まわる、めぐる、水回り

シロクマ文芸部|洗面所
眠らない街の、あるいはとっくに夢のなかへ落ちていった街の、それぞれの気配が暗闇に溶けていく時間。
壁一枚の隔たりもなく、まったく違う場所にある三つの洗面所で、三つの蛇口が同時にひねられた。
郊外の古いアパート
蛍光灯のグローランプが「チカ……チカッ」と頼りなく瞬き、やがて「ジジ.....」っと白い光を定着させる。
鏡に映る洗いざらしのTシャツを着た男は、蛇口の根元から滲み出す小さな水漏れと静かに向き合っていた。
錆びついたナットにモンキーレンチをあて、ほんの少しだけ力を込める。
「……まあ、こういう日もあるよな」
独り言は狭いタイル張りの壁に吸い込まれ、水道管の奥でうねる低い水音だけが返事をした。
劇的な展開などない夜の真ん中で、彼はただ自分の手元の不器用さに苦笑する。
都心のタワーマンションの高層階
間接照明だけが落とし込まれた大理石のカウンター。
ガラスのボウルに、ぬるま湯が静かに満たされていく。
ブランドものの美容液のスポイトを押し、一滴、黄金色の液体を手のひらに落とした女は、ふと動きを止めた。
幾何学的な鏡に映る自分はどこか完璧すぎて、かえって実感が薄い。
窓の向こう、幾千ものネオンが広がる夜景の果てに、自分という存在が希薄に溶けていくような気がして、思わず蛇口を強めにひねる。
ジョロロ、と奔流のような水音が、静かな空間を冷たく切り裂いた。
彼女はゆっくりと両手で頬を包み込み、街のざわめきを遠くに聞きながら、ただ自分のための静かな時間を確かめるように息をついた。
静まり返った田舎の古民家
天井の梁から吊るされた裸電球が、微かに揺れている。
ピンク色のプラスチックの桶のそばで、小さな子供が背伸びをして必死にレバーを押し下げていた。
「よい、しょ……っ」
やっとの思いで水を出すと、勢い余って自分の袖をびしょ濡れにしてしまう。
「あっ」
濡れた袖を見つめて目を丸くしたあと、子供は誰も怒る人のいない夜の気配に向かって、ふふっと笑った。
窓の隙間から流れ込む虫の音と湿った土の匂いが、その小さな失敗を優しく包み込んでいく。
三つの場所で、三つの水音がそれぞれのリズムを刻んでいく。
レンチの金属音、大理石に響く豊かな水流、そして古びた水道管の唸り。
世界がどれほど広くても、夜の静けさがどれほど深くても、それぞれの洗面所の蛇口から流れ落ちる水は、ただ同じ重力に従って足元へと吸い込まれてゆく。
それぞれの時間が、いま、静かに水に濡れていた。
----------------------
あとがき
顔を洗い、歯を磨き、渇きを潤す。
ただそれだけの場所。
夜の洗面所には、それ以上の特別な意味などありません。
けれど、ひんやりとしたタイルの感触や、鏡に映る青白い光の中に身を置くとき、どうしようもない夜の気だるさが、静かに身体の奥へ染み渡っていくのを感じます。
世界のどこかで、同じように水を流している誰かの気配をぼんやりと思い浮かべながら、わたしもまた、ただ静かに夜をやり過ごしているのです。
