「私が嫌いな町」第6話


 足にまとわりつく土や草花、行く手を遮る木々。同時に走り出したはずなのに、ほかの子の姿はどこにもない。水の中を進むように両手でかき分けるけど、木々の幹や細く研がれた草が全身を傷つけていく。
 はあ、はあ、と荒く不規則な呼吸に胸やお腹が痛む。
 はやく、はやく逃げなきゃ! に追いつかれちゃう!
 西田くん、多ノ元くん、ゆうた、りのちゃん、みんなどこにいったの?
 いやだよ、こわいよ……お母さん!

 シャワーヘッドからの温水が、冷えきった心身を温めていく。
 短い睡眠の中で夢を見た。
 あれは確か、モリガミサンの家を探検しに行った時のことだ。
 モリガミサン――幼いころからことあるごとに耳にした、この辺り一帯に伝わる都市伝説。全国的に有名なものでいえば、口裂け女やメリーさんなどだが、モリガミサンはこの地域でしか聞いたことがない。
 だけど具体的な謂れいわなどは、一切不明だ。小さな子には言うことを聞かない、もしくはいい子にしていないと、どこかへと連れて行かれると親から聞かされる。少し年齢を重ねると、さらに噂は尾ひれをつけてより身近なものになる。夜道で後ろから音もなく近づいてくる、自ら近づいてしまうとその人間に不幸をもたらすなど。
 妖怪、怪異、幽霊、実は人間だなんてパターンもあるが、誰も実際には遭遇したことがない、ありきたりなオカルトめいた噂。
 まだ私たちが小学生のころ、一度だけモリガミサンの家と思わしき、町外れの山林へ探検に行ったことがあった。
 発起人は当時教室の中心的人物だった西田くんだ。

「モリガミサンの家を見つけた」

 昼休み、担任がいなくなると同時に西田くんは大声でそう叫んだ。

「ええー、うそだー」
「本当かよ」

 みんなから疑われていることなど気にもせず、彼は見つけた場所がモリガミサンの家であることを熱心に説明しはじめた。

「本当だって。だって山の中にさ、ぽつんと一軒だけ家があったんだよ。あれ、絶対モリガミサンの家だって」

 教室中がざわめき、クラスメイトたちが注目している。

「おれ、学校が終わってから探検に行こうと思っているんだ。一緒に行きたい人はいるか?」

 片隅から小さな悲鳴があがった。女子のひとりが泣き出したのだ。そこからは騒ぎが大きくなったこともあり、結局は私を含めた五人で行くことになった。
 その時のことはあまり憶えていない。町外れの山林に入っていったこと、西田くんの証言どおりに家があったこと、なにかから追われるように逃げ帰ったことは憶えている。
 その後、両親はもちろん、担任や町内会をしている人たちからもお叱りを受けた。そのこともあってか、探検に行った私たち五人は疎遠になっていった。
 結局モリガミサンはおろか、あの家に誰が住んでいるのかすら、今になってもわかっていない。ただ逃げている時に感じた恐怖は本物で、だからこそ私は思い出そうとも思わなかった。

 自転車に跨り、前輪ブレーキを調整しながらS字のカーブを曲がっていく。坂の上や自宅からの眺めはそれなりのものだが、生活をするとなると想像以上に不便なものだ。
 ブレーキを握る手や、アスファルトを滑り小刻みに振動する自転車、鼻腔から肺に流れ込む鋭い冬の空気。現実で感じるものが確かであるほど、先ほどまでの夢が遠い過去だと実感することができる。
 S字カーブの麓は大きな車道と合流するようになっており、さらに下り坂がしばらく続く。周囲はただの住宅街であり、そこを過ぎるとようやく平坦な道が見えてくる。その先にあるアーケードの商店街が、近隣住民の生活の要となっている新町商店街だ。
 それ以外にも離れた場所に、チェーン展開している大手スーパーなどもあるが、この地区の人々はこぞって商店街を利用する。そのためか私が帰郷した時点で、存在していたスーパーのひとつは閉店してしまった。
 できれば利用したくはないが、車を所持していないため、買いだめをするのにも限界がある。母の葬儀後、なんとか備蓄していたもので生活を続けてきたが、とうとう利用することになった。
 タイル調の歩道が奥へとずっと伸びており、精肉店や青果店、生花店に洋菓子店、喫茶店など昔ながらの小売店が軒を連ねている。
 本当に変わっていない。
 漂う雰囲気や匂い、喧噪までもが学生だったころと同じで、この場所だけが時間の流れから切り離されているようだ。

