「私が嫌いな町」第19話


 逢坂さんたちと連絡を交わしつつ、仕事に復帰して一週間ほど経過したころだった。日野建築の社長である日野さんが店へとやってきた。
 中山家とは古くから付き合いがあり、御影新町で建築されたほとんどが日野建設の実績だと聞いたことがある。

「日野さん、こんにちは。今日はどうされたんですか」
「やあ、早希ちゃん。お父さんに用事があってきたんだけど店にはいるかな?」

 父に用とは珍しい。日野さんはお祖父様と懇意にしていることもあり、父とはソリが合わないはずなのだが。

「ごめんなさい、最近父はあまり店にいなくて」
「そうかそうか、いやいやいいんだよ。実はね用事があったのは私ではなくて、息子なんだよ」

 この町と関わりの深い企業のほとんどが、実子に事業を継がせている。日野建築も例に洩れず、二代目を息子である道之さんに継がせている。
 それならば私が父に連絡をします、と伝えたが日野さんは曖昧に言葉を濁した。

「何かご都合が悪いですか?」

 ははは、と彼は乾いた笑いを浮かべて、ちらりと応接室を見た。

「私でよければお話を伺いますよ」
「そうかい、悪いね」

 わざとらしく頭を掻く日野さんを応接室へと案内する。
 重厚なテーブルに黒の革張りのソファ、見本のような応接室に入ると彼はソファへとそそくさと座る。

「お茶をご用意しますね」
「すまないね」

 念のためほかの社員たちに事情を説明して、誰も応接室へ近づかないように釘をさしておいた。

「ありがとう」
「それで父にお話というのは」

 わざわざ応接室を選んだくらいだ、なにかしら重要な要件であることは明白だった。

「それなんだけどね。他言無用でお願いしたいんだけど」
「ええ、もちろんです」

 どうやら想像しているよりも深刻な話のようだ。

「用事というのはね、再々開発のことなんだよ。早希ちゃん、一応聞くけどあんたはどっちだい」

 どっちというのは推進派なのか、それとも反対派なのかということだろう。
 日野さんは先ほどまでと違い、両手を握りしめて真剣な表情をしている。

「どちらでもありません。いうなれば中立です」

 下手にはぐらかすより正直に答えることにした。すると彼は愛想笑いなどではなく、本当に笑った。

「うんうん、そうかいそうかい。安心したよ。私もどちらでもいいんだけどね、道之のやつはどうにも推進派みたいなんだよ」

 推進派であるならば、日野さんの息子と父は同志ということになる。

「それじゃあ、なぜ日野さんが父に?」
「言いにくいんだけど再開発の時みたいにまた一枚噛ませてもらいたいんだよ。いや、もちろん個人がどうこうできるもんじゃないのは知ってるけどね」

 内容云々よりも聞き流せないものがあった。

「日野さん、新地区の開発に携わったんですか?」
「あちゃあ、口が滑ったなあ。そうなんだよ、あそこはほとんどうちが手がけたようなもんだよ」

 彼は照れているが、誇らしげに胸を張る。

「あそこは色々と条件が多くてね、なかなかの大仕事だったんだよ。あの時もいまみたいに反対派だの推進派だのがいてね。聞いてないかな、当時の反対派の中心人物は喜助さんだよ」

 私の中で予感めいたものが仮説になり、組み立てられていく。

「その時に出された条件っていうのが、指定された注文を受けることなんだよ」
「どんな注文だったんですか?」

 右のこめかみあたりの血管が小刻みに脈動している。

「人員や建築素材、建物の配置やらなにやらさ。なんだか胡散臭い連中もよくきていたなあ。なんていうの、ほら、霊魂がどうのとかさ。特にこだわっていたのが、ほら、あの、両親に次いで娘さんも亡くなったあの家の場所だよ」

 日野さんは話すだけ話をしたら満足したのか、「口利きよろしく」と上機嫌で帰っていった。

「新地区を依代にすればいい」

 あの時守上さんはそう話していなかったか。反対派であったお祖父様がどうしてそんな条件をつける必要があったのか。

「反対だったとしたら……」

 もしかすると木箱だけではなくて、新地区自体が町中の霊を封じ込める役割を担っていたのではないのか。そしてあの場所、起点とされた希実の家。
 もしそうであるならば、これまでのことは起こるべくして起こったのではないか。希実たちは人為的に、作為的に殺されたも同然だ。
 日野さんの話が本当であるなら、新地区や希実の家は霊の巣窟だ。封印という枷が外れた霊はどうなるのか、確かめなければならない。

