【創作大賞2024】深海で、灯火を捏ねる④
―少し、休ませる
翌週は散々だった。
会議資料で必要な売上実績を、1ヶ月間違えて入力した。試作ではイースト菌を入れ忘れて、ぺちゃんこのパンを作った。原価計算では、新規で取り扱う原料の価格を間違え、赤字商品を作るところだった。原料の手配漏れがあり、工場に迷惑をかけた。
真城には「クソが」というような目で見られ、普段無口なヤーさんに詰められ、勝木には毎日のように小言をもらった。
船越課長は、ただただ微笑んでいる。
たぶん、マスコットキャラクターなのだろう。紬麦はそう思うことにした。
向いていない。
その言葉は、水分の多いパン生地のように、紬麦の頭の中にべったりと貼りついて、取れなかった。
昼休み、珍しく吉原が一緒にと誘ってきた。最近何を食べても味がしない。誰と何を食べても同じ。そう思い、ついていく。会社の食堂へ向かった。
「紬麦、今日の夜空いてる? 軽く飲まない?」
吉原が誘ってくるのは珍しい。いつもスタッフの中では誰よりも先に退勤するのだ。恋人のところへ戻るのか。不特定多数の女性がいる可能性もある。紬麦はそんなことを考えていた。
誰と何を食べても同じ。特に予定もなかったので、承諾した。奢ってもらえる。そんな下心もあった。
「よし。じゃあ今日は早上がりな。店予約しとくから」
吉原が予約してくれた店は、肉バル。薄暗がりの店内。個室のソファ席。同期会では選ばない系統のおしゃれな店だった。吉原の彼女になった気分になり、紬麦は少し緊張した。
「ここの熟成肉がおいしくてさ。それ頼もう。あとは好きなもの頼んで。飲み物は、とりあえずビールでいい? 俺のおすすめはね、ベルギービール」
吉原の心地よいリードに、紬麦の中のチャラ男イメージが少しずつ崩れていく。これまで仕事外で話したことはなかった。話してみると、明るく気さくで、顔の造形も一生見ていられる。女性だったら惚れていたな、などと考える。気づいたらビールは3杯目になっていた。
イチボと熟成和牛と特製ソーセージの盛り合わせが来る。吉原が取り分けてくれた和牛を頬張ると、肉汁が口の中に広がり、細胞が旨みで包まれていく感覚に陥った。
「うまいです」
不意に涙が零れそうになり、慌ててビールを飲んでごまかす。
おいしいものを食べると、幸せになる。
それは、紬麦の原点だった。そのことすら、忘れていた。
「いっぱい食えよ」とソーセージを切り分けてくれる吉原の笑顔に、また泣きそうになる。
「お前、どう見ても元気なかったぞ。がんばりすぎだよ。おいしいもの食べて、今日はゆっくり寝ろ」
心配してくれていたのだ。吉原の優しい言葉に、我慢の堰が切れた。ソーセージが塩辛い。無理やり飲みこむ。
「おれ、がんばってますかね」
言葉にすると、心の焦点が絞られる。
結果が出ず、不安だったのだ。不安に押しつぶされそうだったのだ。紬麦は、たった今、気づいた。
やりたいこともできず、やるべきこともできず、必要な人間でもない。何の価値もない人間。異動しろ、転職しろ。そう言われても、無理もなかったのだ。
不安が膨らむと、一歩も動けなくなる。そんなことは、初めてだった。これまで不安になったことなど、ほとんどなかった。不安を感じても、それを活力に変えてきた。
変換可能な程度の不安だったのかもしれない。
今、不安は不安として、紬麦の心のほとんどを占めている。
小麦粉2袋より重くて、動けない。
「頑張ってるよ」
まっすぐに目を見て、吉原がそう言った。
彼の声は低く落ち着いていて、肉の旨みよりもゆっくりと細胞に浸透していった。
「頑張りすぎなぐらいな。みんな、心配してる」
「みんな?」備えつけのペーパータオルで鼻水をかんでいると、吉原がポケットティッシュをくれた。
「みんなだよ。真城も、船越課長も、勝木部長も。ついでに、丸さんとヤーさんも。ちなみに、勝木部長から軍資金をいただいているので、今日は遠慮なく飲み食いしてください」
「カツキブチョウカラ、グンシキン?」
肉汁が耳の中に入ったのかもしれなかった。みんなが心配している。そのみんなの中に、勝木部長も入っている。紬麦の中では、そのことが一番理解できなかった。
「言っとくけど、勝木部長が一番心配してる。今日の飲み会も、勝木部長発案だし」
「うそだぁ」
何で疑うんだよ。吉原は笑っているが、紬麦は本当に信じることができていない。
「勝木さんほど人情味ある部長、いないと思うけどな。俺が開発来る前は営業にいた話、したっけ?」
初耳です。だよな。吉原が追加でベルギービールを2つ頼んだ。
「3年前まで、俺営業部だったんだ。自分的には天職だなって思ってたんだけど、俺、相手のことばっかり考えちゃう癖があってさ。それがいい時もあれば、悪い時もあるわけ。
だから俺の営業成績って、5勝5敗って感じだったんだ。ホームラン打つか、三振か、どっちか」
吉原がもつと、ビールのグラスがバーで飲むカクテルみたいに見えた。翳りのある表情にも、見惚れてしまう。
「ベンチャーなら、それでも良かったのかもと思ったことはある。
ただ大手企業は、安定してる人間を評価するんだ。ホームランを打つ必要はない。ワンベースヒットを打ち続けることのできる人が評価されるし、正しい。
もちろん、それだってすごいことだから、評価されることはわかる。
