人間は1400年間もっとも美しい姿に創造され続けていたのか?
無花果とオリーブ
《ワッティーニワッザイトゥーン》という美しいカサムで始まる《聖典クルアーン》「無花果章」。イスラームの信徒であれば礼拝の際に唱える方も多い章のはずだ。「無花果」「オリーブ」「そして、シナイの山」。30代の半分以上の期間をシリア、アレッポで研究生活を過ごした筆者にとって、「無花果とオリーブ」といったら、トルコ国境との間に広がるアフリーン地区のオリーブ畑の風景だ。几帳面なクルド人のせいかくそのままに規則正しく植えられたオリーブの樹々とそのところどころでアクセントを醸し出す無花果の木である。
シナイ山には行ったことがないが、山といったら、その昔イスタンブールの大聖堂ができるまでは、一帯で随一の規模を誇り、ヨーロッパからの巡礼者を集めていた柱上聖人で有名なサンシモン聖堂の跡を抱くザルジータ地区のシャイフ・バラカート山だ。
とりわけ、国境を跨いで広がるオリーブ畑のオリーブと無花果の組み合わせは、クルアーンの読み上げの際につねに刷新され続ける脳裏に焼き付いたイメージである。祈りのたびに、あるいは、読誦のたびに絵が浮かぶ。ものすごく親しみのある聖句だ。
「もっとも美しい姿に」
その第4節、つまり、これらにかけてアッラーが宣言するのが、その第4節「ラカド・ハラクナルインサーナ・フィー・アハサニ・タクウィーム」である。「ラカド لقد」は強調の副詞、「ハラクナルインサーン」は、これを単語に区切って書き下せば、「ハラクナー خلقنا 」(われらは創造した)、「アルインサーナ الإنسان 」(人間を)となる。ここまでは、自分のアラビア語の知識とも合致しているので、とりあえず腑に落ちる。問題はそれに続く箇所だ。
日本語対訳によると「われらは、人間をもっとも美しい姿に創造した」とある。何と美しい聖句であることか。いま見てきたように、「われらは」と「創造した」の部分に違和感はない。ところが、もっとも美しい姿に」の部分をアラビア語の明文と比較対照してみたとき、素朴な疑問が浮かび上がる。
もしも、自分の知っているボキャブラリーでこの部分を訳そうとすれば、「もっとも美しい」にあたるはずの「アジュマル أجمل 」や、「姿」にあたるはずの「スーラ صورة 」といった言葉を用いるはずであるし、明文がそうなっているのであれば、自分の粗末なアラビア語の知識とも合致する。ところが、啓示はそうはなっていない。「フィー في ・アハサニ أحسن ・タクウィーム تقويم 」となっているのだ。
アラブ人学生たちと話す
2025年4月、筆者は、アブダビのハリーファ大学の「イスラーム文化」(担当:ラビーブ・ブスール教授)と「日本語入門1」(担当:JICE(日本国際協力センター)から派遣されている小林裕美先生)のクラスでゲストスピーカーとしてアラビア語で講義を行なう機会に恵まれた。いずれも20年来あるいはそれ以上の友人である。
事前の情報によれば、同大学は湾岸屈指の先進的な科学技術系の大学で、理系の学生が多いという。そうであるならば、文学や社会学、あるいは言語学といった人文系の学問にはそれほど強い関心は持っていない学生たちのはずだ。むしろ、若い世代の一般的な受け止めを聞く稀有な機会と考え、この「フィー・アハサニ・タクウィーム」の意味について、延べ50名を超える学生の中の10名ほどに尋ねてみた。すると、答えは、ほぼ「フィー・アジュマリ・スウラ في أجمل صورة 」、あるいは「フィー・アハサニ・スウラ في أحسن صورة」つまり、日本語の対訳と類似の解釈を教えてくれた。
だからといって、学生たちの答えは決して間違っていない。たしかに、そうした、注釈は、現代のアラビア語の注釈書の中にも紹介されている。しかもそれが、啓示が降った1世紀に生きたムジャーヒド(ヒジュラ暦104年/西暦722年歿)、カターダ(ヒジュラ暦)117年/西暦736年歿)、あるいはタバリー(ヒジュラ暦310年/西暦923年歿)までさかのぼれる[1]となると、人間は、クルアーンが降ってあと、約1400年にわたって、「美しい姿に」創造され続けていたことになる。
