トトとメイと、淡々と——十八年分の日記を、読み返しながら
序章 匂いと油
トトとメイが、いなくなった。
メイが虹の橋を渡ったのが去年の九月。そして先々月、トトも逝った。二匹ともいなくなった家の中は、がらんとしている。広すぎる。静かすぎる。それでも、半径一メートル以内をうろうろしていた気配は、まだ残っている。
遺体を、丸一日、家で弔った。そのとき、匂いがした。死の匂い、というものを、私はそのとき初めて知った。深くて、くぐもった匂い。嫌な匂いというよりも、むしろ安心する匂い。死んでしまったことを、確認する匂いだった。部屋を出て、道を歩いて、電車に乗っても、ふと匂う。私に死の匂いがついているのか、それとも幻の匂いなのか。お葬式の線香に似ていて、それよりも揺らぎがない。——匂いがある間は、まだトトとメイがそばにいる、ということなのだろうか。
先日、泊まりで熱海に出かけた。猫がいるとできないことを、してきた。朝から敷地で杭打ちの土木作業をして、ずっと気になっていたローマ風呂に入って、スパニッシュバルでご飯を食べて、風呂に三回入って、帰ってきた。楽しかった。けれど、帰宅して掃除をしていたら、トトが鼻の周りの油をつけた跡が、リビングと玄関の扉、トイレの扉、お待ち台の扉に残っていた。それを見つけて、かえって寂しくなった。
いなくなったのに、まだそこにいる。匂いで、油で、気配で。
私は、日記を読み返し始めた。十八年分。全部で二千三百二十三件ある。
第一章 変わらない一日
読み返して、いちばん驚いたのは、一日が、まるで変わっていないことだった。
朝四時ごろ、二匹が起きて、人間を起こす。ご飯を食べて、九時には寝る。家にいれば昼にまたご飯を食べて、また寝る。夕方、五時を過ぎるとご飯の催促。もう一度寝て、夜九時、十時にまたご飯。メイは「寝ましょう」を言いに来る。トトは、人間が全員寝室に行くと、あとからついてくる。最初はにゃんもっくで寝ている二匹も、夜中に起き出す。そして、また朝、起こしに来る。
このルーティンが、一歳のころも、八歳のころも、亡くなる二週間前の十八歳のときも、まったく同じだった。
幸せというのは、たぶん、こういうことだったのだと思う。特別な事件ではなく、この、何も変わらない一日の繰り返し。トトとメイは、十八年間ずっと、同じ形の一日を、私にくれていた。
介護の間は、朝は三回、夜は三回に分けてご飯をあげた。必要に応じてシリンジで強制給餌をして、薬を飲ませて、皮下補液をした。お便所の掃除と、コーミング。だから、ものすごく時間がかかった。出勤前に三時間、帰宅してから三時間、猫のために時間を費やしていた。
それが、まったくなくなった。
猫が起こすから、私は朝四時、五時に起きているのだと思っていた。けれど、トトがいなくなって二か月経った今も、私は朝五時に自然に目が覚める。夜はご飯を食べると暇なので、すぐ眠くなる。睡眠時間が四時間くらいだったのが、六時間くらいに伸びた。少し健康的になった。
体が、トトとメイの時間を、覚えている。ルーティンは、猫のものだと思っていた。でも、いつのまにか、私自身のものになっていた。十八年かけて、二匹は私の体に、自分たちの時間を書き込んでいったのだ。
キッチンも、きれいなままだ。働いている間、二匹は家の中を、とりわけキッチンをうろうろしていたらしい。だから、トトがいなくなってから、キッチンが汚れない。朝のまま、夜になっている。
いた証が、汚れだった。その汚れが、もう、つかない。
第二章 巡る一年
一日の外側には、一年があった。
水仙が咲いて、河津桜が咲いて、ミモザが咲いて、東宝撮影所の夜桜ライトアップを撮る。モッコウバラが咲いて、ぶどうの葉が展開して、ブラックベリーの花が黒い実となり、富士山を撮る。日記をめくると、季節が、同じ順番で巡っている。花の歳時記の中を、トトとメイと私とダンナは、十八回、回った。
