「私が嫌いな町」第3話


 完成したマイホームで暮らしはじめて数年が経った。
 孝文さんと話し合いを重ねて、蓉子さんの助言どおりの間取りにした部屋の中で、私は収集品の目録を作成している。

「おかあさーん」

 希実が私を呼ぶ声が聞こえる。
 どうやらお昼寝から起きてしまったようだ。生まれた子は女の子で、どちらかといえば孝文さんに似ている。名前は希望をもち、人生を実らせてほしい、そんな私たちの願いを込めたものにした。

「おかあさん?」

 扉の向こう、おそらく少し離れた場所にいるのだろう。希実の声量が遠くて小さい。それに怯えた声質が混ざっている。一度この部屋へ入ろうとした彼女を激しく叱責したことがあり、それからは決して近づこうとはしない。幼心に傷を残したかもしれないがそれでいい。子どもは大人よりも感受性が強く、なによりも無邪気だ。この部屋で予期せぬことが起きてからでは遅い。

「希実、すぐに行くから向こうのお部屋で待ってて」

 返事はないが、トタトタと足音が離れていく。作成中のページに、しおり代わりのペンを挟んで目録を抽斗ひきだしに入れた。そしてリビングに戻って、謝りながら待っていた彼女を抱きしめる。
 よほど不安だったのだろう、強く抱きついている顔に笑顔が咲いた。

「おやつにしよっか」

 夢中でおやつを頬張る姿が愛おしくてたまらない。いつまでもこの時間が続くようにも願わずにはいられない。

「ごちそうさまでした」

 食べ終わるや否や、遊び出そうとするのを制止して、洗面台で一緒に手を洗い、小さな口の中を傷つけないように優しく歯を磨いていく。お昼寝から起きた時の感情などもう忘れてしまったのか、彼女はひとりでリビングへと向かっていく。
 その微笑ましい光景の中に混ざり込む、ごく薄く黒い色をした不穏なもの。感じることも視えることもほとんどない。これも蓉子さんのおかげだ。

「こんにちは、お元気ですか?」

 彼女はいつも前触れもなく、必ず孝文さんと希実が不在の時にわが家を訪ねてくる。見計らったようなタイミングであることは不思議だが、孝文さんたちに説明する手間が省けることはありがたい。
 家の中へ招くなり、蓉子さんは土間で立ち止まり、顔や視線を動かして頷く。

「順調ですね、これならばもう私が訪問する必要もないでしょう」

 あの日と同じ微笑みに、密かに抱え込んできた不安や恐れがまたたく間に溶けて消えていく。

「いつものようにお部屋へ案内していただけますか?」

 これで最後になるのね。
 私は強く頷いて、蓉子さんを部屋の前まで案内する。

「それでは」
「あの、今日は私も一緒に」

 蓉子さんはいつもこの部屋でひとりきりになる。せめて最後くらいは、とドアノブを握る彼女の背に言葉を投げかけた。

「いえ、これは私ひとりでおこなわなければいけません」
「でも……」

 怪しんでいるわけではない、なにもかも彼女に委ねて任せてしまっている、それが心苦しい。

「いいですか、智恵さん。なにもかも知ることは必ずしもよい結果を生むとは限りません。それにこれはあなたたち家族のこれからに関わる大切なことです、私が最後まで責任をもって果たさなければならないことなのです」

 背を向けたままでいるためか、彼女の言葉は扉にぶつかり、どこか重く暗いものに聞こえてしまう。

「大丈夫です、あとは私に任せてください」

 くるりと身体を反転させた彼女の顔には、またも微笑みが浮かんでいる。だけどどうしてだろうか、その微笑みには散りゆく花のような儚さがあるように感じられた。

「蓉子さん。いえ、先生ありがとうございます」
「そんな、先生だなんて。顔を上げてください」

 深々と頭を下げる私の頭上で、慌てふためいているような先生の声。

「こちらこそありがとうございます」

 私がしたことをそのまま返されて、今度はこちらが慌てる番になってしまった。

「今回のことは人を避けて生きている私にとっても、とてもありがたいことになりました」
「先生……」

 地元の住民ですら立ち入りを禁止されている場所にひとりで住む、その理由や経緯はわからない。それでも想像することはできる。もし私が先生の立場なら、ひとりで山奥での生活を送ることなど無理だ、きっと孤独に耐えられない。

「誠にありがとうございました」

 万感の想いを込めてもう一度頭を下げる。

「智恵さん」
「はい」
「くれぐれも

 先生が残した言葉の意味、それは去っていく背中を見送る視界に映り込んでいる。
 初めはなにもない宅地ばかりだった、だけど今は多種多様な家族が生活をする住宅だらけだ。そして立ち昇る黒い靄は薄くなってきてはいるが、いまだ漂っている。私たちの家を除いて。

