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精神分析の「告白」の起源(2)エクサゴレウシス

 前回は、エクソモロゲーシスは通常の告白の意味から公的な場での演劇的な告白という意味まで含んでいることを読んだ。
 フーコー「肉の告白」を読み進めると、次は同じ告白でもエクサゴレウシスという言葉の説明が行われる。オリジナルのフランス語からChatGPTで機械翻訳させよう。

「肉の告白」 p182(PDFのページ) オリジナル  p176
Dans la forme générale de l’obéissance et de la renonciation à
la volonté propre, la direction a pour instrument majeur la pratique permanente de « l’examen-aveu », ce que, dans le christianisme oriental, on appelle l’exagoreusis : « Chacun des subordonnés doit d’une part éviter de tenir caché dans son for intérieur aucun mouvement de son âme ; d’autre part se garder de lâcher une parole quelconque sans contrôle et découvrir les secrets du cœur à ceux des frères qui ont reçu la mission de soigner les malades avec sympathie et compréhension 80. »
ChatGPT 以下は引用文を学術的に翻訳したものです:
一般的な服従の形態と自己の意志の放棄において、指導(もしくは指導権)が主要な手段とするのは、「告白を伴う内省(examen-aveu)」という恒常的な実践である。これは、東方キリスト教において「エクサゴレウシス(exagoreusis)」と呼ばれるものである。「従属する者は、まず自らの内面におけるいかなる魂の動きも隠し持つことを避けなければならず、次に、自身の発言を無自覚に行うことを慎むべきである。そして、心の奥底にある秘密を、病める者を同情と理解をもって癒す使命を受けた兄弟たちに明かさなければならない。」

バシレイオス(330頃-379)を注80として参照している。それが以下。
(実は、注80の参照先を以前のスキルでは見つけることが出来なくて、記事の企画を立てたもののずっと実現できず。ミーニュは通し番号なのでバシレイオス2巻とは何のことか分からずということがありました。また、chatGPTに探してもらうと大抵ハズレで笑)

P985
ΕΡΩΤΗΣΙΣ ΚϚ Περὶ τοῦ πάντα κα τὰ κρυπτὰ τς καρδίας ἀνα τίθεσθαι τῷ προεστώτι
ΑΠΟΚΡΙΣΙΣ Δεῖ δὲ 13 καὶ τῶν ὑποτεταγμένων ἕκαστον εἴ γε μέλλοι ἀξιόλογον προκοπὴν ἐπιδείκνυσθαι καὶ ἐν ἕξει τῆς κατὰ τὰ προστάγματα τοῦ Κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ ζωῆς γενέσθαι μηδὲν μὲν ψυχῆς κίνημα ἀπόκρυφον φυλάσσειν παρ ἑαυτῷ μηδένα δὲ λόγον ἀβασανίστως προϊεσθαι ἀλλ ̓ ἀπογυμνοῦν τὰ κρυπτὰ τῆς καρδίας τοῖς πεπιστευμένοις 14 τῶν
質問 26:
心の隠された事柄を含めて、すべてを教会の指導者に委ねることについて」

回答:
被教導者(教会の信徒)は、それぞれが主イエス・キリストの命令に従った生活を確立し、価値ある成長を示そうとするならば、自らの魂の動きを隠しておくことなく、またいかなる言葉も吟味せずに軽々しく発することがあってはならない。そして、心の隠された事柄を、信頼すべき者に明らかにしなければならない。

補足 このギリシャ語のフレーズを意味ごとに区切って翻訳すると、以下のようになります。
Περὶ τοῦ → 「~について」
πάντα κα τὰ κρυπτὰ τς καρδίας → 「すべてのこと、および心の隠された事柄」
ἀνα τίθεσθαι → 「委ねること」
τῷ προεστώτι → 「指導者に(対して)」
全体の訳:
「すべてのこと、および心の隠された事柄を指導者に委ねることについて」

概念として近いことは言っているが、実はこの参照文の中にエクサゴレウシスが見つからない。フーコーもエクサゴレウシスを文の紹介などで出していないので、概念の説明に引用したということだろう。実は全文検索すれば数例見つかるのだが今はあくまでフーコーのリファレンスとしてフーコーと付き合わせを優先したい。
 フーコーはオシェールのフランス語訳を参照している。(I. HAUSHERR, Direction spirituelle en Orient autrefois, Rome, 1955, p. 57.)
これは全文公開されていない。google booksで検索箇所の三行が読めるくらいである。そこだけ示してみよう。


オシェール
I. HAUSHERR, Direction spirituelle en Orient autrefois,
Rome, 1955, p. 57.
p68
reste: les consoler aux heures d'épreuve, patienter aux jours de relachement; porter le fadeau de leur exagoreusis, soigner affectueusement leurs maladies, les nourrir paternellement, leur en seigner comme à des enfants chéris ... ». Le terrible, c'est que si jamais ses enfants spirituels lui lais-

