「私が嫌いな町」第16話


 右足の骨折や擦り傷だけで済んだのは運がいい、と搬送先の医者は笑顔だった。後遺症の心配もなく、病室はすぐに個室から大人数部屋へと変更になった。

「具合はどうかしら」

 パイプ椅子に座っている逢坂さんが、カーテンに仕切られた心許ないプライバシーの中で訊ねてきた。

「右足以外は全身が少し痛むくらいです」
「そう、無事でなによりだわ」

 無事と言っていいのかはわからないが、逢坂さんらしくて少し笑ってしまった。
 どうやら車道に飛び出してしまったらしく、たまたま走行していた車に接触したらしい。信号機付近のため、徐行運転をしていたので助かったようだ。
 病院に搬送された時スマートフォンがロック状態だったため、誰にも連絡ができずに困っていたそうだが、タイミングよく逢坂さんからの着信があって現在の状況になっている。
 事故を知った逢坂さんが、入院の手続きなどを代理でおこなってくれたようだ。

「藤戸さんは」
「今日は別件の調査よ」
「お忙しいのにご迷惑をおかけしてすみません」
「気にしなくても大丈夫よ。それで樹里に聞いたのだけれど」

 目覚めて最初に面会にきてくれたのは藤戸さんで、無事であることを涙ぐんで喜んでくれた。

「自分が自分でなくて、まるで操られていたみたいでした」

 冷静に考えることができる今は、はっきりとわかる。私は私ではなかった。

「私ではなくて、私たち。そう感じていたのね?」
「はい」

 逢坂さんは顎に指を添えて、なにやら熟考をしている。

「やっぱりあの家は危険なんですね」
「正確にはあの一帯、言葉を借りるなら新地区がよ。元々あの一帯は穢れの依代にされていた、そしてあなたのお母様は守上家から木箱を預かった。その木箱の力で新地区は清められていた、そう考えるのが妥当なのだけれど」
「違うんですか?」

 ギシリとパイプ椅子が軋む。

「木箱の力は強力ではあるけれど、周辺一帯を清められるようなものではないはず。でも」
「でも?」
「現在に至るまで霊障らしきものはなかった。それは木箱を失った今でもよ。それなのにあなただけが狙ったかのように霊障に遭っている」

 嘘つき時田、そんな言葉がよみがえる。
 妄想、妄言、幻聴、幻覚。

「勘違いしないで。あなたに起こった霊障は本物よ」

 心が張り裂けるように痛い、声を抑えていても洩れてしまう。どうしようもなく痛くてつらいのに、淡々としている逢坂さんの言葉がどうしようもなく温かくて優しい。

「これからどうすれば……」

 病室の窓から空を眺めている逢坂さんに問いかける。

「私たちのところへ一時的に避難するか、早希さんだったかしら。彼女のところへ行ければいいのだけれど」
「すみません、私はあの家を離れるわけにはいきません」

 なにを言われても、どんなことがあってもあの家を離れるわけにはいかない。

「そう。私たちはこれからこちらを最優先で動くことにしたわ」
「ありがとうございます」

 就寝時にスマートフォンを確認しても早希からの連絡はなく、退院の日になっても姿を見せてはくれなかった。

 不用心ではあるが庭側の窓を開けていると、吹き込む風が涼しくなってきた。エアコンを消していても大丈夫なくらいだ。
 買い物に行けば、かぼちゃにさつまいも、柿に秋刀魚や鯖などが多く品出しされている。
 右足も治ってきているが、頻繁に出かけられるほどでもないため、冷蔵庫内は食材より空洞の部分が多い。
 不便だとは思わない。私の噂が広まっている可能性は高く、奇異の目に晒されることを考えればむしろ好都合だ。
 インテリアに変わりつつある固定電話がけたたましく鳴っている、しかし椅子から動く気はない。
 留守番電話の設定をしているので、急用ならばそちらにメッセージが残る。それにわざわざ聞かなくても用件はわかっている。
 コール音が止み、定型文の応答メッセージが不在を伝えている。

