「私が嫌いな町」第8話
雨がやむ気配はない。
思わぬ障害に阻まれた人々が、商店街のアーケードと雨空の下に境界線を引いている。
あれからいくつかの話題を共有したが、どれも気分を変えるには役立たず、胸の内にしこりを残したまま、次の約束だけを交わして早希と別れた。
「濡れていなければいいけど」
反対方向へ歩いていった彼女の手に傘はなかった。
自転車を押して帰る気にはなれなくて、駐輪場に停めて、近くのコンビニでビニール傘を購入した。
自宅まであと二十分くらいのところまで歩いてきた。
半透明の小間に落ちてくる雨粒は絶え間なく、鳴らす音は喧しく煩わしい。
濡れたアスファルトに、雨の波紋と歪んだ私が映る。色彩に富んだはずの住宅街ですら、今は精彩を欠いたくすんだ色に見える。
立ち止まって見渡してみても、私以外の人はいない。雨のせいか、それとも時間帯のせいなのかはわからない。傾斜に従い、流れてくる雨水が靴の中に沁み込んでくる。水気を含んだ感触に顔をしかめてしまう。
新地区の入り口であるS字カーブに、体力が容赦なく奪われていく。荒くなる呼吸を整えようと足を止めて、町のほうを眺めると遥か先に青空が広がりつつある。
どうやら雨は一時的なもので、しばらくすれば購入したばかりのビニール傘もお役御免になるようだ。
しかし明るい空から差す後光に、意識を向けたのがいけなかった。
蓋をして考えないようにしていたことが、ここぞとばかりに膨らんでいく。
裕太が帰ってきた、これはどういう意味なのだろうか。早希も人から伝い聞いた話だったため、詳細を知らなかった。言葉どおりに捉えるのなら、数年間行方不明だった裕太が帰ってきたことになるが、その可能性はほとんどないと思う。もし帰ってきたのが事実であれば、それこそもっと大騒ぎになっている。
だとすれば……。そこで考えるのをやめることにした。いくつか拾った可能性の欠片はどれも鋭く、集めるだけで私の心を傷つけていく。下手をすれば怪我ではすまない。
足裏で雨水を強めに跳ねていく。
最後の角を曲がり、残りは自宅まで直進するだけだ。
しかしまたもや止まることになった。
数十メートル前方に誰かがいることに気がついた。小さくてはっきりとは見えないが、人であることは判別できる。
人がいてもなんら不思議なことではなく、足を止める理由にはならない。それが自宅の前でなければだ。
私に来客というのは考えにくい、母の知り合いなのだろうか。
しかし近づいていくほど疑問が深まっていく。
水玉模様の淡い水色をした傘と、深緑色をしたやや大きいサイズの傘。
一見すると男女の組み合わせを思わせるが、さらに近づくとそれは思い込みで、ふたりの女性だということがわかった。
どちらもまだ私には気がついておらず、門扉の前でわが家を見ている。
「なにかご用ですか」
私の問いかけに反応して、二つの傘がくるりとまわる。驚いたことに振り向いた姿には見覚えがあった。
喫茶店で見かけた女性たちだ。
「時田さんですか?」
後ろに結んだ髪と幼さの残る顔が動く。やわらかくやや高めの声色、それらが彼女が歳下なのだと教えてくれる。
「そうですが、どのようなご用件でしょうか」
警戒しているのが伝わったのか、女性は優しく微笑んだ。
「はじめまして、自己紹介が遅れました。私は藤戸樹里といいます。こちらは上司の逢坂宮乃です」
藤戸と名乗った女性とは違い、逢坂と紹介された女性は、成人女性の平均的な身長を超えている私よりも背が高く、切れ長の目でこちらを真っすぐに捉えている。
「実は私たち、お母さまの時田智恵さんに預けているものを受け取りにきたんです」
「そうなのですか。申し訳ありません、母は昨年……」
それだけで事情を察したのだろう、「お悔やみ申し上げます」とふたりは頭を下げた。
母はこの辺り一帯だけでなく、こんな若い人たちからも物品を預かっていたのか。
「ありがとうございます。それでお預かりしているのはどういったものでしょうか」
目録を見ればわかることだが、念のために訊ねることにした。
「これくらいの大きさの書物と小さな石で、木箱に入っているはずなんです」
傘を器用に肩と首で固定して、両手で説明する藤戸さんは、やはり愛嬌があり会ったばかりだが親しみやすい印象だ。その斜め後ろにいる逢坂さんは、視線を私から家へと移しており、まだ一言も言葉を発していない。
「わかりました。わかると思いますのでしばらくお待ちいただけますか? こんなところではなんですのでお上がりください」
「ありがとうございます」
傘立てに自分の傘を入れて、後ろで控えるふたりにも視線で促した。
鍵を差し込みまわして、開錠したのを確認してから、ドアノブを動かして扉を開いていく。中へ入り、手を伸ばしてすぐに明かりを点けた。
「狭いところですがどうぞ」
「お邪魔します」
藤戸さんは笑顔を絶やさず、逢坂さんは対照的に無表情だ。手には傘をもっていない、傘立てに入れてくれたのだろう。
客間に案内するために歩き出すと「宮乃さん?」と声が聞こえた。振り返ると逢坂さんが入ってきたままの体勢で私を見つめている。
