「私が嫌いな町」第21話
対峙
逢坂さんまでが犠牲になってしまった。自分の不甲斐なさを嘆いても悔やんでも、誰も帰ってこない。私たちだけでなにができるのだろうか。
彼女の車を借りて中山家へとやってきた。お祖父様も父もここにはいない、それがわかっていたからこその選択だ。
藤戸さんはここまでの間一言も話さなかった。しかしその目は絶望など映しておらず、揺るぎない決意を宿している。
「中山喜助さんの居場所はわかりますか」
「聞いてみます」
この家は広いだけでもはやなんの思い入れもない、生活に必要なものが置いてあるだけだ。藤戸さんを後ろに母の部屋を目指す。
予想どおり彼女は自室にいた。監視されているわけでもないのに、きっちりと正座をしてテーブルに切り花を広げている。
「お母さん」
声をかけても返事どころか見向きもしない。黙々と花を愛でているだけだ。
「お祖父様の居場所を教えて」
さらに問いかけても反応はない。空虚だ、この人はずっとこうだ。
「お母さんなら知っているでしょう? お願い、教えて」
どれだけ懇願しても母は反応しない。すると背後にいた藤戸さんが、足早に母の対面へと移動した。
「初めまして、逢坂調査事務所の藤戸と申します。わけあって早希さんと行動をともにしています。簡潔に説明します、御影新町に大変なことが起きています。そのために時田希実さんや私の上司も犠牲となりました」
口調こそ丁寧だが、藤戸さんは抱える感情を隠そうとはしていない。
「それだけではありません。このままではもっと恐ろしいことが起きてしまいます。そしてそれを引き起こそうとしているのが中山喜助さんです。私たちはそれを止めなければなりません。ご助力いただけないでしょうか」
母はまんじりとも動かない。
「お母さん、このままではさらに犠牲が増えるの。もしかするとお母さんにも危険が及ぶかもしれないわ。お願い、力を貸して」
「あなたになにができるの」
手を止めた彼女の視線と言葉が鋭く刺さる。
「私のように生まれてからずっと、お祖父様やあの人の言いなりだったあなたになにができるのよ」
これまでとは違う、諦めと憎しみが込められた言葉。
母の言うとおりだ。反抗しているつもりだった、自分の意思で決めているつもりだった。でもつもりだっただけだ。そして最愛の人を失った。
「私はお母さんみたいになりたくない。でも一度くらい母親らしいことをしてくれてもいいじゃない!」
口にしてはならない言葉だとわかっているが、止めることはできなかった。
「この町や土地が嫌いよ、大嫌い。だけどあの子が、希実が生きた町なの。それまで失うわけにはいかないの! だから、だからお願い……」
感情的になればなるほど心が痛む。
「顔を上げなさい」
どこまでも冷たい母の視線、たじろぎそうになるが逸らすわけにはいかない。
「……お祖父様なら守上の土地にいる。気をつけなさい、お祖父様もあの人も大勢の人を集めています」
「ありがとうございます」
藤戸さんが立ち上がり、深々と頭を下げて室内から出ていく。
「お母さん、ありがとう」
母はもう私を見ていなかった。振り返ることなく私は藤戸さんを追いかける。
砂利が敷き詰められた地面をタイヤが抉る。
「行きましょう」
三度目となる道、隣に希実はもういない。藤戸さんだって同じ心境だろう。だけど諦めることはない。目指す山林は見えている。
曇天の下、冬枯れに色を変えた山々は寒々しく侘しさを感じさせるが、そんな感傷すら吹き飛ばしてしまうものがあそこにはある。
静まりかえった住宅の間を抜けて、田畑が広がる塗装のない道を進む。
不安や恐怖、怒りに悲しみ、ありとあらゆる感情が複雑に駆け巡る。
希実、もうすぐ終わるからね。
手汗でハンドルの上を滑りそうになる。気を強く保ちアクセルを踏む力を調整する。
前回と同じ場所に車を停めたが、決定的に違う点がある。
見慣れない車が数台、身勝手な位置で停まっている。もぬけの殻となっている車を横目に、山林へと続く細い道に足を踏み入れる。
