見出し画像

近現代都市の中における近世城郭の消滅過程―前橋城と高崎城の比較を通して―


第一章 はじめに

 城郭の研究や調査というと、その城郭がどのように造られたかという築城過程に主眼が置かれがちです。歴史学や考古学は城郭の築城過程を分析するのにはもってこいの学問ですよね。
 城郭というのは大規模な土木建築ゆえに、一度完成してしまえばそれが形を変えることは滅多にありません。特に近世城郭は武家諸法度などの法令で厳しく工事が制限されたので尚更です。城を論ずるなら、それが“動く”過程に焦点を当てたほうが面白いですよね。城が動くときは大きく分けて3回。築かれるときと、改修される時(滅多にありませんが)、そしてその役目を終えて廃される時。
 今回はそんな近世城郭の「消滅過程」に目を向けてみましょう。前提として、明治維新の廃城令で廃城となった城郭は、曲輪を区画していた土塁、石垣は破壊され、堀は埋め立てられます。本項ではこれらを「区画ライン」と呼ぶことにします。今回の舞台は群馬県の前橋城と高崎城です。

第二章 前橋城及び高崎城の概要と現状

第一節 関東の華と謳われた前橋城

 群馬県の県庁所在地、前橋。利根川を背にした「後ろ堅固な城」として築かれました。利根川に面した河岸段丘上に立地しており、国土地理院の治水地形分類図上に前橋市教育委員会が復原した地図を重ね合わせると、北側はオレンジ色で描かれた段丘面の境界と城域のラインが一致しています。城下町は黄色で示された自然堤防上に形成されています(図1)。
 遺構としては本丸を取り囲む土塁が、北半分残存しているのと、二の丸入口にあった車橋門の石垣がわずかに残るのみです。

図1 前橋城の立地
(治水地形分類図と前橋市教育委員会(2008)を元に筆者加筆)

 そんな前橋城は、かつては厩橋城と呼ばれ、関東管領であった山内上杉氏の家臣とされる長野氏によって築かれたとされています。戦国時代は上杉、武田、北条といった勢力が奪い合った城でもあります。北条氏滅亡後は徳川家康の家臣、平岩親吉が入り、関ヶ原の戦い後は酒井重忠が入り、近世城郭へと改修しました。この時に前橋城と改名されました。
 しかし、前橋城は背後の利根川に終始翻弄される歴史を歩みます。度重なる氾濫を受け、城内は常に物理的崩壊の危機に晒されていました。1748年、遂に侵食が深刻化し、時の城主酒井忠恭は御殿を本丸から三の丸に移転させました。1769年、当時の藩主であった松平朝矩は武蔵川越に藩を合併させ、前橋城も廃城となりました。
 しかし、荒廃した前橋の民からの領主帰藩要請や、利根川の改修による浸食リスクの軽減に伴い、1863年、松平直克が前橋に戻り、前橋城が復活しました。砲撃戦を主眼に置いた要塞へと改修されましたが、5年後の明治維新により再度廃城となりました。明治維新後の前橋城本丸には群馬県庁が置かれ、現在に至ります(写真2)。
 余談ですがこの県庁、最寄りの海岸線より宇宙のほうが近いとか。


写真2 群馬県庁と土塁(筆者撮影)

 また、前橋には「旧町名」というものが存在します。これは1962年に施行された『住居表示に関する法律』に則って1965年から 67年にかけて段階的に変更された地名です。これには「北曲輪町」「曲輪町」「南曲輪町」として、城郭を示す町名が存在します。群馬県が公開している町名の図を地図上に落とし込むと、当時城郭と認識されていた空間が可視化されます(図3)

図3 旧町名と前橋城(筆者作成)

 完全に城域と一致していますね。次章からは今昔マップを用いて、近代から現代にかけての城郭の区画ラインの消滅過程を見ていきます。

第二節 交通の要衝を支えた高崎城

 高崎は現在でも長野や新潟、栃木や首都圏に向かう数多くの路線が発着する交通の要衝で、北関東の大ターミナルです。ぶっちゃけ前橋より栄えていた印象です。そんな高崎の街を育てた高崎城は、前橋城同様、烏川を背に持つ後ろ堅固な城として段丘上に築かれました。現在は外堀と土塁がほぼ完全に残っています。
 そんな高崎城は徳川四天王の一角、井伊直政によって築かれました。当時から中山道と三国街道の合流地点であり、この交通の要衝を押さえる高崎城の役目は重要でした。関ヶ原後、直政は近江佐和山に移り、高崎城は譜代大名が目まぐるしく入れ替わりました。最後は松平輝声(てるな)の代で明治維新を迎えました。
 その後は陸軍歩兵第十五連隊の駐屯地が置かれ、戦後は官公庁が置かれました。現在の高崎市役所は三の丸に鎮座しています(写真3)。