「あの、なにか」
「……いえ、失礼しました」
気にはなるがその場で問いかけるよりも、先に案内するほうがいいだろう。
客間にふたりを案内して、廊下へ出てから聞こえないように小さくため息を吐いた。多少なりとも雨に濡れたせいか、身体がずいぶんと冷えてしまっている。
早く用事を済ませて、温かい湯船にでも浸かって心身ともに休めたい。
そのまま浴室に向かいたい気持ちを抑えて、奥の部屋へと急ぐ。
窓はなく体感温度が低い室内で、手を温めながら母特製の目録に目を通していく。
おそらくここ二、三年の間。
ふたりの年齢からおおよその時期を推測して、後ろのページから名前と日付を確認する。
「あった」
律儀に定規を使って作成された表。名前は逢坂宮乃。日付は昨年、母が亡くなる一ヶ月ほど前だ。そこから先に名前はない、つまりはあのふたりが最後の訪問客といえる。
「品目は書かれてないか」
どういったものなのか記載されていないが、事前に聞いているうえに実物があるのだから問題はない。
整理をするつもりで何度かこの部屋にも入ったが、どうにも落ち着かず、結局なにも手つかずのままで終わっているため、動くと埃が舞う。
目的のものが収まっている抽斗を開いて、目を疑った。
抽斗の中は空だった。
まさか、という思いとともに冷たいものが背中を伝う。
場所を間違えた?
目録のノートをもう一度見直すが、記載してある場所と探している場所に間違いはない。
お母さんが別の場所に移動させた?
焦りはあるがなるべく慎重に、品物をひとつずつ確認していくが、この部屋にはないという事実が突き付けられただけだった。謝って済む問題ではないが、まだ家のどこかにある可能性は捨てきれない。
冷やされた身体がずしりと重く、寒気で肌が粟立っていく。
風邪をひいたのかも。
直面している問題をどうするべきか考えようとしても、脳は身体が発する危険信号を優先する。
逢坂さんたちから預かったものを探さないと。
ああ、寒い。探し物なんてどうだっていいじゃない。
ううん違う、ずいぶん待たせているのだから、先に事情を説明しにいかなくちゃ。
ああ、寒くて凍えてしまいそう。どうして私ばかりつらい思いをしなくてはならないのよ。
違うったら、早くここから出ていかないと。
藤戸さんたちのところへ戻ろうしているのに、自分の内なる声が囁いてくる。どうしてだか聞いているだけで心地よく、身を委ねてしまいそうになる。
その場に座って棚に身体を預けると、不思議と暖かくて穏やかなまどろみに包まれる。
ああ、冷たい。ほんの少しだけ眠りましょう。
抗うことはできず、仰向けに転がる。
正面には丸形の電灯が室内を照らしている、その下でまぶたが閉じていく。ふいに部屋の入り口から音がして風が吹いた気がしたが、もう確認する気力はなかった。
「大丈夫ですか?」
様子を見にきた逢坂さんの肩を借りて、客間に戻ると藤戸さんがすぐさま寄ってきて声をかけてくれた。
「はい、大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
「そんなのいいんです、でもよかったぁ」
崩れた口調に安堵した表情、そして直後にみせた笑顔、すべてに人の好さが滲みでている。こちらが本来の藤戸さんなのかもしれない。
「逢坂さん、ありがとうございました」
「いいのよ、気にしないで」
申し訳なさと恥ずかしさでまともに見られないが、この出来事が彼女たちとの距離を縮めたようだった。不思議と悪い気はしない。
「あの、謝らなければいけないことがあります」
藤戸さんが小首を傾げた。
「預けていたものがなかったのね?」
こちらの心情を見透かした、そんな鋭い声。子どものころ、親に悪さが露見して怒られた時みたいに身体が強張り、言い訳ひとつできなかった。
「宮乃さん」
「ええ、家の中に入ってはっきりしたわ。もうここにはない」
ここにはない?
「待ってください、まだほかの部屋を探しては」
「心配しないで、怒っているわけじゃないの。でもここにはない」
被せるように告げられた言葉は強く、明確な意思をあらわしている。『どうしてわかるのか』という疑問が割り込む隙はない。
逢坂さんが誰かと通話をはじめると、藤戸さんが私に名刺を差し出した。
「逢坂調査事務所」
「はい、といっても私と宮乃さんしかいませんけどね。もしなにかわかったら連絡をお願いします」
そして短い通話を終えた逢坂さんが、藤戸さんへと目配せをする。
「長居をしてごめんなさい、私たちはこれで失礼しますね」
引き留める暇もなく、玄関へと向かうふたりを追いかける。
「あの、どういうことなんですか?」
「ごめんなさい、今は詳しいことをお話しできないんです」
なにも教えてもらえず困惑はますます深まるばかりで、苛立ちすら覚えてしまいそうになる。
「それじゃあ、これで」
せめて門扉まで見送ろうと外へと出る。去り際、逢坂さんたちは振り返ったが、私ではなく家に視線を向けていた。
