Eternal Fantasia〜永遠の幻想曲〜
序曲
―――オルゴールが部屋に鳴り響く……、
その音色はあまりにも儚く、
悲しげな色を帯びていた。
何度この音を聴いただろう。
もはや覚えてはいまい。
だが、何度聴いても、
この音色が私に何を教えてくれるのか、
そして、何を訴えかけているのか…。
もう二度と届かない声を聞いている気がする。
彼女の声…、もう忘れてしまった。
記憶の糸をどれだけ探っても、
彼女の声を見つけてやることはできなかった。
そんな毎日がつづいた。
どれだけの年月が経っただろうか。
昼間から薄暗いじめじめした部屋の中、
バーボンに溺れ、ただピアノの前で虚ろに座っている。
こんなにみすぼらしく、
歳だけを重ねてしまった無気力な男に、
彼女は今更何を言うことがあるだろう。
彼女の最後は笑顔だったに違いない。
いや、そうは思えないのだが、
そう思いたかったのだ。
彼女は、もう二度と……。
May you rest in peace…Rachel
プロローグ その少女の名は……
とにかく毎日が退屈だった。まだ中学に入ったばかりの少年は、周囲と交わることもなく、ただ一人、ぼんやりと机に伏せていた。
二学期の終わり、冬も近づき、寒くなってきた頃の話である。
「今日はテストを返却する。」
ざわめく教室。あちこちで「難しかったよねー。」「あー、絶対わりぃよ、俺。」などと聞こえている。教師は静止する。
「ちょっとお静かに。えー、今回は平均点が36点!君たち、もっとやる気を出しなさい。これは酷すぎる。」
数学の試験、この教師は一年の時期から難関高校に向けての問題作りをしていた。
「先生、難しすぎますよー。」
ある女子生徒から発せられた文句を跳ね除けるかのように教師は言う。
「これくらい解けるようにならなければいい高校、いい大学には入れないよ。しっかり勉強しなさい。」
しかし、ここはしがない公立中学で、特に厳しい受験指導が行なわれているわけではない。そして、試験が返却された。学級のほぼ全員が、青ざめた顔やしかめっ面をしながら、答案とじーっとにらめっこしたり、見せ合いっこしたりしている。
「今回は難しかったかも知れんが、それでも100点を取った生徒がいる。渡邉君、よく頑張ったね。」
黙ったままうなずいている生徒、彼の名は渡邉賢祐という、中学生ながらどこか大人びた雰囲気を持っている。しかし、彼は周りに対しては極度なまでに無関心であった。
「またアイツかよ。」
「ちっ、あんにゃろ。頭はいいんだけどな。」
静まる教室、あちこちで小声の喋り声が聞こえる。成績優秀で常にトップだった賢祐は他の生徒からも一目置かれていたのだが、彼の醒めた態度のせいであまり良く思われていなかった。
賢祐の持つポテンシャルを知って運動部・文化部かかわらず勧誘を受けていたにもかかわらず、部活には入っていなかった。放課後はただ家の習い事や家庭教師などで、すぐに自宅に直行する。彼にはどうも話しかけづらい雰囲気があり、誰一人として彼に近づこうとはしなかった。会話という会話をしたのは、新学期の春にどの部活をやるかを聞かれたときに、「興味ない。」と答えたくらいである。以降も、教師や他の学生に話しかけられても「ふーん」か「別に」くらいしか言わなかった。
だが、彼は運動に関しても抜群とはいかないが人並み以上にでき、また、歌もうまかったので教師達からはかなり大事にされていた。そのことからも、同じ学年の生徒からは疎まれる存在となっていったのは必至であり、本人もそれがよくわかっていた。
賢祐はそのことに対して、孤独感や疎外感などを感じていたどころか、彼自身、選ばれた人間であり、いずれは世界を支配するだけの器を持っていると信じていた。前世はどこかの国の独裁者で、前世で失敗した世界征服を現世で叶えるために生まれ変わったのだと信じていた。賢祐をして、天上天下唯我独尊と称されるのかもしれないが、この年齢に特有の思考であることも間違いはないだろう。
常に退屈そうに日々を過ごしていた賢祐だったが、彼の母親だけは心配そうであった。母親として、若者の無気力や無感動などから就業意欲の減退が心配され、賢祐の将来に憂いを持たざるを得なかったのだ。
賢祐はこんな狭い場所に閉じこもっていられるような人間ではない……、そう確信した彼の母親は、日々を退屈そうに過ごす賢祐に海外留学の機会を与えることにした。賢祐は、幼いころからあまり周りのものに対して関心を示そうとはせず、親が何かを与えてもあまり興味を示さない子供であった。しかし、子供ながらに義務を遂行するという割り切った考えだけで学業に励んではいたものの、読書もせず、何らかの趣味を持たないでただ与えられたことをこなすだけで、あまり見聞は広いほうではなかった。
賢祐の母親は、彼女の大学時代の友人の伝を頼って、彼をフランスへ留学させることに決めた。このことを伝えたときも、賢祐の返答は「ふーん。」という一言だけで、なんとなく受け入れたといった感じであった。母の目にも何を考えているのかわからない賢祐が、少しでも広い世界を知ってくれればという願いをこの留学に託した。
そして、中学二年になる春、賢祐は一年間のフランス留学に旅立った。生まれて初めて乗る飛行機にも、これから降り立つ新天地にも、大した期待も感動も覚えず、賢祐はただ醒めた様子で窓の外に見える雲と空の青をじっと眺めていた。
長い飛行機での旅。フランスへ到着した中学生の少年は、自らの足でオンフルールにあるホームステイ先の家に向かう。
初めて見る景色、空気のにおい。夕方近くの黄昏、赤みを帯びた空の色に、寂寥の感を禁じえない。芸術に造詣の深い賢祐の母親によると、オンフルールは印象派の画家ウジェーヌ・ブーダンや作曲家のエリック・サティが出身と語っていたのだが、教養にはあまり関心のない賢祐にはどうでも良いことだと感じた。賢祐が教養の一環として三歳の頃から習わされていたピアノでサティの楽曲『ジュ・トゥ・ヴー』を練習させられた覚えはあった。だが、十年以上も続けていたピアノが中々巧くならないで弾きこなすことができなかった彼にとっては、苦い思い出でしかない。
そんな教養的知識よりも、肌で感じられる港町の感触に賢祐は今まで感じたことのない感動を覚えていたような気がした。それまで彼は、温室の中で閉じこもって育ってきたせいか外で生活している人々の活気あふれる様子に妙な新鮮さを感じていた。言語はあまりよくわからずとも、人々の表情や仕草から生き生きとしたエネルギーが賢祐の中に注ぎ込まれるようであった。
胸躍るフランス滞在。賢祐は母から渡された地図に従って歩き回った末、ホームステイ先のエリザベート氏宅に到着した。ひっそりと街中にたたずむ一軒の家、近くには教会が建っている。呼び鈴を鳴らすと、中から銀髪で逞しそうな体つきの中年の男性が出てきた。きっと彼がこの家の主人であろうと賢祐はすぐわかった。彼の聞いたところでは、エリザベート家は夫婦と賢祐と歳の近い娘の三人家族である。
「やあ、始めまして。賢祐君だね。君のお母さんから話は聞いているよ。」
英国訛りの丁寧な英語で話しかけてくるその男性は、優しそうな微笑を浮かべて握手を求めてきた。賢祐は小刻みにうなずきながら、「ナイス・トゥ・ミー・トゥ」と呟くように言った。賢祐が自宅で習わされていた英会話がここで初めて生かされた。
主人はアレックスと言い、イングランド出身でフランスに住んでいたセシール夫人と婚約してこの地に住んでいるということであった。主人に案内されるがまま、中へ入っていった賢祐。この家で一年間暮らすのかと不安があったようであるが、入ってみた雰囲気ではうまくやっていけそうに思い、少しは安心した様子の賢祐。
二階の一室、程よい日当たりの部屋で賢祐は寝泊りすることになった。部屋に荷物を置き、ちょうど夕食時ということで一回の食卓へ向かおうと廊下を通っていると、通りがかった部屋からふと窓辺にたたずむ少女の姿が目に映った。
気になった賢祐は、そっと部屋の中を覗き見た。そこには、儚げに窓の外を見ている少女の姿が確かにある。読みかけの本が窓の淵に置いてあり、窓からは朱に染まった夕焼け空、やはりどことなく寂しい感じがあり、少女のどこか心許ない表情からもそんな寂しさが増すように思えた。
賢祐の存在に気が付いたのか、チラッと彼のほうを見遣る少女。少し決まり悪そうにビクッと動いた賢祐。少女はにっこりと微笑んで、彼に会釈をした。それまでの寂しそうな笑顔からは考えられないほどに優しげで、一瞬にして少年の心を包み込むようであった。
夕食を取り、賢祐は少女と少しだけ話す機会を設けた。彼女はRachelと名乗った。賢祐に歳が近い娘がいるとは聞いていたが、どうやら彼女は賢祐よりも三歳ほど年上のようで、十七歳というまさに大人と子供の境界にいた。窓の外を見ている大人びた様子と、普段の無垢で天真爛漫な少女の両面を持ち合わせている。そんな不安定な彼女の様子に、賢祐がただならぬ感情を抱くようになるまでにはそう時間はかからなかった。
春休みの残りを過ごし、エリザベート家に慣れてきた頃に学校が始まった。周りは彼とは違うバックグラウンドを持つ人間ばかり、地域性が割と強い京都の街とは違って互いに干渉しないような雰囲気がクラスからは感じられたが、むしろその方が、賢祐にとって居心地がいいように感じられた。元々、他人と馴れ合うのをそれほど好まない賢祐は、十四歳という年齢に至ってそういう気持ちがより一層高まっていたようである。授業についても、わからない言葉が多かったにもかかわらず、凄まじい勢いで知識を吸収していき、成績で苦労することはなかったようだ。
また、ホームステイ先でも、両親がいないからといってホームシックにかかるようなことはなかった。元々、両親が忙しく、ほとんど家にもいなかったので、割と一人でも平気だったのだ。それに、今の賢祐にはRachelという話し相手がいる。彼女は何でも彼に話してくれるようで、街を案内してくれたり、習慣やルールなどを教えてくれたりもした。毎週日曜日にはミサ通い。教会には馴染みのなかった賢祐も、神聖かつ荘厳な雰囲気に圧倒されるばかりであった。
こうして、オンフルールにやってきて充実した生活を送っていた賢祐。だが、Rachelが時折見せる寂しげな表情を彼は決して見逃さなかった。楽しそうに話していたときにも、突然目が虚ろになり、あさっての方向を見たままぼーっとしたり、ため息をついたりもした。
―――彼女は恋でもしているのだろうか?