 午後になり、見覚えのある女性が住居の相談にやってきたので、担当者の岩倉さんが離席している隙に挨拶をした。
「泉さんですよね、希実の隣に住んでいる」
 初めは私が誰なのかわからなかったようだが、すぐに泉さんは顔の横で手を振った。

「あら、中山さんのところの早希さんなのね。ごめんなさいね、すぐにわからなくて」
「いいんです、ご相談みたいですがなにかあったんですか?」

 問いかけに泉さんは、さっきよりも大げさに手を振る。

「それがねえ、おかしなことが立て続けに起きるようになったのよ」
「おかしなことですか」
「なんていうのかしらね。物が勝手に動いたり、位置が変わっていたりするのよ」

 戻ってきた岩倉さんに対応を代わってほしいことを伝えると、彼はあからさまに安堵した様子で席へと戻っていった。

「物が動く、ですか」
「そうなのよ。たまに廊下からギシギシって音もするの。ほらあそこもそれなりに築年数が経っているじゃない。元々山を崩して作られているって聞いたことがあるし、主人は『傾いてきたんじゃないか』って言うんだけど」

 既知の私が対応することになったからか、泉さんの口が水を得た魚のように滑らかに動く。

「それでね、一度調べてもらえないかって思って。もちろん見てくれるだけでいいのよ」

 近いうちに訪問すると約束して泉さんを見送り、自席に戻ると岩倉さんがコソコソとやってきた。

「ああいう相談って大体が経年劣化によるものですからねえ。まあ、住んでいる方からすればこちらでなんとかしてほしいって思うかもしませんが」

 どうやら相談内容というよりも、その後のやりとりを思ってうんざりしているようだ。

「前からそうですけど、最近多いんですよ」
「多い?」
「ほら、あの坂の上にある住宅地ですよ。あの人のほかにも似たような相談が増えているんです」

 相談の件数ならば新旧問わずどこだろうと大差はない。気にかかるのは相談内容が酷似していることだ。もし仮に地盤沈下の兆候であろうものなら一大事だ。
 記録を遡り相談を受けた後の状況を調べたのだが、どれもその場限りの対応で終わらしているだけだった。

「岩倉さん、これ全部対応済みになっているけれど調査には行ったんですか?」

 彼はばつが悪そうに手を上げる。

「いやあ、一応社長に報告はしたんですけどね、『放っておけばいい』ってばっさり」

 彼は時代劇の一幕よろしく、手刀で袈裟斬りを再現した。
 父は相変わらず開発のことで動きまわっている。連絡するのは私たちでは手の負えない重大な事態が発生した時くらいなものだ。
 勝手にすればいい。あの人は己の利益のことしか考えていない。

「岩倉さん、すぐに相談のあったお宅に連絡をしてください。業者が必要になるならこちらで手配します」
「しかし早希さん、勝手をすれば社長が」
「構いません。私が全責任を負います」

 私の勢いに気負けしたのか、岩倉さんは急いで電話をかけはじめた。
 訪問可能と返答をくれた相談者の家に、すぐに岩倉さんと向かうことにした。場所は新地区のため好都合だ。
 助手席から流れる風景を眺めているが変わったところはない。町の噂も再々開発についてがほとんどを占めている。あとは生活をしていくうえでの、瑣末な出来事があるくらいだ。
 そう、いつもどおりなのだ。守上さんや希実が命を散らした事実など、なかったかのように振る舞っている。その心情がどうであるかは関係ない。

「うわ!」

 岩倉さんが叫んだ直後に車が急停止をした。その反動で前のめりになった身体に、シートベルトが食い込む。
 徐行していただけなので、運転をしている彼にも被害はなさそうだ。
 しかし彼は車から降りると、しきりに周囲、とくに付近の地面を確認している。その様子が気になり、彼に近づいて声をかける。

