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【短編小説】成仏しないための舞台

第一章 南無

「カイト、血のり多すぎ。それじゃトマトソースみたいじゃない!」

 白塗りの顔でココアが怒鳴った。
 このお化け屋敷のまとめ役を務めるココアは皆に平等にツッコミを入れる。
 彼女の役はお岩さん。

「だからって、舐めちゃダメっしょ!」と、筋肉モリモリなのに繊細なフランケン役、カイトがツッコミを返す。
 カイトの持つ血のりは本物の血のように濃く、錆びた鉄の匂いがした。彼はご機嫌で自分の腕に血のりを塗っている。

 今日も軽快な会話が飛び交うこの場所は――街外れの丘にぽつんと建つ、古びた洋館。
 看板には手書きの文字で「ビビリーズ・マンション」とある。

 その館は、時間が止まったように静まり返っていた。楽屋は薄暗く、埃っぽい。
 ルイは、ドラキュラ伯爵役。鏡の前で牙を磨きながら、
「今日も完璧だ。我が美貌は夜よりも深く、血よりも甘い」と乙に言っている。

 彼が磨く牙は照明の下で不気味な光を放つ。
「はいはい、セリフの練習は後でね」

 メンバー全員が二十代半ばで若さ溢れる楽屋には、今日もツッコミが闊歩する。

 ゾンビ役のカグヤは相変わらずぼーっとしている。差し入れのドーナツを見つけた瞬間だけ目が光る。しかし、一口食べるたびにその輪郭がほんの一瞬揺らぐ。

 そしてトイレの花子さんを演じるセイラ。ギャル口調の花子は、今日もノリノリだ。

「マジやばっ! 今日の個室、霊感エグいんだけど」

 彼女が履いている上履きはいつも湿っていて、水がはったままの湯船の匂いがした。

 すべてがギャグのような情景が、五人が働くこのお化け屋敷の日常だった。
 営業前の仕込みが終わり、ルイが小道具のチェックをしていた。

「……おや?」

 棺桶が、わずかに開いているのに気がついた。

「カイト、棺桶の蓋は閉めろと何度言えばわかるのだ」
「俺じゃないっすよ。昨日、最後に片付けたのココアさんっす」
「え、私? でも閉めたはずだけど」

 線香の香りが鼻腔にへばりついた。セイラが鼻をひくつかせる。

「うわ、なんか法事っぽい匂いするね」

 ココアの白塗りの頬に冷たい空気が触れた。ふと天井の染みを見上げる。誰かがそこから覗いているような黒い点が見えた。

 閉館後。
 いつものように見回り点検をしていたココアは、奥の和室、かつて祭壇があった部屋で足を止めた。

「え?」

 薄暗い照明の中、座布団に背を向けて座っている人影がある。

「すみません、もう閉館なんですけど」

 女性がゆっくりと振り返った。青白い顔。目の下の濃いクマ。地味な灰色の着物。

「えっと、新しいバイトの方ですか?」
「いえ、私は成仏し損ねた幽霊で、サチエと申します」

 首の付け根から冷たいものが這い上がってきた。

「も、もしかして、ホンモノの方ですか?」
「はい。本物です。でも、安心してください。悪さはしませんから。皆さんの演技を見ていたら、私も何か演じられる気がして……」

 ココアは、口元に張り付いたお岩さんの白塗りを剥がさないよう、口角だけを捻じ曲げた。

「演じられる幽霊ですか?」
「はい。ここなら、私も少しは輝ける気がしたんです」

 誰かが照明のスイッチを切った。闇の中で、女性の輪郭だけが淡く光っていた。
 サチエは静かに続けた。

「皆さん、楽しそうに演じてらっしゃる。でも、もう少し現実味のある恐怖の方が心に響くかもしれませんね」

 その言葉は、自分たちビビリーズ・マンションの住人を、どこか遠い場所から見ているかのようだった。

 翌朝。
 ココアは夜の出来事を皆に話すべきか迷った。
 だが、それ以上に彼女を悩ませていたのは、昨夜の自分自身の反応だった。本物の幽霊を前にして、なぜ自分はあそこまで冷静でいられたのだろう?