「美しい姿」というよりむしろ
実は、この「アハサニ・タクウィーム」には、もう一つの解釈の系譜がある。ヒジュラ暦の3世紀にはいると、「タクウィーム」をごく初期のころの「姿や像」だけではなく、「直立」に整えらた状態に対しても着目するようになる。見た目の美しさから、「直立」自体が有する、機能性、そしてその意味といったところへ解釈が広がっていったのだ。6世紀のアッラーズィー(ヒジュラ暦606年/西暦1210年歿)は言う[2]。
「タクウィーム(تقويم)」とは、あるものを、その構成と調和において、あるべき形に整えることである。
「私はそれを整えた」と言えば、「それはまっすぐになった」「整った」と表現される。
そして、「この「最良の整え(أحسن تقويم)」が指す美しさについて、人々はいくつかの側面を挙げている」として、2つの説を紹介している。
①:神は霊を吹き込んだものすべてを顔を下にして(うつ伏せで)創られたが、人間だけは異なり、神は彼を背の高い姿で創られ、自分の手で食べ物を取れるようにされた。
②:アル=アサム(ヒジュラ暦279年/西暦892年歿、法学者、ムアタズィラ派の神学者)によるもので、「最も完成された理性、理解、礼節、知識、明晰な表現力において創造された」。
この二つの説をまとめると、最初の説は外面的な姿(形態)に、二番目の説はさらに踏み込んで、内面的な性質(精神・人格)に関わっていると言える。
時代は、大きく飛ぶが、一気に現代。たとえば、サーブーニーは、「確かに、われら(アッラー)は人間という種を最も優れた形で創造した。美しさと完全さを備えた特性をそなえており、容姿の良さ、直立した姿勢、器官の調和だけでなく、知識と理解、思慮と識別、言語と礼儀によっても飾られている」[3]とする。機能的な形態の素晴らしさにとどまらず、その語義の奥にある機能的・精神的・倫理的意味合いに対しても目配りして、注釈の射程は明らかには広がっている。
こうして、注釈学の成果を丁寧に見ていけば、そこには、この啓示に対する理解が深化し、多義性を踏まえた解釈の可能性が広がっていることがわかる。それはイジュティハードの門が、開かれていることの証左でもある。つまり、注釈学は決して、人間を単に美しい姿に創造され続けられるだけの存在としてはとらえてはいないのだ。
「タクウィーム」を構成する3つの語根
アラビア語を母語としない私にとって、アラビア語を、あるいはもっと端的に、聖典クルアーンをそれを母語とする人のように理解することは、かなり難しい。たとえば、「ラフマ رحمة」の語。日本語では「慈悲慈愛」。すでに4字熟語。しかも仏教用語でもあり、それが何かと問われても、実は、説明に困る。「思いやり」「慈しむ心」といってみたところでそれらは、言い換えでしかない。
これに対してアラビア語。「ラフマ」の語を「ラヒム」あるいは「ラフム」と読み替えただけで「子宮」を指す語になると知れば、母親の胎内に宿しているときのように、途絶えることのない愛情に包まれて絶対的に安心で安全で守られている状態がすぐに想像できるというもの。
アラビア語の単語は、その大部分が、3つの文字の並び(4つの場合もあるが数は少ない)を含んでいて、その3つが様々なパターンに乗ることによって語彙が形成されていく。ラフマの3つの語根は「ラー」「ハー」「ミーム」この3つの語根とともにラフマも、ラヒームも、ラフマ―ンも埋め込まれているということさえできそうだ。
「フィー・アハサニ・タクウィーム」も同じだ。たとえば、礼拝のとき、「フィー・アハサニ・タクウィーム」と唱えながらも、意味を思い起こそうとすると、「もっとも美しい姿に」という日本語訳に上書きされていってしまうのだ。そんなアジャム(アラビア語以外の話者)な私であっても、アラビア語が意識に言葉を刻み込むタイプの言語であることを知れば、むしろそこに現れる語彙群を意識する。そうすると、「もっとも美しい姿に」といっていたときにはまったく気づくことのできなかった聖句の意味がまた体に刻まれるのではないか。