でも、俺もホームランを打ったことがあるんだ。それだって評価されたかったよ。でも、三振の方ばかり注目浴びちゃって。気づいたら、干されかけてたんだ。
うちの営業に、俺みたいな人間は、必要なかったんだな」
必要ない。
その事実が、事実ではなくとも、そう感じてしまうことがどれほど辛いことか、今の紬麦には理解できた。
「そこを、勝木さんに拾ってもらったんだよ」
途端に思考が停止する。勝木が人を救う。冷血小言おばさんが。天地がひっくり返っても、それは起きそうにないことだった。
「何言ってんのって、俺も思ったよ。最初断ったしね。営業と開発は一緒に仕事することも多いけど、全く別の職種だ。仕事を一から覚えなきゃいけない。
5年間積み上げてきたものを、ゼロにしたくなかった。ゼロにするのが怖かった、というのもあると思う。営業で頑張るんだって、決めてたところもあった。
でも俺が迷ってること、勝木さんはたぶん、気づいてたんだろうな」
勝木は部長職。人事権がある。強制的に吉原を異動させることもできたはずだ。
「お前が希望するなら。
絶対その前置きをつけるんだよな、勝木さん。開発職は報われないって思ってるから。俺の時も、俺が希望するならっていう前提で『開発をやらないか』って誘ってくれた。
『お客さまのことを最優先に考える。開発にこそ必要なスキルだ』って」
薄暗い中、吉原の瞳は鈍く輝いている。2人同時に、ビールを口にした。
「異動希望があるなら受理するって、言われました。遠回しに、お前は必要ない。異動しろって意味かと」
吉原が笑いだす。こんなに大笑いするのかと驚くほど、腹を抱えて笑っている。
「言葉が足りないんだよな、勝木さん」笑いすぎて出てきた涙を拭っている。
「それさ、本当に心配して言ってるんだよ。開発職は、報われないから。希望していない人間が続けていくのは本当に辛いことだって、思ってるんだ。
『お前のことを大事に想ってるし、意思を尊重したい。開発の仕事が嫌になって、他に行きたいところができたら、遠慮なく言えよ。行きたいところに行かせてやるから。任せなさい』って意味だな」
言葉が足りなさすぎる。ため息とともに、紬麦は胸を撫でおろした。
「その、開発職は報われないって、何ですか?」
そうだな。吉原が考え込む。「これは、俺が見てきた勝木さんからまとめた言葉になるけど」彼の思案する表情、仕草は、そのまま彫刻にできそうだ。
「開発なんて、会議では、まずい、値段が高い、センスがない、売れないってボロクソに言われる。おいしいことは当たり前だと思われてるから、褒められもしない。おいしさ以外の付加価値をつけることが求められるけど、誰も案なんて出さない。そのくせ、明日までに代替案出せよ、なんて言われるのは日常茶飯事。
ヒット商品を開発したら、営業に手柄を取られる。売れなければ、商品を開発した担当のせい。いい商品でも手間がかかれば、現場から責められる。品質守ってとどれだけ言おうが、現場は勝手にやる。けど品質不良が出れば、規格が悪いんだと開発の責任になる。
出張は多いし、残業は多いし、ボーナスは他部署と同じだし、パンを食べまくって10キロ太って糖尿になっても労災はおりない」
―開発は報われない。
―花形部署なんかじゃない。
―地味で、泥臭い仕事。
「だから、開発やりたいって全く思っていない人は続かないし、開発希望だった人でも、辛すぎて辞める人は多い。それぐらい、大変な仕事なんだよ」
開発は報われない。そのことを、やっと少し、理解できた気がした。
「紬麦が配属される前さ、真城も辞めたそうにしてたんだよ。危ないなって思ってて。でも最近は、そうでもないな。今踏みとどまってるのは、紬麦を育てないとっていう責任感な気がする」
真城を頼むよ。口下手で不器用で口悪くて、悩んでいるから。でも紬麦が成長するにはどうしたらいいか、一番考えている。もっと、頼ってやって。
吉原が店員におかわりを頼んでいる。その隙に、紬麦は涙を拭った。
自分に足りないところがあるのだと、認めたくなかった。周りより格上だと、思いたかった。世界の中心は自分なのだと、信じたかった。
自分より経験が豊富な人たちと、何を張り合っていたのか。
確かに、感謝が足りなかったよ、越谷。
紬麦は同期の顔を思い浮かべて、笑った。
「明日もあるし、これ飲んだら、お開きにしよう」
帰り道、最寄りの駅に着くまでにあった、コンビニエンスストアへ吉原が入っていった。紬麦もついていく。
「仕事後に、コンビニとかスーパーとかドラッグストア、毎日定点観察してるんだよ。誰が何を買ってるとか、開発の参考になるからオススメ」
振り返り美男は、「なんてな」と照れている。
「本当は、勝木さんに教わったんだ。俺、真似してるんだよ。勝木さんは入社してから20年、毎日やってるんだって」
年季が違うよなぁ。『新商品』のラベルがついている他社品を手に、吉原は笑っている。
「勝木さんの、あの情熱は、どこから湧いてくるんだろうな」
吉原が買ってくれた缶コーヒーを片手に、夏の夜を歩いた。
蒸し暑いけれど、どこか爽やかだった。足取りも軽い。
家へ帰り、シャワーを浴び、すぐにベッドへ入り込む。疲れていたが、気持ちは晴れやかだった。身体を伸ばす。すぐに眠気がやってきた。
「明日から、もっと頑張ろう」
呟き、夢を見る間もなく、眠りについた。