賢祐の頭には、まずそのことがよぎった。だが、尋ねてみようか否か、彼は迷っていた。なぜか、その疑念は彼の気持ちの中へモヤモヤとしたものを与え、そこから一歩踏み出すのにとてつもない勇気がいるように感じられたのだ。
その後も、賢祐はエリザベート宅の二階にある部屋の窓際で、頬杖をつきながら溜息をついているのを見かけることがしばしばあった。物憂げな彼女に話しかけようか否か、迷いながら途方に暮れながらも、結局、賢祐には何も出来なかった。沈んだ彼女の様子に、つけ入るような隙などなかったのだ。
Rachelのただならぬ感情を何も知らぬまま、平穏な生活を送っていた賢祐。ある秋の夕方、Rachelはいつものように年齢よりも大人びた表情を浮かべながら空を眺めていると、彼女の部屋の前を偶然通った賢祐を手招きで呼び寄せた。その様子はどこか力なく、目線は空の彼方に向いていた。
「人は……、きっと大人になるにつれて、何かを失いながら大きくなるってことが今、実感できる。夢から覚めていくの。」
Rachelはボソッとそう呟いた。まるで映画やドラマのようなセリフを吐く彼女に、賢祐は彼女がこれまでに一体何を経験してきたのかを計り知ることができなかった。それは、まだ賢祐が幼いからだろうと、そう感じられた。
彼女とのやり取りはそれだけで、後は相変わらずの日常を送った。そして、不思議な感覚を心に残しながら、賢祐は一年間のホームステイ生活を終えていった……。
黄昏より、灰色の空へ
本編
―――賢祐は憂鬱だった。
外は青空、太陽が燦燦と照りつける夏の日であったが、心の中は灰色だった。まるで、この世界が廃墟と化してしまったかのような虚しい感じが、思春期に差しかかった男子の心の世界を支配していたのだ。
ちょうど高校二年生になった頃である。賢祐はフランスから帰国し、一年の受験生活を経て地元の難関私立高校に入学した。だが、彼は青春を謳歌することもなく、ただぼんやりと流れ行く時のままに日々を過ごしていた。
将来のこともろくに考えず、賢祐はいつも降りる鉄道の駅に備えつけられていたベンチで、毎日のようにうなだれていた。日没近くの黄昏、赤みを帯びた空を眺めながら彼はただ遠くの世界を見つめているようだった。Rachel……、その名前だけが彼の脳裏で反響する。フランスで過ごした生活も、ほとんどRachelとの想い出で満たされていた。だが、思い起こされる記憶はすべて、彼女の物憂い表情ばかり。今の賢祐の気持ちと同じ気持ちを、当時十七歳だったRachelも感じていたのだろう。そう思いながら、ただぼんやりと日々を過ごした。
少し遡って、賢祐がまだ高校一年だった一年前のことであった。夏休みが終わり、秋が深まって冬に近づいた頃、賢祐にとって重大な事件が起きてしまった。いつもどおり予習をしていた賢祐であったが、突然、部屋に入ってきた父親が、
「賢祐、大事な話があるからちょっと来なさい。」
と呼び出されたまま居間に向かった。
両親共に忙しく、家族全員で顔を合わせることも滅多に無かったので、久しぶりの家族イベントの話だろうと思っていた。居間に入ると、母親がよそ行きの服で、大きな荷物を彼女の周りに置いて座っていた。母親の表情を見ると、どこか険しく、いつも見ていた優しそうな表情からは意外で、さすがに賢祐もただ事じゃないと察知した。
父親の隣に腰かけた賢祐、そして、
「お父さんとお母さんは、離婚することになった。」
突然の告白だった。ほぼ一年ぶりの家族団らんだというのに、まるで後ろから重い石をぶつけられてしまったかのような気分に、賢祐は眩暈がしそうだった。母親は両手で賢祐の大きくなった手を握り締めながら、
「ごめんなさい、賢祐。私たちで勝手に決めてしまったけれど、賢祐はちゃんと自分の力だけで生きられるって信じているから。お母さんがいなくてもちゃんとできるよね。」
そう言いながら微笑んでいた母親も、賢祐にはどこか嫌な感じがしていた。結局、大人というものは自分たちの都合だけで物事を決めてしまうのだ。こんなことを言いながら、結局は母親も自分のことを子供としてしか見ていない。だから、二人から見てまだまだ子供の賢祐などそっちのけで、自分たちの都合だけで物事を決めてしまうのだ。どっちが子供で、どっちが大人か、今の賢祐にはまったくわからなかった。
離婚の理由は、お互いのライフスタイルが噛み合わないということであった。しかし、疑り深くなっていた賢祐は、どうせどちらかが不倫したとか、些細な行き違い、もしくは感情のぶつかり合いがあったのだろうという様々な疑念が頭によぎった。だが、それらすべて、賢祐の想像の範囲だけで、結局、真相を知ることはできないのだ。
この出来事を経て賢祐は、自分など所詮鳥かごに飼われた鳥に過ぎないのだと確信した。自分で飛べる力がどれだけあろうとも、自力ではばたくことは決して許されなかったのである。彼がフランスへ行ったことも、それは飼い主の都合で飛ばされていたに過ぎない。賢祐は、再び自分の力だけで外の世界へ飛び立ち、あの憂鬱な表情を浮かべて窓辺にたたずんでいたRachelを連れ出したい……。そう強く思った。
そんなことを想い起こしながら、彼は相変わらず駅のベンチで黄昏色の空をじっと見つめていた。あの空の向こう、同じ青い地球の表面で、自分と同じように生きる意味を求めている人がいる。そんな想いを心に浮かべながら、賢祐は無力感に苛まれながら日々を過ごした。
そして、夏休みが終わる頃、彼は自宅の窓辺で頬杖をつきながら、溜め息をついていた。夕方近くの空。
―――いつか、あの黄昏の空を越え、新しい世界へとはばたく日が来たならば……、
そんなことを思いながら、賢祐は手に取ったカッターナイフを右腕に押し付けたまま目を瞑っていた。
堕ちていく……
その日は全国の大学受験生がこぞって各地の国立大学へ集結し、一年間の想いを答案にぶつける日であった。早くも梅が咲き始める京都の地で、西では最高峰と称される京方大学の二次試験が行なわれていた。
ここに一人、緊張し、挙動不審気味で受験する一人の男がいた。容貌はまるで清潔感のない伸ばしっぱなしの長髪に、丸眼鏡、顔も真っ白く、今にも倒れんばかりの様子でいた。
渡邉賢祐。その名を持つ一人の受験生は、日本最難関の東方大学法学部を卒業し国際弁護士として活躍する父と、東方大学医学部を出て医療の道で献身している母をもつ、まさに筋金入りのエリートである。そんな彼はこの日、極度なまでに緊張していた。
幼い頃から成績優秀、スポーツ万能と言われて一目置かれていた賢祐だったが、この緊張した空気で、ひたすら勉強をしている他の受験生たちのなか、一人水筒に入れた水と精神安定剤を飲んでいる。これがないと正常ではいられない。
この時すでに、賢祐は心身ともに満身創痍の状態であった。高校時代、数々の挫折を繰り返し、人間不信と疑心暗鬼、そして被害妄想のなかで、リストカットや睡眠薬による自殺未遂などを経て、それでも何とか生き延びてきた彼。かつては神童と言われてきた面影は一切残っていなかった。
リストカットの傷跡を誰にも見られないよう長袖で右腕をしっかり隠しながら、彼は試験に臨んだ。だが、なぜだろう?頭がぼんやりして試験問題がさっぱりわからなかった。解けない問題ではないはずだ。いや、正確には、解けない問題はないはずなのだ。
しかし、精神安定剤の副作用、というと確かに語弊はあるのだが、薬の効果で頭がぼんやりしていたのは確かで、問題文すら読めなかったのだ。何度読んでも、問題文の意味がまったく頭の中に入ってこない……。
結局、解けそうな問題は大体解けたような気がしながらも、何度も何度も問題文を目でなぞるだけで試験時間を過ごし、彼にとっては徒労の結果で終わった。そして、運命の結果発表を待つのみとなった。
―――落ちた。
賢祐は京方大学どころか、滑り止めで受けていた数々の難関私立大学にもことごとく落ちてしまっていた。こんなはずはない…。突きつけられる現実に、賢祐は眩暈さえ覚えた。
彼には皇族や上流階級の者が通うという京都学術院大学という進路しか残されていなかったのだ。しかも、彼はすでに二年間も浪人生活を送っており、これ以上浪人するという選択肢は彼には残されてはいなかった。結局、合格した京都学術院大学文学部哲学科に入学することになったのであるが、彼に愛想をつかした父親には勘当されてしまい、京都の街に放り出されてしまった。
彼の父親も、賢祐に負けず劣らずのエリート志向をしており、自分の息子にはハーバード大学に入って欲しいと幼い頃から言い聞かされてきた。とはいえ、当の父親は仕事でほとんどが海外生活、賢祐自身も滅多に顔を合わせたこともないくらいだった。そんな父親が彼に対して下した勘当も、電話越しでのことだったのだ。
賢祐は夜の賀茂川沿いをぶらぶら歩きながら自分の人生を呪った。ここまで悲惨な目に遭うなんて……。しかも、両親は賢祐が高校の頃にすでに離婚しており、頼れるものはなかった。
大学に入るのはいいけれど、これからどうしよう。学費だけは父親が出すと言うのに、宿無しでは元も子もない。そんなことを考えながら何気なくコンビニに入っていくと、そこには懐かしい母の姿があった。最後に見たのはいつだったか…、確か高校一年の冬だった気がする。しかし、以前見たときよりかずっとやつれているようにも見えた。賢祐は何も考えず、彼女に声をかける。
「母さん?」
そう呼ばれると、やつれた顔の女性はハッと懐かしい息子の声に気がつき、彼のほうを見て口に手を当てながら、
「まあ、賢祐じゃないの。こんなところで会うなんて奇遇ね?」
彼女は疲れた顔から一変して、元気を取り戻したかのようであった。賢祐は近況報告を終え、不憫に思ったのか、母が借りていて今はほとんど使っていないアパートの一室を賢祐に貸してやることにした。捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言ったものである。
思いも寄らなかったアパートでの一人暮らし。それまでは豪邸の一室で贅沢に暮らしていた賢祐からは考えられない生活観であったが、賢祐にとってはそれが逆に新鮮であった。アパートの費用と生活費は母親にある程度工面してもらえるし、以前のような贅沢さえしなければ何とか暮らしていくのに十分な金額であった。
―――入学式。桜咲く並木道の下、誰もが新たな学生生活に対する期待と不安に胸躍らせる中で虚ろな表情を浮かべながら歩く賢祐。彼にとって、滑り止め中の滑り止めでしかない京都学術院大学、何一つ新鮮さも目新しさも感じられず、興味をそそる様なものさえなかった。耳をほじくりながら、学長の言葉を話半分に聞く賢祐。
入学式後、こぞってサークル勧誘が活発に行なわれるなか、誰一人として賢祐に声をかける者はいなかった。だが、彼には気に留めることもなかった。なぜなら、彼自身はたとえこんな大学に入っていたとしても、依然として自分は群を抜いたエリートであり、こんな低俗な大学生活には馴染めないと、そう信じ込んだ。こうして他人を見下し、自己を絶対化する性格はいつまで経っても変わらない。彼をして、天上天下唯我独尊と言われるのだろう。
こんな調子で、賢祐は新生活を向かえることになったが、かといって大学に行きたいというわけではなく、しかも、賢祐はいまだうつ病に悩まされ、精神的な回復が十分ではなかったため、周囲からは遠ざかった生活を送らざるを得なかった。そのような状況で、メンタル面ではかなり弱い賢祐が対人恐怖に陥るのも、そう時間はかからなかった。
ある日の事件を境に、彼の人間不信ぶりに拍車がかかってしまう。入学式後に行なわれた学科内でのパーティで、強制参加だと思って参加したはいいが、こっぴどくバカにされてしまった。彼が二年遅れだったこと、そして、彼の病んだその外見から、男女かかわりなく気持ち悪がられてしまったのである。
―――まるでスケープゴートじゃないか…。
