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精神分析の「告白」の起源(4) 指導と従順と心の奥底の言語化

 前回までにエクソモロゲーシスとエクサゴレウシスについて、フーコーの引用文献を実際に調べてみた。
 私のプロジェクトとしてはパレーシアと告白の関係を文献的証拠をもとに考えたかったこと、これはアレクサンドリアのクレメンスで行う予定。二つ目に、告白はフーコーの「性の歴史1巻」において司牧権力と告白がセットで人々の従属化をはかり、それが近代世界にももたらされてナチスのような世界でも権力構造が維持され機能したと主張したいようので、ではその文献的な系譜を辿り直したいということがあった。
 そこら辺はまだミッシングリンクである。調べたところ、司牧・告白から国家理性への繋ぎが自明ではなく、統治論は人気のテーマゆえ、何か書くにはもっと調査が必要と感じた。
 今はそこにはいかず、もっと問題を小さくして、ここでは告白が自己の自己との関係を形成するところをフーコーに沿ってまとめよう。
 さて、フーコーはエクサゴレウシスの紹介の後、セネカの1日を振り返る思考とは全く異なる、とする。これが重要な点で、ローマ帝世紀のストア派などの哲学や異教の宗教には心の奥底を探るということは行われておらず、それらはキリスト教から始まったということをフーコーは性の歴史3、4巻で主張している。
 その4巻ではバシレイオスらのエクサゴレウシスの検討の後はカッシアヌス(カシアヌス、Ioannes Eremita Cassianus, Ioannes Cassianus, or Ioannes Massiliensis;[2] Greek: Ίωάννης Κασσιανός ό Ερημίτης; c. AD 360 – c. 435)に話題を移しコギータティーオー(思考それ自体)について検討する。思考の流れと悪魔について述べ、コーギタティーオーについては「神を把握しようとする魂に生じる動揺」としている。
 次の「1内的闘い」において、カッシアヌスの魂の水車の比喩が紹介される。

水車の隠喩。水車を回すのは水であり、これに対して粉屋は何もできない。これと同様に、魂は、「高ぶる思考の絶え間ない流れ」に揺り動かされるのであり、自身を襲うこの動きを妨げることができない。しかし、粉屋は、よい穀物をひかせるか悪い穀物をひかせるか、小麦や大麦をひかせるか毒麦をひかせるかを選ぶことができる。これと同様に、魂は、検討によって、有用な思考と「罪深い」思考とを選別しなければならないのである。

肉の告白 pp185 新潮社版
フランス・ロマネスクのヴェズレーの柱頭彫刻 筆者撮影 カッシアヌスの魂を水車と挽臼に例える話はシュジェールにも引き継がれ柱頭彫刻にも現れる。

 この写真にかかわるであろうカッシアヌスの原文は見つけてあるが、次回のメインネタにしたいのでここでは割愛。
 さて、魂の思考の比喩について、フーコーはカッシアヌスの例の次に福音書の100人隊長の例、最後に硬貨の価値を調べる両替商の例えを紹介している。サタンに騙されているのではないかという恐れというのである。

「真なる諸観念と偽なる諸観念とを区別すること、確かに目に見えるとおりのものであるような諸観念と人目を欺く諸観念とを区別することが重要なのだ。問題は、自分が欺かれていないかどうかを知ることなのである。」

同 pp186-7

戻ってしまうが、前回紹介したように、この告白は、従順さ、自己放棄とセットである。カッシアヌスは、告白の位置付けを、修道院の規則において、指導する側,指導される側の「従順」を作り出す方法として記述している。

指導とは、他人の意志への服従によって自分自身の意志を放棄することとしての従順を、教え込もうとするものである。

肉の告白 新潮社p168 

その方法として2点

「彼は、修道士に対し、本人の性分に反することを、本人がそれと気づくようなやり方でわざと命じるよう絶えず気を配る」
✳︎1 原文とChatGPT翻訳を末尾に示す。

「自分の心を苛むいかなる思考も偽りの差恥によって隠さないようにすること、そうした思考が生まれたらすぐにそれを上長に対して現し出すこと、そして、それについて判断を下すために自分の個人的意見を当てにせず、何が善く何が悪いかということを、上長が検討の後で明言したとおりに信じること。」
✳︎2 原文とChatGPT翻訳を末尾に示す。