「いらっしゃい、今日はお買い得だよ」

 道に沿って進めば、そのたびに聞き覚えのある売り文句が飛んでくる。
 目的のものを売っている店舗だけを目指し、なるべくショーケースや店員を見ないようにして必要なものを購入していく。
 前方を歩いている人を追い越して、すれ違う人をぎりぎりで避けていく。商店街の終わりが見えて気がゆるめたのがいけなかった。横道から突然自転車が飛び出してきたのだ。無理やり身体を捩じり衝突こそしなかったが、足首に予想外の負荷がかかり、痺れるような痛みが突き抜けた。
 原因である自転車に跨っていた中年の男性は、こちらを見ることもせずに去っていった。
 もう、最悪。捻挫したかも。
 痛む足はどうにもできそうにない。
 なんとか商店街横にある小規模の広場まで歩き、荷物を地面に置いて腰を下ろした。
 広場にアーケードはなく、寒々とした青空が広がっている。申し訳程度の遊具で幼子たちが声を上げて遊んでいる。そばにいる親らしき人たちは話をするのに夢中だ。近くのベンチでは老人たちが鳩や雀に餌を与えており、商店街の天盤付近に設置されたスピーカーからは、昔の歌謡曲が流れている。
 これ、お父さんが好きだった曲。
 郷里を離れる子どもを案じる、親の心情を描いた歌詞が共感を呼び、賞を獲ったこともあるのだとか。

「おお、希実は上手だなあ」

 テレビの歌番組でこの曲が流れるたびに歌ったものだ。歌詞の意味やメロディなど気にもせずに唄う私を父はよく褒めてくれた。

「将来は歌手も夢じゃないぞ」
「あなた、希実が本気になったらどうするの」
「いいじゃないか、父さんは応援するぞ」

 そんなやりとりも両親の笑顔も大好きだった。
 思い出すだけで、ほのかに胸の内が温かくなってくる。
 この商店街も父とよくきたものだ。
 昔のことすぎて鮮明ではない記憶だが、父は「欲しいものはないか」「こんなものがあるぞ」など、店の前を通るたびに聞いてくれた。つないだ手が温かく力強くて、優しい表情をした父と歩いたこの場所は、楽しい思い出の欠片が散らばっている。
 それなのにいつからだろうか、こんなにも苦痛を感じるようになったのは。
 この町が好きな父とこの町が嫌いな母、両極端な両親のもとで育った私はこの町を好きにはなれなかった。
 いや違う、ほんの幼いころは好きだった。嫌いになっていったのだ。

「おや、もしかしてあんた、希実ちゃんかい?」
「お久しぶりです。ええと、総菜屋の」
「そうそう、久しぶりだねえ」

 しまったと、思ったがもう遅い。
 エプロンをかけた総菜屋のおじさんが、にこやかに笑って立っている。
 背の高い印象だったが、加齢の影響か腰が少し曲がっている。長年高温の油にさらされた武骨な両手は昔と変わらない。買い物をするたびに、その手から小さなお菓子を受け取ったものだ。

「噂には聞いていたけど、本当に帰ってきたんだね」

 おそらくおじさんの言葉に深い意味はなく、純粋に私が戻ってきたことを喜んでくれているのだろう。しかし、感慨深そうにしているおじさんとは違い、私の心は黒く冷えていく。

「時田さんのことはなんと言えばいいのか……希実ちゃん、なにか困ったことがあれば町内会長さんや町の人たちに言うんだよ」
「はい……ありがとうございます」

 最近、この辺りが『人情味にあふれる下町』と地方紙に掲載されたらしい。
 人情に厚い。それは間違いではなく、困っていれば手を差し伸べてくれることは知っている。
 そう、この町のである限りは。