賢祐はそう思いながら、彼は同じ講義を受けている人間からは疎まれていると感じ、グループ作業などもうまく行きはしなかった。特に、語学の授業では、まるでゴキブリでもいるかのように扱われる。結局、五月病には早すぎる時期に授業には行かなくなってしまう。
―――だが、彼の悲劇はいまだとどまるところを知らなかった。
追い討ちをかけるように、5月に入ってから教授からメールが入ったのだ。彼の大学では、学科ごとに一泊二日でオリエンテーション名目の遠足が行なわれるというものだった。これに参加しなければ単位がもらえないと脅してくる。学生だけでなく、教授まで悪魔のように思えてきた賢祐であった。
地獄のような遠足に、嫌々ながら参加する賢祐。同じ学科内で、すでにのけ者扱いの賢祐であったが、バスに乗り込んでもさらに悲劇はつづく。
彼の隣に座っていた吉田という名の女子学生がいたが、彼女は賢祐とはまったく口を聞こうともせず、他の男たちと楽しそうに喋っている。散々無視されながら、突然、隣の席の学生を紹介するという企画が始まった。隣の席の人間とはまったく口を聞かないまま吉田の順番が回ってくる。
「渡邉賢祐君は、変態です。さっきからいやらしい目でジロジロ見てきます。」
まさか……。苦笑いが止まらない賢祐。彼は絶望の境地に立たされた。周囲からはおびただしいほどのブーイングと罵倒の嵐。彼にはもう、どうすることもできなかった。それからというもの、この遠足中はずっと孤立していた。まるで、一人で砂漠の上に立たされている気分である。
だが、賢祐の内側から、絶望感と同時に、彼自身の力では抑えようのない修羅の部分が現われてきた。彼の心の中では、すでに鬼が棲みついていた…。
もう一度大学受験をしなおそうかとも考えた。まともな大学生活を送るにはあまりに年を取りすぎていたのだが、それでも、彼を罵倒してきた学生達にいつか、何らかの形で勝ってやりたいと思いつづけていたのだ。
結局、彼は遠足が終わって以降も、授業には行かず、自宅でうなだれていた。ふと、何か音がしているのに気がついた賢祐。よく耳を済ませていると、それは女の喘ぎ声のようであった。賢祐は音がする壁のほうにコップを当て、よく耳を済ませてみる。よく聴いてみると、遠足のバスで隣に座っていた吉田の声によく似ていた。
よくも抜け抜けと、男とイチャイチャしていられるものだと賢祐は怒りに打ち震えていた。天は人に二分を与えずというが、ここまで差があるのはどういうことか……。いずれにせよ、賢祐には同じアパートの、しかも隣に彼の敵が住んでいるということに吐き気さえ感じていた。こうして、彼はしばらくの間、この喘ぎ声にうなされることになってしまうのだった。
―――いつもの朝が来た。しかし、賢祐は寝転がりながら、窓から見える空をただぼんやりと見上げていた。空から翼を生やした天使でもやってきて広い世界に連れ出してはくれないかと思いながら、ただ流れ行く雲をじーっと見上げていた。
外は陽気に包まれているにもかかわらず、賢祐の心は曇り空。彼の思い出の中では、どんな時期でも晴れていたことはなかっただろう。それは、彼の置かれていた状況がそうさせていたのか、はたまた、彼自身の歪んだ部分がそう見せているのか、それは彼自身にさえわからないことだった。
彼は、そんなモヤモヤした想いを綴ろうと、彼の気持ちをただ紙に殴り書きしてみた。詩人になりたいわけではなかったし、それほどの素養を持ち合わせているとも思っていなかったので、たとえ内容がひどくても彼は自分で表現できる限りで表現してみた。
善悪の戦い、救い、そして、失われた愛。彼の想いは、中高時代に当てられる。思えば、賢祐はフツーの生徒らしいことはしていなかった。スポーツや文化活動、また恋愛などに熱を燃やすような青春を送っていたわけでもなければ、自分の趣味に没頭し、それを共有し合うオタクグループに入っていたわけでもない。かといって、大学進学を目指して必死に勉学に励んでいたというわけでもなかった。
ただそういうフツーの人間を見下し、そんな彼らのしていることをまるで馬鹿馬鹿しいものとして見ていた。渡邉賢祐、そう、彼は真性のネクラ人間だったのだ。彼の気持ちはいつも虚ろで空っぽだった。勉強はできたかもしれないが、する気がなかった。
生活はすべて次の二つから成り立っている。
したいけれど、できない。
できるけれど、したくない。
ゲーテ『格言と反省』より
とでも言わんばかりの状況だ。普段、学校の勉強以外ではまったく書物さえ手にしない賢祐にゲーテの言ったことなど知る由もなかったのだが。
そもそも、賢祐にやりたいことなどあるのだろうか。人間、何か大きな目標に向かっているときは大抵はつらつとしているものだ。賢祐はそういう人間に比べると、あまりに虚ろで腐っていた。彼は腐ったミカンだ、と言われても到底否定はできまい。
そんな反省を繰り返しながら、考えるのに疲れた賢祐はアルコールに求めた。未成年であるとか関係ない。未成年ではないのだが。とにかく、毎日毎日、飲んだ。時間など関係ない、焼酎から洋酒までありとあらゆる酒に走った。時々気分を良くした賢祐は、酒の勢いで京都の繁華街に繰り出し、少し悪そうなガキを見つけてはケンカをしていた。いつも勝てたわけではなかったが、勝敗など関係ない、ただ心のモヤモヤを晴らす場所が欲しかっただけなのだ。
そんな生活を繰り返しながらも、彼は満たされることは決してなかった。
出会う
五月、世の中ではゴールデンウィークが終わり、再び日常を取り戻したと思われる頃、賢祐は相変わらず授業にも行かずにぶらぶらしていた。彼の目はすでに死んでおり、覇気が感じられなかった。ある水曜日の朝、久々に明るい時間に外に出てみようと思った。
こうした絶望感の中で、ただ学生に対する不満や怒り、復讐心だけで満ち溢れていた。彼の心に巣くう鬼をどうにかしようと、毎晩毎晩、殺し合いに近いケンカを明け暮れていた。まるで、本能のままに殴りあい、こういう場でやっと自分の本気が出せるとでも言わんばかりに暴れていた。
また、他人を傷つけるだけじゃ飽き足らず、自分を傷つけるようにアルコールを意識不明に陥るまで摂取していく。正しい酒の飲み方などいざ知らず、ただ自分を破滅に追いやらんとする勢いで飲んでいた。
勢いあまり、本当にどうしようもなくなったときは、リストカットに走る。彼の右手首を、ただ何かに取りつかれたかのように傷つけていき、ひたすら流れ出る血を見ては、自分の薄汚い血を呪った。親がエリートなのに、自分はこれほどまでに落ちぶれ、そして、まるで地獄のような生活を送っている。大学にいるクズどもとは違って、自分は神なのだ。それなのに……。ただ、その思い込みだけで自分を救おうとしていた。
そんな自堕落な生活を繰り返していた賢祐であるが、ある日の朝、なんとなく近くの賀茂川沿いをぶらりと散歩していた。木陰に座り込んでフォークギターを弾いている男がいた。茶色の長いジャケットに茶色い帽子を深く被り、そこからパーマがかけられた長い髪を垂らしている。これがヒッピーという人種なのだろうか、何やら不思議な空気を放ちながらフォークに近いフレーズを歌も入れずにコードだけを演奏していた。
賢祐がそのギターに聞き入っていると、突然演奏をやめ、男は言う。
人は皆 何かを選び また何かに選ばれる
本人が欲するも 欲せざるも
すべては自らが決めるようで
すべては自らに決められる
そう言い残して去っていく男。彼は詩人だろうか……?
賢祐は久しぶりに大学の授業というものに出向いた。一般教養の講義で、広い講義室の後ろのほうに座っていた頬杖をつきながら、賢祐には何の面白みも感じられずにぼーっと聞いていた。
ふと前の方を見遣ると、サングラスをかけたストレートの長い金髪を翻し、長身で胸が大きく、美形でグラマラスな女性がいる。とても日本人とは思えない雰囲気を持っていたが、出席を取るときに「」と呼ばれていたことから一応、日本人であることは間違いないだろう。もしかすると、ハーフなのかもしれないが。
賢祐の近くに座っていた今風で見た目が良く、雰囲気が軽そうな学生達が、ちょうど彼女のほうを指差しながら、
「あの女、いつ見ても綺麗だよな。」
「一発ヤリてぇ。」
「案外、誘ったらイケるんじゃね?」
などと、盛りの時期にある雄どもにありがちな会話をしている。賢祐にとっては片腹痛い話をしているな、くらいにしか思わなかったが、それだけ彼女は学内でも注目を集めているということはわかる。
講義が終わり、その日の授業をすべて終えた賢祐はまっすぐ帰路につこうとしたところ、角を曲がったところで先ほどの金髪の美人女性とぶつかってしまった。
「あ、すんません。」と賢祐。
「いってぇ、んの野郎。あ…。」
彼女が放った第一声はそれだったが、すぐに気を取り直し、黙ったまま彼女はサングラスをかけなおし、すぐさま賢祐の方を見ないようにしてそそくさと立ち去ってしまった。賢祐は、以前の自身に対する酷い扱いを思い出し、憂鬱な気持ちになった。
一度ついた悪習はそう簡単に直るものではなく、数日もしないうちに賢祐はまた夜の街に繰り出した。血に飢えた獣のように、獲物を捜し求めてさまよっていた。尤も、それほど強くはないのだが。
繁華街の路地、人気があまりないこの場所で、その日、すでに戦争は勃発していたようだ。賢祐の近くで甲高い叫び声が聞こえる。なんだろうと思いながら、引き込まれるように彼が向かうと、そこには竹刀を持った特攻服の金髪の人間が何人ものチンピラをぶちのめしている。最初は男かと思った。それもそのはず、その特攻服を着た人間はかなりの長身だったからだ。しかし、よく見ると、そいつは女である。
特攻服の女がその場を立ち去ろうとした振り向いたとき、賢祐と目が合った。女は驚いて、立ちすくんでいた。
「て、てめぇ……。」
紛れもなく、大学で見かけたあの女である。賢祐と同じく血の気の多い野獣、それがあの美女の姿であった。少し俯き加減で女は賢祐の横にやってきて肩を叩いた。
「いいか、大学で言いふらしたら……、殺す。わかったな。」
そう言いながら、女はその場を立ち去った。賢祐は多少の動揺を覚えながらも、特に怖がっている様子もない。大学で言いふらすような人間も存在しないので、どうでもいいという気持ちしか起こらない。戦意を失ってしまった賢祐は、そのまま帰宅し、風呂にも入らずに寝入ってしまった。
あの詩人と出会ってからは不思議なことがつづく。あの妙な事件から、さらに一週間が経った頃だ。皆勤とまではいかないが、たまに行く講義が終わってすることもなく大学構内にある屋外広場の椅子でゴロゴロしていると、
「あのう、今暇ですか?」
と少年の声が聞こえた。びっくりして起き上がると、そこにいたのはやはり少年だった。金髪で目の色がブルーの、今度は明らかにハーフか外人のような容貌をしていたが、身長は低く、やはり小動物のようなどこか愛らしげな雰囲気を持っていた。
「なんでしょう。」
賢祐は面倒くさげに言った。宗教か何かの勧誘だと思った。
「バンド、興味ないですか?」
宗教とバンド、どんな関係あるのだろうか。いや、とりあえず話を聞いてみよう。
「僕はベースをやってて、友達のギターとバンドを組んでいるんですけど、ドラムが足りなくって。やってくれないかなーと。ほら、体格よさそうだし。」
確かに、無数の傷を隠すために右腕にぐるぐる巻いてある包帯を除くと、賢祐はとても健康で頑丈そうな体格をしていた。その証拠に、彼は中高では例外なくアメフト部やラグビー部の勧誘を受けていたのだ。
それにしても、バンドなどというものはクラシック畑で育ってきた賢祐にとっては未知の領域だった。バンドなんて、どうせ荒くれた野郎が楽器を持ってステージ上を暴れまわるもんだとばかり思っていたのだ。確かに、今の賢祐は荒くれていないこともなかったが。ふと彼の頭には先週見かけた特攻服の女が思い浮かんだが、すぐに振り払った。
「無理にとは言わないですけど。ただ、軽音楽部の部員が足りなくって。」
―――軽音楽部?
