夫婦 その1
夫婦の意義、メリット、デメリットはなんだろうか?
ここでは現代の夫婦・結婚ではなく、現代の夫婦関係を決めてきた根幹の一つを「フーコー 性の歴史」4巻「肉の告白」(慎改康之訳 新潮社)から確認しよう。
同書、「第1章 新たな経験の形成」にはローマ帝政のストア派哲学をキリスト教をローマに広めるにあたって原始キリスト教時代に引き継いだと言う主張がされている。その考察と証拠は膨大なのだが、ここではムソニウスのルフス「断片集」からアレクサンドリアのクレメンスの「訓導者」への流れが重要なキーであると考えられるので実際のギリシア語まで確認したい。
ここでこのようなことを考えるにあたって2つの課題を考えた。ストア派について学術的な本でもムソニウスのルフスはストア派では主役でなくあまり訳出されていないため該当箇所を確認できないこと。二つ目はフーコーの引用関係がルフスはギリシア語、クレメンスはフランス語を参照しておりニュアンスはどのくらい考慮しているんだろうかと言うこと。原始キリスト教時代のギリシア語はあまり題材にもなってなってないのでChatGPTの知識の提供でも意味があるかもしれない。
まず長いがフーコーの出だしを引用する。
アフロディシア aphrodisia
〔愛欲〕をめぐる規定を、結婚、子づくり、快楽からの価値奪、敬意を伴う強い好意による夫婦間の絆との関連で定められたものとして定式化したのは、したがって、キリスト教徒ならざる哲学者たちである。皆に受け入れられうる行動規則ーだからといって皆がそれに従ったというわけでは全くない行動規則ーを、そうした規定のうちに認める可能性を自らに与えたのは、「異教の」社会なのである。
その同じ規定が、本質的な変更なしに、二世紀の教父たちの教義のうちに見いだされる。彼らはそうした規定に関する諸原則を、原始キリスト教世界のなかにも、使徒によるテクストのなかにもーー極めてギリシア的な傾向を持つ聖パウロの手紙を例外としてーー見いださなかったのだろうというのが、大半の歴史家たちの見解である。それらの諸原則は、いわば、異教世界からの敵意を、そこですでに高い価値を認められていた行動形態を示すことで軽減するために、異教世界からキリスト教的な思考および実践のなかへと移し入れられたのだろう。ユスティノスやアテナゴラスなどの護教論者たちは実際、キリスト教徒たちが、結婚、子づくり、アフロディシアに関して、哲学者たちの原則と同じ諸原則を実践に移しているということを、皇帝への訴えのなかで強調している。
さて、その具体的な引用元ー引用先を調べてみたい。
上記の再掲であるが引用元は「キリスト教徒ならざる哲学者たち」引用先は「教父」。引用内容は「すでに高い価値を認められていた行動形態」。
フーコーはユスティノスやアテナゴラスの例を示し、ここに流れ込んだ一つの流れを「ムソニウス・ルフス(Musonius Rufus)」から「アレクサンドリアのクレメンス(Clément d'Alexandrie))」を「逐語的に書き写している」と説明している(同書pp31)。その参考文献として(同書pp71(注14-17)を示している。
そこの実際をギリシア語まで戻ってみたいのである。いつもながらChatGPTを使いながら。
フーコーは
1.正当な結合は子づくりを望まねばならないという原則。
2.結婚においてさえも快楽だけを求めるのは理性に反するという原則。
3.自分の妻に対し、性的関係の慎みのない形態すべてを免除してやらなければならないという原則。
