「私が嫌いな町」第5話
帰郷
駅前のロータリーから乗り込んだタクシーが、ゆるやかに長いS字の坂道を進んでいる。気合いを入れているのか、運転手は両手でしっかりとハンドルを握り、やや前傾姿勢だ。車窓から外を眺めると、坂の下に密集している住宅街が映る。距離があるためはっきりとは見えないが、記憶にある風景となんら変わりはないように思えた。
屋根だけでもわかるほど、古びた民家の数々。マンションも点在しているが、これといった真新しさは感じない。
「お客さん、こちらの人?」
ルームミラー越しに、こちらの様子を窺う運転手と視線が交わる。
「ええ、まあ。坂道からそのまま道沿いに奥までお願いします」
白髪頭を撫でるのが返事の代わりだったのか、運転手の視線はルームミラーから消えた。
タクシーが走り去り見えなくなってから、私は大げさにため息を吐いた。
帰ってきてしまった。
御影新町。高校を卒業して家を出るまで私が暮らしていた町だ。人口は数千人程度、どこにでもある町。特徴があるとすれば、住民たちが郷土愛に溢れているところだろう。事実、地元での就職率や定住率は高く、ほとんどがこの町で生を受けて、この町で生を終える。
黒々とした光沢を放っていた胸の高さほどある門扉は、塗装が剥げて錆びついている。
力を込めると、耳障りな甲高い音を鳴らして門扉が開いていく。
玄関ポーチには砂埃や落ち葉が、我が物顔でのさばっている。
後で掃除をすることにして、靴裏をほうきがわりにして落としていく。
母に見つかったら「なんてお行儀の悪い」などと非難されたことだろう。
小煩くもありがたい叱言を与えてくれる母はもういない。父の死後から一年も経たないうちに母も他界してしまった。
「もし私もいなくなった時はこの家を手放しなさい」
父の遺品を整理するために帰省していた時、母は何度もその言葉を口にした。
暗澹たる思いをもう一度ため息とともに吐き出して、ようやく玄関扉を開いた。一気に流入していく外気とまじり、こもっていた室内の空気が塊とな
って私を出迎えた。
「ただいま」
舞い上がる埃の中で呟き、靴を脱ぐ。
今日から私の新しい生活がはじまるのだ、母が忌み嫌っていたこの町で。
暦の上では冬になるのだが、いまだ日射しの強い暖かい日が続いている。
カレンダーを捲ると、この家に戻ってきてから一ヶ月が経っていた。
これまでの貯蓄や退職金、父母の保険金があるため、贅沢さえしなければ生活に困ることはないだろう。しかし、そう遠くないうちに求職活動をするつもりだ。
葬儀は両親が生前に口を揃えて言っていた、家族葬で執りおこなった。
親戚付き合いを一切しなかったため、参列者がいない私ひとりでの葬儀は実に寂しいものではあった。だが連日にわたり近隣住民や古くからの知り合いが、弔問に訪れてくれることには、驚きつつも安堵した部分があった。しかし、同時に忘れていたことを思い出してしまった。
葬儀の知らせはどこにもしなかった、それにもかかわらず母が亡くなったことを多くの人が知っていたことだ。
回覧板がいつまでも郵便ポストに放置されてあることを、不審に思った隣人の泉さんが、廊下で息絶えていた母を発見したと聞いた。おそらくそこから伝言ゲームのように伝わっていったのだろう。それは仕方のないことだ、人の口に戸は立てられない。
離れたとはいえ、それまで十数年間両親と過ごした町だ。家を出るまでの知り合いの顔ならばほとんど知っている。
ならば弔問に訪れる私が知らない人々は、その後に繋がりができたのだろうか。
「まさか時田さんが亡くなるなんてなあ」
その日最後に訪れた見知らぬ初老の男女は、淹れたお茶を一口飲むとそう呟いた。
「本日は母のためにありがとうございます」
「ええんよ。私らもな、お母さんにはえらいお世話になったんやから」