「そうだ、中山さんのところのお嬢さんには会ったのかい?」

 早希のことだ。

「ええ、弔問にきてくれました」
「そうかいそうかい」
「ごめんなさい、ほかにも寄らなきゃいけないところがあるので」

 口からでまかせだ、すでに用事や買い物は終えている。
 おじさんは「またおいでよ」と最後まで笑顔を崩さなかった。
 だけどこれ以上会話を続けたくなかった。
 さもこちらの道に用事があると、足の痛みを我慢してわざと商店街を迂回して離れていく。
 人情に厚い? 町の人たちが助けてくれる? 冗談じゃない、それが嫌だからこの町を離れたのだ。

 デジタル式置時計の数字が、静かに新年のはじまりを教えてくれた。

「明けましておめでとう」

 仏間にあるふたつの遺影へと声をかけた。
 ここ数年はひとりで寂しい年末年始を過ごしてきた。それなのにこの家で感じる寂しさは、その時とは比べものにならないくらい大きい。

「明けましておめでとう。母さん、希実」
「明けましておめでとう。お父さん、希実」

 炬燵こたつを三人で囲い、笑い合うことはもうできない。仕事を生きがいとしてきた私に残っているものはなんだろうと思う。
 恋人がいたことはある。けれど雑踏にかき消される足音のように、気がつけばひとりになっていた。もし関係が続いていれば、この家に連れてくることがあったのだろうか。
 父のみならず母からもそんなことを訊ねられたことはない。
 私は誰かに寄り添って生きていくことよりも、ひとりのほうが性に合っている。きっと両親もそういった部分を見抜いていたのだろう。
 つくづく与えられてばかりの親不孝な人間だと思う。せめてこの家だけは守っていきたいが、不安がないといえば嘘になる。
 この町はどんなこともまたたく間に広まっていく。町中から声援や称賛が与えられることもあれば、罵倒や蔑みが与えられることもある。常に誰かが監視をして、探りあっている。
 助け合いという善意の押しつけをしながら、一方で悪意の種を探している。
 それを顕著にあらわしているのが、新地区と旧地区の関係だ。新たな住民を歓迎すると謳っておきながら、町に馴染まず順応しないものには冷ややかな感情を向ける。
 そのせいか、新地区の住民はもう七割ほどしか残っていないようだ。私だって父や早希がいなければきっとそうなっていただろう。

「あれ、もう冷めてる」

 居間へ戻るとテーブルに置いていた淹れたばかりのお茶が、すっかり冷めてしまっている。
 この家に戻ってからというもの、たまにおかしなことが起こる。最初は母が亡くなってすぐに起きた。

「ただいま」

 各種手続きのために役場へと行ったのだが、思いのほか手続きに時間がかかってしまい、疲れを背負いながら居間に入り、足を止めた。
 違う。
 自分が知っている居間とはなにかが違うと、はっきりとそう感じた。感覚を研ぎ澄まして、室内を慎重に探るが、違和感の原因はわからなかった。
 それだけではなく、寝室にいると離れた場所から人の気配がすることや、なんの前触れもなく室内の空気が、がらりと変わることを感じたこともある。
 霊感などといったものはない。しかし一度だけ不思議なものを見たことがある。
 あれは四、五歳のころだっただろうか。辺りは夕闇に浸かり、一定の間隔にある街灯がいやに白く光って見えた。
 いつもならば私の歩幅に合わせる母が、ひどく焦りつながれた手が痛かった覚えがある。
 そしてもうすぐわが家だという時に、明かりの下に初めて見るものがあった。それは腕らしきものを上げて揺れる人影。どちらが前か後ろかも定かではなく、光の中でゆらゆらと揺れていた。

