【靴底のガムと消えないミント】第一話 真昼のベランダ
締め切り前夜の修羅場をどうにか乗り切ったその足で、私は近所のバーでテキーラを浴びるほど飲み、なぜかビルの屋上から高級マンションのペントハウスへ不法侵入していた。
正確には「侵入してやろう」という邪悪な意志があったわけではない。ただ、頭が割れそうに痛みだし、夜風にあたろうとフラフラとビルの屋上に登ったら、目の前にやたらと広い、手すりの低いバルコニーがあったのだ。そこがまさか、弁護士の部屋だったなんて、酔っ払いの私には知る由もない。
ふかふかしたガーデンチェアを見つけた瞬間、私はそこに吸い込まれるように倒れ込み、シャツを頭からすっぽり被って、文字通り死んだように眠りこけた。
*
「君、ここで何をしている」
頭の上から、氷をぶっかけられたような冷たい声が降ってきたのは、翌日の昼過ぎだった。
いや、正確には時計を見たわけじゃないけど、太陽が自分の真上にあったら、それは立派な昼である。自分の名前に反して、私の「真昼」はだいたい夕方近くになってからしかやってこない。
「うるさいなぁ……」
私はうめき声を上げながら、頭から被っていたシャツを引き剥がした。
目の前に立っていたのは、目の覚めるような明るいネイビーのスーツに身を包んだ、背の高い男だった。きっちり結ばれたネクタイ、寸分の狂いなく整えられた前髪、そして私の存在のせいでこの世の終わりみたいな深いシワが刻まれた眉間。
「君、誰だ。どうやってここに入った」
この完璧な身なりの男は、まるで汚物でも見るような冷ややかな目で私を見下ろしている。寝ぼけ眼で辺りを見回す。男の足元の一歩先には私のスニーカーの裏から剥ぎ取られたのだろうか、微かにネバついたガムがバルコニーの床にこびりついていた。
あ、やば。この人、多分めちゃくちゃ怒ってる。
私はボサボサの髪を掻き上げながら、だらしないであろう顔で笑った。
「そんな怖い顔して眉間にシワ寄せてさぁ、そんなイライラしてるとすぐハゲちゃうよ」
「誰がハゲるだ。いいからそのふざけた態度を――」
「あ、待って、動かないで」
私は彼の言葉を遮り、彼のスリッパの爪先をじっと凝視した。
「何だ」
「……あーあ、私のスニーカーについてたガム、踏んじゃった。ごめんね、ガムってさ、取ろうとすればするほどネバネバして厄介なんだよねぇ」
男の顔が、怒りを通り越して引きつった。
「……その図太さはどこから来るんだ。勝手にバルコニーに入り込んだ住居侵入罪に、スリッパをガムで汚した器物損壊罪。すみませんで済むとでも思っているのか?大体、君は誰なんだよ」
「済むと思ってないって。ほら、見てよ。名刺」
私は財布から自分の折れ曲がった名刺を引っ張り出し、彼の目の前にヒラヒラと泳がせてみせた。
「イラストレーター 桐島まひる。漢字で書くと『真昼』。『夜型のクセに真昼って名前なんですか?ウケるー』って、飲み屋で知り合った男にも言われたっけ。ねえ、あなたが何者かは知らないけどさ、あなたのそのカチコチの人生にも、たまには予想外の真昼の光が差し込んでもバチ当たんないでしょ?」
男は絶句していた。
見るからにカタブツなこの男のペースを、ここまで見事に乱せる人間は世界中を探しても私くらいのものかもしれない。
彼はしばらく私を睨みつけていたが、やがて諦めたかのような溜息をついた。その眉間のシワの深さに、私はなぜか少しだけ胸がこそばゆくなるのを感じた。
「……いいから、さっさと出ていってくれ。コーヒーを淹れる。それを飲んだら、警察署まで一緒に行ってもらうからな」
「えー、コーヒーブラック? あとトーストも欲しいな。できれば厚切りで」
「いい加減にしろ!」
男は私の腕を強引に部屋の中へと引っ張っていく。
その背中から、かすかに漂ってきたのは、キリッとしたミントの香りだった。
――あの日、私のスニーカーの底にこびりついて離れなかったガムのように、この男の匂いと存在が、私のろくでもない日常にベッタリと絡みついてくる予感がしていた。
