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トランクの死体

土砂降りの夜に、血だらけの友人がいきなり訪ねて来て、泣きながらこう言う。
「車のトランクに死体があるの。」

私はどうするか。

まず、部屋に入れて、濡れた身体を拭く。
温かくてすこし甘い飲み物を飲ませているあいだに、風呂の用意をする。

ぬるめの湯にゆっくりと浸かってもらって、ドア越しに腹が減ってないか訊く。
減ってないと言うような気がするけれど、一応、食べやすくて消化のいいものを用意する。
おじやとかうどんとかプリンとか。

私の着古しだけど、それほど傷んでいないもので、洗濯だけはしっかりとしてある服の中から、できるだけゆったりしているものを選んで着てもらって、用意した食べ物を一緒に食べる。
私が満腹でも、絶対食べる。
見ていられてひとりで食べるのと、一緒に食べるのとでは、違うと思うから。

そうして。
車のトランクにあるものを、どうしたいか尋ねる。
私がこうしたほうがいいという考えは、当然あるし、それはこんな私でもたぶん常識的なものだと思う。
でも、先に要望を尋ねる。

友人の思いが、私のそれと一致すればいいが、そうでなければ、友人の思いを優先する。
それが、世間的な正しさとは違うことであっても、私はそうしたい。
非難されても、躊躇しても、できる自分でありたい。

本人が迷っていて、どうしたらいいかと尋ねられたら、私の考えを話す。
でも、友人がそれに従わず、別の選択をしたら、その選択のために一番いい道も考える。

その選択についてくる注意点もリスクも話す。
それでも、反対はしない。
是非も正誤もない。
私はそういう人間だからだ。

私は、そういうふうに人を好きになる。
この人のこういうところが好き、なんじゃなくて、その人の清も濁もまるごと好きになる。
そしてすべてを容認する。

間違っていることは、私が言わなくても、周囲がイヤというほど言ってくれるだろう。
説諭も非難もあるだろう。

だから、私まで、言わなくていい。

そうなった経緯が、選択の実行に必要不可欠なら尋ねるが、そうでなければ、本人が話すまで訊かない。
ずっと話したくなければ、言わないままでいい。
それでも、私は手を貸す。

私が、本当にその人を友と思っているなら。
その人のことが好きなら。

いま、長い人生を経て、数は多くないが残った友人とは、そういうつきあいをしていると思う。

友情とか信頼とか正義とか、そういう四角ばった言葉ではくくれないような、曖昧で、冷静で、それでいて衝動的で、何も言わずにただ抱きしめるような関係を私は求める。

いや。
求めているのは、そうしてくれる相手ではなく、そうできる自分。

そしてもうひとつ。
そう願ったり感じたりしていることを、言葉や態度にけして出さないこと。
「さよなら」と言ったら、振り向かずに離れていけるような。

「 見つめ合うだけで
 堕ちていく闇の中で
 わたしは
 崩壊という
 進化をする 」