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夫婦の倫理 その2 ストア派からキリスト教へ:快楽だけを求めてはいけない

ローマ帝世紀にキリスト教に引き継がれた夫婦の倫理 その2

前回の続き

フーコーの、ムソニウスのルフスからアレクサンドリアのクレメンスへの移行についての検討。1世紀から2世紀の頃の話です。
1.正当な結合は子づくりを望まねばならないという原則。(前回)
2.結婚においてさえも快楽だけを求めるのは理性に反するという原則。(今回)
*以下は次回以降
3.自分の妻に対し、性的関係の慎みのない形態すべてを免除してやらなければならないという原則。
4.一つの行動を恥ずかしく思うのは、それが過ちであることを自覚しているからであるという原則。

まずはムソニウスのルフスからフーコーの引用箇所
(肉の告白pp31)。その参考文献・注として(同書pp71(注15))
フーコーはアレキサンドリアのクレメンスを提示し、その補足にルフスを置いている。
XII章 出典は

XII ΕΚ ΤΟΤ  (pp63)
ΠΕΡΙ ΑΦΡΟΔΙΣΙΩΝ.
Μέρος μέντοι τρυφῆς οὐ μικρότατον κἀν τοῖς
ἀφροδισίοις ἐστίν, ὅτι ποικίλων δέονται παιδικῶν οἱ
τρυφῶντες, οὐ νομίμων μόνον ἀλλὰ καὶ παρανόμων,
οὐδὲ θηλειῶν μόνον ἀλλὰ καὶ ἀρρένων, ἄλλοτε ἄλλους
θηρῶντες ἐρωμένους, καὶ τοῖς μὲν ἐν ἑτοίμῳ οὖσιν οὐκ
ἀρκούμενοι, τῶν δὲ σπανίων ἐφιέμενοι, συμπλοκὰς δ’
ἀσχήμονας ζητοῦντες· ἅπερ ἅπαντα μεγάλα ἐγκλήματα
ἀνθρώπων ἐστίν. χρὴ δὲ τοὺς μὴ τρυφῶντας ἢ μὴ
κακοὺς μόνα μὲν ἀφροδίσια νομίζειν δίκαια, τὰ ἐν
γάμῳ καὶ ἐπὶ γενέσει παίδων συντελούμενα, ὅτι καὶ
νόμιμά ἐστιν· τὰ δὲ γε ἡδονὴν θηρώμενα ψιλὴν ἄδικα
καὶ παράνομα, κἂν ἐν γάμῳ ᾖ.  
συμπλοκαί  δ΄ ἄλλαι αί
μὲν κατὰ μοιχείαν παρανομώταται, καὶ μετριώτεραι τούτων
οὐδὲν αἱ πρὸς  ἄρρενας τοῖς ἄρρεσιν, ὅτι παρὰ φύσιν
τὸ τόλμημα· ὅσαι δὲ μοιχείας ἐκτός συνουσίαι πρὸς θηλείας
εἶσίν ἐστερημέναι τοῦ γίνεσθαι κατὰ νόμον, καί
αὐται πᾶσαι αἰσχραί, αἳ γε πράττονται δι᾽ ἀκολασίαν.
ὡς μετὰ γε σωφροσύνης οὔτ᾽ ἂν ἑταίρᾳ πλησιάζειν
ὑπομέινειε τις, οὔτ᾽ ἂν ἐλευθέρᾳ γάμον χωρίς ὄντε
μηδὲ διὰ θεραπαίνῃ τῇ αὐτοῦ.
(最後の一文の「μηδὲ διὰ」についてHence版ママはμα Δῖα→ここでは左記に変更)

(ギリシア語はChatGPTによるHence版でOCR補正をかけて手作業でも校訂していますが、印刷版と変わってしまっているかもしれません。なるべく確認してますが、浅学なため見落としお許しください。)
性的事柄について(ChatGPT o5訳 無料版)