「カーフ」-「ワーウ」-「ミーム」の言語空間
この3つの語が、タクウィームになるためのプロセスには少し説明が必要だ。まず、この3つを普通に並べるところから始めてみよう。「Q (ق)・W(و)・M(م)」。動詞にすると「カーマ قَامَ」となる。「立つ」「起きる」の意味だ。「カーマ」の真ん中の文字の上にシャッダ(文字が2つ重なっていることを示す記号)が付けてみよう。「カウワマ قَوَّمَ」である。これで他動詞になった。つまり目的語をとることができる。「~を立たせる」となる。この言葉を名詞にすると、「タクウィーム تقويم 」となる。「立たせること」である。アッラーズィーの注釈では、「カウワマ」に「整える」という意味があることが示されていた。もとは「立たせる」ということだ。整えられて立っているのだから、この語に「まっすぐにする」という意味があるのもわかる。整えられて、立っているのだからいるのだから上に積みあがっていることと関係するというのは、カーマとカウワマの語を並べてみれば想像がつく。
カーマの名詞形を「キヤーム قيام 」というが、日常的に「立つ」ことを表すほか、前置詞の「ビ بـِ 」と組み合わせれば、「~を行なう」という意味になる。アラビア語では「行なう」の根っこに「立つ」ことがあるのだ。日常的な行為のほかにも礼拝に立つときにも「カーマ」を使うことができるし、最後の日の復活も「キヤーム」だ。さらに「アカーマ أقام」とすれば、そのまま目的語をとって「~を行なう」。その名詞形「イカーマ إقامة」。国家の樹立、物事の実施、からアザーンに続く2度目の礼拝の呼びかけまでこれも広い意味を持つ。
地面に額する意味
もう少し長い言葉も見てみよう。ムスリムの辿るべき信仰のまっすぐ
な道、「スィラートゥ・ムスタクィーム」の「ムスタクィーム مستقيم」もまた、その名詞形「イスタカーマ استقامة 」は、「まっすぐであること」を意味する。
つまり、立つことなしに現世における人間の暮らしは起こりえない。2本の脚の上に腰があって、背骨があって、首があって、そして頭がその上に乗って、まっすぐのバランスが見事にとれているからこそ立ち続けられるのだ。これこそが「タクウィーム」の外からも観察可能なこの上ない機能的な素晴らしさだ。
そうやってよくバランスの取れている人間が、地面に額して祈る。祈ることもまたキヤームの語で言うことができるが、だからこそ、完全に服従を身体で表現する、まさにアッラーへの絶対服従、ウブーディーヤ عبودية を体現するのが、礼拝ということになる。
1日に数回はそうやって、創造主への全体的な服従を体で表す。そして、礼拝を終えたら、新たに立ち上がって、また歩み出す。
信仰のまっすぐな道を、踏み外せば、火獄へ堕ちるスィラートゥ・ムスタクィームだ。こうして、日々の暮らしも、信仰も、また来世での復活もすべてが「立つこと」に貫かれ、「立つこと」を大前提としているのだ。
「読み」とは
アラビア語ではこの3語根によって言葉が形成されるせいで、言葉は意識に刺さる、あるいは刻まれることになっているのではなかろうか。アッラーはすべてのものの名前をアーダムに教えたとおっしゃるが、このやり方ならば、可能かもしれない。アーダムとは人間一般の喩えでもある。人間である以上、必ず埋め込まれているコトバたち。そのコトバは、神秘主義者たちが「存在の一性」をもって、至高なる存在に近づくために、言わば、特権的に理解するだけのものではないはずだ。
このコトバは、心に身体に埋め込まれている。読もうとさえすれば、すべての人間に開かれてもいる。その読みは、明文と読み手の読みの間で新たに意味を紡ぎだし、それぞれの存在にかけがえのない意味を与える。その意味を知り、その身体的な行為をもってまずはこの世を生きることが存在の証明なのだ。