床暖房が大好きな二匹は、冬になると床に張り付いた。好きな温度帯が狭くて、夏でも冬でも、だいたい二十六度前後を好んだ。夏はかけっぱなしの冷房の部屋で、ニャンモックでへそ天。その姿が、日記の中に、何度も何度も出てくる。同じ場所で、同じ格好で。
読み返すと、それがどんどん愛おしくなる。変わらないから、愛おしい。
第三章 広がる世界
猫を撮るために、デジタルカメラを買った。
最初は二匹を撮っていた。F値やISOを手で動かして、ストロボを焚いて。そのうち、撮る対象が、猫だけから増えていった。花火、北斗七星、雲海の富士山、夏の赤富士、冬の紅富士。暗い中でも、シャッタースピードを調整しながら、撮ることに挑戦していた。最近はすっかりiPhoneになってしまって、あのころより後退したなと思う。けれど、あれは後退ではなくて、情熱の置き場所が変わっただけなのかもしれない。技術は、情熱の関数だ。
猫友さんの手作り熱に感化されて、いろいろ作った。ベーコン、梅ジュース、ぶどうジュース、ベリーのケーキ、おでん種、ピザ、味噌、いかなごのくぎ煮。DIYで、ガーデニング用の棚を作ってロンハーマン風とか言っていたっけ。お客様用のテーブルや椅子も作りました。ダンナは「ダンナも書きます」というシリーズで、水槽やベーコンづくりのことを書いていた。猫を中心に、日々の生活を、豊かに楽しくすることに挑戦した日々だった。
そして、猫友さん。
ブログのコメント欄で知り合った、たくさんのアビシニアン飼いの友達。デジタルだけの関係が、リアルな友人関係になっていった。自宅にお邪魔したり、我が家や山荘に来てくれたり。写真のことはチャオママさんに、料理のことはhanaさんに、姉妹猫を飼っているnyancoさんに、本当にお世話になった。
今思えば、チャオママ企画の「伊右衛門と背比べ」は秀逸だった。直接会えない猫たちそれぞれが伊右衛門の一リットルペットボトルと背比べして、それをチャオママが集めてみんなの背比べをした。トトは全体で二番目だったんじゃないかな。私が思ったよりトトはアビシニアンとして大きい方だった。男女とも十頭以上が参加した豪華なアビシニアンの背比べ。
私がブログを始めたきっかけでもある、お散歩猫のWiggy君のママは、等身大のWiggy君の写真を貼った段ボール切り抜きと、お手製の「スーパーにゃん」衣装を送ってくれて、トトはスーパーニャン三号にしてもらった。推しからのプレゼント、それはそれは嬉しかった。
hanaさんはハロウィーンのドレスや夏祭りの浴衣の衣装を、chiboちゃんはおめかしシュシュを、nyancoさんは「ニャイヤゴン横丁」を開設してたくさんのおもちゃを作ってくれた。私も、コメントキリ番企画で、千件、三千件、五千件目のコメントを書いてくださった方に、プレゼントしていた。クリスマスカードとか、ダンナのベーコンとか、バスボムとか。みんなのクオリティには到達できていなかったけれど、それ自体がイベントで、とても楽しかった。
たしか、千五百記事くらいで五千件のコメントだったから、一記事三〜四件のコメントをもらっていたことになる。ブログサービスがどんどん廃止になり、私は結局三つのブログサービスを移ったのだけれど、その過程で猫友さんからのコメントがなくなってしまったのが、なによりも残念だ。
犬と違って、猫は家の中で閉じている。だから、お散歩仲間のようなものはできない。それでも、ブログを通じた友達はできた。しかも、地域を超えて。コメントをしあって、プレゼントを贈り合って、最終的にはオフ会で会う。会った瞬間に、その人が誰で、どのハンドル名か、すぐにわかる。ブログには、その人の人となりが、けっこう出るのだ。ネットでの出会いを危険視する向きもあるけれど、私にとっては、会社でも家族でもない、第三のコミュニティになっていた。
