「私が嫌いな町」第4話
「私、この町を出ていく」
高校卒業後の進路の話し合いで希実ははっきりとそう告げた。
「どうしてもか?」
「うん」
孝文さんは希実がこの町から離れることに反対をしている、ここで就職や結婚をして死ぬまでこの町にいればいい、とまで言い張っている始末だ。
「お母さんはいいと思う」
長年住んできたがこの町は閉鎖的で息苦しく、さながら監獄のように思えてならない。もしかすると彼女も思うところがあるのかもしれない。なによりも私のようにはなってほしくはない。私はこの町に閉じ込められて、離れることも逃げることも選択できずに、これからもずっとここで生活をしていくしかないのだから。
そして宣言どおり、高校を卒業するとすぐに旅立っていった。広くなった家での夫婦生活は、想像したよりも退屈なものでしかなかった。白髪が目立つようになってきた孝文さんはこの土地に馴染み、溶け込み、いまではすっかり町の一員だ。
「いつかは希実もこの町に戻ってくるさ。きみもそう思うだろう?」
ことあるごとに町のよさを口にする孝文さんに、正直なところ閉口してしまう。私は昔よりもずっと孤独を感じるようになっていた。家族を支えて守り抜いてきた、そんな私に残ったものはなんなのだろう。どうしてこうなってしまったのか、最近ではそんなことばかり考えてしまう。
家事を終えてすることがなくなり、リビングから窓越しの景色をぼんやりと眺めていると、突然感覚に触れるものがあった。
なにかしら。
室内を見回してみるものの、これといって変化のあるものはない。
違う、そういうものじゃないわ。
まぶたを閉じて、神経を尖らせる。
空気の質が違う、澱んでいるみたいな。
つい先ほど窓を開け放ち、掃除をしたばかりだ。室内に空気が滞留しているとは考えにくい。それなのに、長年閉め切り放置したような不快さを感じる。
もう一度換気をしようと立ち上がった時だった。
ズ、ズズ
音?
床をなにかが擦るような音が聞こえた気がして、私は動きを止めた。
ズ、ズ、ズ。
これは、この感覚は……。
ズ、ズズズ。
私の口から声にならない悲鳴が飛び出す。はっきりと感じ、認識をしてしまった。
どう、して?
呼吸が乱れていく、吸って、吐いて、吸って吸って吸って。ヒュー、ヒュー、と喉が鳴る。どれだけ息を吸い込もうとしても肺が膨らまない。ヒュー、ヒュー、汗が滝のように流れ落ちる。
息が、できない。誰か……。
意識が虚ろになっていき、全身をしたたかに打つ衝撃とともにすべてが黒くなった。
私はなぜだか、暗い廊下に立ったままで玄関を見つめている。それをわかっているのか、玄関扉がひとりでに少しずつ開いていく。その隙間から眩しい光が差してくる。光の帯は大きく太くなっていき、私の手がそれを掴もうと勝手に伸びていく。
しかしその光は人影に遮られる。人影は動くこともせずにその場に佇んでいる。すると影がもう一体あらわれた。影と影は合わさり、膨らんでいく。さらにもう一体、もう一体とあらわれては膨らんでいく。やがて、光をすべて飲み込むほどに膨らんだ黒い塊は奇妙に蠢きはじめる。
ズルリ。
影へ意識を向けていると背後から、あの音が聞こえた。
ズズズ、ズルリ。
近づいてくる。
ズルリズルリ、ズズズ。
この家にいるはずがない、存在していいはずがない。
逃げなければ、と頭の中で警鐘がけたたましく鳴っている。しかし身体は私の意思を反映しない。
ふいにまた意識が途切れて、目覚めると今度は布団の中にいた。全身が汗で濡れており、額から伝う水滴がポタリと落ちる。両手は震え動悸が止まらない。胃酸が逆流して、口内に苦く酸っぱいものが溜まる。慌てて口を抑えてトイレへと駆け出した。何度も吐き出していると扉が外から叩かれる。
「智恵! 大丈夫か!?」
孝文さんの声だ。返事をしようにも激しく嘔吐をしたためか、うまく力が入らない。
「だ、大丈夫」
「ぼくはここにいるから!」
彼の声に、ぐちゃぐちゃになっていた意識がまとまっていく。
たっぷり時間をかけてトイレから出ると、すぐさま彼が肩を貸してくれた。よろよろと寝室へ戻り感謝を伝えた。
「帰ってきたらリビングで智恵が倒れているもんだから、びっくりしたよ」
「迷惑をかけてごめんなさい、ありがとう」