そのためには、クルアーンという「書」が守られなければならないし、その「読み」を欠くことはできない。ムスリムの社会では、聖典クルアーンの文言を暗記した人をハーフェズといって称讃の対象とするが、ここで不可欠なる「読み」とは、この「読み」のことではないし、意味の読み込みを伴わない「読み」のことでもない。
「イクラァ」(読め)
《イクラァ اقرأْ 》は、ムハンマドに降された最初のアッラーの御言葉。つまり、《聖典クルアーン》の最初の啓示だ。「読むこと」は、人間にしかできない。そして「理解すること」も。現にアッラーの99の美名の中に「読む者」も「理解する者」もない。これらは、もっぱら人間に委ねられている事柄だ。クルアーンは読まれることを待っている。理解されることを待っている。意味の理解を封印するハーフェズによって読まれ、シャリーアをタクリードの淀みに放り込むファキーフによって理解されるだけが、クルアーンの読まれ方ではないのだ。
このごろ人間たちは、男が女が、この世があの世が、天使が悪魔が、敵が味方がと何かにつけて2つに分けてはいないか。そうした2者択一に、決めつけと思い込みが作用して、多くの弊害と不要な戦いを招いてしまってはいないか。大切なのは、それを乗り越える叡智の求め。たとえば、男か女かに固執するのではない「ナフス」のレベルからの読み。そこで人の命は明白にかけがえのない者と聖典も教える。そう、新たな「読み」が求められているのだ。
門は開かれている
オリーブ畑の中でさえ2分して、人々の中を強いて敵味方に分けて、自分たちの民族のために命も財産も捧げさせようとするこの世の神たち。「民族」もまた「立つこと」の3語根からの言葉「カウム قَوْم 」だ。しばしば「神」に見間違うので、本当に注意が必要だ。その神たちは、ムスリム同士の間で、あるいは啓典の民同士の間でいまだに無残なそして愚かな殺し合いを止めようとしない。
だからこそ、カウムの一員としてより先に「人間として」聖典の言葉に向き合って、この時代にこそ求められている「読み」と「理解」を探究する時ではないのか。
ムビーンなアラビア語によって下された不易不動の聖典の明文は、その言語のあの聖句によって降ろされたからこそ伝えられるアッラーのコトバである。それは、つねに人間たちの新たな読みと状況に即した理解を待っている。注釈は時代とともにあるはずのもの。
ハリーファ大学の学生たちが教えてくれた「もっとも美しい姿に創造された」という解釈は、伝統的な解釈というよりむしろ審美性や「映え」を重要視するSNSの時代の要請だったのかもしれない。しかし、そこに「読み」はあるだろうか。聖典のコトバの意味を読み理解しようとする、イジュティハードの門はつねに開かれているのだ。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] タバリー『جامع البيان عن تأويل آي القرآن』第95章該当箇所を参照。ムジャーヒドおよびカターダの言説も同書に収録されている。
[2] アッ=ラーズィー『التفسير الكبير(مفاتيح الغيب)』第95章「أحسن تقويم」に関する注釈。
[3] アリー・アッ=サーブーニー『صفوة التفاسير』第95章該当節。「المراد من خلق الإنسان…」以下に詳細な説明がある。
Special Thanks to:
Prof. Dr. Labeeb Bsoul, Prof. Yumi Kobayashi. And their Colleagues and Students who attended to my Lectures.
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