思えば、このブログは、私一人で書いていたものではなかった。猫友さんのおかげで、内容が深まり、続けることができた。ダンナも、アイデア出しから、献身的に一緒に遊んでくれた。トトとメイを真ん中に置いて、たくさんの人が関わって作った、共同制作だったのだ。
日本ブログ村のアビシニアン部門で、当時は七位くらいだった。まあまあ人気だった、と思う。読み返すと、それなりに面白い。そう思うのは、私だけだろうか。
いや——たぶん、面白いのだ。可愛いのだ。
第四章 猫の家
私たちは、猫のために家を作ってきた。
猫のために家を建てるなんて、金持ちの道楽みたいだと、自分でも思う。たしかに、同世代に比べれば、夫も私もよく稼いでいるし、子どももいないから、自由になるお金は相対的に多い。介護も、けっこうお金がかかった。ニャンゲル係数、と私は呼んでいる。だから、道楽だと言われれば、否定はしない。お金は、かかった。
けれど、と思う。
採光窓も、床暖も、センサー付きのトイレも、お金で買える。でも、あの設計の一つひとつは、お金から生まれたのではない。十八年分の、心配と観察から生まれている。
たとえば、二〇一一年に引っ越した今の家。本棚はキャットウォークになっていて、床はメイが歩きやすいようにサイザル麻にした。メイは二〇〇九年に、マンションの五階から落ちて、足を三本、開放骨折している。命の危機だった。だから、床を滑りにくく、柔らかくした。お風呂は、お湯が入るのをガン見する趣味のトトとメイのために、深さが二段になったジャクソン社製のものにした。リビングと玄関の間には、毎日お出迎えにきてくれるトトとメイが誤って外に出てしまわないように、そして姿がぼんやりみえるように、特注のすりガラスの扉に。極めつけは猫のためのサンルーム。自由設計のコーポラティブハウスであることをいいことに、サッシラインを下げ、外気がはいるサンルームをつくった。暑いの嫌い、でもエアコンも嫌いのトトメイがいつでも温まったり、涼んだりできるようにソファーをおいて。毎晩、ダンナと夕涼みに出るのがメイちゃんの習慣だった。ダンナはそれができなくなって、本当にさみしがっているよ、メイちゃん。
そして、来年引っ越す、熱海の崖の家。
脱走対策。メイの転落も、トトの脱走も、網戸の引き戸を器用に開けてしまうアビシニアンの特技のせいだった。だから、空気を抜きたいだけの窓は網戸をFIXにして、ベランダに出たい窓は、特注の開き戸にした。普通のプリーツ網戸だと、下から抜けてしまうから。玄関からの飛び出しを防ぐために、リビングと玄関の間に開き戸のガラス戸を設けて、帰宅するとすぐに、お互いの顔が見えるようにした。
日当たり。北東向きの斜面だから、冬の日光が少ない。だから、リビングの屋根に採光窓を開けて、二匹がグルーミングできる場所を作った。運動量を確保するために、通ってよい扉は全部引き戸にして、自由に移動できるようにした。寝室の窓の前には、キャットウォークになる猫幅のスペースをとった。
トイレ。何度も血尿を出して、最後は腎臓病で亡くなったメイ。うんちが出なくて本当に苦労したトト。だから、猫の数プラス一、最低三つのトイレを用意する。それぞれに、体重と尿量と、いつ入ったかがわかるセンサー付きのトイレ。少し大きめでも大丈夫なスペースと、電源がとれる場所を確保した。
寒さ。床暖が好きで、二十六度前後の狭い温度帯を好んだ二匹のために、ペレットストーブの床暖を入れる。部屋ごとに空調を分けて、二匹が自分で環境を選べるようにする。