4.一つの行動を恥ずかしく思うのは、それが過ちであることを自覚しているからであるという原則。
をあげている。今回はその1から。
1.正当な結合は子づくりを望まねばならないという原則。
ではフーコーはルフスの断片集XIVからクレメンスの「訓導者」IIのXの90の三、で説明している。
テキストソースは
ルフスは下記リンクの前後ページ(O. Hense校訂1905フーコー指定本)テキストはコピペ後壊れたOCRデータを修正しHense版に可能な限り近づけてある。
pp71 下l8
κατά φύσιν δ΄, εἴ τι ἄλλο, καί τὸ γαμεῖν
φαίνεται ὂν. ἔπει τοῦ χάριν ὁ τὸν ἄνθρωπον δημιουργὸς,
πρῶτον μὲν ἔτεμε δίχα τὸ γένος ἡμῶν, εἶτ’
ἐποίησεν αύτῷ διττὰ αἰδοῖα, τὸ μὲν εἶναι θήλεος τὸ
δἑ ἄρρενος, εἶτα δἑ ἐνεποίησεν ἐπιθυμίαν ἰσχυρὰν
ἑκατέρῳ θατέρου τῆς θ΄ όμιλίας καὶ τὴς κοινωνίας καὶ,
πόθον ἰσχυρὸν ἀμφοῖν ἀλλήλων ἑνεκέρασεν, τῷ μὲν
ἄρρενι τοῦ θήλεος τῷ δὲ θήλει τοῦ ἄρρενος; ἇρ΄ οὖν
<ού> γνώριμον, ὅτι ἐβούλετο συνεῖναί τε αὐτώ καὶ
pp72
συνεῖναι καὶ τὰ πρὸς τὸν βίον ἀλλήλοις συμπηχανᾶσθαι, καὶ γένεσιν παίδων καὶ τροφὴν ἅμα πονεῖσθαι, ὡς ἂν τὸ γένος ἡμῶν ἀΐδιον ᾖ· καὶ πάλιν, ἕκαστον ποιεῖν καὶ τὰ τοῦ πέλας, καὶ ὅπως οἱ τοιοῦτοι ὦσιν ἐν τῇ πόλει, καὶ ὅπως ἡ πόλις μὴ ἔρημος ᾖ, καὶ ὅπως τὸ κοινὸν ἔσται καλῶς.
もし他の何かが自然に従うものであるなら、結婚することもまた自然に従うものと見える
それゆえに、この目的のために、人間を造り出した創造主は、
まず最初に我々の種を二つに分け、次いで二種の性器を備えさせた。
その一つは女性のものであり、他の一つは男性のものである。
さらにまた、双方に対して強い欲望を植えつけ、互いに交わり、また共同生活を営むための結びつきとして、
そして双方の間に強烈な愛着を混ぜ合わせた。すなわち、男性には女性への、女性には男性へのそれである。
それでは、明らかではないか、創造主が彼ら二者を共に結びつけ、共に生き、
生活に必要な事柄を互いに協力して成し遂げ、子を生み育ててゆくようにと望んだことが。
それによって、我々の種が永遠に存続するためである。
では、問おう。むしろ各人は、自らのことだけでなく隣人のことも行い、
家々がそれぞれの都市の中に存し、都市が無人とならず、そして共同体全体が良好な状態を保つようにすべきではないのか?
ストア派特にルフスについての性への考え方はむしろ「性の歴史」3巻に詳しいがここは議論されていなかったはずである。
さてギリシア語を確認しておこう。ChatGPT情報o5無料版である。
κατά φύσιν δ΄, εἴ τι ἄλλο, καί τὸ γαμεῖν
φαίνεται ὂν.
