時が消えた島 第七章<サステナブルワーク> 完結
第七章 サステナブルワーク
1
押し入れを開けた。
アリサの手紙にあったように、底板の隙間から微かな光が滲んでいた。
床板を外すと階段が現れた。
急勾配でかなり長い階段だ。
下りてみることにした。
足を踏み外さないように一歩一歩慎重に足裏の感触を確かめながら下りた。木の階段は年季が入っており、ところどころきしむ音を立てた。その音が密閉された空間に響き、自分の鼓動と混ざり合う。
冷たい空気が下から上がってきて、首筋を撫でる。
一階を通り越して地下まで辿り着いた感覚だ。
階段に続く通路の壁に電球が灯っていた。
この明かりが二階の床下から漏れていたのだ。
電気の通らないこの島で、初めて目にする文明の利器だった。風雨にさらされた古い家なのに、なぜここだけが。
僕は首を傾げながらも、さらに奥へと進んだ。
近くに小川が流れているので水車発電?
それとも風力発電だろうか?
細い通路に沿って歩くと、扉があって八畳ほどの部屋に出た。
頭の中で位置を確認すると、ちょうど貯蔵庫の下辺りだ。
素足がざらついて冷たい。通路は板敷きだったが、ここはコンクリートの床だった。何かを洗い流したように湿っぽい。
急に鼓動が早くなった。
なにかの視線を感じた。
獣?
頭を強く振って妄想を追い払った。
だが、どこかで耳をすませているような気配は消えない。
部屋の中央に裸電球が灯っている。温かみのある光のはずなのに、周囲の空気は妙に湿っていて冷たい。
どこか腐敗したような甘ったるい匂いが漂っている。
壁には無数の小さな傷跡が刻まれていた。
爪で削ったような浅い傷。ところどころ、焦げついたような黒ずみもある。
壁に近づくと、そこには何かの数字が刻まれていた。
日付だろうか。
何かのカウントダウンだろうか。
それとも、この部屋に閉じ込められた者の痕跡か。
足元には赤黒い染みが固まっていた。長い年月をかけて染み込んだそれは、床の隙間にまで入り込み、乾いてはまた塗り重ねられたようだった。
靴底をこすると、その染みがわずかに剥がれ落ちた。
部屋の真ん中に置かれたステンレスの大きなテーブルは、天井の裸電球を鈍く映していた。
いくら磨いても取れない細かな傷跡が無数に走り、その表面には物語がある。
天面にそっと触れると、冷たい水滴が指先にまとわりつく。
まるで、何かの気配が凝縮されたようだ。
対面の壁には、大型冷凍庫がここの主のような顔をして居座っている。
古びた表面には、何かが飛び散って乾いた痕跡が点々と残っている。
扉の取っ手には、何度も触れられた跡が黒く残っていた。
2
その時、ぶーんという冷凍庫の唸りが一際大きくなった。
僕は吸い寄せられるように歩み寄り、冷凍庫の扉に手をかけた……
ふと背後に視線を感じた。
振り返ると、佐吉じいさんが立っていた。
笑っていた。
目尻の深い皺まで持ち上げて、声もなく笑っていた。
佐吉じいさんの笑顔を見るのは初めてだった。
その笑顔は柔らかいはずなのに、どこか冷たさを感じる。
「そんなにおびえることはねえで」
佐吉じいさんが一歩、こちらへ足を踏み出した。声帯が震えるような低い声は、この密室に広がり、壁に吸い込まれていった。
長年の沈黙を破った声は、空気を震わせるような重みがあった。
「あっ!」
その声に、僕は思わず悲鳴ともとれる声を上げていた。今まで一度も言葉を交わしたことのない佐吉じいさんの声が、この空間を埋め尽くす。
「わしがしゃべるのがそんなに不思議か?」
「知らなかったから」
「必要がなかったから、しゃべらなかっただけじゃ」
「……」
「おまえに伝えておくことがある」
何も怖がることはない。
そう自分に言い聞かせた。
だが、この狭い地下室で初めて声を聞いた佐吉じいさんとの対面は、現実離れしていた。
「アリサから聞いているかもしれんが、まずお前の疑問を解決してやらんとな」
アリサの名前が出てきたことで、思わず僕は佐吉じいさんに詰め寄っていた。
「アリサはどこにいるんですか?」
「順を追って話すで、そう焦りなさんな」
佐吉じいさんの口元に浮かぶ薄笑いには、何かを隠しているような影があった。
「この家の主はアリサの祖父だ。わしはその弟分に当たる。長年の付き合いでな。若い頃は二人で、違法すれすれのこともやって来たもんじゃ」
佐吉じいさんは懐かしむように、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと話し始めた。
アリサの祖父は昨年から体調を崩し、ずっと寝たきりで佐吉が身の回りの世話をしていた。
そして、今年の初めに息を引き取る前、願い事をされた。
たった一人の身内であり、かわいい孫であるアリサに遺産を託したいとのこと。
そこで佐吉は、アリサの祖父が生前遺産管理を任せていた弁護士に連絡を取った。
そしてアリサを呼び寄せるために、佐吉は自分の孫を呼び寄せた。それが僕がこの島に乗り入れたとき出迎えてくれた少年だ。