こんな皇族や上流階級が通うような学術院でバンドなんかやるヤツがいるのだろうか?ロックなんて頭の悪い音楽をやろうものなら、たちまち他の学生に笑われてしまうんじゃないか?そんな想いが彼には過ぎった。
今日び、ロックなんてものはポップスとして受け入れられているのだが、流行に疎く、まるで古めかしい考えで育ってきた賢祐にはそんな事実さえ知らない。
迷いながらも、ふと一昔前、テレビで見たロックバンドのドラマーを思い出した。そのドラマーはやたらと髪を振り乱し、激しい動きでドラムを叩いていた。また、ピアノまで弾いていたという凄い人で、彼にはそのアーティストが鮮明に焼きついていたようだ。そういえば、どこぞの首相もそのバンドを気に入っていた気がする。
じーっと考えていた賢祐を見ながら、さすがに諦めて立ち去ろうとした少年。しかし、彼の服の袖を引っ張って賢祐は、
「よし、やってやらないこともない。」
どことなく上から物を見るような言い方だったが、少年は見る見る明るい表情になって、
「本当!やったぁ。」とはしゃぎながら、賢祐の腕を引っ張りながら、
「部室に案内するよ。軽音部の部室に!」
言われるがまま軽音部とやらの部室に連れられた賢祐。いつも講義を受けている場所とは離れた、普段はとても足も踏み入れないような裏庭の小さな建物の中にあった。どう見ても格調高さを保っている大学構内とはかけ離れた、まるで物置のような場所で、肩身の狭さが何となく感じられるようだ。
少しばかり錆びたドアを開けると、入り口付近の天上は蜘蛛の巣だらけで、部屋は無造作にドラムセットやアンプ類などの機材が置かれていた。こんなところで残り三年半以上もの大学生活を過ごすなど、賢祐にとってはおぞましいものさえ感じられたが、それまでの贅沢極まりない生活への報いだろうと受け入れざるを得なかった。
少年はその辺に放り出してあったドラムスティックを拾い、賢祐に渡した。呆然としている賢祐に、
「何かやってみてよ!」
とあまりに唐突な無茶振りに困りつつもドラムスローンに腰をかけた。そして、彼の持てるすべてを今、ここに発揮した。まるっきりライヴ映像で見たロックドラマーの真似をして頭をガンガン振って8ビートを叩いてみただけだが、思ったより叩けたように感じた賢祐。拍はズレまくっているのだが。
「すごい、すごい!」
と拍手をしながら煽り立てる少年。調子に乗って、さらに激しく頭を振ると同時に、ドンドン拍はズレていく。めちゃくちゃなドラムを叩く賢祐に近寄り、少年は、
「才能あるんじゃない?練習すればもっとうまくなるよ、絶対。」
と、賢祐の肩を叩きながら言う。この時、賢祐は確信した。
―――オレはドラムに選ばれた人間だ。ドラムをやるために生まれてきたんだ……。
賢祐にとっての音楽人生の始まりとは、ひとまずこんなものだった。
新開地
若林・クリストファー・フェルディナント、そう名乗った少年に連れられるがまま、廃部寸前の軽音部に入ることになってしまった賢祐。少年は同じ大学の文学部心理学科に所属しているらしい。
賢祐は生まれて初めて打ち込むものができたかのように、ただ一心にドラムに打ち込んでいた。何事にもメリハリは必要で、あれほど嫌だった講義にも真面目に出席するようになった。同じ哲学科の学生からは冷ややかな視線が送られても、彼の頭の中にはドラムをやることしかなく、さほど気に留めなかった。
一般教養の講義にも、出るようになった。広い教室、所々話し声が聞こえる。前の方を見遣ると、あの時の金髪の女がいる。よく観察していると、チラチラと賢祐のほうを見ながら、まるで牽制しているようだった。あの時見たことを誰かにバラさないかと、講義時間中はずっと無言の圧力を受けていたように感じられた賢祐であった。
一週間の練習のうち、三、四日はクリスとのセッションだった。特に曲を決めたわけでもなく、ベースとドラムで適当なフレーズを合わせる。それだけで十分だった。賢祐は、一人だけの練習ではつかなかっただろうグルーヴ感も自然に身につけていった。
打ち込めるものができると、自然にそれ以外のことも効率よくできるようになる。あまり講義に出ていなかった賢祐も、頭脳と要領だけはよかったのでレポートやテストを手際よく終えていく。単位は致命傷にならずに済んだ程度で夏休みを迎えたのだった。
夏休みといっても、どこにも行く予定も、またどこかに行く気もない賢祐は、ただ一心にドラムに打ち込んでいた。連日、冷房の効かないサウナ状態の部屋で、多量に水分を採りながら必死で練習していた。クリスも、バイトが入っていない日には練習に付き合ってくれた。
クリスやまだ見ぬギタリストに恥じないような演奏をするために、賢祐は一人になってもひたすらこもって練習をつづけた。彼にとってこの時間は苦痛どころか、嫌なことも、つらいことも、全て忘れられる至福の時のように感じられた。何かに真剣に向かうこと、それは彼に必要だったのではないか。
幼い頃からとにかく後ろ向きで、マイナス思考で塗り固められた賢祐は、世界があまりに空虚で、悲しみばかりが溢れていると思っていた。そんな時、いつも窓の外から空を眺めていた。誰かが空の向こうから自分を連れ出してくれないか。それか、自分に翼が生えて、自由にこの大空を羽ばたけやしないか。そう思いながら日々を過ごしていた。
部室には窓がない。まるで、鳥かごのように閉鎖された空間で、あるのは音を立てて回りつづける換気扇だけだった。しかし、彼はいずれ空高く舞い上がるために力を蓄えているのだ。そう思えた。
―――オレは、いつかあの大空を自分の力で羽ばたいてやる……
「あのね、前に言ったもう一人のギタリストなんだけど、来週には来られるんだって。」
相変わらずはしゃぎながら言うクリス。どんなヤツが来るのかとふと想像してみたが、こんな少年の知り合いだから、そんなにやばいヤツではないだろう。賢祐はそう思った。
「リョーコって言うんだけど、すごく巧いんだよ。音は荒いけどね。」
女か。まさかの女。賢祐は淡い期待を抱きつつ、黙って聞いていた。
「ちょっと怖いかもしれないけど、賢祐ならきっと仲良くなれると思うよ!」
ぴょんと飛び跳ねながらクリスは言う。クリスの言う怖い人がどんなものかはあまり気に留めなかった。この時は…。
そんな話をしながら週末を迎え、来週やって来るという女性ギタリストをできる限りの妄想を膨らませながら、賢祐は土日を過ごした。
―――これはデジャヴなのか?
いつもどおり、猛暑が襲う夏休みであるにもかかわらず練習に向かう賢祐。颯爽と部室の扉を開けると、そこにはギターのチューニングをしている金髪で長身の女がいた。
―――紛れもない、あの時の女だ……。
女はさっと顔を上げると、途端に口を空けて凍りついた。女の傍に座ってくつろいでいたクリスは、にっこりしながら両者の顔を交互に見て、
「おはよー、賢祐。リョーコだよー。」
といつもながら陽気に言う。当のリョーコも、賢祐も同様に固まったまま。
「あれ、どうしたの?もしかして知り合い。」
リョーコはすぐさまギターを置き、決まり悪そうにクリスに小声で、
「な、なんでアイツがいんだよ。」
と尋ね、クリスは無邪気に微笑みながら答える。
「彼はドラマーだよ!」
しばらく無言になったが、リョーコは賢祐に尋ねる、
「お前、暦どれくらいだ?」
「数ヶ月前に始めたばっかだけど。」
気まずそうに答える賢祐に、リョーコは溜息をつきながら、
「なんだよ、初心者かよ……。」
とあからさまに怪訝そうな顔をして言う。クリスはなだめるように、
「でもね、彼、結構上達早いんだよ!」
「……。」
リョーコ、無言のまま腕を組んで立っている。賢祐は、胸を張って親指を自分に向けて指しながら、自信ありげに言う。
「オレは、ドラムをやるために生まれてきた男だ。ドラムがオレを呼んでいるんだ。」
「ふーん。」
無関心に言うリョーコ。口を尖がらせながらクリスは、
「しょーがないじゃん。ただでさえこの大学でロックバンドをやるような人なんていなしさー。それに、リョーコがいつもビビらせてドラマーが逃げ出しちゃうんだから…。」
リョーコは何も言えず、目をそらした。今まで、ドラマーが逃げ出してきたという事実に、賢祐は彼がいずれ訪れるであろう未来に想いを巡らせた。大体、想像はつく。少なくとも、彼がどうあがいたってあの時暴れていた特攻服の不良女に勝てるはずはないと、それだけは確信できた。
「ま、まあいいよ。で、お前、名前は?」
「渡邉賢祐。」
黙ったまま何度か小刻みに頷くリョーコ。
気を取り直して、各々は徐に練習に取りかかる。賢祐のドラムに合わせてクリスはベースでリズムを刻む。しばらくやっているうちにお互い、何をやればいいのかわかっている。そんなジャムなどお構いなしに、やたらとディストーションをかけ、一人ヘヴィなリフを弾きだすリョーコ。性格がそのまま表れているのか、音がやたらと荒々しい。そこらのスラッシュメタルバンドなど比じゃないくらい重低音をかき鳴らすが、これは単に加減を知らないだけじゃないのかと言えなくもない。
「よっしゃ、やるぞ。」
気合を入れ直すリョーコ。二人の用意などお構いなしに、またもや勝手にスラッシュメタルのリフを弾きだし、キョトンとしながら見ている二人。そんなことより、もうちょっと歪みを抑えろと言いたい賢祐であった。
そんなこんなで、一人暴走するリョーコを加え、セッションにならないセッションを終えたこのバンドは、秋に控える学園祭のライヴに向けて本格的に練習を開始する。
「おい、ケンジ。ツーバスぐらい練習しとけよ。」
「賢祐だよ…。」
賢祐は、この女とはうまくやっていけそうにない気がした。
それからというもの、賢祐はリョーコに振り回されていた。それまでロックになど興味を示さなかった賢祐だが、リョーコの家でクリスと一緒に徹夜でロックの名盤やギターの話を散々聞かされた挙句、彼女の酒盛りに付き合わされたりもした。
幸い、二人とも大学で彼を罵倒するような輩との付き合いはないようで、この間で彼を邪険に扱うことも、またのけ者にするようなこともなかった。彼は、二人と一緒にいることで、それほど居心地の悪さは感じなかった。
彼らと付き合いだしてからというもの、賢祐がロックからヘビメタやハードコアなどに手を出すまでにはそう時間はかからなかった。いつしか、彼はより破壊的な音楽を求めるようになった。
自宅でも、夏休みに入って毎日のように賢祐を悩ませていた吉田の喘ぎ声に対抗するかのごとく、ひたすらスラッシュメタルを大音量でかけて牽制した。その音楽に乗って、頭を振り乱す賢祐。
その行為に対して怒ったのか、隣の住民が彼の部屋に乗り込んでくる。何度も押されるインターホン。賢祐が扉を開けると、そこには、かつて遠足で彼を邪険にし、散々罵倒した男がいた。少し後ろ気味に吉田もいる。
「うわっ、渡邉かよ。お前、こんなとこに住んでたのか。」
「うわっ、キモイ。」
賢祐は男を睨みつける。ドラムを始めてからというもの、必死で練習しているうちに体全体の筋肉まで鍛えられ、また少し日焼けしているようにも見えた。今の賢祐のもつ威圧感に、以前まで彼をバカにしていたのが、まるで恐怖で慄いているようだった。
今の賢祐は誰にも止められない……。音楽を聴いて高揚していたのか、振り乱された長髪を翻しながら男を彼の家に引っ張り込み、思い思いに殴り倒した。賢祐の拳に、彼の溜めてきた恨みが込められている。半殺しにされ、顔がボコボコになっていた男を見て、すかさず逃げ出す吉田。賢祐は彼を見下ろし、睨みつけながら言う。
「次、うるさくしたら、今度こそぶっ殺す。」
男は、情けない様子で自分の部屋へと逃げ込んでいった。
disってレベルじゃねーぞ
十月になった。秋の深まりと共に夏の暑さもすっかり消し飛び、涼しさも感じられるようになった頃、遂に賢祐にとっての初めてのライヴが近づいてきた。実を言うと、リョーコとクリスにとっても、バンドとしてライヴをやるのは初めてで、まさに血沸き肉踊る、そんな雰囲気がこのバンドを包み込んでいた。
「んで、何の曲をやるんだっけか?」
と尋ねるリョーコ。彼らはいつかやってくるだろうライヴに備えて自作曲を用意していたのだが、リョーコは自らそれを忘れている。