(もし他の何かが自然に従うものであるなら、結婚することもまた自然に従うものと見える)Hense版の注にアレキサンドリアのクレメンス訓導者2.90への転記が指摘。フーコーはここを確認ずみのようである。
ἔπει τοῦ χάριν ὁ τὸν ἄνθρωπον δημιουργὸς,(それゆえに、この目的のために、人間を造り出した創造主は、)
「τοῦ χάριν」は「それのために」「そのことを理由として」
πρῶτον μὲν ἔτεμε δίχα τὸ γένος ἡμῶν まず、われわれの種を二つに分けた。
「ἔτεμε δίχα」は「分割した」「二つに分けた」という意味。性別の創造を指す。
εἶτ’ ἐποίησεν αύτῷ διττὰ αἰδοῖα, τὸ μὲν εἶναι θήλεος τὸ δἑ ἄρρενος (次いで二種の性器を備えさせた。その一つは女性のものであり、他の一つは男性のものである。)→性別の二項構造を明確に示す表現。
εἶτα δἑ ἐνεποίησεν ἐπιθυμίαν ἰσχυρὰν ἑκατέρῳ θατέρου τῆς θ΄ όμιλίας καὶ τὴς κοινωνίας (さらにまた、双方に対して強い欲望を植えつけ、互いに交わり、また共同生活を営むための結びつきとして、)
性的欲望と社会的結合を自然の秩序として説明。
καὶ, πόθον ἰσχυρὸν ἀμφοῖν ἀλλήλων ἑνεκέρασεν, τῷ μὲν ἄρρενι τοῦ θήλεος τῷ δὲ θήλει τοῦ ἄρρενος (そして双方の間に強烈な愛着を混ぜ合わせた。すなわち、男性には女性への、女性には男性へのそれである。)
→相互的・補完的な欲望の構造。
ἇρ΄ οὖν <ού> γνώριμον, ὅτι ἐβούλετο συνεῖναί τε αὐτώ καὶ
p72
συνζῆν καὶ τὰ πρὸς τὸν βίον ἀλλήλοιν συμμηχανᾶσθαι (それでは、明らかではないか、創造主が彼ら二者を共に結びつけ、共に生き、生活に必要な事柄を互いに協力して成し遂げ、子を生み育ててゆくようにと望んだことが。)
→性的結合だけでなく、共同生活・経済的・社会的結合も含む。
καὶ γένεσιν παίδων καὶ τροφὴν ἅμα ποιεῖσθαι, ὡς ἂν τὸ γένος ἡμῶν ἀΐδιον ᾖ (それによって、我々の種が永遠に存続するためである。)
(καὶ – 「そして」,γεννᾶν παιδὰς – 「子(παιδὰς)を生むこと」,καὶ τροφίνας – 「そして養育すること(子供や家族の)を」, ἀμά πονεῖσθαι – 「共に労すること、共に努力すること」)
→生殖と教育・養育を自然法則として結びつける。
πότερα προσήκει ἕκαστον ποιεῖν καὶ τὰ τοῦ πέλας, καὶ ὅπως οἱκοι ὦσιν ἐν τῇ πόλει αύτου, καὶ ὅπως ἡ πόλις μὴ ἔρημος ᾖ, καὶ ὅπως τὸ κοινὸν ἔξει καλῶς (むしろ各人は、自らのことだけでなく隣人のことも行い、家々がそれぞれの都市の中に存し、都市が無人とならず、そして共同体全体が良好な状態を保つようにすべきではないのか?)
→個人の生殖・社会的義務と都市・公共の秩序の結びつきまで拡張。
ちょっと面白いのはストア派は禁欲的な男の流派の感じなのに、男だけでなく女にも性欲を認識しているところ。
子供を産み国家に差し出すのはプラトン的にあるが、プラトンは妻子の共同体を主張した。一方アリストテレスは家庭とその経営を強く意識したのでムソニウスのルフスはアリストテレスを強く意識しているか。
次にHenseとフーコーの注に従いアレクサンドリアのクレメンスの該当箇所をChatGPTを使って確認しよう。
http://khazarzar.skeptik.net/pgm/PG_Migne/Clement%20of%20Alexandria_PG%2008-09/Paedagogus.pdf
2.10.90.3
μέρει χρῆσθαι μετὰ αἰδοῦς· ἡ γὰρ φύσις ὥσπερ καὶ ταῖς τροφαῖς, οὕτω δὲ καὶ τοῖς κατὰ νόμον γάμοις ὅσον οἰκεῖον καὶ χρήσιμον καὶ εὐπρεπὲς ἐπέτρεψεν ἡμῖν, ἐπέτρεψεν δὲ ὀρέγεσθαι παιδοποιίας.