母はあまり他人と交流をしようとはしなかったはずであり、相手が関西地方の方言で話すとなれば、なおさら疑問を抱かずにはいられなかった。
「あの、失礼ですが母とは……」
おずおずと訊ねると栗原と名乗った女性は、わずかに間の抜けた顔をしてから控えめに笑い出した。
「ああ、ちゃんと話もせんといややわ。堪忍してな。私ら……ああ、こっちのは旦那。数年前に坂の下のほうに引っ越してきたんや。それでな、まあ色々あってお母さんにお世話になったんやわ」
坂の下——旧地区だ。
誰がそう呼びはじめたのか、坂の上にある住宅街を新地区、坂の下に広がる土地を旧地区と呼ぶことがある。
もちろん表立って口にするわけではないが、その意識は住民たちの間で根付いており、いつしか私たちにも呪縛さながらに巻きついている。
詳しいことはわからない。ただ、元々新地区は山であり、旧地区の人々の反対を押し切って開発が進められたと聞いたことがある。
私としては新だの旧だの関係なく、昔からの住民がいてたまたま新しくできた土地に、人が移り住んだだけのことだと思っている。そんなもの日本全国どこにでも起こっていることだ。
「ほんでな、こんな時に言うのもなんやと思うけど、時田さんに預けていたものがあってな。希実ちゃんわかるやろか」
母が預かっていたもの……あの部屋だろうか。
几帳面な性格であった母が、昔から唯一片づけていない部屋があり、室内には古今東西のよくわからないものが多数ある。両親、とくに母が収集していたことは憶えている。部屋に近づいて激しく叱責されたこともあり、今でも私は滅多なことでは近づかない。しかしつい最近、片づけるために室内へ入ったことがあった。
あの中のどれかなのだろうか。
「なんとなく心当たりがあります。持ってきますので少々お待ちください」
栗原夫妻にそれだけを伝えて客間を後にする。
周辺の家が二階建ての洋風建築である中、わが家だけは横に長い平家建てだ。
子どものころは二階建ての住宅がとても立派に見えて、平家を恥ずかしく思ったことがあった。父は家にこだわりを持っていたらしいが、部屋の間取りなどは母と話し合って決めたらしい。
廊下に出て奥を目指して進み、目的の部屋の前でゆっくりと内開きの扉を押す。
ほかの部屋とは違い、この室内には窓が一切ない。
右側の壁を探りスイッチを押して明かりを点けた。
「どうしてあんな部屋にしたのか、父さんにも教えてくれないんだ」
なぜ窓がないのか、父に訊ねるとそう答えてくれたが、すでに物置部屋と定着していたためか、別段気にしている様子はなかった。
装飾品から調度品、記念品に衣類、はてはどこかの石など、統一性のない品々が棚や床に置かれている。
どれなんだろう、なにか特徴を聞いておけばよかった。
客間へと引き返そうとして、紙の束が扉の近くにかけてあることに気がついた。手に取ると紙には、品目と人名、そして日付に場所が記載されていた。
この字はお母さんのね、今まで気がつかなかった。この日付はなにかしら。
「懐中時計・田所さん・六月八日・三の棚、二段目の抽斗」
音読をしながら確認すると、棚にそれぞれ数字を書いたシールが貼られている。記載されている場所を開いて探ると懐中時計が見つかった。
目録のようなものね、これで探せる。
栗原夫妻を待たせているのだ、あまり時間はかけられない。
やや焦りながら、目録を捲っていくと栗原の名前があらわれた。念のため最後まで目を通したが、同じ名前は見当たらなかった。
「希実ちゃん」
突然かけられた声に驚き、近くの棚にぶつかって床の置物をいくつか蹴ってしまった。
「あら、ごめんなあ」
室内の惨状よりも、どうして栗原さんがここにいるのかが気になった。
「あの」
「いや、ちゃんと待っててんけどな。遅いからもしかしてなにかあったんやろかって心配になって」