 そのとき、ボヤ騒ぎの記憶が蘇った。しかし、ここが煙に包まれて大騒ぎだったことしか思い出せない。
 その後どうしたのか? ずっと、本物の舞台を探していた。ボヤ騒ぎでその思いが途絶えてしまった。だからサチエを前にしたとき、怖さより、安堵が勝ったのだ。

 葛藤を抱えたまま楽屋に入った。
 ルイの部屋の扉には三角形に整えられた塩の山が置かれていた。

「ルイさん、盛り塩って吸血鬼に効くんすか?」

カイトが尋ねると、
「知らぬ! 我が身は今朝より、何かに縛られているようだ」

 ルイが青白い顔で不機嫌そうに答えた。
 セイラが笑いながら、「新しい除霊インテリアっしょ!」と軽口を叩くが、ココアは笑えなかった。

 昨夜の女、サチエの影が頭をよぎる。彼女は、幽霊の演出をすると言っていた。盛り塩をしたのはおそらくサチエだ。これは、本当に演出なのだろうか?
 ココアの顔は透き通るほど青ざめていた。この様を見てルイが良く通る声で天に向かって叫んだ。

「何を憂いている、我が舞台のプリマドンナ。君の顔が曇っては、この館の闇も色褪せる。……どんな闇であろうと、この私が必ずや君を照らし出そう。それがドラキュラ伯爵たる私の、偽らざる誓いだ」

「なにそれ? 私を口説いてるつもり?」

 ココアにはわかった。ルイの声はいつもの芝居じみた誇張ではなく、本音が見え隠れしていた。

 その日、事件は続いた。
 フランケン役のカイトが着替えながら、いつものようにオーバーな悲鳴を上げた。だが、今回は演技ではない。

「痛ッ! な、なんすかこれ!?」

 衣装の縫い目という縫い目に、安全ピンがずらりと刺さっていた。ピン先が収められていない状態で。
 それはまるで、彼のつぎはぎの身体がバラバラにならないように、必死に縫い止められたかのようだ。

「誰っすか、俺の衣装を針山にしたの」

 セイラが腹を抱えて笑う。
「お祓い系ファッションだね」

「笑いごとじゃねぇっすって。ガチで痛かったんすよ、これ」

 カイトが怒鳴り、カグヤは無言で団子を食べていた。
「それ、どこから持ってきたの?」
「供え物みたいにして置いてあった」

 全員が顔を見合わせた。カグヤは、このお化け屋敷に留まることを最も受け入れている。彼女は、死者への供物に本能的に引き寄せられるのだろうか。

「ね、なんか焦げた匂いがしない?」

 ココアのつぶやきにカイトが返す。
「血のりの匂いじゃないっすか」
「ううん、そうじゃなくってさ」

 ココアは天井を見上げた。天井の染みが煙の立ち上る跡に見えた。

 昼の休憩時間。
 セイラがトイレから飛び出してきた。

「ちょっと! うちの個室、誰か使ってるんだけど!?」
「営業中なんだから、お客さんじゃない?」とココアが答えると、セイラは首を振る。

「ノックしても返事ないし、水流れる音するのに、誰もいないんだよ。しかもペーパー三角折りになってた。なんなの、あの几帳面な存在」
「几帳面……な幽霊」

 カグヤのぼそりとした一言に楽屋が静まり返った。セイラの役(花子さん)は、トイレに棲みつく。その場所を、サチエは日常のリアルで侵食してきたのだ。

「そう言えば、この、のっぺらぼうのマスクさ、誰が使ってたんだっけ?」

 セイラが手にしたマスクを不思議そうに見つめている。
「なに、それ。どこから持ってきたの?」

 ココアが問いかける。
「トイレの個室に置いてあった」
「そんなの使ってる人いたっけ?」
「ゾンビならのっぺらぼうでもオッケーじゃない?」
「口無しじゃ、お団子が食べられない」