「自然は、ちょうど食物に対してそうであるように、法に従った結婚においても、私たちに適切で有用で礼節ある範囲で用いることを許しており、さらに子どもをもうけることを望むことも許している。」
• οὕτω δὲ καὶ τοῖς κατὰ νόμον γάμοις
「同様に、法に従った結婚においても」
• ἐπέτρεψεν δὲ ὀρέγεσθαι παιδοποιίας
「そして子どもをもうけることを望むことも許している」
παιδοποιίαςはπαῖς (pais子供)+ποιία (poiía作ること、生み出すこと) を組み合わせた言葉
したがってフーコーがギリシア語を逐語的に書き写していると言うのは論旨順
ムソニウスのルフス 結婚することは自然に従うこと。性を二つ、強い欲望、共同生活。
アレクサンドリアのクレメンス 自然、法に置き換え
ルフスとクレメンスの一致点は「結婚することは自然に従うこと」
ルフス 子供の誕生と養育に共に従事させた
クレメンス 子どもをもうけることを望むことも許している
とルフスにせよクレメンスにせよ何かに従属的な書き方になっている。
ここでギリシア語を確認しておくと(上から再掲)
・自然について
ルフス κατά φύσιν δ΄, εἴ τι ἄλλο, καί τὸ γαμεῖν φαίνεται ὂν.
クレメンス μέρει χρῆσθαι μετὰ αἰδοῦς· ἡ γὰρ φύσις ὥσπερ καὶ ταῖς τροφαῖς
・子について
ルフス γεννᾶν παιδὰς – 「子(παιδὰς)を生むこと」
クレメンス παιδοποιίαςはπαῖς (pais子供)+ποιία (poiía作ること、生み出すこと)
と生み出すことの動詞が違ってきている。
この背景にクレメンスではギリシア語訳聖書の表現かChatGPTに聞いてみたが、「聖書では直接的に τίκτειν / γεννᾶν を使う傾向が強い。」γεννᾶνはルフスの表現である。したがって今は、παιδοποιίαςという言葉に置き換えた理由はよくわかならない。
最後に、せっかくなのでアレクサンドリアのクレメンスの前後表現も見ておこう。
2.10.90.1 Χρὴ δὲ υἱοὺς μὲν ἡγεῖσθαι τοὺς
παῖδας, εἰς δὲ τὰς γυναῖκας τὰς ἀλλοτρίας ὡς ἰδίας ἀφορᾶν θυγατέρας κρατεῖν τε ἡδονῶν γαστρός
2.10.90.2 τε ἔτι καὶ τῶν ὑπὸ γαστέρα δεσπόζειν ἀρχικώτατον. Εἰ γὰρ οὐδὲ τὸν δάκτυλον ὡς ἔτυχε σαλεύειν τῷ σοφῷ ὁ λόγος ἐπιτρέπει, ὡς ὁμολογοῦσιν οἱ Στωϊκοί, πῶς οὐχὶ πολὺ πλέον τοῦ συνουσιαστικοῦ ἐπικρατητέον μορίου τοῖς σοφίαν διώκουσιν; ταύτῃ μοι δοκεῖ καὶ ὠνομάσθαι αἰδοῖον, ὅτι χρὴ παντὸς μᾶλλον τούτῳ τοῦ σώματος τῷ
2.10.90.3 μέρει χρῆσθαι μετὰ αἰδοῦς· ἡ γὰρ φύσις ὥσπερ καὶ ταῖς τροφαῖς, οὕτω δὲ καὶ τοῖς κατὰ νόμον γάμοις ὅσον οἰκεῖον καὶ χρήσιμον καὶ εὐπρεπὲς ἐπέτρεψεν ἡμῖν, ἐπέτρεψεν δὲ ὀρέγεσθαι παιδοποιίας. 2.10.90.4 Ὅσοι δὲ τὴν ὑπερβολὴν διώκουσι, πταίουσι περὶ τὸ κατὰ φύσιν, σφᾶς αὐτοὺς βλάπτοντες κατὰ τὰς παρανόμους συνουσίας. Ἔχε γὰρ ὀρθῶς παντὸς μᾶλλον μή ποτε κοινωνεῖν καθάπερ θηλειῶν πρὸς μῖξιν ἀφροδισίων τοῖς νέοις. ∆ιὸ καὶ μὴ εἰς πέτρας τε καὶ λίθους σπείρειν, φησὶν ὁ ἐκ Μωυσέως φιλόσοφος, ὅτι μήποτε φύσιν τὴν αὑτοῦ ῥιζωθὲν λήψεται γόνιμον.