「出て行け」

 吹き込まれた相手のメッセージはそれだけだ。
 立てかけてある松葉杖は使わずに、家具を利用して固定電話のところまで行き、留守電のメッセージを消去した。
 会合の一件から、このような電話が一日に何件もかかってくるようになった。
 推進派の連中の仕業だろう。嫌がらせはそれだけではない。
 窓や玄関扉に石や物がぶつけられることもあるし、郵便受けに脅迫まがいの手紙が入っていたこともある。日増しにエスカレートしているが、いちいち相手をする気は起きない。そんな体力も気力もない。
 壁を伝って右足を引きずり、寝室を目指す。結構な重労働のため、布団で横になった時には汗が滲んでいた。
 夏の間湿気を吸った布団は、湿っぽくて気持ちのよいものではないが、そんなことどうでもよかった。逢坂さんたちは毎日ではないが頻繁に連絡をしてくれる。だけどそれも億劫に思いつつある。
 早希からの連絡は途絶えたままだ。心配だがどれだけ連絡してもまったく反応がない。
 なんだか疲れてしまった。熱が冷めた、糸が切れた、どんな表現が正しいのかわからないがもう疲れてしまった。
 退院して以降、ずっとこんな調子だ。もういいではないか。霊や町、これからのことももうどうだっていい。
 仰向けに寝転がると視界に天井が映り、室内灯の裏で影が動いている。見ていることに気がついたのか、サッカーボールほどの影がぐにゃりと歪んで大きくなった。影から影が生まれて大きくなり、やがて平面から立体へと形を変えた。ボコボコと膨らみながら、こちらに降りてきている。
 怖くはない、彼らは助けを求めているのだ。私の身体を使い、無念を晴らそうとしているのだ。光すらも通さない漆黒の影が顔に触れ、意識が遠くなっていく。
 意識を取り戻すと廊下で横たわっていた。全身を襲う痛みで起き上がることができない。
 息絶える寸前の虫のように手足をばたつかせると、足裏がざらついている。
 おそらく外へと出たのだろう、それでいい。これくらいのことしかしてあげられないのだから。 もうすぐ私は町の人たちに殺されるだろう。

 どれくらいの時間、日数が経ったのだろうか。もう思うように身体を動かせない。
 うつ伏せのまま、枕の近くにあったスマートフォンをなんとか手に持った。
 なんて静かなのだろう。
 夜半の秋とはいえ、本来ならば凛と響く虫の鳴き声や通行人の足音、走行する車のエンジン音など、日常にありふれた音が今はなにも聞こえてこない。
 もっと身近なものでいえば、家電——冷蔵庫の唸るようなモーターの音、ゆるんだ蛇口から水が滴り落ちる音すらもしない。音だけじゃない。聴覚はもちろん、嗅覚、味覚、触覚も初めから存在しておらず、唯一視覚のみが機能しているようだ。
 だけどそれすらも現実を映しているのではなく、夢や幻のたぐいじゃないのだろうか。そう思えてならない。
 それでもそばに置いてあるスマートフォンから、視線を逸らすことはできない。

「あなたのことは私が守ります」

 困惑する私に微笑んでくれたあの人は、いや、あの人だけではない。私を守ろうとしてくれた人は、みんないなくなってしまった。
 次は自分の番かもしれないのに取り乱すわけでもなく、途方に暮れて涙を流すわけでもない。妙に落ち着いている。
 心残りがあるとすれば早希のことだけだ。
 どうか無事でありますように。
 柄にもなく祈りを捧げていると、さらりとした風が吹き抜けて、閉じていた感覚が一気によみがえり、孤独な静寂に包まれていた時間がざわざわとした音に破られた。
 突如としてなにかが自宅の周囲にあらわれたかのように、音は玄関先や庭、あちらこちらから聞こえてくる。
 手に持ったスマートフォンの質量が、あたかも私の生命そのもののようで、胸に一抹の寂しさと空虚さが広がっていく。

『ごめんね』

 残された力を振り絞り、メッセージアプリで短い文章の送信をタップすると、すぐさま既読のマークがついた。

「よかった……」

 私がそうであるように早希も心配をしてくれているのだろう、彼女は昔からそうだ。
 玄関のほうから音がした。
 とうとう家の中に侵入してきたようだ。だけど逃げることも抗うこともしない、彼らには憐みしか浮かばないのだから。
 ダイニングテーブルに置いたスマートフォンが振動する。早希からの返信が届いたのだろう、だけどもう時間がない。

「ありがとう……さようなら」



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