「ぶつかった?」

 彼は地面スレスレまで姿勢を低くして車の下を覗いていたが、立ち上がりスーツの汚れを払った。

「おかしいなあ、なにかが飛び出してきたんですよ。早希さん見ませんでした?」
「見てないわ」

 すると岩倉さんは腕組みをしながら、口をへの字に曲げている。

「ぶつかった衝撃もなかったし気のせいでしょう。こちらこそすみません」

 腑に落ちない、顔にそう書いてあるが実際に異常はない。いつまでもそうしているわけにもいかず、そうそうに車へと乗り込んだ。
 相談者である浜岡さんの家は、新地区に入ってから少しした坂の中腹あたりにある。
 希実や泉さんたちとは違い、比較的後期に建築された洋風二階建て住宅だ。事前に問い合わせをした際の聞き取りでは、いまだに物が勝手に動くなどの現象は続いているようだった。

「やっときてくれたのね」

 浜岡さんは眉を吊り上げて、仁王立ちで開口一番にそう言い放った。

「遅くなり申し訳ありません。早速ですが問題の箇所を拝見させていただけますか?」

 こちらが素直に詫びたことで溜飲を下げたのか、幾分表情を和らげた彼女にダイニングに案内された。
 室内には花をモチーフにした家具や彫刻などが多数並んでいる。統一性はあるが色彩にこだわりがないようで、アジアとヨーロッパが混在しているようだ。

「素敵なお宅ですねえ」

 感情がまるでこもっていない形ばかりの世辞に肝を冷やしたが、彼女は気をよくしたようだった。

「そうでしょう。世界各国の花園をイメージしているの」
「わかりますよ」

 室内の隅に置いた鞄を漁りつつ、ふたりは会話を続けている。
 目視した範囲にこれといって目立つ傷や汚れはない。許可を得てくまなく調べたが、彼女が訴えているようなことは確認できない。

「具体的にどのようなことが起きるのでしょうか?」
「そこに扉があるでしょう。それがいつの間にか開いていたり、家具の位置が変わったりするのよ」

 岩倉さんが扉の開閉を繰り返す。そのたびに蝶番は軋むが、風などで勝手に開くほど軽くはない。半開きにした状態で待ってみるもやはり動く気配はない。

「異常はないなあ」

 専門的な知識や技能があるわけではないが、それでも異常があるとは思えなかった。

「どれくらいの頻度で起きるんですか?」
「大体週に一回くらいかしら」

 それでは確認できなくて当然だ。しかしそのまま言葉に出すわけにはいかない。
 浜岡さんは気まずい雰囲気を感じ取ったのか、家具のそばまで行くとその位置をずらした。

「見てちょうだいよ。これが動いた証拠よ」

 フローリングの床に元々家具が置いてあった凹みから、数センチほど線状の傷がある。
 無駄骨ね……あの扉、いつ閉めたのかしら。
 懸命に説明している彼女の後ろ、開いたままだった扉が閉まっている。

「岩倉さん、扉って閉めました?」
「ぼくは触っていませんよ」

 振り返った彼の動きが止まった。
 扉は三人の立ち位置から距離がある場所だ、それに誰も近づいていない。

「ほら、ほら! ねえ、勝手に閉まったでしょう」

 浜岡さんが鼻息を荒くして、それ見たことかと近づいていく。すると今度は勝手に開いていく。

「ほら、これよこれ」

 興奮状態の家主が手をかけると動きは止まったが、同時に彼女も動かなくなった。
 開け放たれた扉の先を向いたままだ、ピクリともしない。

「浜岡さん?」

 廊下は見えているが、視線を注ぐに値するものはなにもない。
 このままでは埒があかない、と彼女のそばまで歩み寄る。

「浜岡さん」

 ゔゔぅ。
 それは彼女の口ではなくその周囲から聞こえた、そして伸ばしかけていた腕を掴まれた。握り潰されると危惧してしまうほど皮膚や肉が押し込まれ、耐えがたい痛みが骨まで伝わってくる。

「やめて!」

 だがいくら声を上げても、手を放そうとしてくれない。
 腕がギリギリと締めつけられていく。
 痛い、痛い痛い痛い!
 岩倉さんが必死に引き離そうとしているが、離れるどころかますます指が食い込んでくる。