——気づいてしまう。この家の仕様の一つひとつが、日記の記録に、対応している。メイの五階転落は、FIX網戸と開き戸になった。トトの脱走癖は、玄関のガラス戸になった。メイの血尿とトトの排便障害は、センサー付きの三つのトイレになった。床に張り付く床暖好きは、ペレットストーブになった。
日記に書かれた「困った」「心配した」「病院に駆け込んだ」の一つひとつが、全部、家の中の仕掛けとして、結晶している。家の図面が、十八年間の日記の、答え合わせになっている。
だから、贅沢に見えるものほど、実は記録に裏打ちされている。この家は、ある日お金ができたから作った道楽ではない。二〇〇九年のメイの転落から始まって、二つの家をまたいで、十五年以上かけて更新され続けてきた、猫のための設計思想の、到達点なのだ。
けれど——正直に、もう一つ書いておかなければならない。
熱海への引っ越しの、最大のネックは、動物病院だった。今住んでいる東京には、歩ける距離に信頼できる主治医がいて、車で十五分のところに夜間救急があって、三十分のところに手術のできる二次病院がある。これは、東京ならではの医療環境だ。熱海にも病院はあるけれど、歩ける距離にはないし、少しずつ遠くなる。腎臓病と糖尿病と大腸がんを抱えたトトメイを連れて引っ越すのは、難しかった。二拠点生活も考えたけれど、移動は老猫には辛いだろうと心配した。
つまり、こういうことだ。トトとメイのために作った家に、トトとメイは、住めなかったかもしれない。
完璧な家を建てても、猫の命を守りきることはできない。本当に猫を守っていたのは、建物ではなくて、いざという夜に駆け込める病院であり、信頼できる主治医だった。つまり、つながりだった。猫友さんと同じだ。猫を守るのは、立派な箱ではなくて、人と人のネットワークだったのだ。
第五章 濃密な時間
介護は、負担ではなかった。人生で、いちばんトトとメイに近かった時間だった。
その前から、二匹はよく病院に通った。介護に追われて、すっかり忘れていたけれど、読み返して思い出した。メイは二歳のころにマンションの五階から落ちて開放骨折して、命の危機を迎えた。その後も、トトはアレルギー、ストルバイト、足が動かなくなる、喉が痛くてご飯が食べられなくなる。メイは血尿。そのたびに、時には夜間救急に駆け込みながら、二匹は元気を回復した。その記録を見て、ああ、大事にしてきたんだなあ、と改めて思った。回復の記録が、愛した証拠になっていた。
メイは、慢性腎臓病だった。皮下補液をしながら、家で看取った。一年半かけて少しづつ弱っていった。途中からカリカリを食べなくなって、シリンジでウエットをあげた。朝3回、夜3回に分けて、何時に何mlのウエットを食べたか記録していた。カリカリは食べなくなったけれど、アジの刺身は食べてくれたから、私はそのために魚がさばけるようになったよ、メイちゃん。
亡くなる一か月前くらいだったかな、朝起きたらキッチンの蛇口の横にちょこんと座って、口から血を垂らしていた。スプラッター映画ものです。本当にびっくりした。後から思えば腎臓病の末期症状で口内炎がひどくなっていたのだけれど、当時は歯石が溜まって口の中を傷付けているのかと心配して、猫の歯医者さんを巡ったね。あれは意味がなかったなあ。
亡くなる前の日には後ろ足が自由に動かなくなって、それでも前足で動かない体をひっぱって、必死にお便所に行こうとしたメイちゃん。その晩はダンナが朝まで添い寝して、朝私が少し代わったら、トトが隣にきてくれて、トトとメイと私、三人で一緒に川の字で眠ったね。少し息が苦しそうだから、九時になったら病院に相談に行こう、と話していたら、あっという間に息をひきとってしまった。最後はあまり苦しまなくてよかった。メイが亡くなった後、トトがメイの傍にきてくれて、しばらくそこにいてくれた。