 カグヤがつまらなさそうに呟いた。

 その夜、ココアはもう一度確かめることにした。
 奥の和室の襖を開ける。
 サチエが畳の上に正座し、ノートには透けるような文字が並んでいた。

「何を書いてるんですか?」

 彼女はどこか楽しそうだ。
 その笑顔は生気に満ちていた。

「皆さんをこちら側に留めるための記録です。もっと人間的な恐怖を演出すると良いかなって思って」

 ノートには細かな文字で
『照明を一段暗く(魂の安定)』
『安全ピンは痛いほどリアル(身体の固定)』
『花子さんはトイレットペーパーを折るタイプ(生活感の植え付け)』
 などと書かれていた。

「これ全部あなたが書いたの?」
「はい。怖いことって、派手じゃなくても成立するんですよ」

 ココアは頭を抱えた。
「やめてください。本物がそんなリアルな演出したら、こっちの営業が成り立たないです」
「ごめんなさい。でも、皆さんの仕事ぶりを見ていたら、私も参加したくなりました」

 サチエの声は透き通っていて風の音のようだった。

 翌日。ココアは覚悟を決めメンバーを集めた。

「みんな、落ち着いて聞いてね。昨日の怪現象、犯人は本物の幽霊なの」

 ルイは目を輝かせ、鏡に映る自分に向かって、
「なんと、我らの死者の舞台を脅かす存在が現れたか」と芝居がかった声で語った。

「対抗意識燃やさないで」ココアが咎める。
 カイトは両手を上げて叫ぶ。

「俺の衣装ピン刺したの、その人っすね。あんなリアルな痛み久しぶりっす」
「すみません、それ私です」

 サチエがすっと現れた。
 カイトが血のりまみれの腕の筋肉を固くした。
 が、数秒後にはルイが咳払いし、舞台口調で語った。

「ようこそ、永遠の恐怖の館へ。六人目の役者として歓迎する。名はサチエ、役職は、ええと、薄幸の『生存者』役」
「これから、皆さんが成仏しないための、もっと良い演出を考えましょうね」

 サチエの声だけが響いた。

第二章 阿弥陀

 翌日、ココアは本気で悩んでいた。

「幽霊を雇うって、法律的にアリなのかな?」

 そんな中、問題の人サチエが、まるで朝礼に出席する社員のように現れた。

「おはようございます。昨日のお話、考えていただけました?」

 ルイが手帳を開き、厳かに宣言する。彼は、この状況すらも壮大な演劇として受け入れた。

「ならば、正式に第六の怪人として迎えよう。名はサチエ。役職は、ええと、現実の定着師だ」

 セイラがパチパチパチと拍手し、カグヤはかじりかけの団子を差し出した。
 だが、サチエの仕事ぶりはあまりにも地味すぎた。
 初日、彼女は客の足元にそっと落ち葉を一枚ずつ撒いていた。

「なんで落ち葉なんすか?」

 とカイトが小声で尋ねると、サチエは真顔で答える。
「音がするでしょう。誰もいないのに足元で響くその音が、恐怖心を生み出すのです」

 確かに微妙に怖い。だが地味すぎる。
 ルイは苦笑いしながらも、「繊細な恐怖だな。まるで詩だ。我々は派手な死者、彼女は地味な生者、このコントラストが素晴らしい」と評した。

 SNSには
〈#リアルホラー〉〈#静かな恐怖〉のタグが並び、ビビリーズ・マンションは一躍人気スポットに。

「うち、バズってんじゃん。サチエさんの演出、最強」とセイラが叫ぶ。
「そんな、私、映ってませんよ?」
「逆にそれがいいのよ。本物だから映らない」とココアが笑う。

 ビビリーズ・マンションは、ついに心霊系お化け屋敷ランキングの一位を獲得した。新聞やSNSでも「リアルすぎる演出」と話題になり、週末は入場待ちの行列ができるほどだ。
 しかし、ココアだけは笑えなかった。