この後、古代の師弟関係も触れるがそれらはその指導期間だけ、指導を受ける分野だけ、であるが、キリスト教のものは包括的なものであるとしている。
 言い方悪いが「本人の性分に反することを、本人がそれと気づくようなやり方でわざと命じるよう絶えず気を配る」というのは犬の躾と同じである。

さて、話を戻して、

告白する際に羞恥を感じたらそれこそサタンの仕業である。

羞恥は、心の奥底に隠されていることを言葉によって現し出さねばならないときには、敢然と立ち向かうべき相手となる。それは、疑う余地のない悪のしるしなのだ。
中略
「告白がいわば地下の闇に隠れた巣穴から引きずり出し、光の下に投げ出してその恥辱を見せ物にしようとしているその恐ろしい蛇は、思慮分別が判決を言い渡すその前に、あわてて撤退するのだ。」
✳︎3

pp190
ベスレーの柱頭彫刻「聖アントニウスと悪魔」エジプトの墓の中で悪魔に責め苛まれている

カッシアヌスはさらにすすめ、「言述はときに物質的追放となるだろうということ。告白する言葉とともに、悪魔自身が身体から追い払われる」としているという。このことから、「告白という形式そのもののなかに、つまり、秘密が言葉によって言述され、その言葉が一人の他者に差し向けられるという事実のなかに、特別の力」があり、「ウィルトゥース・コンフェッシオーニス virtus confessionis [コンフェッションの力」」と呼んでいる(pp192)。
 このような考え方、方法論で、

完璧な従順さを可能にする

pp194

としている。したがってエクサゴレウシスは

まだ誰にも知られていなかったことを、真理としてさらけ出すことが問題
「非常に暗かったために誰もとらえることのできなかったものを光へともたらすこと」
「悪魔の教唆を神による真の霊感と取り違えるよう仕向けていた幻惑を一掃することによって」
✳︎2

こうすることで、

まさしく解放をもたらすものとして期待されている

そしてその特徴は

「心の完全なる清らかさにおいて神の観想に到達することを最終目的とするものである」
「清らかさは逆に、自分自身のあらゆる意志の決定的な棄却」
「つまりそれは、自己自身でなくなるための、さらにはいかなる絆によっても自己自身
に繋ぎ止められないようにするための、一つのやり方なのだ。」

このようにフーコーは

自己自身に関する真理陳述が、根本的に、自己の放棄

と解釈し、エクサゴレウシスとは

エクサゴレウシスのなかには一つの複雑な装置がある。 そこでは、魂の内面のなかに際限なく入り込む義務が、他者に差し向けられた言説における絶えざる外在化の義務と対をなしている

pp195

とまとめている。このことはエクソモロゲーシスとはだいぶ異なる。エクソモロゲーシスは改悛者のすることでもあり、徐々に、修道士たちのエクサゴレウシスが優位になったと補遺2で述べている。
 ここで開発された告白する技法は今日の精神分析にまで波及しているのがフーコーの見立てである。具体的な方法論の推移はわからないが、司祭は精神分析医という医師の権威を持った人物に変わり修道士は患者に変わる。自由連想により心の中を全て語る。欧米映画でも精神分析場面はよく出てくるのでご存知だろう。
 自由連想で語った内容の本当の意味は分析医により解釈される。フロイトが本でさまざまな解釈事例を述べているのはよく知られている。解釈は語った本人がするのではなくて専門知識を持った医師がするのである。このことは初期キリスト教・中世の告白と同じ構図である。このことは精神医学の治療における権力の存在を想像させる。
 自己を語りたいのに社会の抑圧によって語らせてくれない、との考え方は、実は社会システムがこのように語ることを求めていたにもかかわらず、逆転して、私たちの方が語りたくてしょうがない状態に我々は社会システムに操作されてしまった、とフーコーは「性の歴史1巻」で述べている。次回は1巻に帰還し、果てしない心の奥底を追い続け、いつの日か真理をかけめぐる、と約束されたキリスト教カトリックで発達した方法論について近代のシャルコーとフロイトとの結びつきをフーコーにしたがって見てみよう。

✳︎1
カッシアヌスの翻刻サイト ミーニュからラテン語を翻刻している。ミーニュからの壊れたOCRをちゃんと修正しているかどうか私は確認していない。フーコーはフランス語翻訳版で紹介している。それは見つけていない。なおカッシアヌスは平凡社の中世思想原典集成4巻でも部分的に読める。

次回

カッシアヌスの原文

フーコー 168 新潮社  注48該当箇所De coenobiorum institutis 共住修道規則IV. 巻
CAPUT VIII. Quibus primum institutis juniores exerceantur, ut ad superandas omnes concupiscentias proficiant.