「試練の時に彼らを慰め、怠慢の日々に耐え、エクサゴレウシスの重荷を背負い、彼らの病を愛情深く癒し、父親のように養い、愛しい子供たちに教えること…」
「恐ろしいのは、もし霊的な子供たちが彼を見捨ててしまった場合です…」
p159
Vers la fin du 10° siècle — le temps où Syméon le Nouveau Théologien se fit chasser de Stoudios pour son attachement à son père spirituel — le patriarche Antoine (974-978 ou 980), lui- même Studite, nous apprend que l'exagoreusis tombait en dé-
suétude chez les moines. Nous avons encore une exhortation
10世紀末、シメオン・ヌーヴォー・テオロジアンが彼の霊的父親に対する執着のためにスタウディオス修道院から追放された時期、パトリアルク・アントワーヌ(974-978年または980年)は、修道士たちの間で「エクサゴレウシス」が衰退していたことを教えています。彼自身もスタウディオス派の人物でした。なお、この時期の修道士たちに向けた勧告が残っています。
p171
scese, mais aucun ne vaut l'exagoreusis unie à l'obéissance » (") « Vous savez combien sont nombreuses les embûches et les ruses du diable, mises en œuvre contre nous de manières variées. Nul n'y échappera que par l'exagoreusis et la confiance envers l'hi-
goumène › (**). Saint Antoine, devant le même spectacle des piè-
「シーセ(scese)ですが、どんなものにも、エクサゴレウシス従順が一体となったものには敵わない」—「悪魔の策略や罠がどれほど多く、さまざまな方法で私たちに仕掛けられているか、あなた方もよくご存じでしょう。そのどれも、エクサゴレウシスと修道院長への信頼を通してしか逃れることはできません。」(**)サン・アントワーヌは、同じような光景に直面した際、

シーセは意味不明。今回は追跡は割愛。確かにエクサゴレウシスの説明はある。しかしざっくりでもパラグラフが読めないのでもどかしい。「エクサゴレウシス従順が一体」というフレーズがありますので両者は組み合わされる概念ということがわかります。

 フーコーの解説ではエクサゴレウシスは内容から言って、フーコーは、精神分析により患者の「心」を語らせ、「無意識」を垣間見る権力や制度と繋げていきたいと考えているようだ。

肉の告白でフーコーはこのようにエクサゴレウシスをまとめている

フランス語版pdfページ171最下段-172
Elle (Exagoreusis 筆者補記) est un travail pour découvrir non seulement à l’autre, mais encore à soi-même ce qui se passe dans les mystères du cœur et dans ses ombres indistinctes. Il s’agit de faire éclater comme vérité ce qui n’était encore connu de personne.
ChatGPT
むしろ、「exagoreusis」は、一種の探求である。それは、他者に向けてのみならず、自らに対しても、心の奥底に潜む神秘や、ぼんやりとした影のような領域において何が生じているのかを明らかにする作業なのだ。その目的は、まだ誰にも知られていないものを「真理」として顕在化させることである。

その方法は二つあるとフーコーはいう:
・あまりに深い闇に包まれていたため誰の目にも触れることのなかったものを光の下にさらすこと
・誤ったものを真実と見なしてしまう幻想を打ち砕くこと。

一つ目は自己が際限なく自己の奥底を探り告白し続けること。二つ目は悪魔により騙されていないかということですね。これはカッシアヌスの議論で後ほど紹介します。
 この節を締めくくるにあたり、

comme objectif de déceler au fond de soi-même la présence de l’Autre,
de l’Ennemi ; et avec pour fin dernière d’accéder à la contemplation
de Dieu, en toute pureté de cœur.
その目的は、自らの内奥に潜む「他者(Autre)」、すなわち「敵(Ennemi)」の存在を見出すことであり、その究極的な到達点は、完全なる「清浄な心(pureté de cœur)」**において神の観想へと至ることにある。
中略
Elle est, au contraire, l’abandon définitif de toute volonté propre : une façon de n’être pas soi-même, ni par aucun lien attaché à soi-même. Paradoxe essentiel à ces pratiques de la spiritualité chrétienne : la véridiction de soi-même est liée fondamentalement à la renonciation à soi.
それは自己の意志を完全に放棄することであり、自らを自己として存立させるいかなる結びつきからも解き放たれることにほかならない。キリスト教的な霊性の実践に内在する本質的な逆説は、この点にある。すなわち、**自己の真理を語ること(véridiction de soi-même)**は、根本的に自己の放棄と結びついているのだ。

自己の心の奥底をすっかり語り、その内容の判定は語られた上長が行い、キリストの代理たる上長が司令を出し、告白したものは従順さを持って上長の命じたとおり行動する。上記オシェールでも「エクサゴレウシス従順」がセットでできましたね。上長の命じたとおり行動し、自分で考えて判断して行動しないことが「自己の放棄」ということである。
 この自分で考えて行動するところで特に自分の魂(自分自身)をどのようにするのかというのは、性の歴史3巻に記述してある、ソクラテス〜ローマ帝世紀のストア派では自己の陶冶として自己に帰着する「自己への配慮」の技法とはおおいに異なります、そのため、このように自己への配慮が、牧人権力と自己の放棄と結びついたエクサゴレウシスなどの実践で「自律性の大部分を失った」フーコーコレクション5巻、7 倫理の系譜学について、pp229、また10自由の実践としての自己への配慮pp301,309と説明していました。しかしこれはインタビューですのでフーコーがもう少し元気だったら性の歴史4巻でも取り上げられたでしょう。
 というわけでエクサゴレウシスの生の例は見つからず。どうなっているのか?
 次回はエクサゴレウシスの用例についてフーコーの講義集の引用例を確認しましょう。次回はギリシア語とそのChatGPTによる翻訳をたくさん出します。

次回

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その1はこちらです






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