サッカー界の大いなる波紋、音楽の静かなる反抗。
一体、誰のものか──FIFA・BTS・マッシヴ・アタックの夜に
ここ数日、一見すると無関係な二つのニュースが世界を駆け巡った。
一つは、欧州サッカー連盟(UEFA)が、国際サッカー連盟(FIFA)主催のW杯などへの全面ボイコットを、加盟55協会の満場一致で決議したというニュース。FIFAが大会の商業運営を担う新子会社の株式を最大2割、外部投資家に売却しようとしたことに対し、UEFAは「W杯は売り物ではない」と声明を出した。「外部投資家が所有権を取得した瞬間から、サッカーは永遠に変わってしまう」──そう名指しされた変質への恐れは、思いのほか率直だった。
もう一つは、BTSがグラミー賞へのエントリーを見送るというニュース。きっかけは、グラミー賞が新設した「最優秀アジアンポップミュージックパフォーマンス」部門だったという。K-POPを含むアジアの音楽に専用の枠を用意すること自体は、一見すると敬意の表れにも見える。けれど当のBTSは、そこに乗らなかった。「音楽が地域や言語で区分されるより、音楽そのものとして聴かれ、愛されることを願う」というメンバーたちの言葉には、枠を用意されること自体への、ある種の違和感がにじんでいた気がする。
ジャンルも当事者もまるで違うこの二つの出来事に、なぜか同じ手触りを感じてしまう。
「古いシステム」が、現場で育った「熱量」を、自分たちの都合のいい形に収めようとする。FIFAにとってそれは投資家向けの利回り指標であり、グラミー賞にとってはおそらく、権威を保つためのキュレーションの枠組みだった。どちらも悪意というより、既存の仕組みを守ろうとした結果なのかもしれない。それでも現場の側は、「自分たちが生み出している熱は、そちらの都合で測られるものではない」と、静かに、しかしはっきりと拒んだ。
この一連の動きを追いながら、数日前のフジロックの夜のことを、また少し違う角度で思い出していた。
マッシヴ・アタックのステージについては、以前ここにも書いた。あの夜感じたのは、個人の切実な声が「反体制」といったラベルに回収されていくことへの違和感だった。ただ今回、FIFAとグラミーのニュースを追ってあらためて気づいたのは、同じ数日のうちに既存の「権威」に対するリアクションが根底では似ていること。
サッカー
音楽
マーケットにすると、それはとんでもない数字にはなるのはいうまでもない。果たして、それらを数字のお化けを権威にしていいのかー?
貼られるラベルと、変換される数字。どちらも、個人の切実さをそのままの形では扱えない、というところは似ている…そんな風に思える。
FIFAの株式売却も、グラミーのアジア専用枠も、悪意から始まったわけではないのだろう。既存の仕組みを保つための、いわば合理的な判断だったはずだ。ビジネス目線ーそれはつまり「お金」でいえばだ。
それでも今回のニュースで読み取れる文脈は、はっきりと拒んだ。「これは、そちらの都合で測れるものではない」と。
「スポーツに政治を持ち込むな!」と声があり、
また
「音楽に政治を持ち込むな!」共いう人がいる。
気分はわかる。
しかしー経済行為もユニフォームに縫えられた国旗も、言ってみれば、全て「政治」なのだ。
その扱いにくさとどう付き合っていくか。答えはまだ、まだ先かもしれない。
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