「ほら、『Invaded Planet』と『RUSH OUT!』、それに『Fighting Spirit』って言ったじゃん。」
クリスは呆れ顔で答える。やる曲が決まって二週間が経った今も、まったく練習してこないリョーコ。彼女の弁によると、
「フッ、三日もあれば十分だ。」
と余裕をかましている。
学園祭まであと五日が迫っていた。出演申請書等はすべて、パシリ同然の賢祐の役目である。元々、軽音楽部と言っても人数の関係で正式に部として認められていないため、一般参加枠のバンドとしてパフォーマンスを行なうことになる三人。リョーコもクリスもその辺が適当なため、以後、事務はすべて賢祐が行なうこととなる。
こうして、学園祭の前日になり、三日前を過ぎても練習しないかと思ったリョーコであったが、前日のセッションで完璧に弾けている。ただし、リョーコの性格からか、やたらとハシったり、急なアドリブを入れてギターソロを弾き出す。なんと自由なことか。逆に、初心者で初ライヴの賢祐のドラムもやたらとモタる。バンドの音を支えるのはクリスの役目だが、彼のベースもタイトというよりは独特なノリでプレイされる。しかし、セッションを重ねてきた結果だろうか、彼らの演奏はごく自然どころか、良くも悪くも不思議なグルーヴ感をもっていた。
練習を終え、次の日の学園祭など恐るるに足らずといった様子で、商店街をウロウロしていた三人。急にリョーコが弦を張り替えると言い出し、楽器屋に向かうところであった。ところが、楽器屋に向かう途中、三人を囲うように不良集団が集まってきた。どいつもこいつも、スニーカーでバンダナやキャップを被り、極太ズボンを履いている。見たところ、B系というヤツだろう。
リョーコは構わず、
「邪魔だ、どけ。」
と彼らを押しのけて通ろうとするが、道が遮られてしまった。にらみ合うリョーコと不良、まさに一触即発である。群れの奥から、ガムを噛みながら一人の短い金髪のサングラスをかけた男が出てきた。
「渡邉君って、どれ?」
賢祐のご指名である。
「何だ?」
「君だよねえ…。洋二君をやっちゃってくれたのは?」
ニヤリとしながら言う男。洋二君…、そういえば、隣に住んでいた男の名は栗原洋二と呼ばれていた気がする。……よく覚えてないが。
「それがどうした。それに、殴りこんできたのはアイツだ。」
賢祐の方に近寄る男。
「君のせいで、彼、学校行けなくなっちゃったんだよ。どうしてくれるんだい?ねえ。」
知ったことではないな、と思う賢祐。自業自得である。他の不良達が、
「やっちゃってくださいよ、光琳寺さん。」
と各々に言う。どうやら、彼がボスらしい。賢祐が両手を構えたとき、リョーコは彼の腕を静止して言う。
「やめとけ、くだらない。こんなバカども、相手にしだしたらキリがない。」
そう言うと、他の赤い髪の男がクリスのほうに近寄り、彼を嗜めるように言った。
「よく見たら、君は若林君じゃないか。元気にしていたんだねえ……。」
少し顔が強張っている様子のクリスに、リョーコはその男に睨みをきかせ、
「おい、クリスに指一本触れんなよ。ただじゃ済まないぞ。」
と脅しをかける。賢祐はその光景に何かを悟った。
「それに、渡邉君だっけ。最近、この辺でウチらの仲間を次々とやっちゃってくれているのは……。素行があまりよくないねえ……。」
まさか、今までケンカしていた相手がすべて彼らの一味だとは考えもしなかった。かといって、軽率な行動に何一つ後悔はしていないが。
突然、光琳寺が彼らを割って話を切り出し始めた。
「そういえば君達、次の学園祭でライヴに出るんだよねえ?ウチら〈ダークサイド・オヴ・ソサエティ〉も出るんだけど、それで勝負しない。」
リョーコと賢祐に向かって、まるでR&Bのリズムで「YO!YO!」と言わんばかりに歩み寄ってくる彼。リョーコはすかさず、
「ああ、あの【吹き溜まりのガラクタども】だろ。ラッパー気取りの社会のクズどもか。」
と答える。酷い言われようだ。言い方にキレてしまったのか、
「この野郎!disってレベルじゃね―ぞ!」
と叫ぶ光琳寺。まるで蜘蛛の子を散らす勢いである。それに対して、鼻で笑っていたリョーコ。
「女だからって容赦しねえぞ、コラ!」
怒りにまかせて殴りかかってきた光琳寺。凄まじい勢いで飛んでくる拳を避け、走りかかる光琳寺を片足で転ばせるリョーコであった。
「威勢ばっかでこのザマか。情けない。」
と言いながら、その場を去ろうとするリョーコ。もはや、誰も手を出せないでいる。賢祐もクリスも、リョーコの後から着いていった。
ゆっくりと起き上がり、光琳寺が「行くぜ。」と仲間達に促すと、一斉に夜の街に消えてしまった。去り際に、不適な笑みを浮かべながら言う光琳寺。
「学園祭、楽しみだぜ……。」
「それにしても、意外だったな。最近、この辺りをうろつくゴロツキどもが減っていると思ったら……、まさかお前の仕業だったとはな。」
賢祐は無言で頷いた。リョーコとは違って、なんら理由もなく暴れていただけなので、あまり胸を張って言えるようなことではないが。
「どおりで右腕に包帯が巻いてあると思ったぜ。」
「あ、これは違います。」
賢祐はすかさず答えた。この包帯はリストカットの跡だ、とは口が裂けても言えない。
学園祭当日になった。部室から機材を運び出し、学園祭のステージに向かう。一般参加で行なわれるギターの弾き語りやアカペラコーラス団体、漫才や演劇、またヒーローショーなどの公演が行われるのを袖で見ていたメンバー達。賢祐はどれもこれも下らないと思いつつも、自分で何かをやっているという実感から、一生懸命何かをやる彼らの努力も少しはうかがえるようになっていた。
次にやってきたのは、前日対峙した、〈ダークサイド・オヴ・ソサエティ〉の出番であった。B系のファッションを身にまとった、いかにもワルという感じの出で立ちをした集団がステージに上がる。集団の中には、光琳寺の姿もあった。観客側にいる女子学生達が一斉に彼を「帝王!」、「カッコいいー!」、「今夜は空いてまーす!」などと、半分冗談交じりの歓声が聞こえている。今までとはもはや熱気が違う。
「ハーイ、みんな!元気にしていたかーい!今夜は、お前達を寝かせないぜ!」
あちこちから「キャーッ!」という歓声が聞こえる。とてもヒップホップをやっているという人間のMCとは思えない。前日、リョーコに転ばされていたにしてはえらい立ち直り方だ。
彼らのパフォーマンスが始まった。あれほどの自信を持って、しかも自分達で【社会の裏側】などと自称するくらいだから、それはすごいラップやブレイクダンスなどを見せつけるのかと思っていた。しかし、どう見ても、ユーロビートに合わせて、パラパラを踊っているようにしか見えない。ビートに合わせて手拍子が送られる。本気なのか、冗談なのか、とても計り知れない。両腕を組みながら、リョーコは顔をしかめて言う。
「だから言っただろ、バカどもって……。」
何一つ言い返す言葉がない賢祐であった。
遂に、彼らが演奏する時がやってきた。彼らにとって、初の挑戦である。どれだけ彼らの表現が、この学園祭という場所で受け入れられるのか。これは、戦いである。
最初に、リョーコのギターリフから始まるテンポの速いハードロック『RUSH OUT!』である。バンドの演奏は、練習したとおりうまくいっている。全体のテンポキープもちゃんとできており、それまでにしては上出来の演奏だ。
キョトンとする観客。三人のノリのいい演奏に反し、見ていた学生たちからはまったくウケていない様子。今日び、正統派のハードロックはあまり理解されない。
客の反応にも動じず、2ビートの疾走系ハードロック曲『Fighting Spirit』を演奏する彼ら。とにかくウケない。この手のジャンルが理解されないのか、観客の耳のせいにするも虚しく彼らは反響が薄いまま演奏しきる。とはいえ、理解できないと使うのは演奏する側の奢りが出ているわけだが。
二曲演奏したところで、そろそろ上京したてのバンドマンの気持ちがわかってきたらしい賢祐。リョーコはMCなどする気もなく、淡々と演奏しているだけだ。普段の威勢はどうしたんだ、リョーコ!
最後の曲、ミドルテンポのハードロック曲『Invaded Planet』で締めるバンド。いずれもリョーコが作り、この曲に関しては途中でテンポが変わって盛り上がりを見せる。そして、必死で咆哮するリョーコである。
技術的にも経験的にも、三人で演奏しきるというのが目的となっている彼ら。とにかく、演奏のライヴ感だけは出し切り、淡白に退場する彼らであった。舞台袖でクリスは励ますように、
「初めてにしてはよくやれたね!次はもっと頑張ろうよ。」
汗を拭いながら、「ああ。」と返すだけの淡白なリョーコ。まるで海外から出稼ぎに来ているロッカー気取りである。某ヒップホップ集団とは、試合に負けて勝負に勝ったとでも言いたげである。そもそも、勝負は受けてもいなかったが……。
だが、賢祐にとって、たとえ観客にウケていなかろうとも、人前で何かをやったという経験は、それまでになかった気持ちを芽生えさせるようになった。
―――もっと人に認めてもらいたい。
単純な動機である。だが、そんなシンプルな想いでさえ、いずれ偉業を成し遂げるのに十分な起爆剤となりうるのだ。
部室に機材を運び込み、疲れて横たわる三人。リョーコは賢祐の肩を叩きながら、
「初めてにしてはよくやったな、ケンタロウ!」
「賢祐だっつーの。」
「あー、うっせ、うっせ。もうテメェはKでいい。」
こうして、賢祐は当面、Kと呼ばれることになってしまう。
師走
年末、人々が大掃除や忘年会などで忙しくなる中、簡素な生活を送り、人との付き合いを極端に避けていた賢祐。クリスマスなどという行事も、彼には関係ない。中止だ。インターネット掲示板にはそう書いてあった。
大晦日当日、予定もない賢祐は一人、プログレッシヴロックをアルバム全曲通して聞きながら部屋の片隅でもの思いに耽っている。一体、このままどこへ行こうというのか…。賢祐は目標なき無限に続く線路上に立たされているような気がした。
京方大学を目指している時は、そんなことは露も思わず、ただ目の前の課題さえこなしていけばいい、そんな良い子でいられればいいと思っていた。おそらく、当時の彼にとっては今の彼はきっと不良なのだろう。
それに、彼は今の自分に自信を持って「YES」ということができるかどうか、はっきりしていないのだ。暗く閉ざされた未来と明るく輝く未来の両者から板ばさみになって生きているのだと感じている賢祐。作られた自分さえ演じていればこんなことはなかったのに……。
突然、彼の携帯電話が鳴り出した。…どうやら、リョーコのようである。普段、メールを送ってもほぼ一週間は返信しないことがザラなリョーコが電話とは珍しい。
「おい、K。今、暇だろ。付き合え。」
ぶっきらぼうに言うリョーコ。こんな言い方でデートの誘いであるとは到底思えない。いや、だがリョーコの性格上、素直になれない彼女の精一杯のお誘いなのかもしれない…。そんなことを思いながらも、賢祐は大した期待もせずに出かける仕度をした。
大晦日、街はいつになく賑わっている。商店はほとんどが閉められているが、年末年越しセールをやっているところに限っては主婦や女子大生が一斉に詰めかけている。また、公園には年越しを二人で過ごそうという温かそうなカップルも多く見られる。まさか、賢祐もその仲間入りを……?
「おーい!」
遠くで手を振っているリョーコ、とじーっと座っているクリス。……あ、二人いる。デートは……ないか。少し落胆しつつも、待っている二人に駆け寄る賢祐。
「何だ、こんな大晦日に呼び出して。」
そっけなく言う賢祐。
「バッカだなー、大晦日と言ったらお前、アレしかないだろ。」
アレって何だというのか。さすがに少年誌にはとても書けないようなことではあるまい。クリスは立ち上がり、
「えっとね、これから京方大学に行くんだよ。」
と言うと、賢祐は少したじろいだ。京方大学…、まさか、彼らは再受験でもする気なのだろうか?いや、それにしたって、わざわざこんな大晦日の日に行かなくても。
「西部講堂でライヴがあるんだよ。」
リョーコは恐らく京方大があると思われる方向を親指で指して言う。ライヴ……まさか、あの京方大様がこんな日に?