しかし、享楽は、官能においても軽んじてはならないものである。なぜなら、享楽にふける者は、さまざまな子どもたちを求めるが、それは合法的な者に限らず違法な者にも及び、また女子に限らず男子にも及ぶ。時には、異なる者同士を愛の対象として求め、用意された相手では満足せず、希少な者を追い求め、さらに醜悪な性交を探し求めることもある。こうした行為こそ、人間にとって最も重大な罪である。
だからこそ、節制ある者、あるいは悪に染まらない者は、官能に関して正しいものと見なすのは、結婚の中で、子どもの誕生を伴ってなされる行為に限るべきである。それらは法にもかなったものである。一方、快楽のみに従った行為は、たとえ結婚の中でなされる場合であっても、不正かつ不法である。
また、他の性交関係もある。
姦通によるものは最も不法であり、またそれに次ぐのは、男と男との関係である。なぜなら、そのような行為は自然に反しているからである。
さらに、姦通以外の、女との交わりであっても、法に則った婚姻に基づくものでなければ、すべて欠けており、不正である。そして、それらはすべて恥ずべき行為であり、放縦によって行われるものである。
節度ある者は、娼婦にも近づこうとはせず、また自由な女性と婚姻を伴わず関係を結ぶこともなく、ましてや自分の侍女を通してもそうしない。

上記ボールドにしたところを少し検討してみよう。この箇所はHence校訂版においてアレクサンドリアのクレメンスに転記されているとすぐ下の注に書いてある。

τὰ δὲ γε ἡδονὴν θηρώμενα ψιλὴν ἄδικα
καὶ παράνομα, κἂν ἐν γάμῳ ᾖ.
(訳)一方、快楽のみに従った行為は、たとえ結婚の中でなされる場合であっても、不正かつ不法である。
・τὰ δὲ γε:そして、それらはまさに…
・ἡδονὴν:快楽を追うこと
・θηρώμενα:快楽を追い求められるものとして
・ψιλὴν:快楽そのもののみの、純粋な快楽として
・ἄδικα καὶ παράνομα:不正かつ不法な
・κἂν:たとえ…であっても
・ἐν γάμῳ:結婚の中で
・ᾖ:…である場合であっても

 次の節にはピュシス(の対格単数)というよく知られた言葉が使われている「ὅτι παρὰ φύσιν τὸ τόλμημα·」。自然という言葉の分割線は常に権威や権力と向き合う言葉である。時代とともに揺れ動き、聖アウグスティヌスの「Natura」(肉の告白 新潮社pp449)を経由してアベラールにしてもトマス・アクィナスにしてもよく使われ、今となっては何を指すかよくわかならない。ここでは、類推するに、独身の性行為は不可、結婚しているもの姦通は不可、などストアらしい禁制である。
 その下の節度なる云々はそれを逆に言っている。侍女は奴隷。脱線するが日本でも紫の上亡き後すぐ源氏は紫の上の侍女に手を出し語り手が皮肉っていた。身分で性関係を支配できたのは日本も同じか。

さて、ここまで見たのでアレクサンドリアのクレメンスの該当箇所に移ってみよう。

まずヘンス/フーコーが指摘した箇所から

2.10.92.2-3
pp64
2.10.92.2 Οὐδέ τινα τῶν παλαιῶν Ἑβραίων ἐγκύμονι τῇ αὑτοῦ γυναικὶ συνιόντα παρήγαγεν· ψιλὴ γὰρ ἡδονή, κἂν ἐν γάμῳ παραληφθῇ,
Οὐδέ τινα τῶν παλαιῶν Ἑβραίων ἐγκύμονι τῇ αὑτοῦ γυναικὶ συνιόντα παρήγαγεν· ψιλὴ γὰρ ἡδονή, κἂν ἐν γάμῳ παραληφθῇ,
「古代のユダヤ人の誰も、妊娠している自分の妻との性交を許さなかった。なぜなら、それは結婚の中で行われたとしても、純粋な快楽に過ぎないからである。」
2.10.92.3 παράνομός ἐστι καὶ ἄδικος καὶ ἀλόγος. ・・・
それは不法であり、不正であり、理性に反するものである。・・・