「おかあさん、あれはなに?」
「あれはよくないものよ。見てはダメ、まぶたを閉じて歩きなさい」

 その時に見た母の顔は、驚いているようにも怒っているようにも見えた。あの影を目撃したのはそれが最後だ。
 母にオカルトめいた知識があったとは到底思えない。実直で現実的であり、厳しくも家族をこよなく愛していた。それが私の知っている母だ。
 ただ疲れているだけよ。
 一度は離れた、いや、捨てた場所へと戻り、再び生活をしているのだ。神経を使うことが多くて疲れているだけだ。
 布団に横たわっていると、心地よい眠気にだんだんとまぶたが重くなっていった。

 薄い暗闇が広がっている。
 ああ、朝だ。
 寝る前にカーテンを閉めることを忘れていたのかと、腕を動かそうとして気がついた。
 力を込めている感覚はあるが、腕どころか指一本も動かせない。
 疲れが蓄積して金縛りにでもなっているのだろうか。どこかで金縛りは脳が覚醒しているのに、身体は眠っている状態だと聞いたことがある。
 驚くほど冷静に自分の置かれた状況について考えることができている。もしこれが子どものころなら恐れおののいていたことだろう。
 いくつかの選択肢はあるが、おとなしくなるがままに任せることを選んだ。
 プツッ、とテレビの画面が切り替わる一瞬のように、視界が黒に染まった後自宅の廊下に立っていた。
 どうやら眠ったままの状態で、意識だけがそちらにあるようだ。
 前方にある玄関扉は開かれており、不自然な白い光が家の中を照らしている。
 するとその光の中に人影があらわれた。
 誰なのだろうか、状況がわからない。
 人影は立ち尽くしているだけなのだが、しばらくすると横からもう一体あらわれた。さらに上下問わずどんどんと増えていく。もはや原型がわからなくなるほど密集した影たちは、隙間を埋めるほど膨らんでいる。
 だが不思議とそれに恐怖も不安も感じない。
 ズルリ。
 聞こえたわけではない、なにかが動く気配を感覚が捉えたのだ。
 ズルリ、ズルリ。
 私の視線は依然として影の塊に向いている。
 後ろだ。背後から私に近づいてきている。
 ズルリ、ズズズズ。
 いけない。これはものだ。
 気配が近づくたびに、冷えた痛みが胸の中心から神経を伝い、全身へと広がっていく。
 ズルリ、ズルリ……ザザザザザザザザ。
 いる……真後ろに。

「やめて!」

 自分が発した声にまぶたを開くと、映り込んだのは寝室の天井。視線が慌ただしく彷徨う。身体が揺れていると錯覚してしまうほどの鼓動が、静まるのを待ってから上半身を起こした。
 布団におさまっていたはずの手足が冷えきっている。
 できればこの場に留まっていたい、だけどどうしても確認しなければいけないことがある。
 立ち上がり踏み出した一歩目は、よろけて真っすぐに進めなかった。
 足に力が入らない。
 両手で太ももを叩き、自分を鼓舞して前を見据える。伸ばせばすぐに寝室の扉へと手が届く。すぅっと息を吸い、一気に扉を開く。
 廊下からの冷気と寝室の暖気が、私を中心にして混ざり合っていく。
 そのまま身体の向きを変えると、玄関が見える位置だ。
 きっと大丈夫よ。
 夢なのか幻覚だったのか。脳が記憶した映像を鮮明に再生する。
 下唇を強く噛み、痛みをきっかけに向きを変えた。
 はたしてそこには膨れ上がった影の塊も、不自然な白い光もなく、閉じたままの玄関扉と、私の靴がぽつねんとあるだけだった。
 当たり前の光景に思わず笑みが浮かんでくる。
 ばかみたい、あんなもの現実であるはずがないじゃない。夢よ、ただの夢。我ながら情けない。そうだ、こんなことに時間を費やしている場合じゃない。
 外出の準備をするために、洗面所を目指そうとして後ろを振り向いたときだった。
 ズルリ。
 そう聞こえた気がした。しかしどこにもそんな音を鳴らすものは見当たらない。
 これは耳が描いた音、単なる空耳よ。
 だけどまた映像が浮かぶ。そして気がついた。
 どうしてあの音は家の中――私の背《﹅》後《﹅》から聞こえたのか。



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