トトは、糖尿病だった。それが寛解に近い状態になっていたところに、直腸に腫瘤ができた。うんちが出なくなって、摘出しないと出ない、という状況になった。十七歳十一か月での手術は、危険が伴った。でも、うんちが出ないという物理的な障害を解消する手段は、他になかった。手術を決行した。入院一日で退院して、術後の経過も良好だった。けれど、摘出した腫瘤は腺がんで、すべては取りきれていない可能性が高く、糖尿病があるから抗がん剤も使えない。あとは、運を天に任せることにした。
四月、五月は、体重も増えて、元気だった。しばらくは一緒に過ごせるかな、と思っていた。ところが五月末、体重が急に増えた。お腹が膨れてきて、おかしいと思って通院すると、腹水が溜まっていた。恐れていたがんの転移が、腹膜に起きていた。六月初め、余命二、三か月と宣告された。けれど、その一週間後に、トトは虹の橋を渡ってしまった。
亡くなる五日前まで、朝、起こしに来てくれた。二日前まで、ご飯を食べていた。それなのに、急に動けなくなった。最後は、口をぱくぱくさせて、動かない体を動かそうとするほどの痛みだったのだと思う。亡くなる前夜、夜間救急に駆け込んで、オピオイドを打ってもらった。おかげで、その夜は家族三人で、川の字で眠れた。朝、トトの手を握りながら、痛みでつらがる額を胸に抱いて、亡くなるその瞬間まで、しっかりと見送ることができた。
これ以上の見送り方は、なかったと思う。トトは、痛みの中で、ひとりぼっちにされなかった。最後の最後まで、私の胸の中にいた。
そして今、私は、時間を持て余している。
出勤前の三時間と、帰宅後の三時間。あの、シリンジと、投薬と、皮下補液と、便所掃除と、コーミングの時間が、まるごとなくなった。あの六時間が、空白になった。
介護の時間がなくなったこと、それ自体が、寂しい。これは、たぶん、猫を看取ったことのない人には、うまく伝わらない感情だと思う。世間は、介護を「負担」だと言う。でも、あの時間は、私が二匹といちばん近くにいられた、濃密な時間だった。その時間が、終わってしまった。
左の肩と手が、上がらなくなっている。トトは、私の左手を腕枕にして、一緒に寝てくれることが多かった。最後のほうは、私が布団に入ると、布団の上から左手側で寝ていた。腕枕をしながら、左手を下にして、横向きで朝を迎えたこともある。だから、左肩と左手が、上がらない。力が入りにくいし、ある角度は、痛くて動かせない。ピラティスやカイロプラクティスの先生に、少しずつ治してもらっている。でもまだ痛い。
これも、心とともに、痛みが減っていくのだろうか。
私の体は、トトを抱いた形のまま、まだそこにいる。匂いも、油も、きれいなキッチンも、五時の目覚めも、上がらない左肩も、全部、家と、私の体に、物理的に刻まれている。幻ではなくて、実際に起きていることだ。
第六章 出会い直し
読み返して、はじめて気づいたことが、いくつもあった。
メイは、私が思っていた以上に、私に甘えてくれていた。困ったときだけ、ご飯係の私のところに来るのだと思っていた。でも、いつもだった。トトに遠慮していたのだ。ごめんね、メイ。——でも、ダンナに甘えすぎ。
トトは、小さいころはキレ猫と穏やかな猫を行ったり来たりで、捉えどころがなかった。歳をとって、だんだんお話ができるようになった。メイがいなくなってからは、ずっと私を目で追いかけていた。でも、それも小さいころからだったみたいだ。動物病院の先生に、甘えん坊すぎる、ずっと構い続けてもらえないと寂しくてストレスで自傷する、と言われていた。どんだけ甘えん坊だったんだ。そして、手のかかる子だった。
生きている間は、近すぎて、見えなかった。記録という距離を経て、ようやく、本当のメイと、本当のトトに、出会い直している。これは、亡くしてから書く本の弱点、後付けの美化、とは違う。美化ではなくて、発見だ。記録があるから、捏造ではなくて、本当に気づけたことだから。
