【短編小説】マスクメロンは風邪を引いているわけではない
マスクメロンが風邪を引いているわけではない。
それは宇宙に空気があないとか、カレーはだいたい茶色いとか、そういう種類の「疑う余地のない事実」だった。
にもかかわらず、八百屋の一角で、マスクメロンのメロ太は静かに毛布をかけられていた。
「今日は無理しないでね」 店主の佐藤は、そう言ってメロ太の網目をそっと撫でた。撫でる必要はまったくない。
メロ太は思った。
(無理って何だ。俺は置かれているだけだ)
事の発端は、前日の昼過ぎだった。
「このメロン、マスクしてるみたいで苦しそうね」 常連の主婦がそう言った瞬間、世界は微妙に傾いた。
マスクメロンという名前、表面の網目、そして「高級」というステータス。それらが不運にも一直線に結びつき、「体調が悪そう」という、存在しない事実が生成されたのだ。
「確かに……顔色、いや、色が青いというか」 「青くない。緑だ」 メロ太は心の中で即座に訂正したが、果物に発言権はない。
その日のうちに、メロ太は売り場の中央から外され、少し暖かい場所に移動させられた。さらに加湿器が置かれ、「乾燥は大敵だから」と霧を浴びせられた。
(湿度管理は確かに大事だが、理由が違う)
翌日には状況が悪化した。
「念のためね」 佐藤はそう言いながら、メロ太の横に“お見舞い用バナナ”を置いた。
バナナはやや黒ずんでおり、人生に疲れているように見えた。
「お前も風邪か?」 とバナナが聞いてきた。
「違う」 「俺も違う」 バナナはため息をついた。「ただ熟してるだけだ」
昼過ぎ、医者気質の女性が来た。
「喉は赤くない?」 彼女は真剣な目で網目を覗き込む。
「網目です」 メロ太は叫びたかった。
体温を測ろうとされ、聴診器を当てられそうになり、最終的には「今日は安静に」と売り場の奥へ隔離された。
隔離スペースには仲間がいた。
腹痛と誤解されたバナナ、包帯を巻かれたスイカ、ビタミン剤を山ほど積まれたイチゴ。
「ここ、誤解された果物の収容所なんだ」 スイカが低い声で言った。
「俺たちは何も悪くない。ただ人間の想像力が豊かなだけだ」
メロ太は考えた。
なぜ、当たり前のことほど説明が難しいのか。
人間は「知っていること」を疑わない。
マスク=病気。
高級=デリケート。
そして一度できたイメージは、事実より強い。
夕方、子どもが言った。
「ねえ、このメロン、ほんとに風邪なの?」
店内が一瞬静かになった。
「違うよ」 佐藤が答えた。「マスクメロンは、マスクメロンなだけだ」
その言葉は、驚くほど普通だった。
そして、驚くほど効いた。
「あ、そうか」 「名前だもんね」 「風邪引くわけないよね」
人々は少し照れたように笑い、毛布を外し、加湿器を止めた。
メロ太は、やっと売り場に戻された。
翌日、彼は無事に売れた。
買った客は、何も心配せず、ただ「美味しそう」と言った。
それでよかった。
それがすべてだった。
マスクメロンは、風邪を引いていない。
ただ、メロンであるだけなのだから。