「離して!」

 虚ろな目、だらしなく開いた口、正気でないのは一目瞭然だった。
 全身から脂汗が噴き出してくる、腕が聞いたことのない音を奏でている。

「あとで謝ります!」

 激しい衝撃に弾かれて、腕がようやく圧力から解放された。岩倉さんが体当たりをしてくれたのだ。

「早希さん! 大丈夫ですか!?」

 身に染み入る痛みに顔が歪む、腕にうまく力が入らない。
 浜岡さんは体当たりを受けて倒れたままだ。

「今のうちに逃げましょう」

 ふたりで警戒をしていると、倒れている浜岡さんの両手と両足が震え出した。痙攣でも起こしたのかと思うほど震えている。
 危険を訴える直感に従って、片腕をぶら下げたまま走り出す。そして行く手を阻む彼女の身体を飛び越えようとしたが、足首を掴まれてしまった。

「もう!」

 白目を剥いている彼女が醜い笑みを形作る。
 おぞましさのあまり、芯から込み上げる恐怖に身体が竦む。
 助けて……希実!
 はたして希実が助けてくれたのか、転がっている浜岡さんの顔に外れた蝶番が直撃し、支えをなくした扉が覆いかぶさった。
 扉が倒れる派手な音に混じり、誰のものかもわからない不気味な声が響いた。
 その隙に再び走り、玄関で待ってくれている岩倉さんと合流した。
 難を逃れたと判断して外で緊急通報をしたが、駆けつけた警察官などから事情を聞かれることとなり、自由になったのは翌日になってからだった。

 午後から出勤すると、岩倉さんを中心に社員たちが輪を作っていた。彼はどうやら前日に起こったことを話しているようで、ときおり周りからどよめきが起こっている。
 そして話を聞き終えた社員たちは、律儀に慰めの言葉をかけてくれた。
 浜岡さんは意識不明の状態が続いているようだ。早くに夫を亡くし、子どもがいないため身寄りがないのだそうだ。
 もうあの家には帰ることはできない、そんな気がした。
 岩倉さんの様子に変化が起きたのはその翌日だった。快活な性格だったのだが、ぶつぶつと独り言を呟くことが多くなり、やたらと周囲を気にするようになった。そしてしだいに人と話さなくなっていった。
 このままでは業務どころではない、とほかの社員が咎めても状況は好転しなかった。それどころか、彼の口調は徐々に興奮したものになっていく。

「まったく、どいつもこいつもなんでもうちに相談すればいいって思いやがって。迷惑な話ですよ、人を小間使いかなんかだと思ってるんだ」
「ちょっと岩倉さん」
「いいから聞けって。そもそもこんな仕事嫌なんだよ、だけどさ親父がここなら安泰だからって無理やりさ。だからこんな目に遭うんだ。誰だよ! ぼそぼそのこと話してるのは!」

 明らかにおかしいと感じているのは私だけでない。店内にいる社員の視線が集まっているのがその証左だ。それでも彼の悪態は止まらない、それどころかどんどん声量が大きくなり、口角に泡を吹いて誰もいない空間に向かって叫ぶ。

「ちょっと、岩倉さん」
「うるせえ!」

 さすがに看過できる状態ではなく、止めようとした社員の手を乱暴に振り払って彼は立ち上がった。
 血走り開ききった目、歯を剥き出しにしてよだれを垂らす口、不自然な前傾姿勢で握られた手は白くなっている。

「死ねばいい、この町の人間はすべて死んでしまえばいい」

 彼の声に甲高い女性の声が混ざっている。

「死ね、死ね死ね、しねしねしね」

 壊れたスピーカーのごとく、呪いの音叉が吐き出されていく。
 しかしそれも長くは続かなかった。
 突如白目を剥いて勢いよく後ろへ倒れていき、後頭部付近から鈍い音を鳴らしたのだ。
 彼が緊急搬送されるのを見届けると、倦怠感が一気に重く覆いかぶさってきた。