メイには、猫じゃらしや、クマの小さなぬいぐるみを、お供えする趣味があった。帰宅前には玄関に、何かしてほしいときは人間のそばに。そういえば、いつのまにか、お供えをしなくなった。どうしてだろう。一人遊びも、ジャンプも、キャットタワー登りも、歳をとって、あまりしなくなった。
いつのまにか、しなくなる。生き物と長く暮らすと、始まりも終わりもわからないまま、何かが消えていく。気づかないうちに、最後の一回は、過ぎている。
自分のことも、見えてきた。
二〇一二年、二〇一三年ごろの日記を読むと、四十代前半の私は、「忙しい、忙しい」を連発していた。じゃあ書かなきゃいいじゃん、と、今の私は突っ込みたくなる。あのころは、仕事が上昇気流に乗り始めたころで、傲慢さが出ていたのかもしれない。書いている内容も、猫友さんを介してというよりは、自分の趣味を書き連ねている感じだった。
猫が老いて、親密になっていくのと歩調を合わせて、私は「忙しい人」から「そばにいる人」へ、変わっていったのだと思う。猫が、それを教えてくれた。忙しさを手放して、半径一メートルにいることを。四十代の傲慢さに気づけるのは、今の私が変わったからだ。変わっていなければ、当時の自分を「傲慢だった」とは書けない。
だから、この気づきそのものが、私が変わった証明なのだと思う。トトとメイが、十八年かけて、私をそういう人に育てた。
猫を飼うことについて、言われたことがある。
憧れの叔母がいた。母の四人姉妹の長姉で、祖父の借金をすべて返したキャリアウーマンで、独身で、猫好きだった。茶色の猫を飼っていて、「チャーチャ」と呼んでいた。子どものころの私は、彼女が通った中高に進んで、とても親しくしていた。けれど、私が会社員になって結婚するころから、関係が悪くなった。すべてを支配下に置きたい彼女にとって、私は言うことを聞かない生意気な姪になった。トトメイを飼い始めたころ、彼女が「子どもがいないから猫に固執してみっともない」と、友人に言っていたと、その友人から聞かされた。とても、がっかりした。
会社の同僚には、こう言われた。心を癒してくれる猫のために、何か税控除の制度があると嬉しい、と話したら、「人間の子どもは将来に貢献するけれど、犬猫は貢献しないんだから、税控除なんてありえない」と。まあ、そうだよな、とも思う。猫を飼わない人の感覚は、こうなんだろう。
子どもがいない私にとって、トトメイは、子どもだったのかもしれない。猫可愛がりしていたのかもしれない。そういえば、猫友さんも、子どものいない夫婦や、離婚した人や、独身の人が、多いかもしれない。
——でも、それだけではなかった。
私の母は、子どもが二人いても、ずっと猫を飼っているような猫好きだ。結婚二十五周年に、ダイヤモンドの代わりに、アビシニアンとアメリカンショートヘアの猫をおねだりしたような人だ。今も猫を飼っていて、飼いきれなくなったら、私に代わりに面倒を見てほしいと言っている。
だから、猫飼いにも、いろいろいる。子どもがいてもいなくても、結婚していてもいなくても、関係ない。共通点は、猫との暮らしが好き、ただそれだけなのかもしれない。
叔母は、私を「子どもがいないから」と、カテゴリーで測った。同僚は、猫を「貢献しないから」と、物差しで測った。でも、私が十八年で見たのは、そのどの物差しとも無関係に、「猫が好き」という一点だけで成立する、共同体だった。カテゴリーを溶かす力が、猫にはあった。
子どもの数が減って、貧富の格差が広がって、ぎすぎすした社会になりつつある。今だからこそ、もう少し包摂的で、他者に寛容な社会になればいいのに、と思う。反論はしない。ただ、私は現に、寛容な小さな社会の中に、いた。それだけを、書いておく。