2.10.90.1
子どもを息子と見なし、また他人の妻たちを自らの娘であるかのように見て、腹の欲望を制御することが求められる。
2.10.90.2
さらに、腹の下にある欲望を支配することこそ、もっとも支配的な徳である。ストア派が認めるように、理性は賢者に対して、指一本をでたらめに動かすことすら許さないのだから、知恵を追い求める者にとっては、なおさら交わりを欲する身体の部分を抑制すべきではないか。この部分が「αἰδοῖον(陰部)」と呼ばれるのも、まさにそれを敬虔と慎みをもって用いるべきだからである。
2.10.90.3
というのも、自然は食物についてそうであるように、合法的な結婚においても、適切で、有益で、ふさわしい分だけを私たちに許している。そして自然が許したのは、子をもうけることを目的とする性行為に限られる。
2.10.90.4
ところが、節度を超えて欲望を追い求める者は、自然に反して誤りを犯し、不法な交わりによって自らを損なうことになる。若者と交わるのを、まるで女性との情欲的な混交であるかのように考えてはならない。だから「岩や石に種を蒔くな」とモーセの伝統から来た哲学者(すなわちフィロン)が言うのも、種が決して自らの本性に根づいて実を結ぶことはないからである。
アレクサンドリアのクレメンスの禁欲法が一つ目の文で出ています。これは自分の娘のような年頃の女の人にこんなことしていいのか、っていうよくある葛藤ものに引き継がれていますね。
陰部の語源と交わりを抑制することをうまくクロスしています。
3つ目の議論が再掲ですが、食べること、子供を作ることは自然で法に乗ったったことであると。結婚という法に基づいた子作りのみが許される。
最後の文はギリシア的な若者との恋愛は禁止、子供ができないから。若者との性行為への戒めはマルクス・アウレリウスにも出てきますね。ギリシア的な伝統からローマ帝世紀へのこのような断絶にみえる継承、ギリシア時代の男色への禁欲から、外に愛人を作ったり奴隷での性行為の強要に基づく家庭内で統御ができるのは誰かという考えに基づくストア派の男女の地位逆転の考え方はフーコーの性の歴史2、3巻参照。
* * *
パラグラフ単位で見ると、最終的な出口がルフスとクレメンスでは大きく異なってきている。
ルフスの「子供の誕生と養育に協力するのは、私たちの種が永遠であるためである。さらに、それぞれが隣人のことにも責任を持つことで、このような人々が都市に存在し、都市が荒れず、公共の利益がうまく維持されるのである。」という表現は見られなかった。そのような視点があるかないかは全文を読まないとわからないのでここではペンディングする。全文をポリスで検索をかけると3箇所で子供との直接な関係は確認できなかった。このような直裁な調べ方では比喩的な表現があれば難しい。
その2、その3で出てくると予想しているが、アレキサンドリアのクレメンスはストア派の結論を、旧約聖書などで固めてキリスト教の伝統にあることを主張している。
このような夫婦・結婚は引き継がれセネカにも出てくる。ヒエロニムスにも出てきてアベラールとエロイーズにまとめて出てくる。
それは中世の社会だけではない、今日G7と言われる国々に日本はキリスト教国でないものの入り込めているのは経済的なものもあるかもしれないが、福沢諭吉が先進国の仲間入りをするにはフランスやアメリカの例を見て一夫一婦制にしなくてはならないという直観は大きかったのでなないだろうか。もし一夫多妻制が制度や宗教として容認されていたらアラブのイスラム教のようにいくら石油で金があり親欧米であっても仲間に入っていない。
このようにわずかな起点の違いで今日の世界が見えてくることが単なる性やギリシア語の読みときの結論から見えてくるのがフーコー的な面白さだと思う。
2025.9.28 Hense版にてルフスの本文を改訂
参考
