アダム・スミスとファーガスン(1) フーコー「生政治の誕生」より
概要:アダム・スミスにより経済は国家の統治を受けない方が発展することが宣言された。それ以前の重農主義では「経済表」で経済プロセスを理解して国家理性の名の下で内政的に統治できると考えてきた。一方、アダム・スミスの「見えざる手」は全く逆で「完全な経済的自由」「専制主義への批判」。アダム・スミスのこの新しい見解により、経済が統治の対象でないことが歴史上初めてはっきりしてきた。その同時期にアダム・スミスと同じグラスゴー大学のファーガスンの市民社会の理論が登場。これは近代的な統治テクノロジーのひとつで「法的経済学」と言うべきものである。「人間がその内部において機能するような具体的要素、具体的包括性」を指摘している。フーコーは市民社会の四つの本質的特徴として、以下をあげている。歴史的かつ自然的な不変項として、自然発生的総合の原理として、政治権力の恒久的母型として、歴史の原動力としての市民社会。これらの特徴が、全く新しい政治思想の概念を形成していく。それには三つの要素がある。すなわち:法的でない社会関係の領域の開示、変質とは異なるかたちでの歴史と社会的な絆との連接、統治の社会的な絆への、社会的な絆の権威の形態への有機的な帰属。この経済学と市民社会論は自由主義的合理性を特徴づけている。19世紀にはマルクス主義も現れ統治術が活発に論争が行われた。やがて19世紀から1930年台にかけて「新たに問題が生じ」「統治されている人々の合理性に基づいて統治を規則づける」にはどうしたらいいのかという問題が起き始め「経済学による人間の行動様式・人的資本の分析」がなされるようになり、そこが「分裂地点」となり「生政治」が誕生した。このようにアダム・スミスの経済理論とファーガスンの市民社会思想が起点となり、講義の前半のドイツのオルド自由主義、アメリカの完全な経済の自由主義へとつながり、統治のあり方を構成していった。
1 はじめに:フーコー「生政治の誕生」慎改康之訳をようやくそれなりに理解=まとめができるくらいまで読めたので、私の気になったところをメモしておく。
講義録の内容自身は部分部分はそんなに難しくないが、フーコーの講義間を貫く思索のコアは何?具体的には何を言っているの?またフーコーは最後に時代を遡っているので重農主義、重商主義、アダムスミス、ファーガソン、・・・オルド自由主義、アメリカ新自由主義と通史で経済学、政治経済学を捉えるとどのように再構成される?と考えるとなかなか全体がつかめなかった。最後の講義はかなり雑な通史になってしまっていて、近代に繋がらないのでバラバラな印象を与えてしまっているのである。今でも多くの思索のコアを取り逃しているに違いないが、終わり2回の講義、1979年3月28日、4月4日の講義がやっと全体を受け止められる政治経済学の系譜論、起源論になって近代へと接続していることがおぼろげながら理解できてきたので、ここに自分の理解したことをメモしておこう。
2 アダム・スミスの重要性:「自由放任せよ。見えざる手にまかせなさい」
「国富論」第4編第2章に最重要の「見えざる手」のパラグラフがある。
「国外産業の成功よりも国内産業の成功を目指しつつ、商人は自分自身により大きな安全を与えることしか考えない。また、この産業を、その生産物が可能な限り大きな価値を持つようなやり方で方向づけることによって、彼は自分自身の儲けしか考えない。この場合においても、他の多くの場合]においてと同様、彼は、見えざる手によって、彼の意図には全くない一つの目的を満たすよう導かれる。」(フーコー「生政治の誕生」pp342)
アダムスミスによると商人は自分の儲けしか考えてないことが「見えざる手」に導かれ、全体(国内産業)が発展する要件であるという。
見えざる手の解釈は神学的なものもあるが、アダムスミスの先を読み進めると、
「私は、その商売において公共の利益のために働きたいなどと望んでいる人々が多くのよい結果をもたらしたのを、一度も見たことがない。確かにそうした美しい感情は、商人たちのなかにはあまりない。」
と商人は公共の利益について考えてもうまくいかない、それよりはむしろ各自の儲けを追求すると、見えざる手に導かれ産業が発展すると明確に述べている。
したがって、一人一人の商人を「自由放任させること」および主権者が経済のメカニズムを「人為的ないし意志的に組み合わせ」「全体化しようとすること」は「見えざる手」の存在により「不可能である」と認識することの2点が重要である。
フーコーはこの「不可視性」をさらに言い換えて、「共通の利害関心のために要請されるのは、一人ひとりが自分の利害関心を理解し、障害なくそれに従うことができるようにすることである」「権力、統治は、個人の利害関心の作用を妨害することができないということ」とまとめている。
経済の発展のためには「政治権力」は、「自然が人間の核心に刻み入れたこのダイナミズムに介入する必要はない」ということは、後のケインズ主義による反旗を思い起こさせる。
この政治権力が経済活動に介入できないことについて、フーコーは、アダム・ファーガスン(ファーガソン)が明快に述べているとして引用している(引用はフーコーはフランス語訳を参照しているのでここで意趣をかえて原典からの翻訳版を掲載させていただいた):