 ――サチエの姿が、日ごとに薄くなっている。

 昨日は肩まで見えたのに、今日は顔しか見えない。人気と引き換えに、彼女の『生存者としての実体』が消えていくみたいだった。
 ココアは一人でSNSをチェックしていた。その中に気になる書き込みを発見した。

「ここのお化け屋敷、十年前に火事で全焼したはずじゃない?  私のおじいちゃんが当時の消防団員で、よく話を聞かされた」

 その夜、営業終了後、ココアはお化け屋敷の奥でサチエを見つけた。彼女は静かに和室に座り、ろうそくの灯を見つめていた。

「サチエさん」
「こんばんは、ココアさん。今日もたくさん『生きている人間』の悲鳴が聞けましたね」
「そんなことより、あなた、消えかけてるじゃない」

 サチエは微笑んだ。その笑顔は、どこか諦めているようにさえ見えた。

「本物の恐怖、つまり『生きた人間のリアリティ』を皆さんに届けるたびに、少しずつ私の未練が薄れていくみたいなんです。多分、もうすぐ……」
「ダメ……消えないでよ」

 ココアは涙声で遮った。
「サチエさんがいないと、うちのお化け屋敷はただの劇団モドキなんたから」
「ふふ、そんなことないですよ。皆さん、ちゃんと怖くて、とても、優しくて、温かい怖さです」

 その言葉に、ココアは唇を噛んだ。
「だったら、もっと派手にやってよ。本物の恐怖なんて禁止。 叫んで、泣いて、照明壊して、生き延びて」
「それでは……私は成仏できませんよ」
「それで良いの。成仏なんかしないでよ!」

 他のメンバーがぞろぞろと現れた。彼らも、サチエの輪郭の薄さにただならぬ事態を感じ取っていた。
 カイトが拳を握りしめて言う。

「サチエさん、俺の安全ピン返してくれたら、もう何も文句言わねっす。だから残ってください。俺ら、あなたがいないと、ここから動けなくなる」

 セイラが笑いながら涙を拭った。
「花子さんの個室、空けとくから。マジで使ってよ」

 ルイは芝居がかった声で叫ぶ。
「この館の偽りの生は、貴女の本物の生気なしでは未完成だ」

 カグヤはいつも通りぼそりと、「団子置いとくから。腐る前に食べてよ」

 サチエの透明な涙が畳に落ち、ろうそくの灯が揺れた。サチエの輪郭が熱に溶けていくようだ。

「私、もう少しこの舞台に立ってもいいですか?」
「もちろん」

ココアが叫ぶ。
「今日からあなたは主役です。私たちは、あなたが『成仏しないための舞台』を演じ続けるわ」

 次の日。
「本日限定イベント。地味すぎる恐怖フェス開催!」
 ポスターのキャッチコピーは、サチエが夜なべして考えたものだった。それは、生きている人間が感じる、日常の些細な違和感を再現するイベントだった。

「お客様の靴紐を、そっと結びます」
「飲みかけのペットボトル、気づけば微妙にぬるい」
「電球がチカチカしたら、それは彼女の愛のサインです」

 客たちは大笑いしながらも、「なぜかゾクッとする」と評判になった。笑いと恐怖の境界が溶けたその空間で、ココアはふとサチエの姿を探した。
 彼女は照明の上、柔らかい光の中で手を振っていた。その輪郭は、昨日よりもずっと薄く、ほとんど透明になっていた。

「ありがとう。ここにいられて、幸せでした」
サチエの声が遠くから届いた気がした。

 夜、閉館後。ルイがため息をつく。

「あの演出、完璧だったよな。サチエは最後までプロだった」

 カイトがぽつり。
「サチエさん、また明日も来るっすかね」
「来るわよ。だってうちは社員の成仏、禁止だから」

 ココアが笑うと、どこからか「了解です」というかすかな声が返ってきた。

第三章 仏

 夜の静寂を裂くように、遠くでサイレンが鳴った。ココアたちは、いつものように片付けをしていた。笑い合いながら、次の公演のアイデアを出し合う。
 扉が二度叩かれた。誰もいない楽屋の空気がひりついた。