写真4 高崎市役所展望室からの眺め(筆者撮影)

第三章 都市化した城郭

第一節 県庁が置かれた前橋城

 本章では今昔マップを用いて、近現代の都市化過程における近世城郭の消滅過程について考察します。図4は明治維新後から現代にかけての前橋城周辺の地図上に城域を復原したものです。それぞれA図(1894年〜1915年)、B図(1928年〜45年)、C図(1972年〜82年)、D図(1988年〜2008年)とします(図5)。


図5 近現代の前橋城周辺(今昔マップに筆者加筆)

 A図ではほぼ全域にわたって区画ラインが道路化したことがわかります。城域と一致する旧町名もこの時期は現役で使用されていました。本丸周辺は県庁が置かれ、周辺は土塁が現存しています。
 続いてB図を見ると、南西(左下)部分が形を失っていることがわかります。この周辺には後のJCHO群馬中央病院の前身となる厚生病院が立地していました。また、半円で描かれている馬出し周辺には小学校が建設されました。このように広大な敷地を必要とする施設の建設が相次ぎ、南西部分の区画ラインは消滅していきました。
 C図、D図は戦後の地図です。モータリゼーションの加速に伴い道路が大型化して拡張されていきました。オレンジ色で描かれた道路は、後に国道17号線として開通した部分です。これに伴う区画整理で、外郭の区画ラインが消滅しました。この時期にはすでに現在の町名に移行していたので、旧町名の境界線も失われつつあります。
 前橋城の消滅過程を整理すると、県庁が置かれた本丸周辺が残存した一方、他の曲輪は施設の建設や道路の拡張、町名の変更に伴う境界線の消滅によって形を失っていったことがわかります。

第二節 駐屯地が置かれた高崎城


図6 近現代の高崎城(今昔マップに筆者加筆)

 続いて高崎城を見てみましょう。高崎城の外堀は烏川沿いを除くとほぼ完全に現存しています。明治維新後、城内には歩兵第15連隊の駐屯地が置かれ、高松町の大字が充てがわれています。駐屯地設置に伴い、城内の区画ラインが完全に失われました。
 一方外郭ラインが完全に残っている理由としては、軍事施設という城郭と駐屯地の属性が一致していることに起因していると考えられます。外部から隔絶された空間を維持するのに、外堀と土塁という構造はもってこいだったわけですね。
 C図を見ると、烏川沿いに道路が建設されています。後の国道17号線です。前橋城の城下を貫いていたあの国道、こんなところに通じていたんですね。烏川沿いは断崖絶壁、この自然地形がそのまま外郭ラインと捉えていいでしょう。
 D図には東御門から城内に入り、直角に折れ曲がる道路が確認できます。高崎駅前から直進してきた県道29号線です。城郭の外郭を壊すことなく敷設されているのは、C図に描かれていた道路を踏襲しているからと考えられます。これらの道路はいずれも戦後に新設されたもので、城内の区画ラインとは一致しません。
 高崎城は軍事施設化したことにより外郭ラインが完全に保たれた一方、城内の区画ラインは完全に失われました。前橋城と真逆の動きをしていることがわかりますか?

第四章 おわりに


 今回の調査で、以下の知見が得られました。まず前橋城、高崎城ともに残存した遺構が土塁であることから、土づくりの城であったことがわかります。これは関東の城の特徴ですね。
 続いて城郭の区画ラインの消滅過程ですが、本丸に県庁が置かれた前橋城は本丸周辺の区画ラインが現存、残存した一方、周囲の曲輪は都市化により旧町名共々失われました。一方高崎城は、駐屯地が置かれたことで外郭ラインが残存した一方、内部構造が完全に失われました。
 この2つの異なる動きは、近現代の城郭の用途に関連しており、他の城郭と比較することでよりその傾向が掴めそうです。

参考文献


 観光たかさき.2021.高崎城は面白い!市民の憩いの場に残るヒストリー.観光たかさき 高崎観光協会会報冬号 第153号
 高崎市教育委員会.2010.『高崎城遺跡19-医療保険センター・図書館施設建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』
 前橋市教育委員会.2004.『前橋城-車橋門丸馬出遺構の調査-』
 前橋商工会議所.2011.『旧町名への旅』商工まえばし別冊
 前橋市埋蔵文化財発掘調査団.2004『前橋城-都市計画道路前橋公園通線道路改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査-』
 高崎市観光情報ガイド.高崎城址(観光情報)  https://www.city.takasaki.gunma.jp/site/sightseeing/3511.html (2026年3月11日最終確認)
 前橋まるごとガイド.幻の名城前橋城. https://www.maebashi-cvb.com/feature/maebashi-jyo/maboroshi (2026年3月11日最終確認)




 

 


 


いいなと思ったら応援しよう!