商業の目的は個人を富裕にすることである。彼が自分自身のためにより多くを獲得すればするほど、彼は自国の富を増大させることになる。・・・・洗練された政治家が積極的に手を貸そうとすると、彼は妨害や不満の原因を増やすだけである。商人が自分自身の利益を忘れ、自国のために計画を立てるようになると、幻想とキメラの時代が到来し、商業の堅固な基礎は覆される。(京都大学学術出版会、天羽康夫・青木裕子訳 pp208)(フーコー「生政治の誕生」pp345 注30対応箇所)
穀物輸出はその産出国を枯渇させるにちがいないという想定にもとづいて進められたフランスの一般的な政策では、最近まで、商業のその部門は厳しく禁止されていた。イングランドの土地所有者と農業経営者は十分に信用されていたので、彼らの商品の販売を有利にするための輸出奨励金を得ていた。結果として明らかになったのは、私的利益は国家の入念な工作に優る商業と富裕の保護者であるということである。
一方の国は、北アメリカ大陸への緻密な入植計画を立てて、商人や近視眼的な人々の行動をほとんど信用しない。
もう一方の国は、人々が自由の状態で彼ら自身の土地を見つけて、彼ら自身で考えるようにしておいた。後者の活発な勤労と狭い視野は、入植地を繁栄させたが、前者の偉大な企画は依然として考えの中に留まったままである。(京都大学学術出版会、天羽康夫・青木裕子訳 pp208 改行は筆者)(フーコー「生政治の誕生」pp346 注31対応箇所)
フーコーは一旦ここで「実践として理解された経済と、統治の介入のタイプとして、国家ないし主権者の行動形態のタイプとして理解された経済学は、ともに短い展望しか持ちえないということであり、もし、長い展望、包括的で全体化す視線を持つと言い張る主権者がいるとしたら、この主権者は決して妄想しか見ないであろうということです。」(pp346)としめている。あたかも現在のアメリカ政府の経済への介入(関税と製造の国内回帰)を描いているようである。
アダム・スミスの経済学の結論として、フーコーは4点挙げているが無神論・神不在であることは除いて、下記の2点が重要である
・経済学は全体性なしの学問分野であるということ。
・経済学は、統治すべき国家の全体性に対する主権的視点、主権者の視点が、ただ単に不要であるばかりでなく不可能でもあるということを表明し始める学問分野。(pp347)
この後、フーコーはカントの「批判」まで引っ張るところが流石である。
アダム・スミスの経済学の
あなたがしてはならないのはなぜだろうか。あなたがしてはならないのは、あなたにはできないからだ。 そしてあなたにはできない、とは、「あなたが無力である」という意味である。ではなぜあなたは無力であり、あなたにはできないのか。あなたができないのは、あなたが知らないからであり、あなたが知らないのはあなたが知りえないからだ、と。(pp348)
これに対してカントについて
これより少し後の時代に、カントは、人間に対し、あなたには世界の全体性を認識することはできないのだ、と語ることになります。政治経済学はその数十年前に、主権者に対し、あなたもやはり経済プロセスの全体性を認識することはできないのだ、と語っていたのでした。(pp349)
と絡めているところがフーコーのカッコ良さだと思う。さて、考えてみればこのアダム・スミス、アダム・ファーガスンのグラスゴー大学の同僚に誰がいたかと言えばデイヴィッド・ヒュームである。(ちなみに私も理系分野であるがグラスゴー大学の先生と共著の論文を出版している。)カントへのヒュームの影響は大きいことが知られている。だからフーコーは「言葉と物」の頃からホモ・エコノミクスという言葉を使っているので、ここに狙いを定めていたのだろうと考える。
このような自由放任を主張する経済学に対して、19世紀から20世紀にかけてその揺り戻しとして、計画経済、統制経済、社会主義、国家社会主義(ナチ)が現れる。国家の主権にとって経済を剥奪されていることへの反発である。内政国家も当然当てはまる。
このような経済の比較として、フーコーはアダム・スミス以前の重農主義、重商主義を挙げている(pp350-351)。それらの流派では「経済表」を作ることで経済プロセスを把握して何をすべきかということが把握され、そこに政治的主権があるという考え方である。
アダム・スミスの経済学はそれへの「批判」として確立されたもので、今や「経済学者たちに耳を傾けながら統治しなければならないとはいえ、しかし、経済学が統治の合理性そのものとなるなどということは、あってはならないこと、問題外のこと、不可能なこと」。
では経済が剥奪された統治は一体何を「統治」したら良いのか?それが市民社会の理論であるという。それは次回にて。
トップ画像はwikipediaより
参考文献
『生政治の誕生』もしくは市民社会の系譜学 慎改康之 ★★★★★
https://www.meijigakuin.ac.jp/~french/shinkai/pdf%20files/societecivile.pdf
https://www.i-repository.net/contents/osakacu/kiyo/DBb1160103.pdf
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/27816/lan020201500903.pdf