「京方大の西部講堂でねー、大晦日ライヴやったら売れるんだってー。」
そういうことか。納得する賢祐。しかしまあ、偏差値に被れた受験脳の賢祐にとって、まさかそんなことは思いも寄らなかった。
「ウチらにとっての目標なんだ。大晦日ライヴってのは。」
そう聞いて、賢祐はニヤリとした。彼の中で、学歴以外で京方大学と戦える一つの理由を見つけたような気がしたからだ。これは、自己証明のための戦いだ、激しくそう思う彼である。
「へぇ。まあ、オレの目標は東京ドームだけどな。」
張り合うかのように言う賢祐、リョーコは口をへの字に曲げ、鼻で笑いながらスルー。賢祐の虚言癖はすでに周知のものである。
こうして、京方大学のほうへ向かう三人。大学構内はさすが大晦日だけあって静かではあるが、彼らの居る京都御所とは違い、どこか庶民的な感じがある。しかし、問題の西部講堂周辺では大晦日年越しライヴイベントですでに盛り上がっており、熱気が伝わってくる。現役で活動しているミュージシャンから、地元の若いバンドなど、様々なアーティストたちがそれぞれの持ち味を発揮しながら、大いに盛り上がっていた。いきなり寒いところからやってきた三人には、この熱気がまるで灼熱の太陽のようにも感じられたが、彼らにとっても、この熱気はあまりに快感だった。
「すごいねー。みんなうまい。」
クリスはにっこりしながら感心している様子。クリスと賢祐が同時にリョーコの方を向くと、リョーコは小さく口を開け、目を輝かせながらステージを見つめている。いつものクールでそっけないリョーコが、まるで子供の頃に戻ったようである。クリスは小声で賢祐に言う。
「リョーコはね、幼い頃からあのステージに立つのが夢だったんだよ。」
賢祐が初めて見たリョーコは、美人で男子学生から一目置かれるような女性であったが、裏では特攻服を着て竹刀を振り回して暴れまわる厄介な不良娘であった。彼女が音楽に向かう理由も、そんなやり切れない日常から逃れるため、そして、何らかのコンプレックスから解放されるため、戦っているのだと思っていた。
だが、この時賢祐が見ているリョーコは、ただステージで演奏しているバンドに自分を投影している。まるで幼児たちが仮面ライダーを見て、同じように強く、そしてカッコよくありたいと願う姿だ。この純粋な気持ちを、クリスはきっとよく知っていたに違いない。そんな夢見る少女に付き合いつづけている、そんなクリスの優しさを賢祐は彼なりに感じた瞬間であった。
こうして、この京方大学で年越しを迎える三人。このライヴは元旦の終日行なわれたのだが、さすがに疲れきった彼らは、朝を迎える前で抜け出し、初日の出を見た。それまで、友人もロクにおらず、家族とでさえ多忙ゆえに一緒に何かをしたことがなかった賢祐。初めて仲間と言える人間と一緒に何かをしたという経験をした。どこか充実感がある。
そして、平安神宮で初詣。神社は元旦だけあって込み合っていたが、何とか賽銭箱にお金を入れ、願かけをする。三人の願いは、おそらく同じものだったに違いない。大晦日のライヴを観て後、目的意識がはっきりした三人は、深いところで結束が深まったように思える。
ライヴ、初日の出、初詣と、家でボーっとしているよりは充実した元旦を過ごせたように思えた賢祐。正午が近づいたあたりで、クリスは正午で家族と過ごさねばならないと言って帰宅してしまった。
二人きりになった二人は、空腹を満たすためにラーメン屋で一服。ラーメンの汁まで飲み干したリョーコは、まだ麺を食べていた賢祐に突然、
「K、お前、ドラム楽しいか?」
と尋ねた。
「ん、あぁ。まあな。」
顔をしかめるリョーコ。
「……なんか微妙そうだな。」
固まる賢祐。しばらく間をおいて、リョーコは言った。
「ウチらはさ、ずっと探してたんだよ。一緒にバンドが組める仲間をさ。高校の頃、クリスにアタシが無理矢理ベース持たせてやらせたんだけどさ、アタシのバカな夢にずっと付き合ってくれてね……。」
汁をすすりながら、ただ黙って聞いている賢祐。
「クリスはふざけたヤツに見えるけど、ああ見えてちゃんと優しいヤツなんだ。」
妙にしおらしくなるリョーコに違和感を覚える賢祐。リョーコは彼の肩をポンポンと叩きながら、
「なんにせよ、アンタがいてくれてよかったよ。念願のライヴもできたしさ、西部講堂までちょっとだけ近づいた気がするよ。これからも頑張ってくれ、な。」
いきなり立ち上がって勘定を済ませようとするリョーコに、賢祐もあとに続いて出ようとする。しばらくお互い黙ったまま十字路で、
「じゃ、またな。あ、今年もよろしく。」
と別れを告げて去るリョーコ。賢祐は黙ったまま適当に手を振って見送った。なぜだろうか、この日のリョーコはいつもよりも背中が小さく見えた気がした。今年はなんだかうまくやっていけそうな気がしていた賢祐であった。
天然の子
二年目の春になった。一年前は腐りきっていた賢祐。しかし、彼の顔つきは以前に比べ、どことなく貫禄のあるものとなっており、多少は筋肉が付いたかのようにしなやかになっているように見えた。髪形も短く切って立てており、眼鏡もフレームのあるものに変わっていた。ドラムの技術も、この一年で大分上がったように思える。師匠はいないながらも、荒削りでつづけていった結果、リョーコに負けず劣らず暴れ狂うドラムを叩くようになってしまっていたが、それも持ち味である。
バンド活動のほうは順風満帆に進んでいった。五月には、大学の近所、あちこちにあるライブハウスに交渉し、幾つかのライブハウスで演奏させてもらえるようになった。コの頃から、単純なハードロックだけでなく、『Thunder Machine Gun』という激しいギターリフのヘヴィメタルや、クリスが作った『Four Seasons』というベースの動きが軽快な、横ノリのミクスチャーロックにも挑戦するようになった。
リョーコが「ツーバス練習しとけよ。」と言ったのをすっかり忘れていた年明け、賢祐の頭を悩ませながらも必死でツーバスを練習させられたものである。お陰で、彼がかつて見て憧れたドラマーに近づいたような気がしたのであるが。ちなみに、ツインペダルはリョーコの私物である。彼女はドラムもやっていたのだろうか……?
クリスお得意のスラップベースが聴ける『Four Seasons』、彼とセッションをつづけてきた賢祐は、いつの間にかグルーヴ感も身につけていった。これらのコピーをするにつれ、演奏技術はかなり向上していく。
また、地元のイベントでのストリートバンドの公募にも積極的に参加した。近所を走る私鉄の駅前でのパフォーマンス、彼らはわざわざ大学から機材をリヤカーで運び出す。退職後の団塊世代によるベンチャーズのコピーバンドや、地元の高校生バンドなども多く参加している。若々しい青春パンクやメロコアバンド、ポップでキュートなガールズバンドや白塗りのメイクに派手な衣装の地獄からやってきたらしいイロモノバンドなどが共に出演していた。
―――だが、それがどうした。
とにかく、彼らには音楽という手段を使って暴れる場所が欲しかった。ギターの音をこれでもかというくらい歪ませるリョーコに、自由に飛び跳ねるベースを弾くクリス。シンバルを鳴らすというより力いっぱい叩きまくるK。言うまでもなく、演奏終了後にはシンバルは割れているか、曲がりきっている。観ている側にとっては、彼らは演奏と称して暴れているように見えなくはない。しかし、演奏はしっかりしていた。それは、技術的な面よりもフィーリングな面においてである。
充実したバンド生活を送りながら、夏が近づいてきた。ある晴れた日の朝、なぜか思い立ったように賢祐は、賀茂川の河川敷をぶらぶらしていた。すると、どこかで聴いたことのあるフォークギターの音色が聞こえてきた。ふと木陰を見遣ると、そこにはちょうど一年前に出会った男がいた。相変わらず、茶色いジャケットを身につけ、パーマがかったロン毛に茶色の帽子を深々とかぶり、不思議な空気を放ちながら悠然と座っている。
一通り演奏を聴いてから、賢祐は黙って横を通りかかろうとすると、
「待て。」
と静止する男。立ち上がり、ズボンのポケットから一枚のチケットを取り出した。まじまじとチケットを眺める賢祐、それは近くの公民館で行なわれるというピアノコンサートの招待券だった。
―――ピアノ、賢祐にとって、その楽器は唯一、嫌いな楽器であった。彼は3歳の頃からピアノを始め、十年間もつづけていたのに一向にうまくはならなかった。音楽理論と音感だけは人並み以上についたにもかかわらずだ。単純にピアノと相性が悪いというだけだったかもしれない。しかし、プライドが高く、敗北ということを人一倍嫌う賢祐にとって、ピアノが弾けないということは彼の人生で最初の挫折であった。それ以来、彼はピアノに対してコンプレックスを持ちながらも、ピアニストに対する憧れを抱いて生きてきた。彼が尊敬するドラマーも、ピアノを弾いていたという事実からも、より一層ジェラシーが強まっていったのだ。
複雑な面持ちで顔を上げる賢祐、いつの間にかあの男は消えていた。風のように現れ、風のように去っていく男。不思議だった。
翌週、リョーコもクリスも個人の用事でバンドの練習が入っていなかったので、一週間空きっぱなしの賢祐は、すべてを忘れてぼんやりアパートにこもって過ごしていた。ゴロゴロしていると、テーブルに頭をぶつけ、ひらりと彼の額に紙が落ちてきた。よく見ると、先週、詩人にもらったピアノコンサートのチケットである。日程を見たら、ちょうど今日の午後五時からではないか。
午後三時、間に合う。
賢祐はぼーっとしながら着替えを済ませ、コンビニで立ち読みをして時間を潰してから、公民館に向かった。プログラムを見ると、〈市民ピアノ発表会〉とだけ書いてある。適当な公演名だと思いながら、おそらく、有名ピアニストのリサイタルではなく、アマチュアのピアノ弾きが適当に公募で演奏させてもらうコンサートなんだろう。
賢祐はホールの真ん中右あたりの席に座り、リラックスしながらボーっとステージを見つめていた。ここのところ、ずっとロックばかりやっていたので、こういう落ち着いたコンサートは久しぶりだった。少し気後れしつつも、どこか懐かしい感じがしていた賢祐であった。
ようやく開演時間になり、ホールは真っ暗になる。出演したのは、このためだけに用意した発表会向けの服を着ている幼児につづき、趣味でつづけているという学校の先生らしき中年の男で、どちらもまあまあだ。賢祐にはなんら興味を持たせなかったのだが。
中年の男の演奏が終わり、次に出てきたのは、よろよろと弱弱しく出てきた少女であった。茶髪のストレートヘアーで、白いワンピース姿の、どこにでもいるような女の子であった。退屈さですでに寝ぼけ眼になっていた賢祐は、その少女にもなんら興味を示さず、そのまま寝入ろうとしていた。しかし、彼女がピアノの椅子に腰かけると、それまで多少ざわめいていた会場が急に静まり返り、その不思議な空気の変化に賢祐は反応せざるを得なかった。
しばらく目を瞑ってじっとしていた少女。そして、静かに演奏が始まる。彼女の演奏は、前に出た二人に比べて技巧や派手さを感じさせるものはなかった。が、素朴で情感溢れるその旋律と演奏に、賢祐は思わず、背筋に震えが走ってしまった。彼の近くで寝入っていた観客もすっかり起き上がっているではないか。
―――なぜだろう、こんな平凡な少女の演奏にどうしてここまでの力があるのか……?
ただ、何度も何度も背筋がゾクゾクッとしている賢祐。彼女の伸び伸びとした演奏に、彼は引き込まれざるを得なかった。初めて音楽でここまでの高揚感と恍惚感を覚えた賢祐。しかし、同時に、彼のピアノに対するコンプレックスは増大するばかりであった。
“金城寺 美弥子”
プログラムの出演順を見ると、そうなっていた。見たところ十代前半ぐらいの少女だというのに、彼にはない余裕を見せつけられてしまった気分である。賢祐は彼女に対する一種の崇拝の念と、敗北感からくる悔しさが同時に湧き上がり、複雑な心境に陥ってしまう。
演奏する彼女の表情を見る限りでは、純粋に音色を奏でているようだ。
―――天才……というより、天然
少女は演奏を終え、無垢な表情を浮かべながらお辞儀をすると、会場で今までにない拍手喝采が巻き起こった。そして、演奏中の雰囲気とは打って変わって、またよろよろと袖に消え去ってしまった。その後も、何人かの演奏が行なわれていたが、賢祐にはあの少女の演奏以外にはまったく耳に入らない。
すべてのプログラムを終え、賢祐は虚ろな表情で帰路についた。この不思議な感覚は、以後数日もの間、彼の心を捉えて離さなかった。
序章 完
第一楽章
―――声、声が聞こえる。誰だ?
懐かしい空気、懐かしい匂い、懐かしい空の色。
ここはフランス?
そう、確かにそうだ。
時は黄昏時、太陽はもうすぐ沈もうとしている。
静かな街並み、人通りもなく静かな場所。
窓、窓が見える。
少女だ。窓際に腰をかけている。
少女は虚ろな顔をしながら、
ただ窓の外をぼんやり眺めている。
何かを待っているのだろうか……?
それとも、彼女は飛び立とうとしているのか……?