 それでも私の気は多少なりともゆるんでしまったのだろう、その日は希実とふたりで出かけなければならない用事があった。いつもなら暗くなる前には帰宅をするように心がけているのだが、その時はそうもいかなかった。
 帰路についたころには、空や町は夕焼けに染まりつつあり、希実と手をつないで歩いて帰ろうと思ったのだ。

「おかあさん、きれいだねー」

 朱に染まる光景が珍しく、好奇心を刺激したのか、彼女は寄り道しては立ち止まり、気がすむまでなかなか動こうとはしなかった。
 タクシーに乗ればよかったかもしれないわね。
 そう思ったのは、ゆるやかにS字のカーブが続く坂道の下にたどり着いた時だ。
 燃えさかっていた空は、濃紺の冷たさへと沈みはじめており、坂道を歩いているうちに私たちはすっかり夜に包まれてしまったのだ。
 等間隔に設置されている街灯は、眩しいくらいに夜道を照らしてくれている。だからこそ暗闇は濃く黒い。
 できることならば彼女を背負い、足早に家へと急ぎたい。だけど私も疲労が蓄積している。
 離れないようにつないだ手に力を込めて歩き出す。半ば強引に引っ張る形になり、途中で「痛い」と訴えられたが構っている余裕はなかった。
 いるのだ。
 暗闇ではなく、光に照らされた街灯の下に。
 一本目は視えるかどうかの小さな影のようなものだった。それが街灯を通りすぎるたびに、黒色を深くして、人の姿を形作っていく。
 まるでだるまさんが転んだをしているようだ、私が意識を逸らせば逸らすほどに、それは嘲笑うようにどんどんと存在を主張してくる。
 油断をした自分への苛立ちや自責の念が、胸の内で膨らんでいく。

「おかあさん、あれはなに?」

 気になるものはなんでも訊ねる、子どもらしいその質問に、形容しがたい衝撃が全身を駆け巡った。
 ……視えている? この子にあれが?
「おかあさん?」
「あれは、よくないものよ。見てはダメ、まぶたを閉じて歩きなさい」

 希実は私の言ったとおりに、家の中へ入るまでまぶたを閉じたままでいた。

「希実、ごめんね。もう大丈夫だから」

 どうかお願い……この子を私のようにしないで。
 どうかお願い……この子には普通の生活をさせてあげて。
 ひたすらに願いを込めて、震える小さな身体を力強く抱きしめ続けた。
 一方で事情を知る由もない孝文さんは、ますますこの町を気に入ったらしく、よく希実を連れて商店街のほうまで出かけていく。

「智恵もたまには一緒に行こう」
「おかあさんもいこう」
「ええ、わかったわ。それじゃあ準備をしようかしら」

 本当ならば断りたい、私にはどうしても好きになれないものがある。御影新町の住民たちだ。あの人たちと接していると、どうしてもあの黒い靄のことが頭の片隅にちらつくのだ。

「いらっしゃい希実ちゃん。今日はおかあさんも一緒なんだね」

 私たち家族に対して、朗らかな笑顔を向ける店主が、ほんの一瞬垣間みせる翳りかげり
 町の人たちは私たちに対してどこかよそよそしく、怖がっているように感じるのだ。そのことに希実はもちろん、孝文さんも気がついてはいない。
 その理由については、隣人の泉さんからそれらしき話を聞いたことがある。どうやら私たちが住んでいる場所は新地区と呼ばれており、元々の住民たちと軋轢が生じているらしい。
 それならば新地区の住民たちとは知らない土地に移り住んだ、いわば同志ともいえる仲だ。うまくやっていこうと思っていた、あのことがあるまでは。
 それは私が昼食のあと、少しうたた寝をしてしまった時のこと。
 玄関扉が開く音と、泣いているような声が聞こえたので、私は跳ねるように起きあがった。急いで声の元へと向かうと、希実が土間で蹲りうずくま泣きじゃくっている。
 ひとりで外へと出かけていたことにも驚いたが、それよりも彼女の身になにが起きたのかを知ることが先だった。

「どうしたの!? なにがあったの!?」

 彼女があれを視た日のことが脳裏に浮かび、血の気が引いていく。

「私ね、さきちゃんと遊んでただけなの、でもね」
「さきちゃん? さきちゃんって誰!?」

 怖がらせてはいけない、そうは思っていても気持ちは焦り、言葉の語尾が強くなってしまう。それによって希実はさらに泣いてしまった。
 まずは私が落ち着かないと。
 希実を抱きしめながら深呼吸を繰り返す。冷や汗が背中を伝うが、それでも気持ちは幾分か落ち着きを取り戻した。