叔母のことも、断罪はしない。猫好きのチャーチャが、なぜあんなことを言ったのか。支配したい人だった、独身で家長の重荷を背負った人だった、その複雑さごと、私は覚えている。憧れた人すら包摂できたら、それがいちばんいい。
終章 次のトトメイへ
トトとメイがいなくなっても、崖の家のプランは、変えない。
予算の都合でサンルームは作れなかったから、竣工後に、百平米あるベランダの庇の下に、猫とダンナが一緒にくつろげる、脱走できない網戸小屋を作ろうと思っている。寝室の壁に、キャットウォークを巡らせることも考えている。まだ実現していないこれらの仕掛けは、これから書かれる章だ。
そして——次のトトメイが、来た。
大好きなトトが亡くなって、まだ一か月なのに、次の子を迎えるなんて、と、どこかで思っていた。でも、トトはもういなくて、思い出して涙するばかりでいいのだろうか、とも思っていた。この二つの気持ちが、同時にあった。それでも、猫友さんが、縁をつないでくれた。ベンガルのブリーダーさんと、アビシニアンのブリーダーさんを訪ねて——アビシニアンのブリーダーさんは、トトメイが通ったのと同じ動物病院を、主治医にしていた——五か月のルディの男の子と、四か月のブルーの男の子を、迎えることにした。
名前は、グリフォンと、ガブリエル。グリと、ガブ。名づけてから、気づいた。どちらも、翼を持つものの名前だ。トトとメイが虹の橋を渡って、飛んでいってしまったあとに来た二匹が、翼のあるものの名を持っている。狙ったわけでは、なかったのに。
来た日、二匹はゲージから二時間出てこなかった。先に、そろそろと出てきたのはガブ。グリは、さらに二時間かかった。
最初の朝、起きたら、二匹がどこにもいなかった。電気をつけても、名前を呼んでも、出てこない。たいして広くもない家なのに、小一時間探しても、いない。夜中に誰かが連れて行ったか、子猫しか通れない抜け穴があるのかと、本気で心配して、夫婦で家の周りを三周した。困り果てて、ブリーダーさんに電話しようと携帯を握って——そういえば、あの家具と壁の隙間を見ていなかった、とライトで照らしたら、迷惑そうな二にゃんが、そこにいた。
来る前の日、私は朝八時から、家じゅうを大掃除していた。ごみ袋十袋では足りないくらいの、本格的なやつだ。家具の裏の埃を取り、コードを整理し、いらないものを捨てた。それなのに、二匹が隠れたその隙間だけは、なぜか、掃除していなかった。だから二匹は、埃まみれで出てきた。
見つけたあと、最初にしたのは、その隙間の掃除だった。埃を取り除いて、少し広げて、いつでも安心して隠れられる場所にした。出ておいで、ではなく、そこにいていいよ、と。
一週間が過ぎて、二匹は少しずつ、この家を信じ始めている。ご飯のあとに、顔を洗う。床やソファに、お腹をつけてくつろぐ。よく鳴いていたグリの、にゃんにゃんが、減ってきた。帰宅すると、リビングの扉の前に、二にゃんそろって、お迎えに来ている。——いつか、あの扉にも、新しい鼻の油が、つくのだろう。
そして、二匹は、メイのクマで遊んでいる。
メイには、クマのぬいぐるみをお供えする趣味があった。ベアリスタという名の、小さなクマ。あんまり好きすぎて十頭くらいいたのだが、火葬に入れられたのは一頭だけで、たくさんのクマが残った。その残ったクマを、グリとガブが、咥えて、走って、投げて、遊んでいる。ピンポン玉では、二にゃんでサッカーをする。
だから、勝手に、こう思っている。グリとガブは、メイの、生まれ変わりなのかもしれない。違う人格だけれど、遠い血縁で、メイの大好きだったクマで、こんなに喜んでいるのだから。
けれど、正直に書いておく。今、いちばんないのは、私とこの二匹のあいだの、信頼だ。