「すみません、保健所と消防署の者です」

 制服姿の男たちが、懐中電灯を手に館内へ踏み込んできた。彼らの照らす光が、古びた壁を舐めるように動く。焦げ跡のような黒い筋が浮かび上がった。

「この建物について、近隣から通報がありましてね。不審な灯りと声が聞こえると」

 ココア、ルイ、カイト、セイラ、カグヤ、全員が顔を見合わせた。その表情に浮かぶのは、舞台の演技でも、冗談でもない、本物の恐怖。

「もう閉館です!」

 ココアが慌てて声を上げた。しかし、男たちは反応しない。彼女の声が届いていないかのように。

「……あの、聞こえてますか?」

 ココアは一歩踏み出した。懐中電灯の光が彼女の顔を通り抜ける。
 照らされない。影が落ちない。そこには物体としての存在がなかった。

「え?」

 カイトが声を荒げる。「ちょっと待てよ。無視すんなって!」

 彼が職員の胸を掴もうとした瞬間、指先が空を切った。掴めない。触れられない。光は彼をもすり抜けていった。
 署員たちは淡々と歩き、館の奥へと進む。その懐中電灯の光の先にサチエが立っていた。

「劇団員ですか? ここにはもう、誰もいないはずですが」

 職員の言葉に、空気が震えた。ココアの心臓が、冷たく凍りつく。

「どういう意味ですか?」

 消防署員の疑問に職員が低く答える。

「この建物は十年前に火災で全焼しました。当時、中にいたスタッフが亡くなっています」

 誰かが息を飲む音がした。ルイの手から、小道具の銀の十字架が転がり落ちた。セイラの上履きが、ぽたりと水を滴らせた。カグヤの手の団子が崩れ、灰のように散った。

「火災で亡くなっている?」

 ココアの声が喉の奥でかすれた。
 彼女の視界にサチエの後ろ姿が浮かんだ。白い着物、灰色の影。

「サチエさん、まさか……」

 サチエは静かに振り返った。

「はい。私だけが生き残ったんです」
「じゃあ、あの火事……」ココアの喉が詰まった。

「皆さんが亡くなったあの日、私は非常階段から逃げました。でも、私の中の時間はあの日で止まったまま。だから戻ってきたんです。皆さんがまだ、ここにいる気がして」

 サチエの声は震えていた。

「あの時、非常ベルをもっと早く押していれば。私は生き残ったことへの罪悪感を演劇で誤魔化したかった。幽霊を演じることで、皆さんの存在を生者として留めておきたかった」

 ココアが首を傾げる。

「でも、サチエさんと一緒に、ここで働いていた記憶がないんだけど」
「はい、あの日、私は顔中火傷を負ってしまいました。そこでこの姿に化けて皆さんに会いに来たのです。名前をモエからサチエに変えて……」

 ココアの顔が輝いた。

「えっ! あの、のっぺらぼう役のモエちゃんだったの? 顔出しNGが嫌で姿をくらましたんだと思ってた」

 セイラが目を丸くした。

「でも今まで、モエちゃんの存在を忘れてたのはなんでだろ?」
「それはおそらく、火災のショックでみんな一時的に記憶喪失になって、記憶が戻った時、正確には亡くなった時に、そこにいた五人のことだけ思い出したのでしょう」