論旨としては具体例からはじめ結論としている。それはパラグラフの中で後ほどもう一度見ておこう。
 はじめに語釈を確認しておこう。

Οδέ τινα τν παλαιν βραίων
「古代のユダヤ人の誰も…」
• ἐγκύμονι τ ατο γυναικ συνιόντα
「妊娠している自分の妻と性交した者を」(ἐγκύμονι = 妊娠している(与格)、τῇ αὑτοῦ γυναικί = 自分の妻に(与格)、συνιόντα = 交わる者(対格・男性・単数))
παρήγαγαν
「導いた(行為を行わせた)」=「許した」
ψιλ γὰρ δονή
「なぜなら、それは純粋な快楽だからである」
κν ν γάμ παραληφθ
「たとえ結婚(γάμῳ = 名詞「結婚、婚姻」(与格), 前回既出)の中で行われたとしても」

ヘンス/フーコーによるルフスからクレメンスへの逐語的な言葉を確認できる。
ルフス:τὰ δὲ γε ἡδονὴν θηρώμενα ψιλὴν ἄδικα καὶ παράνομα, κἂν ἐν γάμῳ ᾖ.
クレメンス:ψιλὴ γὰρ ἡδονῇ, κἂν ἐν γάμῳ παραλήφθῇ, παράνομός ἐστι καὶ ἄδικος καὶ ἀλόγος.
クレメンスは4つの言葉を逐語的に活用して書いている。
ἡδονὴν:ἡδονῇ
ἄδικα:ἄδικος
παράνομα:παράνομός
γάμῳ:γάμῳ
ルフスの表現 δικα κα παράνομα = 「不正で不法であり」
アレキサンドリアのクレメンスの表現παράνομός ἐστι καὶ ἄδικος καὶ ἄλογος·=「それは違法であり、不正であり、理性に反するからである。」と言葉をひっくり返している。より律法的な価値観を打ち出したのかもしれない。
 逐語的な話ではないが、ルフスは「快楽を追い求める行為」について述べており、クレメンスは「快楽そのもの」を議論している違いがある。クレメンスの方がより抽象的、心の中そのものを覗き込んでいるように考えられる。

意味的な観点では、もはやルフスの使う「ἀφροδίσια(アフロディジア)」はクレメンスでは使われず、より直裁に「συνιόντα (交わる者)」という言葉に置き換えられている。このことは、ストア派で厳格になった性愛という概念のさらなる地位低下を示しているように感じられる。
 また、該当箇所を比較するとルフスにおいては子供をもうける以外の性行為は不正・違法であることが、クレメンスにおいては、快楽のみの性交は許されないものとユダヤの律法への違反に置き換えられている。
 ルフスの論点を引き継いでいるが、クレメンスはフーコーも指摘しているように、聖書からの引用として『モーセ、「レビ記」エゼキエル、イザヤ、シラ』をあげている。ストア派をきっかけとしてロゴスとしてのプラトン、聖書の引用による神と結ばれるということ(肉の告白pp32)という3重の論点になっている。