何一つわからないまま、
ただ時間だけが過ぎ去ってしまった。
詩人
はっと目が覚めた賢祐。部屋は蒸し暑い。時間は、まだ昼過ぎのようだ。ぼんやりする賢祐、体中汗でびしょ濡れである。どうやら、転寝をしてしまっていたらしい。
CDコンポの電源がつけっぱなしで止まっている。そういえば午後、賢祐が好むプログレッシヴロックバンドのアルバムを全曲通しでかけたまま、いつの間にか寝入ってしまっていた。すぐさまリモコンに手を伸ばし、コンポの電源を消してから、またゴロっと寝転がる。バンドの練習もない日曜日、晴れているにもかかわらず外に出たがらない賢祐。彼の出不精は直っていないようだ。徐に腹筋を始めるが、暑くて数回で止めてしまう。とりあえず、彼は喉を潤すために水を入れる。
口に水分を流し込みながら、彼は物思いに耽る。
―――このままどうなってしまうのか。
―――行き着いた先に何があるのか?
―――音楽というものを通じて、自分は何になろうとしているのか?
―――そもそも、何にならなければならないのか?
そんなことを想いながら、行く末を案じている賢祐。彼は、あの頃の空を思い出した。黄昏どきの街並み、どこかまろやかでほろ苦い、そんな空気を感じていたあの頃の空を……。
秋、どこかもの寂しい空気を帯び始めるこの季節、花も女心も色褪せていくこの季節。
二年目の夏休みを相変わらずバンド活動で過ごした賢祐。新学期が始まっても、例のごとく部室に向かった。異様な感じが賢祐を襲う。なぜだろう、以前までに何度かあった既視感のような不思議な感覚が賢祐を包み込む。
部室の扉をおそるおそる開ける。パーマがかったロン毛に茶色のフェルト帽を深々と被り、これまた茶色のジャケットを着ている男がそこにいる。そう、賢祐が以前に何度か賀茂川の河川敷で見かけたあの不思議な男だ。ヤツは人間だったのか、賢祐はまずそう思った。
クリスは両手を真横に伸ばし、「キーン」と言いながら、飛行機の真似をして賢祐の下に近寄ってきた。言うまでもないが、賢祐はドクタースランプではない。
「けんすけー、新しいメンバーだよー。だよー。」
と、旋回してまだ飛行機になっているクリス。
「うおりゃーっ!」
リョーコもふざけながら、部室内をグルグル駆け抜けるクリスに体当たりし、クリスを跳ね飛ばす。
「坂上智宏って言うんだ。京方大の院生で、近くの楽器屋でバイトしている顔見知りだ。」
紹介するリョーコ。突然の展開にはもう慣れきってしまった賢祐であった。それにしても、どこかで聞いたことのある名前なのは気のせいか。
男は何も言わず、黙って会釈をしただけだった。クリスはまたもはしゃぎながら言う。
「彼はねー、ヴァイオリンも弾けるんだよー。」
……確かに、服装や格好からしてもヴァイオリン弾きという感じがする。賢祐の勝手なイメージであるが。
男は立てかけてあった彼のレスポールのギターを取り、構える。ギターまで茶色の彼は、砂漠地帯で歩いていても恐らく判別できないような気がする。リョーコも彼に続いて、彼女自慢のフライングVを構え、相変わらずの重低音の荒々しいリフを弾き出す。すると、男も彼女に続いてバッキングを弾きだした。彼に関しては、何とも綺麗で安定している。対照的なこの二人のギターバトルは、賢祐にとっても、クリスにとっても、スリリングかつ興奮を呼び起こすのに十分なものがあった。どうも音というのは、奏でる側の人柄が表れるらしいことを賢祐はこの時悟った。彼のドラムも荒削りで激しいものであると自覚していたが。男は依然として無表情であったが、リョーコはいつになく楽しそうに弾いている。どうやら、彼女の中のフィーリングは、この男と組むことを選んだようだ。
演奏を終える二人。珍しく、ご満悦のリョーコから握手が交わされた。
「アンタ、気に入ったよ。これからよろしく頼むよ、詩人。」
クリスも嬉しそうにはしゃぎながら、
「わーい、詩人が入ったー。」
つづいて、「オレからもよろしく頼みます。」と賢祐。
三人に軽く会釈すると、少し口元が緩んだかのように見えた詩人。結局、誰一人彼を名前で呼ぶ気はないのか、彼はこれからも詩人と呼ばれつづけることになる。
帝王は誰だ!
新たな仲間が加わり、二年目の学園祭シーズンがやって来た。昨年度は完全に空回りで終わったこのバンドも、新たなるメンバーの詩人が入ったことでさらなる盛り上がりを見せられる……のか?
「レコーディングをしてみないか?」
バンドに加入してからほとんど何も喋らなかった詩人から、突然この話が切り出された。リョーコとクリスは張り切りながらあからさまに賛成の意を表していた。賢祐にとってはレコーディングなどまるで未知の領域である。
「せっかく自作曲があるのだから、自主制作でアルバムを作ってみてもいいかもしれない。」
その提案一つで決定した。バンド名義はリョーコがカッコいいからと考えた〈Unnamed Angel〉で決まった。英語的に意味が通っているかどうかは別にして、クリスだけでなく、詩人が気に入ってしまったのでやむをえない。賢祐も実はカッコいいと思ってしまったのだが。
こうして、バンド始まって以来、初めてのレコーディングが行なわれることになった。詩人宅の物置に仮設のスタジオがあるということで、そこで作業をすることに決まった。
詩人に連れられるがまま、彼の家に招待された三人。中々大きい一戸建ての家で、大学院生が住むには贅沢ではないかと思う賢祐。玄関を開けると、中から黄色い髪でおっとりとした感じの若い女性が彼らを迎えた。
「帰ったぞ。」
「あらあら、お帰りなさい。今日は早かったのね。」
ゆったりと話す女性を見て、興味津々の三人。それぞれ、玄関から覗き込むようにして見ていた。彼らに気づいたのか、
「あらあら、そちらの方々は……?」
「ああ、今一緒にバンドを組んでいるメンバーだ。これからレコーディングをしようと思って呼んだんだ。」
三人とも、小刻みに会釈をする。にっこりしながら女性は彼らを見て言う。
「あら、そうなの。わざわざいらっしゃい。バンドっていうから、どうかと思ったら、随分まともそうな人たちなのね。」
耳を疑った賢祐である。詩人は彼らを導くように手を差し出して言う。
「俺の家内だ。ささ、遠慮なく上がってくれ。」
「えーっ!」
と驚く三人。まさか、詩人にリアル嫁がいるとは誰も思っていなかった。特に、賢祐は詩人だけは自分の仲間だと信じていたのだが……。
詩人に言われるがまま、部屋の中に上がっていく彼ら。詩人と嫁以外は誰かがいる気配がない。大学院生とその嫁がこんな家を建てられるというのか……?まるで魔法をかけられているような心地がした三人である。奥のほうに抜けて行った先の離れに、確かに詩人が言ったとおり多少狭いがレコーディングができるよう改造してある場所があった。ドラムセットも整備してある。賢祐は部室から持参したリョーコのツインペダルを設置し、叩いてみる。音は悪くない。録音機材も最低限は備えられており、自主制作でレコーディングするにはもってこいの空間である。一体、詩人とは……?
詩人が機材をいじりながら、リョーコ、クリスが、それぞれの楽器を調整している間、賢祐はふと壁に貼られている〈SCHiZOiD〉と書かれたポスターに気がついた。側によってよく見てみると、メンバー四人で構成されているバンドのようであるが、見るからにヴィジュアル系といった感じで、みな奇抜で色とりどりのヘアスタイルともの凄い形相をしていた。賢祐は妙に興味をそそられたが、よく見るとどことなく狂気を感じてきた。
「どうしたのー?」
とクリスが声をかける。黙ったまま賢祐が見ていたポスターに「うわっ、怖っ。」と言って、すぐさまその場を去ってしまった。
それぞれ準備が整い、何度かリハーサルを重ね、サウンドチェックをした後、レコーディングが開始した。今までに学園祭や地元の祭りなどで演奏してきた楽曲を次々に演奏していく。収録曲は七曲のミニアルバムとなったが、彼らにとっては大きな収穫である。
徹夜の作業の末、レコーディングとミキシングを終えたバンド。リョーコが興奮しながら、
「これを次の学園祭のときに売り出そうぜ!」
クリスは答えるように、
「そうだね!でも、その前に、ライヴがんばろー!」
自ずとモチベーションが高まっていく賢祐。この一連の作業で、少しは自信が高まってきたような気がした。
「じゃあ、完成品は今度持っていく。」
と詩人。あとは彼の作業の腕に任せることになった。ふと賢祐は先ほど見たポスターのバンド〈SCHiZOiD〉を思い出し、詩人に尋ねてみた。
「スタジオに貼ってあったポスターのバンドが気になったんだが……。」
「あれか。見てしまったのか……。良かったら、音源をやろうか?」
賢祐は無言で頷くと、詩人は二階まで上って行った。すぐに降りてきて、渡されたCDはまさに、先ほど見た〈SCHiZOiD〉のもので、タイトルは『Dilusional Disturbance』と書かれている。どういう意味だ?
レコーディングを終え、彼らは解散し、それぞれ帰路についた。賢祐はいい経験をしたなと思いつつ、詩人に対する謎は深まるばかりであった。一刻も早く帰宅し、詩人から渡されたCDを聞かねば……。
こうして、部屋に戻った賢祐は、おそるおそるCDを開封した。ジャケットをパラパラめくると、常軌を逸した絵柄があちこちに差し込まれており、思わず背筋に寒気が走った。なんと悪趣味な……、そう思いながらメンバー写真をよく見ると、[リードギター&ヴォーカル、ジャック]と書いてある。いかにもと言ったところ。
そして、彼は遂に禁断の箱を開けることにした。CDを取り出し、コンポに挿入する。
―――そして、再生。
酷いサウンドプロダクションで、激しいブラストビートとおどろおどろしいリフが繰り出される。一度聴いただけでは拍子が掴みづらい、何とも凝った楽曲か。そして、ヴォーカルが入る。これは、もはや歌というより、断末魔の叫びであった。デスメタルとか、そんな安っぽい代物ではない。これは―――病んでいる。所々、歌声を変えて歌ってくるヴォーカル。時には歌劇のように、時には悪魔のように、まるで変幻自在に声を操るようである。それにしても、常軌を逸している。
詩人曰く、カオティックハードコアメタルなるジャンルらしいが、もはや何なのかわからない。彼がなぜこんなものを持っていたというのか……?
―――二年目の文化祭当日、
人生初のレコーディングを経験し、詩人がジャケットのアートワークから歌詞まですべて印刷してきたCDができた。Unnamed Angel『Devil‘s War Cry』とおどろおどろしい文字で書かれており、いかにもと言った味が出ていた。もしかすると、問題の音源を作ったのは……?