謝る彼女をよそに腕時計で時刻を確認すると、客間を出てからゆうに二十分は経っていた。
「すみません、なかなか見つからなくて。もしかするとこれでしょうか?」
幸いすぐそばの棚の抽斗にあったので、箱を開けてみせた。
「そうそう、これやわ。ありがとう」
彼女はペンダントトップが大粒の真珠になっている、金色のチェーンネックレスを手に取った。そして初めて見るように目を輝かせて、もう一度「ありがとうな」と頭を下げた。
「あったんか」
遅れてご主人もやってきた。
今日初めて人と話すのだろうか、と勘繰ってしまうほどその声は低くこもっていた。どうやら会話を担当しているのは奥さんのようだ。役割分担というべきか、これも夫婦の連携というやつなのかと妙に感心してしまう。
客間に戻った後も、私の反応など気にする様子もなく、忙しなく表情豊かに奥さんは話を続けている。
「あら、もうこんな時間。大変や、帰って晩御飯の支度せな」
いきなり客間に突風を起こす勢いで、帰り支度をした栗原夫妻は慌ただしく帰っていった。ひとりになってなお、耳に残る栗原さんの声が消えるまでその場にいることにした。
栗原夫妻を相手にしている時は、考える暇もなかったが今はそうではない。両親は過去のことをあまり語りたがらなかった。
どうして他人のものを預かり保管していたのか、相手はどうして大事なものを預けていたのか。最後まで栗原夫妻にその理由を訊ねることはできなかった。
そしてようやく巡ってきたひとりの時間も、再び来訪者を告げる音で終わりを迎えた。
「このたびはご愁傷さまです」
弔問客として訪れてくれた幼馴染の中山早希が、焼香を済ませると心痛そうな表情で私に頭を下げた。
「ありがとう」
数年ぶりの再会。
紺色のブレザーは黒のフォーマルな服装へと変わり、明るい茶系で肩の上ほどだった髪は、おろせば肩甲骨の辺りまでありそうだ。幼さが残っていた十代と違い、顔を上げた彼女には年齢を重ねた成人女性の楚々を感じとることができる。
両目はうっすらと潤んでいるが、彼女は決して涙を流そうとはしない。
その理由は聞かなくてもわかる、私が泣いていないからだ。
父の時もそうだったが母が亡くなってからも、私は一度たりとも涙を流していない。もちろん悲しい感情はある。だけど、それよりもやることをしなければという義務感が強い。
「ここにくるのも久しぶり、懐かしいわね」
私と早希は住宅街から少し離れた場所にある、町が一望できる運動公園の小高い丘の東屋へとやってきた。
十数年間、彼女とさまざまな話を交わしたこの丘も、丸太を加工したこのベンチも、広がる町の眺望も、学生のころと変わっていないように映る。
もちろんそんなわけはなく、ベンチは痛みがひどくなっているし、町だって記憶と違うところはある。しかしそれが記憶違いなのか、心境の変化でそう映っているだけなのかはわからない。
反対側、丘の麓に視線を向けると、子どもたちが遊んでおり、そのそばをウォーキングしている人が通りすぎていく。
「希実、これからはあの家で暮らすの?」
「お母さんは『この家は処分しなさい』って。でもね、やっぱりそれはできない。お父さんはあそこが気に入っていたし、私が家を出た後もお母さんはずっと住んでいたもの」
早希がなにを言いたいのかはわかっている。私はこの土地が嫌いで、高校を卒業して逃げるように離れていったのだ。
「ちょっとまってよー」
麓にいた子どもたちが、はしゃぎながら丘を登ってくる。この子たちはここから見える風景になにを感じるのだろう。
「向こうには行ったの?」
「うん、でも自転車で通りすぎただけよ。弔問には向こうの人もいたけど」
夕陽が丘を朱に染めて、ベンチに並んで座っている子どもたちの影を伸ばしていく。
早希が立ち上がり、私の前で手を差し出した。
「おかえり」
夕陽を背負った彼女の表情は見えなかった。
