玄関を出る前に、充電よりも先に確認したのは、彼の返事だった。
こんな人に、この文章を読んでほしい。
好きな人ができてから、鏡の前に立つ時間がやけに長くなった人。 既読の数字ひとつで、その日の機嫌が決まってしまう自分に、少し呆れている人。 「こんな私、知らなかった」と、鏡の中の自分に戸惑ったことがある人。
反対に、まだこの感覚に出会っていない人。 誰かを好きになる前の、静かな自分のままでいたい人には、今日はまだ早いかもしれない。
Astraeaの言葉は、「恋愛を上手くいかせる方法」を教えません。 あなたの中に確かにある感情の瞬間を、一緒に見ていきます。
夜、洗面所。 蛍光灯の白い光が、鏡にまっすぐ落ちる。 歯ブラシを持ったまま、指が止まる。 鏡の中の自分と、目が合う。
……前髪、こんな分け方だったっけ。
いつもは適当にまとめるだけだった前髪を、今夜は何度も直している。 理由なんてない。 ただ、明日「会うかもしれない」という一文が、頭のどこかにずっと点滅している。
蛇口から水が落ちる音だけが、洗面所に響く。 ぽたん、ぽたん。 その音を数えながら、思う。
――私、こんなに鏡を見る人だったっけ。
石鹸のかすかな匂いと、足元から伝わる床の冷たさ。 時計の針は、もう日付が変わる少し前を指している。 それでも指は、前髪を離さない。
昨日までは、こんな時間に鏡なんて見ていなかった。 歯を磨いて、顔を洗って、電気を消すだけだった。 それだけの動作が、今夜は少しだけ長い。 なんでだろう、と思いながら、それでも手は止まらない。
これ、覚えがある人、たぶん多い。
通知音が鳴るたびに、心臓が先に反応して、指はあとから追いつく感覚。 既読がついた時間を、無意識に覚えてしまう感覚。 信号待ちで、何もしていないのに、スマホの画面だけ何度も確認してしまう感覚。 写真フォルダの中に、いつの間にか同じ角度で撮った自分の写真が増えている感覚。 そして――鏡の前で、前より少しだけ、自分を見る時間が長くなっている感覚。
「わかる」と思った瞬間があったなら、それはあなたの中にちゃんとある記憶。 説明しなくていい。もう、思い出しているはずだから。
正直に言う。 鏡を見る時間が増えたのは、可愛くなりたいからだけじゃない。 ……ほんとうは、確かめたいんだと思う。
こんなに誰かのことを考えて、こんなに些細な一言で機嫌が上下して、こんなに前髪ひとつで悩んでいる自分が――「大丈夫」かどうか。
面倒な女になったんじゃないか。 涼しい顔をしていた自分の方が、良かったんじゃないか。
鏡の中の自分に、そう聞いてしまう夜がある。
蛇口を止める。 静けさが、洗面所いっぱいに広がる。 換気扇の低い音だけが、遠くでずっと鳴っている。
その静けさの中で、やっと気づく。
――確かめたかったのは、可愛いかどうかじゃなくて、こんなふうに誰かを想える自分が、ちゃんとここにいるかどうかだった。
鏡の前で前髪を直すたび、知らなかった私に会いに行く。
でも、大丈夫。 誰かを好きになって、自分の知らない一面に出会うのは、弱さでも面倒でもない。 それは、あなたがちゃんと生きている証拠。 心が動いているという、ただそれだけのこと。
涼しい顔をしていた自分を失ったんじゃない。 その奥に、ずっと隠れていただけ。 誰かを想える自分に、やっと会えただけ。
慌てなくていい。 その事実を、今夜はただ、そっと受け取ってほしい。
好きな人ができると、行動のひとつひとつに理由がついてくる。
前髪を直すのは、可愛く見せたいからじゃなくて、ちゃんと「今日の自分」で会いたいから。 通知を気にするのは、依存だからじゃなくて、大切な人の言葉を、ちゃんと受け取りたいから。 写真を撮るのは、SNSのためじゃなくて、この気持ちを、少しでも形にしておきたいから。 充電が切れかけたスマホを、玄関を出る前にもう一度確認してしまうのも、返事を逃したくないからじゃなくて、ただ、繋がっていたいだけ。
全部、ちゃんと理由がある。 それを、あなたはもう知っている。
エレベーターの扉が閉まる、あの数秒。 誰もいない箱の中で、画面を見てしまう。 返事が来ていなくても、それでいい。 ただ、確かめたいだけの数秒に、正しいも間違いもない。
好きな人ができてから増えた「知らなかった私」は、変わってしまった自分じゃない。 もともとあなたの中にあった、まだ使っていなかった感情の引き出し。
誰かを想うことで、その引き出しが、ひとつ、また、ひとつと開いていく。 前髪を直す指も、通知音に反応する心臓も、信号待ちで画面を見てしまう視線も、全部、その引き出しの中から出てきたもの。
一つ引き出しが開くたびに、あなたは減っているんじゃない。 知らなかった自分の分だけ、増えている。 それだけの、静かな事実。
鏡の前で立ち止まれること。 通知音ひとつで、心が動くこと。
それは、面倒な女になったんじゃない。 「鈍感になれない人にしか持てない、才能」だった。
そのままでいい。
今夜、鏡を見る時間があったら、いつもみたいに気まずくならなくていい。 そこに映っているのは、弱くなったあなたじゃなくて、誰かを想う分だけ、ちゃんと豊かになったあなただから。
才能だった、その私に。
小さく、ひとこと。 心の中でいい。
「知らなかった私に、会えてよかった。」
そう呟いてから、電気を消してほしい。
洗面所の光が消えても、鏡の中で見つけたその感覚は、消えない。 明日も、その前髪で、ちゃんと会いに行けるように。 知らなかった私に、また会いに行けるように。
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