「さきちゃんは女の子?」

 希実が頷く。

「さきちゃんはどの家の女の子?」
「わかんない」
「一緒に遊んでいたの?」

 希実がまた頷く。

「あのね、さきちゃんひとりだったの。だからね、一緒にあそんでいたの」
「そっか、楽しかった?」
「うん」

 どうやら危惧したようなことではないらしい。それならば、なぜ希実は泣いているのか。

「ケンカしたの?」

 すると彼女は否定する。

「さきちゃんとあそんでいたらね、ぶわーって知らないおじさんとかおばさんたちがやってきてね、いっぱい怒られた」

 わが子への仕打ちを聞いて、一瞬で頭に血が昇り、眼前に赤い火花が散る。思わず外へと駆け出してしまいそうになる。だけどそれを止めたのは、希実がまた泣き出したからだった。
 しばらくして泣き疲れたことで、眠ってしまった彼女のそばで記憶を掘り下げていく。
 しかしどれだけ思考を巡らせても、該当する子どもが新地区で浮かんでこない。
 新しく引っ越しをしてきた家族? ううん、もうこの地区に空き家はないわ。それなら……。
 思い当たったのは数日前の回覧板に書かれていたことだった。この日は近くで町の住民たちが集会を開く予定になっており、その関係者ではないかと推測をした。そして後日、希実から新地区の住民も数人いたことを聞いたが、結局なぜ叱責されたのかはわからずじまいだった。
 なにがあったにせよ、小さな子どもにするようなことではない。そうした経緯があり、私はこれまで以上に新旧関係なく、町の住民たちとはなるべく関わらないように生活をすることを決意した。

 さらに月日が流れ、希実が小学校二年生になった夏祭りの日、私は先生と再会した。いつもなら夏祭りは孝文さんと希実のふたりだけで出かけるのだが、その日は二人の強引な誘いを断りきれず参加することになった。
 祭り会場は熱気に包まれて、陰気な印象の町がその日ばかりは賑やかに華やいでみえた。
 会場の雰囲気にふたりも誘われたのか、普段は避ける人込みへとまぎれていく。ひとりで歩く気にはなれず、露店や提灯の明かりから離れることにした。
 人工的に作られた薄暗い空間は、熱気や喧噪を遠くにしてくれるので、わずかだが気を休めることができる。
 その場で涼んでいると、孝文さんが周囲を見回しながら歩いているのが視界に映った。

「どうしたの?」

 声をかけると、彼はは頬を掻きながら「希実とはぐれてしまった」とさして心配した様子もなく呟いた。

「まあ、その辺りの屋台にいると思う」

 一息つくと孝文さんは、希実を探しにまた人込みへと消えていった。
 勝手に会場から出ることはないだろう。
 とはいえ念のために出入り口付近へと移動して、そこから会場内の様子を窺う。
 盆踊りに参加している子どもはそう多くない、となればどこかの屋台にいるのだ。夕闇が深くなればなるほど人は増えていく。明かりに照らされて、影が歩き、踊り、飛び跳ねる。影と影は合わさり大きく濃くなっていく。
 まるで人の形をした黒いものが蠢いているみたい……ダメね、自分からあのことを思い出そうとしているなんて。
 嫌悪感を吞み込んでいると、闇が濃い場所に佇む人影があった。見覚えがある気がして目を離さずにいると、相手がゆっくり近づいてくる。
 あれはもしかして。

「智恵さん、お久しぶりです」
「先生! お久しぶりです」

 思わぬ再会と、先生の微笑みに沈みかけた心が軽くなる。

「その後はいかがですか」
「おかげさまで何事もなく過ごせています」

 近況を報告して話をしていると、いつの間にか希実が私のもとへとやってきていた。

「あら、希実。どこへ行っていたのよ」

 浴衣を掴んでいる彼女の頭を優しく撫でる。

「希実さん? もうこんなに大きくなったのね」
「はい。おかげさまで元気に成長しています」

 どれだけ感謝をしても足りない。もし先生と出会っていなければ、私たち家族は想像したくもない不幸に見舞われて、場合によっては命を落としていたかもしれない。
 彼女は屈んで、希実と目線を同じ高さに合わせる。