少年は留守中のペットの世話と偽って、アリサに架空のアルバイトを持ち掛け、この島に呼び寄せた。
少年に任せた方がアリサも安心するだろうと考えたのだ。
「お前はアリサの腹違いの弟だ。だから、ここに呼ばれた」
僕の頭の中で、断片的な記憶が蘇ってきた。
幼い頃、実の両親と暮らしていた頃のぼんやりとした記憶。
だが、それはすぐに消え去った。
今の僕は、佐吉じいさんの言葉を信じるしかない。
アリサの祖父が遺産として残したかったもの。それは、この家を永遠に持続させることだった。
「アリサはどこにいるんですか? あなたの孫の少年は家に帰ったんですか?」
「二人は今もこの家にいる」
「どこにいるんですか?」
「ほら、そこに」
佐吉じいさんは僕のお腹のあたりを指さした。
「食っただろ、あの肉を……」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
その言葉の意味が脳に伝わり、急激な吐き気に襲われた。
僕は屈んで、夕食に食べたものを全て吐き出していた。
思考が停止する。
目の前に佐吉じいさんの足が見えた。
僕は両手で膝を押して、かろうじて起き上がった。
冷や汗が背中を伝い落ちる。
「安心しなさい。もうすぐ会えるから、あの冷凍庫の中で」
佐吉じいさんの目には、狂気の色が浮かんでいた。
その目は、まるで深い井戸の底のように、光を吸い込んでいた。
長年の孤独と、狂った使命感が生み出した狂気。
【急募! サステナブルワーク】
あの求人広告。
自分の代わりを見つけるために出した、たった一行の文字列。
やってきたのは、僕がここに来たときと同じように、何も知らない青年だった。
彼はきっと、今ごろ同じ部屋のどこかで、当時の僕と同じ光景を見つめている。
自らが養分となってこの環境を維持すること。
それが、この仕事に課せられた本当の意味だった。
佐吉じいさんの右手には鈍く光るナタ包丁、左手には大きなお皿。
表面には乾いた血のような赤黒い染みがこびりついている。
「サ、キ、チ、じいさ……」
声が掠れ、喉の奥で消えた。
佐吉じいさんは答えない。
ただ、静かに微笑み続けている。
まるで、これが当然の流れであるかのように。
僕はこれまで、子供たちと家の世話を続けてきた。
それは与えられた役割だった。
パズルのピースのように、僕はそこに嵌め込まれた。
この家は、終わることなく続いていく。
短針の抜けた時計のように、同じ時を刻み続ける。
佐吉じいさんの手がゆっくりと動いた。ナタ包丁の刃が、僅かに震えている。
それでも、彼の目は微動だにしない。
僕の胸の奥で、奇妙な感覚が芽生え始めた。
恐怖と同時に、安堵にも似た感情が混ざり合う。
そうか。
やっと、終わりが来る。
二階から消えた少年とアリサの映像が脳裏で再生されている。
彼らもまた、この連鎖の一部だったのだろうか。延々と続く残酷な儀式の、数珠繋ぎの犠牲者。
佐吉じいさんが、お皿をテーブルに置いた。
金属が触れ合う鈍い音が、部屋にこだました。
佐吉じいさんの右手が高く振り上げられた。
ナタ包丁の刃が、裸電球の光を受けてぎらりと輝く。
時間が止まったかのようだ。
その一瞬の間に、僕の人生が走馬灯のように脳裏をよぎる。
子どもたちの笑顔、アリサの優しい眼差し、そして今まで生きてきた日々の断片。
その瞬間僕の瞼に浮かんだのは、海辺のヤドカリだった。
古びた殻から静かに這い出し、新しい殻へと潜り込む。
生き物の連鎖。終わりのない循環。
「これが、サステナブル……」
僕の言葉と共に、刃が降り下ろされた。
エピローグ
潮風が静かに草を揺らしている。
まるで遠い日の記憶をそっと呼び起こすように。
どこか懐かしい、けれどもう二度と戻れない場所の匂いがした。
僕が知ることのない、過去の誰かの人生の断片が、揺れているのだろうか。
この部屋には僕の痕跡が残されている。
書きかけのノート、
欠けた茶碗、
味噌汁が染みた座布団、
けれど、そのどれにも、もう僕の体温は感じ取れない。
僕は今どこにいるのだろう?
ある日、港に新しい顔が現れた。
地元の漁師たちが声をかける。
「あの島に行くのかい?」
無邪気な笑顔で頷く若者。
彼は小さな島への渡し船に乗り込んだ。
今、この家にいるのは?
佐吉じいさんはまだいるのだろうか?
あの少年は?
そして、アリサは?
【急募! サステナブルワーク】
この一行が、また誰かを呼び寄せる。
豊かな海産物に恵まれ、穏やかな時間が流れるこの島。
訪れる人は少なく、いつしか都会の喧騒から忘れ去られた場所。
それでも、時折若者たちが訪れては、二度と帰らない。
だが、島の北側の岩場からは、時々スマホの画面が青白く光る。
そこから発信される、求人広告。
永続的で持続可能な仕事。
終わることのない循環。
静まり返った冷凍庫の奥から、誰かが瞼を持ち上げる音が聞こえてきた。
(了)