Cujus haec erit sollicitudo et eruditio principalis, per quam junior introductus ascendere consequenter etiam culmina perfectionis summa praevaleat, ut doceat eum primitus suas vincere voluntates;

quem studiose in his ac diligenter exercens, haec illi semper imperare de industria procurabit, quae senserit animo ejus esse contraria.

Multis siquidem experimentis edocti tradunt, monachum, et maxime juniores, ne voluptatem quidem concupiscentiae suae refrenare posse, nisi prius mortificare per obedientiam suas didicerint voluntates. Ideoque pronuntiant nullatenus praevalere, vel iram, vel tristitiam, vel spiritum fornicationis exstinguere, sed nec humilitatem cordis veram, nec cum fratribus unitatem perpetuam, nec firmam diuturnamque posse retinere concordiam, sed nec in coenobio quidem diutius permanere, eum qui prius voluntates suas non didicerit superare.

翻訳(カッシアヌス『修道生活の訓練について』第8章)
第8章 若き修道士があらゆる欲望を克服するために、最初にどのような訓練を受けるべきか

これは、若き修道士が最終的に完全なる完成の高みへと至るための、最も重要な配慮と教育である。つまり、彼にまず自らの意志を克服することを教えることである。
これに専心して彼を訓練する者は、彼の心に逆らうと感じる事柄を、あえて彼に命じるよう努めるべきである。

というのも、多くの経験を積んだ者たちは、次のように教えている。すなわち、修道士(特に若い者)は、たとえ欲望を抑えようと望んでも、自らの意志を従順によって抑制することをまず学ばなければ、それを制することはできない、と。

したがって、彼らは次のように断言する。

自らの意志を克服することを学んでいない者は、決して次のことを成し遂げることはできない。
• 怒りや悲しみ、あるいは淫蕩の誘惑を断ち切ること
• 真の心の謙遜を獲得すること
• 兄弟たちとの永続的な一致を保つこと
• 堅固で長続きする調和を維持すること
• 修道院で長く暮らし続けること
つまり、修道士が自己の意志を克服する術を学ばなければ、修道生活そのものが維持できないのである。

✳︎2

フーコー 168 新潮社  注49該当箇所
De coenobiorum institutis 共住修道規則IV. 巻
CAPUT IX. Quare junioribus imperetur ut seniori suo nihil de cogitationibus suis subtrahant. His igitur institutis, eos quos initiant, velut elementis quibusdam ac syllabis imbuere ad perfectionem atque informare festinant, per haec ad liquidum discernentes, utrum ficta et imaginaria, an vera sint humilitate fundati. Ad quod ut facile valeant pervenire, consequenter instituuntur nullas penitus cogitationes prurientes in corde perniciosa confusione celare, sed confestim ut exortae fuerint, eas suo patefacere seniori: nec super earum judicio quidquam suae discretioni committere, sed illud credere malum esse, vel bonum, quod discusserit ac pronuntiaverit senioris examen. Ita fit ut in nullo circumvenire juvenem callidus inimicus velut inexpertum ignarumque praevaleat, nec ulla fraude decipere, quem praevidet non sua, sed senioris discretione muniri, et suggestiones suas velut ignita jacula, quaecumque in cor ejus injecerit, ut seniorem celet, non posse suaderi. Aliter quippe subtilissimus diabolus illudere vel dejicere juniorem non poterit, nisi cum eum, seu per arrogantiam, sive per verecundiam, ad cogitationum suarum velamen illexerit. Generale namque et evidens indicium diabolicae cogitationis esse pronuntiant si eam seniori confundamur aperire.共住修道規則第9章:なぜ若い修道士たちに、自らの思いを年長者に隠さないよう命じるのかこうした修道生活の規則によって、新たに修道生活を始める者たちを、初歩的な教えと基本的な実践をもって導き、彼らを完成へと育成しようと努める。これによって、彼らが偽りの見せかけの謙遜に基づいているのか、それとも真に謙遜を身につけているのかを明確に見極めるのである。この目的を容易に達成するために、修道士たちは、心の中に湧き上がるどのような思いも、危険な混乱をもたらすようなものであれば決して隠してはならず、それが生じたなら直ちに年長の指導者に打ち明けるように指導される。彼らはまた、自らの判断によって思いを良し悪しと決めることなく、指導者の判断によって、それが善いのか悪いのかを見極め、信頼すべきである。こうすることで、狡猾な敵である悪魔は、経験の浅い修道士を欺くことも、策略をもって騙すこともできなくなる。なぜなら、修道士が自分の判断ではなく、年長者の識別によって守られ、また悪魔の誘惑—たとえば燃え上がる矢のように心に投げ込まれる思い—を、年長者に隠さずに済むからである。それとは逆に、悪魔は非常に巧妙な手口を用い、若い修道士を傲慢や羞恥心によって自らの思いを隠すよう仕向け、それによって彼を欺き、打ち倒そうとする。なぜなら、修道士がある思いを年長者に打ち明けることに恥ずかしさを感じるなら、それこそが悪魔の思いである明白な証拠であるとされているからである。