「そんなことはいいんだ、それよりも病院へ行かなくてもいいのかい?」
嘔吐を繰り返していたことに気がついた孝文さんは、トイレから出た私を見てすぐに緊急通報をしようとした。だけどそれを拒んだために、寝室まで連れてきてくれたのだ。
彼が眠るのを待って上半身を起こす。そして奥底に眠った記憶から、埋もれた古びた欠片を探し出す。
「打ち消し合って中立の領域を」
これは誰の言葉だったのか。
そうだ、先生だ。
夏祭り以降だから、もうかれこれ十年以上会っていない。希実が探検に行った時も、先生からの連絡はなかった。色々と思い出しているうちに、強烈に浮かぶイメージがあった、それは先生から預かった木箱だ。
孝文さんを起こさないように足音を忍ばせて、奥の部屋へと向かう。入り口を開いて室内に入ると、自然とその場所で足が止まる。
「強い浄化の力が込められています」
先生はそう話していたはずだ、それじゃあ木箱から漂うこの不穏なものはいったいなんだというのか。
でも間違いない、この木箱が原因。
なにかしらの理由でバランスが崩れてしまい、あれらが目覚め出したのだ。
迷っている時間はない。
「大丈夫?」
「ええ、もう平気だから安心して」
翌日の朝。不安そうな表情を浮かべる孝文さんを送り出した後、おぼろげな記憶を頼りに先生の家へと向かうことにした。
数十年経っても変わらない景色を眺める余裕もなく、想像以上の時間をかけて、迷うことなくどうにか先生の家へとたどり着いた。そして乱れた呼吸を整えることもせずに玄関扉を叩く。
「ごめんください、先生! いらっしゃいませんか!」
静まりかえった特有の空間、玄関扉は施錠されており、縁側の雨戸もすべて閉められている。
幾日も時間の許す限り、声が枯れるほど呼び続けたが一度も先生との再会は叶わない。
その間も家の中での異変は起き続けている。時間が経つごとに、家も心も不穏なものに侵食されていくようでまともではいられない。
精神的な不調が影響したのか、思うように身体を動かせない日が多くなり、心配した孝文さんが病院へ連れて行ってくれたが、これといった病名はつかなかった。
「いつぐらいからかな、音が聞こえるんだよ。床をなにかが擦るような音。歳のだろうね、きみが心配するだろうからずっと黙っていたんだ」
ある日の夜、孝文さんが眠る前に突然告げてきた。
「夢をね、見るんだよ。恐ろしいものが出てくる夢。最初は距離があったんだけどね、最近じゃあすぐそばにいるんだ。もうすぐそれに捕まってしまうってわかるんだ、おかしいだろう?」
すっかりとやせ細ってしまった孝文さんが、私の手を握り力なく笑った。
翌朝、孝文さんは冷たくなっていた。
もはやなにかをする気など起きなかった。
数十年間、積み重ねた思い出がぼんやりとした頭の中を巡る。
「お母さん」
孝文さんの遺品を整理するために希実が帰ってきてくれている。私を励まそうと必死になって自分の話をしてくれる。仕事がうまくいった、些細なミスで怒られた、いい人が見つかったけれどすぐに別れたなど、努めて明るく振舞ってくれている。どうやら生活のほうはなんとかやれているようだ。
気遣いに感謝しつつ、成長した姿を目に焼きつける。仕事が大変なのか、目の下には薄っすらと隈ができており、ずいぶんと疲れた印象を受けた。
「あなた、ご飯はしっかりと食べているの?」
「三食きっちりちゃんと食べてます」
遺品整理の大半は希実が率先して進めてくれている。私ではどうしても、孝文さんのものを一つひとつじっくりと眺めてしまう。
「お母さんこそ大丈夫?」
「私の心配ができるようになったのね」
冗談を言うことで希実の心配を受け流した。そうでもしなければあのことを話してしまいそうになるからだ。
「ねえ、お母さん」
「なあに」
「私さ、家に戻ってもいいんだよ?」
段ボールに遺品を入れる手が止まる。
大人になった希実とふたりで、これからを穏やかに生きていく。それが叶うのならばどんなにいいだろう。だけど叶えてはいけない。この家はもう安全ではないのだ。
もし私までいなくなったら、希実はどうするのだろう。
きっとこの家に、この町に戻ってくる。
「もし私もいなくなった時はこの家を手放しなさい」