最後にアレキサンドリアのクレメンスについて、幅広に2.10.921~3を見ておこう。

2.10.92.1 Ὁ γοῦν αὐτὸς
οὗτος Μωυσῆς καὶ ταῖς γαμεταῖς αὐταῖς ἀπαγορεύει πλησιάζειν, ἢν ταῖς ἐπιμηνίοις καθάρσεσιν ἐνεσχημέναι τύχωσιν. Οὐ γάρ πω εὔλογον τῷ ἀποκαθάρματι τοῦ σώματος τὸ γονιμώτατον τοῦ σπέρματος καὶ μετ' ὀλίγον ἄνθρωπον ὂν μολύνειν οὐδὲ μὴν ἀποκλύζειν τῷ ῥυπαρῷ τῆς ὕλης ῥεύματι καὶ ἀποκαθάρματι σπέρμα δὲ γενέσεως εὐφυοῦς τῶν τῆς μήτρας ἀποστερούμενον αὐλάκων.
2.10.92.2 Οὐδέ τινα τῶν παλαιῶν Ἑβραίων ἐγκύμονι τῇ αὑτοῦ γυναικὶ συνιόντα παρήγαγεν· ψιλὴ γὰρ ἡδονή, κἂν ἐν γάμῳ παραληφθῇ,
2.10.92.3 παράνομός ἐστι καὶ ἄδικος καὶ ἄλογος· ἔμπαλιν δὲ ὁ Μωυσῆς ἀπάγει τῶν ἐγκύων τοὺς ἄνδρας ἄχρις ἂν ἀποκυήσωσιν· τῷ ὄντι γὰρ ἡ ὑστέρα ὑποκειμένη μὲν τῇ κύστει, ἐπικειμένη δὲ τῷ ἐντέρῳ τῷ καλουμένῳ ἀρχῷ ἐκτείνει τὸν τράχηλον μεταξὺ τῶν ὤμων ἐν τῇ κύστει, καὶ τὸ στόμιον τοῦ τραχήλου, ᾧ προσίεται τὸ σπέρμα, πεπληρωμένον μέμυκεν, αὖθίς τε ἀποκενοῦται καθαιρομένη κυήσει, ἀποθεμένη δὲ τὸν καρπὸν εἶτα ἐπιδέχεται τὸν σπόρον. Οὐκ αἰσχρὸν δὲ ἡμῖν ἐπ' ὠφελείᾳ τῶν ἀκουόντων τὰ κυητικὰ ὀνομάζειν ὄργανα, ὧν οὐκ ἐπῃσχύνθη τὴν δημιουργίαν ὁ θεός.

2.10.92.1
同じモーセは、妻であっても月経中にあるときには近づくことを禁じている。なぜなら、身体の排泄物と混じって、人間の根源となる最も生産的な精が汚されるのは不合理であり、また物質の不浄な流れによって精が洗い流されるのは適切でないからである。その精は、本来ならば子を宿すために適した母胎の溝を受け取るべきものである。
2.10.92.2
また、古代のヘブライ人の中で、自分の妻が妊娠しているときに交わることを認めた者はいなかった。というのも、そこで得られるのは単なる快楽にすぎず、それがたとえ結婚の内部で行われるとしても、
2.10.92.3
それは違法であり、不正であり、理性に反するからである。逆にモーセは、女性が出産を終えるまで、夫を妊婦から離すように定めている。というのも、実際に子宮は膀胱の下にあり、腸(いわゆる直腸)の上に位置し、その頸部を膀胱のあいだに伸ばしている。そして、その頸口は精を受け入れる場所であるが、妊娠中には塞がれて閉じ、やがて出産とともに再び開いて子を出す。そしてその後に、また種を受け入れるのである。──聴く者の益となるならば、我々が妊娠に関わる器官の名を語ることは恥ずべきことではない。神ご自身がそれらを創造することを恥じなかったのだから。

個人的な感想
「2.10.92.1」では男の貴重な精を不浄な血で流されるってどうよ、と思うがこれは日本の相撲の土俵や日本酒作りに出てきそうで、男性優位社会、家父長主義を振りかざして嫌な感じである。
「2.10.92.3」では我々が妊娠に関わる器官の名を語ることは恥ずべきことではない。と言っているが後にアウグスティヌスが男性生殖器が男性の言うことを聞かないことを、神と人間に例えた話を思い出して可笑しい。オルセーにも女性器を描いた絵画がどどーんと飾ってあったはずだ。

以上、フーコーの指摘した逐語的という解釈は正しい(フーコーの参照文献のアレキサンドリアのクレメンスはフランス語訳であるがギリシア語も参照したそうである、と「肉の告白」に書いてあるがどの版かまでは書いてない)また、Henseの本の注にその旨出ていることもわかった(フーコーは「肉の告白」にあげていない)

次回は妻を娼婦として扱ってはいけないという話ですね。


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