 モエが答えると、ルイが膝をついた。

「我らは……本当の死者だったのか」

 カイトが叫ぶ。

「じゃあ、あんたが俺らを繋いでたのか!?」

 モエの頬を伝う雫が床に溶け落ちた。

「はい。あなたたちが『成仏しないための舞台』を続けられるように、私は生の記憶をここに撒いていた。光、音、痛み、ぬくもり、それらを演出に見せかけて」

 ココアは一歩、前へ出た。その声は震えていたが、お岩さんの威厳を取り戻したように強く響いた。

「じゃあ、お願い。もう少しだけ、その演出を続けて。私たち、あなたがいないと消えちゃう」

 モエは微笑み、首を横に振る。

「もう大丈夫。皆さん、もう十分生きていたじゃないですか」

 館の明かりがチカチカと点滅し、皆の顔が点々と浮かび上がる。

「ありがとう。さようなら」

 モエの声が、柔らかく空気に溶けていく。次の瞬間、館の明かりがふっと消えた。

 外では、消防署員が首を傾げていた。

「……やっぱり、誰もいませんね。十年前の跡地なのに、灯りが点いていたなんて不思議だ」

 遠くで微かな笑い声がした。それは、舞台の幕がまだ下りていない証だった。

エピローグ 南無阿弥陀仏

 夜が明けた。
 館の中では、今日も朝の仕込みが始まっていた。ルイは棺桶の中から優雅に起き上がり、鏡の前で牙を磨く。その手つきは死者とは思えないほど丁寧だ。

「プリマドンナ、今日も舞台は完璧だ。幕は上がる。観客がいようといまいとな」

 セイラはトイレの扉をドンドン叩きながら、「花子さん今日も元気っしょ!」と笑っている。

 カイトは自分の衣装の針を確認して「安全ピン、今日も完璧っす」と胸を張り、カグヤは団子を慎重に並べながら小さく「新しいの置いとく」とつぶやいた。

 その音や匂いや仕草は、どれも生きていた頃と変わらない。変わったのは、彼らがその事実をもう恐れなくなったことだけだ。
 そして、ココアは照明を確認しながら、ふと天井を見上げた。そこには、昨日まで見えなかった小さな光が星のように瞬いていた。

「モエちゃん、照明つけてくれたんだね」

 ココアは照明の下に立ち、静かに息を吸った。

「よし、やるよ。今日も“成仏しないための舞台”を」

 その声が合図だったかのように、館全体がわずかに震え、舞台の幕があがるような気配が満ちる。

 観客はいない。誰も見ていない。それでも彼らの世界では、今日も本番前の支度が正確に積み重ねられていく。
扉の外、朝靄の中を通りがかった通行人が笑い声に振り向いた。

 誰もいないはずの館の窓辺から、柔らかな光がこぼれている。そこに生者がいるように、淡く、確かな気配を残して。

 その時だった。朝靄の中、館の影がふと揺れた。光に透けて消えそうな輪郭。
モエがそこに立っていた。

「……ごめんなさい。私、ずっと勘違いしていたんです」

 声は風に混じるほど弱かったが、館全体が耳を傾けるように静まった。

「私だけ生き残ったと思い込んでいました。でも、本当はあの日、非常階段から逃れた私は酷い火傷で気を失い、搬送先の病院で息を引き取りました……」

 モエは微笑んだ。悲しみでも後悔でもない。ようやく辿り着いた安らぎのような笑顔だった。

「だから、もう大丈夫です。私も、ようやく皆さんのところに帰れます」

 彼女の手から一冊のノートがこぼれ落ちた。ページの隅には焦げ跡が残り、煙のように文字が溶けかけていた。

 『本日も開演します』──その文字だけが、奇跡的に鮮明だった。

 風が吹いてモエの輪郭が崩れた。
 その瞬間、ビビリーズ・マンション全体が声帯になったように、柔らかな声が響き渡った。

『本日も、開演いたします』
 その静かな宣言は、永遠の幕開けを告げるようだった。


◇◇◇

創作大賞2026応募作(Tales)

 ◇1
辛い記憶から逃れるために書いたものです🐈️

 ◇2
思いっきりトキメキたくて🥰 描きました。
読み直すのが恥ずかしい(*ノωノ) 汗

 ◇3
真夜中に見た夢で、急遽、形にしてエントリーしました。

 ◇4
「ハブVsマングース」もう一つの物語

  ◇5

「物語潜入型アトラクション《ミユキ》」の進化形です。

◇◇◇

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