希実から返事はなかった。それでも何度も言葉にして伝えた。
本当の意味での孤独な日々がはじまった。もう泣き言をもらしている暇はない。私はさまざまな手段を利用して、先生に代わる霊能者を探すことにした。しかしテレビや雑誌で有名な霊能者にはまともに相手をされず、運よく相談できても高額な報酬を求められた。あとは霊能者を語る偽者だらけだった。
徐々に悪くなっていく体調をごまかして、探し続けた私の前には希実よりも若い女性が座っている。どのような経緯でこうなったのかは、必死すぎたのかよく憶えていない。
ともあれ女性に事情を説明すると、「実物を見せていただけませんか」と奥の部屋がある方角を向いた。
その様子からもしやと淡い期待を抱き、奥の部屋から木箱を持ってきた。
女性は木箱を見るなり、端整な顔に深いシワを刻む。
「これは人々の念や澱み、恨みや憎しみといった穢れが年月をかけて蓄えられたものであり、このままでは不幸が訪れる。そしてこれを清めるには特定の場所で、ある手順に沿って相応の時間が必要となります」
私の肩に落胆がのしかかる。これまでも同じようなことを言葉にしたものは数知れない。次に出てくる言葉は「費用がかかります」だろう。
「この木箱はお預かりしてもよろしいでしょうか? 代わりというわけではありませんが、これをお渡しします」
女性が差し出したのは数珠とお札らしきもの、数珠は高価な品だとひと目でわかるものだ。
「これは浄化の力が込められたものです」
今どんな表情をしているのだろう。
「この木箱は私が責任をもって清めます」
信じてもいいのだろうか。答えを出せないでいる私を凛とした目が捉えている。
「この家はあなたが、お母さまが守ってこられたのでしょう」
労いの言葉など先生以外では初めてのことだ。胸に温かいものが灯り、脳裏に希実の姿が浮かんでくる。
私は女性を信じることに決めて、力強く頷いた。そして机に置いてある名刺へとようやく視線を向けた。
『逢坂調査事務所 所長・逢坂宮乃』
「逢坂さん。あの、いかほど包めばよろしいのでしょうか」
失礼極まりない言動であることは承知している、しかし逢坂さんは動じずに木箱を丁寧に鞄へと仕舞いこみ、そして立ち上がった。
「必要ありません。もしそれでは気がすまないと仰るのであれば、交通費だけ頂戴します」
逢坂さんにたどり着くまでの間に、多額の費用を捻出しており、これ以上は孝文さんが残してくれたお金に手をつけてしまうことになる。申し訳なさを感じながらその申し出を受けることにした。
「今年中にはお返しにまいります」
そして逢坂さんが再び訪ねてきたのは、残暑もずいぶんとマシになったころだった。
これまでもあの音は何度となく聞こえ、夢にうなされることもあった。しかしそれは数えるほどであり、その都度家の中が温かなもので包み込まれるのを感じることがあった。
「お待たせしてしまい申し訳ありません、これはお返しします」
数ヶ月ぶりに見る木箱は、外観こそ変わりはないが纏う雰囲気は別物だった。木箱があるだけでこの場が清められる、そう感じられるほどだ。
私も預かっていた数珠とお札、そしてわずかばかりの気持ちを込めたものを渡した。
「ありがとうございます。これで安心して暮らせます」
安堵していると、逢坂さんの顔がほんの少しこわばった気がした。
「どうかされましたか?」
「いえ、気のせいだったようです。ところでこの木箱はどこで手に入れたものですか」
「……申し訳ありませんがそれはお答えできません」
「わかりました、またなにかあればご連絡ください」
肝心なところで砂をかけたのに、逢坂さんはわずかに微笑んで去っていった。
それから一ヶ月ばかりが経った。
「ただいま」
出迎えてくれる人もいなければ、「おかえり」と返ってくることもない。手に持った買い物袋を、わざと揺らすように腕を振ると、ガサガサとした音が廊下に虚しく響く。
吐息を洩らしリビングの扉を開けて、足を踏み入れようとして止めた。
なにかが違う気がする。
はっきりとではない、うっすらと感じるのだ。
入念に室内の隅々まで観察するのだが、どうにもわからない。もしや、といやな予感がしたのだがどうやらそうではないらしい。
誰か、人がいた?