「事務の石川さん、早退させました」
「ありがとう」

 誰もが多少なりともショックを受けているが、とりわけ怯えて泣いていた女性社員を帰宅させた。
 残っている社員も心配だが、それよりも岩倉さんだ。尋常ではなかった。
 ストレスや不満が爆発して、というわけではなさそうだ。あの言動や顔つき、そして声。あれではまるで浜岡さんと同じではないか。
 立て続けに起こる不可解な現象、これがもし私が予想していたとおりであるなら、逢坂さんが予見していた『恐ろしいこと』なのだとしたら。
 まだはじまったばかりだ、と誰かの声が聞こえた気がした。

 町中を往来する人が極端に少なくなった。本格的に冬が到来したことも関係しているとは思うが、例年より静かな年末がやってきそうだ。
 去年と同様に喪服で身を包み、単身で希実の家へとやってきていた。
 ひとりで訪れるべきではないのかもしれない、浜岡さんや岩倉さんのことがあるから尚更だ。けれどそれは私にとって、希実の家を避ける理由にはならない。
 彼女がいなくなった空間は色彩を欠いて映る。床や家具には埃が積もり、動くだけで舞い上がる。なにもかもが手付かずのままで残っている。
 そう遠くない将来、彼女たちが長年生活していたすべては取り払らわれて、リフォームされて新しい住民を迎えるようになるだろう。
 仏壇に手を合わせても寂しさは感じない、彼女がいない空虚さがあるだけだ。
 彼女が亡くなった時に残したもの、それは真っ白なままの便箋に電話帳、そしてスマートフォンだ。

「どうすればいいの」

 状況は留まることなく悪化していくのに、思うように前に進まない。
 彼女のことを考えれば考えるほど、想えば想うほど、わからないことが増える。
 集会所で田崎さんたちに白紙の便箋を渡して、妄想のたぐいを喚き散らしたと聞いている。
 なぜ、どうしてそんなことをしたの。
 あれほどそばにいて言葉を交わし、横顔を見てきたはずなのに、今は遠くなったおぼろげな背中を追いかけているだけだ。
 仏間から出てダイニングへと戻ってきた。そしてテーブルに両腕を枕にして身体を預けた。そうしていると彼女を感じられる気がした。
 彼女の妄想はいつも楽しいものだった。絵本に出てくる物語やファンタジーの話、時には恋の熱に浮かれる少女の話。
 思い出をたどっていくと、ふと引っかかりを覚えた。彼女の妄想はいつも楽しむことを目的に作られていた。モリガミサンの一件もそうではないか、気を惹くためではなくて、みんなで楽しもうとしていたのならば。
 けれど亡くなる直前に起こした行動はそれとは真逆だ。もしも、彼女の意思ではなかったのならば。そう、たとえば岩倉さんのように……。
 身体を起こして室内に希実の姿を思い浮かべる。朝起きてダイニングに入ってきて……。
 彼女の生活の導線をたどる。再現をするために冷蔵庫を開けて、換気扇をまわしてガスコンロのスイッチを捻る。
 希実はすべてを諦めたまま戻ってきた。いいえ違う、彼女はこれからの人生を生きようとしていたはずよ。思い出すのよ、お祓いをした理由は? 守上さんが話してくれた内容はどんなものだった?
 視界に映るものが色づいていく、淡い色をした家具や褪せた家電、どれも暗いものなんてない。
 初めは複数体の霊、続いて希実の異変、さらにバランスを失った新地区。浜岡さん、岩倉さん。規模は広がりつつある。
 木箱を紛失した——いいえ、盗まれたのだとしたら。でも誰が……頼まれた? 目的はなに?
 散らばっていた欠片が集まり、形を成そうとしている。
 木箱の存在を知っているのは一部の人間。明治時代、もしくは大正時代から町に存在している力があるもの。中山家だ。
 まとまりのない糸の先が結びついているもの。ほかでもないお祖父様である中山喜助だ。

「こうしていられない」

 急いで靴を履いていると音が聞こえた。
 ズルリ、ズズズズ。
 どこかで聞いたことのある音だ、廊下の奥から聞こえてくる。振り返ると明かりが消えている。
 ズズズ、ズズズズ。
 近づいてくる。こびりつくような音は禍々しくこの世のものとは思えない。
 逃げなくては。
 慌ててドアノブをまわし開いていく。前を向いた先に広がっていたのは黒一色の光景。
 夜になったからではない、これは。
 黒が蠢き、多数の点在する目が私を見ていた。



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