようだった。
商品開発部と営業部は、タッグを組んで動くことが多い。けれど紬麦はまだ、営業部にどんな人がいるのか、詳しくわかっていない。
「商品開発はどうなの。みんな、いい人そう?」
同期で唯一の商品開発部である紬麦に、視線が集まる。気分を良くし、ビールを一気飲みした。
「みんな、いい人はいい人なんだけど、癖のある人が多いんだよ。教育係してくれてる先輩はシャイガールの皮を被ったメンヘラだし。顔だけのニュアンスパーマに、優しいだけの親戚のおじさん。部長は美人だけど、小言おばさんでさ。細かい、うるさい。もうパワハラよ」
先輩に退職を促すような発言を受けた上に、それを指摘したら、部長にまで遠回しに出ていけと言われたことを説明した。同情の声が上がる。共感を得たことに満足し、ビールの追加を頼んだ。
「そんなに人間関係耐えられないならさ、異動願、出しなよ。受理するって言ってくれてるんだから。遠慮することないじゃん」
向かい側に座っていた環が、噛みつくように言った。笑っていたが、彼女の声は張りつめていて、場に沈黙が流れた。
空気を察した越谷が「声がマジになってるぞ」と茶化すように言った。しかし環の視線は鋭いままだ。
「まだ2週間なんだから、さすがに無理だろ」理不尽な睨みに対抗するように、紬麦も声に不機嫌を滲ませる。「人事権のある部長が受理するって言ってるんだから、無理じゃないって」と環も引かない。
「大体さ、周りの人の悪口ばっかりだけど、あんたはどうなのよ。自分に足りないところはないわけ?」
まあ、それはいいか。環は1人で納得している。いいのかよ、と越谷が突っ込む。彼の努力は虚しく、場は凍りついている。
「愚痴ばっかりなら、異動するのもありでしょ。異動願、出すときは教えて。私も出すから」
言いたいことを言って、環は3,000円を置いて店を出て行った。楽しい空気も、彼女とともに去っていった。
それでも店内の喧噪が滲みこむように、だんだんと会話が戻ってくる。
「何なんだよ、あいつ」
口を尖らせていると、越谷がハイボールのジョッキを持って、隣へやってきた。勢いで乾杯する。
「まあまあ、気を悪くしないでやって。環、ずっと開発やりたかったんだよ。希望は伝えてたみたいなんだけどな。最初は適材適所って言って、希望聞いてくれないから、うちの会社」
知らなかった。
思わず紬麦は呟く。環とは何度も同期会で一緒に飲んだ仲だ。けれど1度も、そんな話をきいたことはなかった。
「お前の話聞いて、火がついちゃったんだろうな。気をつけろ。これから一生『異動願、出せ』って言われるぞ」
会うたびに環の眼力で迫られることを想像し、寒気がした。芯が通っているが、頑固な一面がある。一生言われる。その言葉を、笑うことはできなかった。
「就活セミナーに参加した時に、勝木部長が来たらしい。その時に、ひとめぼれしたんだと。この人の下で働くんだって決めて、本当に入社して、夢の一歩手前まで来たんだから、すげえよな」
「勝木部長にひとめぼれ?」
耳を疑う。
美人が好きということだろうか。勝木のことを、黙っていればモデルのようだと思ったことはある。しかし口を開けば棘しかなく、氷点下のような温度の持ち主だ。好きにはなれない。
「なんだっけな。確か『商品開発は、みんながイメージしているような、華やかな仕事ではない。花形部署なんかじゃなく、地味で、泥臭い仕事だ。
世間のイメージを思い浮かべて、向いていると思っている人は、向いていない。お客さまが注目するのは商品で、開発者ではない。それでもいいと思う人と、働きたい』みたいな話をして、感動したんだって」
向いているのか向いていないのか、どっちなんだよ。そう思ったが、言わなかった。
勝木と自分は合わない。その想いだけが、深まっていく。
「今日の環はさ、自分勝手にもの言って帰って。あいつはあいつで悪いなと思うけど、お前もお前だなって思う。希望した先に配属されて、望んだ仕事ができることに感謝すべきだよ。そうじゃない人たちの方が、多いんだからさ。
それに先輩たちは、俺たちより何年も長く働き続けてる人たちだぞ。上司なんか、何十年も差がある。
そういう経験豊富な人たちが細かく伝えてくれること、感謝して、もうちょっと聞き耳持ってもいいと、俺は思うけどな」
越谷はお手洗いにと、席を立った。2人の会話は、そこで終わった。
誰かの話に相槌は打っているものの、紬麦の頭の中は、環と越谷の言葉で埋めつくされていた。
勝木の言葉も、その隙間を埋めるように、入り込んでくる。
もしかして、商品開発部に向いていないのだろうか。
隣の席で、戻ってきた越谷が新規店舗取引先を開拓した話をしていた。
自分は何ができるのか。計画では、すでにエースとして認められているはずだった。
現実は違う。少なくともまだ、何も成し遂げていない。
成し遂げることができるのだろうか。
まさか、できないなんてことが、あるのだろうか。
急に押し寄せてきた不安を振り払うために、紬麦はビールを一気に飲み干した。