トトとメイと十八年かけて紡いだ信頼は、言葉は話さないのに、何をしてほしいか、お互いにわかる関係だった。それが、当たり前になっていた。だから、二匹を見送ったあと、家がからっぽに感じた。でも、グリとガブが来て、気づいた。あの信頼は、最初から在ったものでは、なかった。十八年かけて、ゼロから作ったものだった。
グリとガブは、まだ、自分がグリとガブだと知らない。私が誰かも、知らない。五メートルあった距離は、三メートルになった。でも、まだ、触らせてくれない。距離は縮まっているのに、気持ちは、まだ通じていない。
だから、焦らない。無理に撫でない、抱かない。遊んで、食べて、トイレをして、二匹が好きな場所を見つけてくれるまで、ゆっくり時間をかける。トトメイが教えてくれた、いちばん大事なこと——半径一メートルにいること、そばにいること——を、もう一度、一から。
トトメイのお骨は、来年熱海に引っ越したら、大きな鉢に、木と一緒に植えようと思う。トトメイの代わりに、木を育てる。先代のテトも、そうした。彼女は今、シマトネリコになって、我が家のベランダで過ごしている。トトメイも、丈夫で長生きする木になってほしい。どんな木がいいだろう。
そうすれば、トトメイは、木になって、あの家に引っ越せる。住めなかったかもしれない家に、木として、一緒にいられる。そして、ベランダで、グリとガブと——いつか来る、もう一匹の女の子とも——一緒に、過ごす。
そう、もう一匹。ベンガルの女の子を、迎える予定だ。まだ、生まれてもいない。その子には、トトが帰ってきてほしい、と祈っている。——でも、たぶん、その子は、その子だ。トトではなく、グリがグリで、ガブがガブであるように。トトの何かを、その子の中に見つける日は、きっと来る。でも、その子自身の名前と、その子自身の人格で。それでいい。トトは一匹きりで、その子もまた、一匹きりだから。
今、お骨は骨壺に入っている。でも、箱がいかにもお葬式なので、リサ・ラーソンの猫のぬいぐるみの中身を出したカバーに、変えてあげた。トトとメイは、お葬式の箱の中にいるべき子たちじゃない。にゃんもっくで寝て、ひだまりでのびーをして、扉に鼻の油をつけていた子たちだ。だから、彼らを包むのは、悲しみの黒ではなくて、あたたかくて、少しユーモアのあるふわふわの生地のほうがいい。
——あの匂いは、少しずつ、薄れてきている。
深くて、くぐもって、嫌ではなくて、むしろ安心した、あの匂い。いつのまにか、薄くなっていた。お供えを、いつのまにかしなくなったメイのように。最後にはっきり匂ったのが、いつだったか、もう、思い出せない。
それでも、トトが扉につけた鼻の油は、まだ拭いていない。リビングと玄関の扉、トイレの扉、お待ち台の扉。あそこにトトがいた証を、私はまだ、消せずにいる。
匂いは薄れて、油は残っている。たぶん、それでいいのだと思う。トトとメイは、少しずつ遠くなりながら、それでも、木になって、五時の目覚めになって、上がらない左肩になって、扉の油になって、メイのクマを追いかける二匹の中になって、まだ、ここにいる。そして、これから来る女の子の中にも、少しずつ、引き継がれていく。
トトメイ日記に、私はこう書いた。
「トト、メイ、またうちに戻ってきてね」と。
半分は、もう、届いた気がする。メイの好きだったクマで遊ぶ二匹が、今、この家にいる。残りの半分は、これから。
動物を飼えば、必ず、別れが来る。大変だった。つらかった。それでも、よい時間だった。守りきれないと知っていて、なお、手を伸ばす。それが、トトとメイが、十八年かけて、私に教えてくれたことだ。
だから、私は、また、猫と暮らしはじめた。まだ触れない、三メートルの、二匹と。十八年を、もう一度、一から。