✳︎3

フーコーp190. 注101
Collationes 霊的談話集 2巻の10章

CAPUT X. Responsio, quemadmodum possideatur vera discretio. Tum Moyses: Vera, inquit, discretio non nisi vera humilitate acquiritur. Cujus humilitatis haec erit prima probatio, si universa non solum quae agenda sunt, sed etiam quae cogitantur, seniorum reserventur examini, ut nihil quis suo judicio credens, illorum per omnia definitionibus acquiescat, et quid bonum vel malum debeat judicare, eorum traditione cognoscat. Quae institutio non solum per veram discretionis viam juvenem recto tramite docebit incedere, verum etiam cunctis fraudibus et insidiis inimici servabit illaesum. Nullatenus enim decipi poterit quisque, si non suo judicio, sed majorum vivit exemplo; nec valebit ignorationi ejus callidus hostis illudere, qui universas cogitationes in corde nascentes perniciosa verecundia nescit obtegere, sed eas maturo examine seniorum vel reprobat vel admittit. Illico namque, ut patefacta fuerit, cogitatio maligna marcescit; et antequam discretionis judicium proferatur, serpens teterrimus velut e tenebroso ac subterraneo specu virtute confessionis protractus ad lucem, et traductus quodammodo, ac dehonestatus abscedit. Tamdiu enim suggestiones ejus noxiae dominantur in nobis, quamdiu celantur in corde. Et ut virtutem sententiae hujus efficacius colligatis, referam vobis abbatis Serapionis factum, quod ille junioribus instructionis gratia frequenter proponebat.


第10章:どのようにして真の識別を得るべきかについての答え

するとモーセが答えた。「真の識別(discretio)は、真の謙遜(humilitas)によってのみ獲得される。その謙遜の第一の証拠は、行動すべきことだけでなく、心に思い浮かぶことすべてを年長者の判断に委ねることである。つまり、自分の判断に頼ることなく、あらゆる点で彼らの決定に従い、何が善であり、何が悪であるかを彼らの教えによって知ることだ」。

この教えは、若い修道士が真の識別の道を正しく進むことを助けるだけでなく、敵(悪魔)のあらゆる欺きや罠から彼を守る。なぜなら、自らの判断ではなく先人たちの模範によって生きる者は、決して欺かれることがないからである。また、心に生じるすべての思いを、危険な羞恥心によって隠すことを知らず、むしろそれらを年長者の的確な判断によって棄却し、あるいは受け入れる者に対しては、巧妙な敵もその無知をついて欺くことはできない。

実際、悪しき思いは、それが明るみに出された瞬間にしおれてしまう。そして、識別の判断が下される前に、忌まわしい蛇(悪魔)は、暗く地下に潜んでいた巣穴から、告白の力によって引きずり出され、光のもとにさらされ、ついにはその恥辱によって退散する

なぜなら、悪魔の誘惑は、心の中に隠されている限り、我々を支配し続けるからである。この言葉の意味をより深く理解してもらうために、私が今から話すのは、かつてアバ・セラピオンが若い修道士たちに教訓として語った出来事である。

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