すでに先客がいる。この先どんなこと待ち受けているのか想像すらできない。
「早希さん、行けますか?」
「はい」
あの場所を目指して、もう一度進む。
鬱蒼とした木々のトンネルが続く。以前よりも乾燥した地面は硬く、落ち葉が積み重なっている箇所は踏みしめるたびに音が鳴り、否が応でも緊張が高まる。
それだけではない。
夏に訪れた時とは違い、山林に入ってからひどく寒いのだ。厚手のコートを羽織っているが、身に染み入るものがある。
先頭を行く藤戸さんの様子は、背中と白い吐息からしか判断することができない。
その吐息の間隔が短いところからして、彼女も緊張しているのが伝わってくる。そしてときおり立ち止まっては、地面を見て周囲を確認する。
相変わらず生物たちの気配がない、それなのに山全体が騒いでいる感じがする。
道順は単純だったと記憶している。それなのに方向感覚が狂わされる、どこかで道を間違えたのではないかと思えてくる。
「待って」
彼女が後ろ手で私の歩みを止める。その意識は前方に注がれているようだ。わずかに身体を逸らして視界を確保すると、巨木を中心に道が別かれている。その根本になにかある。
さらに緊張が高まり呼吸が乱される。一歩ずつ進んでは止まる。それを繰り返して距離を縮めていく。
どうやら人間で間違いなさそうだ。手足を投げ出しており、動く気配はない。場所が違えば呑気に昼寝をしているだけに見えるだろう。
しかし、ここにそんな穏やかなものがあるはずがない。
さらに歩幅を狭くする。突如起き上がり襲いかかってくる、そんな場面が脳裏をよぎる。
「大丈夫です、この人はもう」
藤戸さんの隣に並ぶとその理由がわかった。生命の脈動は活動をしていない、頭部と腹部からの出血がそれを物語っている。
「田崎さん」
長年自治会長として町に貢献してきた成れの果て。衣服は汚れて、全身が血と土にまみれた姿がそこにはあった。苦悶に満ちた表情が、彼の最期が楽なものではなかったと訴えている。
少しの間、無言のまま手を合わせた。
「彼はこちらからきたみたいです」
藤戸さんが左の道を指すその先に、不規則な血痕が続いている。再び彼女が前に出る、そして初めて振り返った。
「今ならまだ戻れます」
私にだけ向けられた最後通告。もしここで引き返すことを選んでも、彼女はひとりで進むだろう。
ゆっくりと首を振る。もう戻れない、戻るべき場所などない。
どう捉えたのか、彼女は少しだけ微笑んだ。
守上邸は地獄絵図そのものだった。
円形に開かれた敷地内の至るところで人が倒れており、地面には夥しい量の血が流れている。
藤戸さんの指示に従い、そばの木々に身を隠して様子を窺うことにした。
生きているのかどうか、遠目からでは判断できない。
風に乗って濃厚な血の匂いが漂ってくる。
目を背けたくなる光景にも関わらず、平静を保てているのが不思議だ。現実味がなく映画の撮影でも見ているようだ。合図がかかれば何事もなくみんな立ち上がり、笑顔で肩を組み、互いの演技を讃えあう。
だがこれは現実で、死を間近にしている。
惨劇はすでに終わったのか、動きがないまま時間だけが過ぎていく。ほどけた緊張の合間に力を抜くと、守上邸の中から人があらわれた。
どこか負傷しているのか足取りがふらついている。飛び出そうとしたのだが、藤戸さんに制止された。
あらわれた女性は項垂れたまま縁側から庭へと出て、幽鬼さながらにこちらへと向かってくる。分泌された脳内物質が神経を伝い慌ただしく巡る。汗で額に張りついた前髪が煩わしい、しかしそれどころではない。
ユラリ、ユラリと女性は近づいてくる。身を隠しているが、相手側から見えているかどうか確かめることはできない。
数メートル離れた位置で女性は歩みを止めた。髪に隠れて顔は見えないが、こちらの様子を窺っているのは確かだ。
さらに身をひそめて、静かに細く息を吸い吐いていく。
ザリ、ザザ。
再び歩きはじめたようだ、奇妙な間隔で鳴る足音はだんだんと遠ざかっていく。