「空き巣、とか」
口に出して自分が置かれている状況に緊張が走る。扉の裏に身を隠して、買い物袋を床へそっと置き、息を殺す。五分、十分とそのままの体勢でいたのだが、物音ひとつ聞こえてこない。慎重に歩を進めて、まず向かったのは貴重品や金品を保管してある場所だった。
「よかった、なにも盗られていない」
続いて閉じてあるカーテンの裾を、覗き込むように開いて施錠を確認する。強引にこじ開けた形跡などはない。ポケットに機種変更をしたばかりのスマートフォンをねじ込ませて、ゆっくりと動いていく。
近い場所から順番に確認していくも、どこも荒らされた形跡はなく、残ったのは奥の部屋だけになった。逢坂さんの一件以来、あの部屋の扉は閉じたままだ。
そっと扉に耳を当てるが、音も気配も感じられない。それでも緊張感や恐怖心は否が応にも高まっていく。
両手でドアノブをしっかりと握り、心の中で数字をカウントダウンして一気に開く。
開けたままの抽斗、床で乱雑に散らばる収集品の数々、荒らされているのは一目瞭然だ。
「……木箱」
なによりも先に確認しなければならないものがある。念には念を入れて、木箱は簡単には見つからないように隠してある。
それが功を奏したのだろう、木箱が手付かずのままだった。一気に力が抜けて床にへたり込んでしまった。その後目録と収集品を確認したのだが、なにも盗まれてはいなかった。
警察に連絡をしようかとも考えたが、騒ぎになることやこの部屋のこともあるので断念した。金品を盗らずに、奥の部屋だけを荒らした理由などわかるはずもなく、ただただ不可解さと気味の悪さが残された。
外出を控えるようにして三日目。
前日にマイホームを建てる前のことまで、振り返ってしまっていた。
そろそろ外出しても大丈夫よね。
そう判断して廊下に出ると、突然すさまじい耳鳴りが起こり、その場で蹲ったまま動けなくなった。耳を内側から突き刺すような鋭い音。その音にまぎれて別の音が聞こえる。
ズルリ。
ズズ、ズズズ。
「そんな」
木箱は清められたのだ、聞こえるはずがない。
ズルリ、ズルリ。
音は背後から近づいてくる。
逃げなければ。
しかし耳をつんざく雷鳴さながらの耳鳴りが、身体を縛りつける。
「またなにかあればご連絡ください」
うっすらと浮かぶ逢坂さんの微笑み。
電話を、あの人に……。
スマートフォンは蹲った拍子に落ちてしまい、少し離れた位置にある。
あの音は止んでいる、今のうちに。
懸命に手を伸ばすが、もう少しのところで届かない。
ズルリ。
足先を中心に広がる視界。
フローリングに反射しているモザイクがかった私の姿、そして腐肉と皮で構成された足らしきもの。
止んだのではない。
私のそばにたどり着いたのだ。
「希」