Abstract: Adam Smith, Adam Ferguson, and the Genealogy of Liberal Rationality in Foucault’s The Birth of Biopolitics
This abstract examines Michel Foucault’s analysis of Adam Smith and Adam Ferguson as the foundational pivot in the genealogy of modern political economy and liberal governance. Contrasting with Physiocratic and Mercantilist frameworks that sought to comprehend and direct economic processes through state rationality (e.g., the Tableau Économique), Foucault highlights Smith’s concept of the “invisible hand” as a decisive epistemological rupture. Smith demonstrates that economic development flourishes precisely when decoupled from sovereign intervention, rendering totalizing state planning both unnecessary and impossible. Simultaneously, Ferguson’s theory of civil society emerges as a complementary governance technology, redefining political rationality around spontaneous social bonds rather than juridical or sovereign command. Foucault identifies civil society’s four essential traits (historical/natural invariant, principle of spontaneous synthesis, permanent matrix of political power, and historical driver) and three structural elements (the disclosure of non-juridical social relations, reconfigured historical-social ties, and the organic attribution of governance to social authority). Together, Smith’s economics and Ferguson’s civil society theory establish the core of liberal rationality: governance must operate through, rather than over, the self-regulating dynamics of individual interests. This theoretical reconfiguration creates a “splitting point” that later enables biopolitics by shifting the problem of governance from sovereign command to the management of human rationality and behavior. Genealogically, this 18th-century foundation directly informs 19th-century ideological counter-movements (socialism, fascism) and ultimately crystallizes in 20th-century German Ordoliberalism and American neoliberalism. The abstract underscores how Foucault’s reading of Smith and Ferguson reveals the historical conditions under which economics was stripped of sovereign authority, thereby making possible the modern biopolitical management of populations through market rationality.