方角からして山林を突っ切っているようだ、どこへ向かっていくのだろうか。
藤戸さんが警戒しつつ、庭へと慎重に進んでいくので後に続く。
赤い泥がつかないように地面の隙間を探して、倒れている人たちの顔をひとりずつ確認していく。
年代、性別など関係なく平等に息絶えている。見知った顔もちらほらとあるが感傷に浸る余裕などない。
こちらが持つ情報と状況から、この人たちは開発の関係者、各派閥の人たちだろう。
倒れている人たちを眺めていると、一瞬だけ全身が冷や水を浴びせられたように寒くなった。
冷えたのだろうか、なにかが重なったように身体が重くなった気がする。
「惨い」
藤戸さんが口を手で抑えて、くぐもった声を出した。心なしか顔色が悪い。
彼女のそんな反応が不思議で仕方がない。この人たちはこうなるべくしてここにいるのだ、いうなれば私利私欲にまみれた結果、因果応報だ。
ほんの少し胸の辺りが痛んだ。
よく知っている痛みのはずだが、はっきりとはわからない。
「藤戸さん、ここからは私が先に行きます」
水分を含んだ地面、まだ新しい靴が赤い水たまりを跳ねる。
なんだかそれが楽しくて気分が高揚してくる。子どものころ、水を跳ねて遊んだ感覚を思い出す。
しかしそれも長くは続かず、縁側へとたどり着いた。
ここは大広間だろう、開け放たれている。そこかしこに血痕が飛び散り、畳の上は土だらけだ。
予想どおり守上邸は荒れていた。守上さんが生活をしていた痕跡が、乱雑にばら撒かれて踏みにじられていた。
奥の部屋で壁に背を預け、項垂れて足を投げ出しているお祖父様の姿があった。わずかに肩が上下している。
「まだ息がある」
藤戸さんはお祖父様のそばに膝をついた。
「大丈夫ですか?」
返答はない、そう長くはもたないだろう。
彼は咳き込み、吐血をした。
「お祖父様、早希です」
話しかけると、その顔が上がる。
「早希、どうしてここに」
「お母さんから聞きました」
は、は、は、とお祖父様は途切れながら笑い声を出した。
「そうか、あれがか」
話をしている間も、藤戸さんは出血の多い腹部をなんとかしようとしてくれている。
「私たちの代で終わりにしようと思った」
目に灯る命の火が今にも消えようとしている。
「忌まわしい過去など忘れて……だから新地区を、再開発を」
ゴポリ、と口から血の塊が溢れる。
「神社に」
再び顔が下を向くと、お祖父様の呼吸は止まった。
「亡くなりました」
悲哀が込められた言葉。なにも感じない、むしろ愉快ですらある。けれど笑ってしまいそうになるのを舌を噛むことで抑えた。
「早希さん……」
お祖父様の手を重ね合わせる。
「ありがとう」
ありがとう、死んでくれて。
「藤戸さん、神社に行きましょう。あの二又の右側が神社へ続いています」
あとは父だけだ。
分岐点で転がっている田崎さんを一瞥して、朽ち果て崩れかかった鳥居の前までやってきた。十数段程度の湿り気を帯びる、苔むした石段を上がると壮年の男性がこちらに背を向けて佇んでいた。
「お父さん」
久しぶりの再会なのだが、振り返ってこちらを見る父の目に温かいものはない。
「じいさんはどうした」
父の問いかけに無言で返事をする。
「そうか」
この男はいつもそうだ、母や私がなにを言っても『そうか』の一言で終わらせる。
おおらかで野心家、それが世間でのこの男の評価だろう。
だけど本質は違う、この男にはおおよそ感情と呼べるものがないのだ。大口を開けて笑い、能動的に物事を進める。そんなもの上面だけのまやかしだ。だからお祖父様は私に後を継がせようとしていた。
「あなたはなにをする気なのですか?」
藤戸さんが一歩前へと進み出る。
彼女が誰で、なぜここにいるのか、そんなことも関心がないように父はまた背中を向けた。
「大勢の人の命を犠牲にしてまで、あなたはなにをしようとしているんですか!」
藤戸さんは右腕を抑えるようにして、さらに一歩前へ出る。今にも飛びかかりそうだ。
「町を造るんだよ。早希、お前は知っているだろう。御影新町と名付けられた由来を」