「希実さん、こんばんは」
「こんばんは」
「まさかこんなところでお会いできるとは思いませんでした」
「参加する予定ではなかったんですが、人を探していまして」

 力になれるのでは、と協力する旨を伝えたが先生はわずかに目を伏せた。

「大丈夫ですよ」

 その微笑みはどこか寂しさをたたえていた。

 次に印象深い出来事は、希実も小学校高学年の時に起こった。孝文さんは相変わらず商店街に通っているが、希実がついていくことはなくなっていた。
 外へ出かける用事があったので、希実が好みそうな本を探すために書店へ立ち寄ることにした。彼女は幼いころから想像力が豊かで、本の世界に没頭することが多い。
 好ましいことではあるが、小学生になっても友人の話をほとんど聞くことがないのは、親としては心配の種だ。
 目ぼしいものが見つからず、店内をうろついていると懐かしいものを発見した。思わず手に取り会計を済ますと、寄り道をせずに家へと帰ることにした。
 帰宅してダイニングテーブルに購入した月刊オカルトを置き、一息ついてから表紙をじっくりと眺める。
『心霊写真特集』に『呪われたビデオ』など、昔と変わらない胡散臭い見出しがついている。
 旧友に再会した、そんな懐かしさを覚えながら中身を読んでいく。
 いかにもな心霊写真にはどれも霊能者の解説が載っている。本物かどうかの区別なんて私にはできない。
 雰囲気を味わうものだと割り切って読み進めていく。
 すべて読み終えるともう一度初めから、今度はある程度ページを飛ばしながら読んでいく。そして本を閉じた後に待っていたのは、期待が外れたことによる失望感だった。探していた和束さんの記事がなかったのだ。
 毎号購入しているわけでもなく年月も経っている。たまたま載っていなかっただけなのか、もう記者をやめたのか、もしかすると出世をしたのかもしれない。
 確か息子がいると言っていたはずだ、元気にしているだろうか。
 電話番号は控えてある、連絡をしようかと考えたがすぐに思いとどまった。昔話に華を咲かせるのは魅力的だが、安定した生活が続いているのだ、あの時のことはできるならば思い出したくなかった。

「ただいま」

 希実が帰ってくるなり、ランドセルを置いて出かけようとする。

「ちょっと希実、宿題があるんでしょう。そんなに急いでどこに行くの」

 すると彼女はまた靴を履き、振り返って満面の笑みを浮かべる。

「今日ね、西田くんたちと探検に行くんだ」
「探検ってどこへ行くの」
「まだ内緒。それじゃあ行ってきます」

 希実は止める間もなく元気よく飛び出していった。友人と遊ぶ、それは子どもにとってかけがえのないものだ。ましてやあんな笑顔を見せられては止めることもはばかられる
 子どもの成長を喜ばない親はいない、私だってそうだ。
 帰ってきたら、うんと話を聞いてあげなきゃね。
 しかし私は数時間後に、その考えが甘かったことを思い知ることになった。
 帰宅した彼女の有り様に思わず息をのんだ。衣服や髪に纏わりついた植物、土や砂で汚れた全身は擦り傷だらけだ。

「どうしたの!?」
「お母さんごめん、私」

 どうやら友人たちと立ち入りを禁止されているあの山林へ行ったようで、そこではぐれたままひとりで帰ってきたのだという。
 とりあえず脱衣所で汚れた衣服を脱がし、浴室へ入るように促した。途切れることなく流れるシャワーの音を耳にしながら、どうするべきなのか考えを巡らす。
 希実が向かったのは間違いなく先生の家がある場所だ。あそこは大人でさえ、道を間違えると遭難する危険性が高い。
 まずは一緒だった子たちのことを詳しく聞かなければならない。
 清潔になり、身体が温まって落ち着いたことを確認してから話を聞くことにした。

「それでどうしてそんなところへ行ったの?」
「西田くんが面白いところを見つけたから探検に行こうって。みんな嫌がってたけど、西田くんと多ノ元くん、ゆうたにりのちゃん、それから私の五人で行くことにしたの。最初は楽しかったんだけど……」

 希実が話すには意気揚々と山林へ向かったものの、いざたどり着くと怖くて仕方なかったそうだ。しかしひとりで帰ることはできずに、みんなと奥へと進んでいき一軒の家を発見したそうだ。

「それでどうしたの」
「それが……憶えてないの、気がついたらひとりで山の中を走っていて」

 彼女の様子からこれ以上のことを聞き出すことは無理だ、と判断して携帯電話を手に持った。
 学校に連絡をしなくちゃ。事情を話して一緒だった子たちの連絡先を教えてもらって、それから……それからどうするの? お宅のお子さんが遭難したかもしれないとでも言うの? そんなことをすればひとりで帰ってきたこの子はどうなるのか。もし町の人たちに知られでもしたら……。
 どう足掻いても悪い方向へと考えが向いてしまう。
 携帯電話を静かにテーブルへ置く。
 あそこは先生の家だ、子どもたちもそこにいるはず。なにかあるはずなんてない。無事に決まってるわ、それで明日になれば何事もなく登校するはずよ。そう、きっとそうよ。この子は逃げてきたことで少し気まずい思いをするかもしれないけれど、子どもだもの。すぐにまた仲良くなれるわ。
 都合にいいように思考を捻じ曲げていることはわかっている、だけどあえて黙っていることを選んだ。
 翌日、そわそわとなにも手につかない状態で希実の下校を待ち、みんな無事に登校していたこと、騒ぎにもなっていなかったことを聞いて心底安堵した。



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