こちらがどう反応しようと構わないのだろう、父は話を続ける。
「くだらないと思わないか。この町は先達たちが犯した罪に囚われて変わろうとしない。それどころかその事実すら隠蔽しようとする。その結果があの惨状だよ」
おそらく守上邸でのことを言っているのだろう。
「だから私を慕うものたちを利用させてもらった」
父は臆面もなく、彼らを利用したと言い切った。
「そんな大それたこと……あなたひとりでできるわけがない!」
藤戸さんの叫びには、信じたくない、そんな願いが込められているようだった。
「ひとりではないわ」
忘れ去りたい過去の記憶がよみがえる。
神社の境内からひとりの女性がこちらに歩いてくる。
そんなはずがない……確かにこの目で見た、彼女が死んでいるのを。
「お久しぶりね、早希さん、藤戸さん」
彼女の名は守上蓉子。死んだはずの女性。
「どうして……」
驚愕する私たちが面白いのか、守上は、ふふふ、と上品に笑う。
「どうしてもなにも私はここにいますよ。ああ、そういえば早希さんが発見してくれたのでしたね」
守上は両手を握り開いて、片足で地面を叩く。
「死んだはず、でしょう」
ふふふ、とまた笑う。
「どこで私だと思ったの? 顔は潰していたはずだから、髪型? それとも体型かしら。ああ、もしかすると服装かもしれないわね。でも残念だけどあれは別人の死体。もうひとつ付け加えるなら警察はあてにしないことね」
自信に満ちた表情や人を見下した態度、これが本来の彼女なのだろうか。
そして考えは見透かされている、ここへくるまでの間に警察へ通報をしている。最悪、時間稼ぎをすればいいと思っていた。
「そうそう、希実さんは亡くなったそうね。教えてほしいのだけど、どんな最期だったの? 孤独に苛まれたままだった? それとも憤怒を抱いていてもがき苦しんだ?」
隠しているが、愉悦で口元が歪んでいるのは明白だ。
「待って、当ててみせるわ。霊に憑かれたあげく、町の人たちに殺されたのね。その胸中はきっと失意や絶望に満ちていた」
鉄臭い液体が口内に広がる。噛み切った部分に痛みはない、熱く疼くだけだ。
「あなたの仕業だったの?」
「どのことを言っているのかしら。あの子の母親に木箱を渡したこと、その目的が霊を鎮めるものではなくて神部たちの霊を目覚めさせるものだったこと。それとも……家に仕掛けをしてあの子やその家族を生贄にしたことかしら」
「いけ、にえ?」
狂ったように守上は笑う。心底愉快で堪らない、と嘲り嗤う。
「そう、そうよ。私はねえ、神部貞光の子孫なの。彼女のことを調べたのなら知っているわよねえ」
がらりと守上の様子が変わり、呼応するように神社の周囲に禍々しい雰囲気が漂い出す。
「まさか、神部貞光が身籠もっていたのは……」
「ええ、そうよ。御影新町が開発された時に、神部は反対派のひとりであった私の曾祖父と恋に落ちた。そしてそれまでのおこないを彼女は悔いた。その罪滅ぼしのために、自分の子に、私たちに代々この地を見守っていくことを押しつけた」
父が拝殿に歩み寄り、なにかを持って戻ってきた。そしてそれを守上へと渡す。
「私はね、私を縛りつけるこの町が、この土地のすべてが憎いの。この人はその協力者。この町がめちゃくちゃになった後で、彼がまた町を造るのよ。何者にも何事にも囚われない自由な町をね」
「狂ってる……」
「狂っているのはこの町よ。早希さん、あなたのお祖父様がみんなを守ろうとしていたことは知っているの?」
そんなもの知るわけがないし、考えたことすらない。
「新地区が依代なのは話したわね。それは同時に旧地区を守るためでもあった。先祖の罪を子どもたち、孫たちに背負わさないために。だから木箱を盗ませた、自分で決着をつけるために」
「木箱の本当の役割は一体なんなのですか」
守上は木箱を地面へと置き、その上に足を乗せる。
「これは神部貞光の霊をこの世に留めておくもの。彼女の死後も人柱となった霊魂たちを慰めるためのね。まあ、定期的にメンテナンスが必要だけど。けれどもそんなものだけで犠牲になった霊たちが満足すると思う? 求めているのよ、この町の住民たちの生命を、関わった人々の魂を。この土地は死者たちの思念や怨念が渦巻いている。そして生者を招き寄せて、魅了させる。そのことに気づいていたあなたの祖父は、責任者のひとりとして自らを犠牲にして鎮めるつもりだった。でももう手遅れよ。この箱はすでに役割を終えているわ」
彼女は木箱から取り出した書物を破りちぎっていく。その紙片は風に流されていく。
そしてとうとう石を取り出した。
あれを壊してはいけない、本能が訴えかけてくる。
私たちは石を奪うべく、駆け出して手を伸ばす。しかし地面に叩きつけられた石は、衝撃に耐えきれず砕け散った。
ゔゔぅぅぅぅゔ。
あああああ。
おおおおおおおお。
どこからではない。全方位からこの世ならざるものたちの、怨嗟の呻き声が響き渡る。山林や石畳の隙間、拝殿の隅、ありとあらゆる場所から黒いものが這い出てくる。やがてそれらは人の形を成していき、蠢きはじめた。
藤戸さんと背中合わせになるが、どこにも逃げ場はない。包囲網は徐々に狭められていく。
守上たちから目を離したのはわずかな時間、その合間に物音がした。
父が倒れていた。
そばに立つ守上が握っているのは、鈍く銀色に光る刃物。そこから地面に液体が滴り落ちていく。
「町を造るなんて嘘よ。もうこの人も用済みなの。あなたたちが最後の生贄」
もはや怒りなどといった生温いものではない。私の心身を支配するのは、はちきれんばかりに膨れあがった殺意。
縊り殺してやる、この両手でおまえだけは殺す。いいや、それじゃあ足りない。生きたまま埋めてやる。四肢を折り目をくり抜き、喉を潰して耳と鼻を削いでやる。私たちがそうされたように。
殺す、殺したい、殺された、苦しめ、苦しめられた、苦しませてやる!
「あああああぁぁぁ!」
口から私のものでない声が溢れていく、ひどく冷たくて寒い。私の意志や想いが黒く塗りつぶされていく。
「そうだったのね。早希さん、あなたはもう……ふふふふ」
こちらを見て、眼前の女がけたたましく嗤う。
「早希さん!」
ふわりと身体を誰かに抱きしめられた。優しくてやわらかだけど力強い抱擁。
「やめて、早希さんは関係ないの。彼女は大切な人を亡くして、もがいて苦しんで、それでも生き続けようとしているの」
抱きついている藤戸さんもろとも、じりじりと身体が前へ進む。
それでもあの女は、ケタケタと嗤うのを止めようとしない。
「彼女を連れて行かないで……」
ぽたりと首に雫が落ちた。
「苦しかったですよね、つらかったですよね、憎いですよね、許せないですよね……それでも、それでもお願い、彼女まであなたたちと同じにしないで!」
叫びとともに藤戸さんの想いが流れ込んでくる。どこまでも安らぎと慈愛に満ちた、温かな想い。
「ぐぐぐぐがががぁぁ」
天に向けた口から、黒い靄が凄まじい勢いで宙へと流れ出ていく。それは空中で形を変えながら彷徨っていたが、頭上で止まり揺らめく。
すると蠢いたものたちも靄へと姿を変えて、頭上のものと合わさり、そのすべてが守上の周囲を漂う。
彼女は振り払おうと手足をバタつかせるが、靄は消えるどころかその存在を濃くしていく。
だがそれだけでは終わらなかった。
ズルリ。
あの音が聞こえた。
ズズズ、ズズズズズ。
拝殿の扉が開き、あらわれたのは白装束らしきボロ布を纏ったものだった。わずかに残った長い頭髪、空洞の眼窩、前に突き出した両手には腐った肉と皮がこびりついている。
ズルリ、ズルリ。
引きずっているのは白装束の名残なのか、それとも張り付いた皮膚なのか。
守上は気がついていないのか、靄を払おうとずっともがいている。
ズルリ、ズルリズルリズルリ。
それは迷子になった子どもを見つけた親のように、彼女を抱きしめた。
ふふふふ、あははは。
歓喜の声、なぜだかそう感じてしまった。
そしてどこまでも昏い靄が彼女たちを包み込んだ。