そんな想像を思い巡らせながら、再び機材を運び出し、舞台袖へと準備にかかる。どうやら、今年も〈ダークサイド・オヴ・ソサエティ〉が出場するらしいが、リョーコの姿を見た途端、きまり悪そうに目を逸らして去っていく。そういえば、光琳寺は今年で四年だから最後のステージになるんだとふと思い出した賢祐であった。
そして、Unnamed Angelと改めて名づけられたバンドの出演する時がやってきた。今回演奏する楽曲は、以前演奏したハードロック曲、『Invaded Planet』にさらなるラインナップが加えられた。
詩人が加入した当日に一晩中リョーコの家で詩人にギターや好きなバンドの話をしていたらしく、その時に徹夜で作った『Sonic Canon』というスラッシュメタルの疾走曲。次の日にCD―Rで渡された賢祐とクリスは、二人とも面食らっていたようだった。
そして、賢祐がパソコンから打ち込みで作っていたという楽曲、『紺碧の地球』という歌謡メロディのツーバス連打が激しいハードロック曲である。ハードロック志向のリョーコと詩人も絶賛しており、クリスのほうもメロディが気に入っていたようだった。
ツインギターで重厚な音が得られる中、熱い演奏を繰り広げるバンド。演奏後に小さな拍手が起こるものの、観客にはとにかくウケなかった。
彼らの音楽が理解されないとか、世代が違うからとか、様々な要因が頭に巡ったが、根本から何か間違っていた気がしないでもない賢祐。
……とはいえ、彼は毎回演奏できるということに満足していた。何かをやっているという充実感を得ることが出来る、それだけで十分だった。
―――こうして、二年目の学園祭も、ステージで燃え尽きたバンドであった。
み〜や
「そういうわけで、新たなヴォーカルが必要だ。」
唐突に切り出したリョーコ。どういうわけだ。何の説明もない。
「リョーコ歌いたくないの?」とクリス。
「ギター弾きながら歌うのにも限界がある。」
腕を組んで威張った様子で断言するリョーコ。ギターを弾きながら歌っているヘビメタ系のギタリストは数知れないのだが。
大学生活も半分近くが終わった頃、リョーコの急な提案で始まったヴォーカル探し。とはいえ、もうすぐ三年、普通の大学生なら就職活動に意識が及び始める頃だ。こんな時期にヴォーカルをやろうとウズウズしている学生などいるのだろうか?況してや、この大学は温室育ちのいい子ばかりが集まる場所、バンドなどに明け暮れているヤツなど鼻で笑われるだろう。そんなことを考えながらも、暴走するリョーコを止めるほうが難しいとよく知っているので、彼女の言うままヴォーカル探しを手伝うことにした。
春休みを挟み、三年になった彼ら。大学生活も折り返し地点に来た。詩人に関しては京方大学の大学院生で、日本哲学史を専攻しているようである。どおりで哲学的な言葉を吐くと思った……が、そういえば賢祐も哲学科在籍だという事実をすっかり忘れていた。卒業論文どうしよう。
「最近、こことは別の軽音サークルができたそうだよ。」
と聞きつけてきた情報を伝えるクリス。ワイシャツの袖をめくりながら、
「よっしゃ。殴り込みじゃあ!」
と、これから狩りに出かけるような様子で部室を出て行くリョーコであった。そもそも、この隔離されたオンボロの部室を使っている賢祐たちは、軽音部として正式に認められていないという事実に誰一人ツッコミを入れないのである。
さて、大学校舎の一室を堂々と使っている<DAMNS(ダムズ)>と名づけられた軽音サークルに巨大な嵐がやってきた。鼻息を荒くして「たのもー!」と乗り込んできたリョーコ。練習していた部員達は突然の訪問客に恐れおののいている。
「ヴォーカルやってくれるヤツはいないか!」
自信たっぷりの表情で尋ねるリョーコ。どこぞの団長に負けず劣らずの勢いである。
「あの…、入部希望の方ですか?」
「違ぇよ!ウチらは本家の軽音部から来たんだよ!」
「……?」
まだ正式に軽音部とは認められていないという事実が……。
「入部希望でもなんでもいい!メタルを歌ってくれるヴォーカルを探している。」
おいおい、いつからウチはヘビメタを…、ツッコむのも疲れてきた賢祐であるが。
「あの……、ウチはそういうジャンルはやっていないので。」
「なにぃ~、メタルをやっていないだと。そんな軽音部あるか!ちょっとそこに直れ!」
暴れ狂うリョーコを止めようと後ろから掴みかかるクリスと賢祐。
「リョーコ、落ち着いて。ほら、もう行こ。ほら。」
必死で説得するクリス。それにしても、なんという力だ…、二人で押さえているというのにそれでもまだ抵抗するとは……。賢祐は夜の街でリョーコとケンカにならなくて良かったとつくづく思った。しかも、見た目からはすぐに女とはわからないから余計にだ。
「くっそ~、温室育ちの甘ちゃんロッカーどもめ……。」
悔し紛れに呟くリョーコ。拗ねた子供のようだが、あの綺麗で整然とされた部室を見ていると賢祐も同意せざるを得なかった。自分達はといえば、ホコリだらけで常に換気扇を回しているような場所で練習している。部室の掃除は主に賢祐がやっているが……。
結局、大学側としては“本家”軽音部からのヴォーカル争奪は失敗した。ライヴ情報を見たところ、このサークルでは主に日本のインディーズ系のパンク、メロコアバンドや、ヴィジュアル系バンド、あるいは洋楽でも最近流行のバンドをコピーしているところが多かった。この京都学術院大学にしては随分と俗っぽいものをやるんだと感心する賢祐。時代だろうか……。
三人によるヴォーカル勧誘活動はまだとどまるところを知らなかった。広場の椅子で寝転がっている学生を見かけ、ふと二年前の自分を思い返す賢祐。そういえば、自分もこんな感じでクリスに声をかけられた気がする。
彼を見てすぐさま近寄っていくリョーコ。
「おい。」
少々ドスを利かせた声に驚いた学生、
「お前、暇だろ。歌え。」
物凄い形相で見下ろしながら言うリョーコにビビッた学生は、
「す、すみませーん。」
といいながら逃げ出してしまった。
駄目だコイツ、勧誘が下手すぎる。さすがの賢祐もこんな感じで誘われていたら逃げていただろうと思う。というか、ドラムがなかなか加入しなかったのもこのわけか。勧誘はクリスがやるべきだと確信した賢祐であった。
大学院生で研究室に通い詰めで忙しい詩人を除いて、練習をつづけながらヴォーカル探しに明け暮れ、いつの間にか夏がやってきた。大学には部活に勤しむ学生以外はほとんどおらず、もはやヴォーカルを探そうにも探しようがなかった。
こんな状況のなか、四人は練習帰りにラーメン屋で夕食を食べ、ぶらぶらと路地を歩いていた。
一人ピリピリしながらリョーコは、
「くっそー、ヴォーカルいねーのか、ヴォーカル。出てこい、ヴォーカル!どっか落ちてないのか。」
などと言いながら、雑居ビルの側にあったゴミ箱を突然漁りだすリョーコ。必死だ。
しかし、賢祐は一つ気にかかることがあった。それは、ちょうど一年前の夏休みに見た、ある少女。ふと思い出して、不思議な感覚が湧き上がる賢祐。一人で想いに耽っていると、突然誰かが肩を叩く感じがして我に帰った。詩人だ。
確か、詩人にもらったチケットのコンサートだった、そのことも同時に思い出した。彼から直接、賢祐とコンタクトしてきたのは、その時以来で今回が初めてだ。同じバンドにいるからといって、今まで一度もロクにコンタクトしたことがなかった。詩人は、振り返った賢祐にわかるように左を指差した。ライブハウスである。
この街にはたくさんライブハウスがあるので特に気にも留めなかったが、そのライブハウスのプログラムは〈ナチュラル・ウーマン〉と題されていた。どうやら、女性アーティストのためのライヴが行なわれるらしいが、出演する四バンドのうち、ちょうど二つ目に〈み~や〉とだけ書いてあった。み~や、名前だけが引っかかる賢祐。詩人が指差すのだから、何か意味があるに違いない、そう思った賢祐は、クリスとリョーコに声をかけ、ライブハウスに入ってみるよう提案した。
中は随分と落ち着いたライブハウスで、ステージの方までキッチリ丸いテーブルが設置してあった。最初のバンドが出てきた。女性ヴォーカルのバンドで、R&B系の曲を演奏している。彼らのやっているような音楽とは少々趣向の違うものであるが、たまには悪くない。落ち着いた気分で聴ける。一通り演奏を終え、退場した最初のバンド、次の〈み~や〉の出番である。
―――あれは……、
茶色いロングのストレートヘアーの白いワンピース姿の少女が出てきた。いや、彼女は、ちょうど一年前に見た〈金城寺美弥子〉そのものであった。ピアニストとばかり思っていた賢祐、どうやら、弾き語りのライヴらしい。
ステージ上に備え付けられていたレンタルのキーボードの前にある椅子に腰をかけ、彼女は静かに目を瞑っていた。以前のピアノコンサートでも同じようなしぐさをしていたが、彼女にとっては儀式のようなものなのだろう。そして、しばらくの沈黙の後、彼女はゆったりとしたピアノの伴奏から、素朴だが伸びやかで、心地のよい歌声で『Reincarnation』と呼ばれる曲を演奏し始める。歌詞は自分で書いたのだろうか、純粋な言葉で歌うみ~や。
「綺麗な歌声だね。」
クリスが言う。
「まあな。ロックじゃないけどな。」
リョーコも腕を組んで頷きながら言う。
どうやら、み~やの歌声は賢祐だけでなく、この二人に好評であった。詩人はというと、ただじーっとステージを見つめているだけだ。何を考えているのかわからない。
こうして、み~やによるスタンダードなバラードばかりで揃えられた四曲の演奏が終わり、彼女は丁寧にお辞儀をして、相変わらずよろよろと袖にはけた。
残りのバンドもすべて出演を終え、賢祐の中でみ~やの歌声による余韻が残ったまま、ライヴは終了した。リョーコもクリスもどうやらある程度は満足したようで、夜も遅いので帰ろうかとなったのだが、詩人は一人動かない。
「おい、どうした?帰るぞ。」
リョーコは詩人の肩を叩いて促すが、微動だにしない詩人。不思議そうに見つめるクリス。
すると、舞台横の扉から帰り支度を済ませたみ~やが出てきたじゃないか。客席の出口へへまっすぐ歩いていたみ~や。すると、彼らの方を見て、何かに気がついたように両手を口の前に当てる彼女。
「師匠!」
席にじっと座ったままでいる詩人に駆け寄るみ~や。リョーコ、
「知り合いか?」
と尋ねると、無言でうなずく師匠こと詩人であった。
み~やはライヴ終了の時と同じ動作で軽くお辞儀をする。
「お久しぶりです。ライヴ見に来てくれて嬉しいです!」
とにこやかに言う。その姿はまるで無垢な少女のようだ。
「みなさん、師匠のお友達ですか?」
何も喋らない詩人の代わりに各々は顔を見合わせてから、
「同じバンドのギターの遼子です。こちらはクリス。こっちはK。」
「ベースのクリスです!」
「どうも、……ドラムのKです。」
み~やは感動した様子で、
「師匠のバンドなんだぁ!すごいねー。」
照れくさそうに口をすぼめながら小刻みにうなずく詩人、リョーコは親指を立てながら自信ありげに言う、
「ああ。なんたって、ウチは世界を目指しているからな。」
初耳だ。ノリノリのクリスと、ひたすら苦笑いする賢祐
「すごいですね!私、応援してます!」
「ああ。」
詩人はすっと立ち上がり、「とりあえず、出よう。」と一言。み~やを加えた五人はライブハウスから出て、ぶらぶらと帰路についた。前で話しているクリス、リョーコ、そしてみ~や。後ろで黙ったまま歩いている賢祐と詩人。
「師匠はギターすごくうまいんだよ。」
「ああ、何度もセッションして知っている。まあ、アタシのギターに比べたら勢いが足りないけどな。」
と腕を組みながらうなずくリョーコ。荒々しいのも考え物だが。
「あの人、詩人だよねー。」とクリス。
「うん。たまになに言ってるのかわからないこともあるけどね~。」
み~や、クリスと顔を見合わせ笑う。そして、両手を後ろに回して振り向くみ~や。その表情はとても明るい。
「ねえ、師匠。この人たちとバンドやっててどう?」
詩人、黙ったまま、少し口元を緩める。何かが伝わったようにうなずくみ~や。
「やっぱりそうだよね。」
どんな意思伝達が行なわれているのかよくわからないリョーコとクリス、二人は互いに顔を見合わせている。にっこりするみ~や。
「すごく楽しいって!」
そんな会話に興味も示さず、上の空で街並みを見渡していた賢祐、彼の顔を覗き込むみ~や。
「ん、え?」
驚いてうろたえている賢祐。み~やは怪訝そうな顔をしている。
「……ケンちゃん?」
じーっと顔を見合わせている二人。しばらくして、み~やはすぐ前に向き直って歩き始める。
「気のせいか。」
その不思議なやりとりの間、喋り続けていたリョーコとクリス。詩人だけはチラッと見たが、すぐに目をそらした。交差点に差し掛かった辺りで、み~やは、
「じゃ、私の家、この右だから、じゃあねー!」
と走り去ろうとするが、ちょっと進んだところで思い出したように振り向いて叫ぶ。
「あっ、忘れてた。私の名前は金城寺美弥子です!これから、部室に遊びに行ってもいいですかー!」
高らかに腕を上げるリョーコに、両手を振るクリス。そして、控えめに人差し指と中指だけを突き出したサインを掲げる詩人。
こうして、み~やという不思議なアーティストとの出会いが果たされたのであった。
わかりあい
夏も終わりが近づき、赤とんぼがあちこちで飛ぶようになった頃、軽音部は相変わらず練習を続けている。一つ変化があるとすれば、以前メンバーで見に行ったみ~やのライヴ以来、美弥子が部室に顔を出すようになったということだった。四人が練習していると、少し遅れた頃にひょっこり現われては、練習風景をじーっと座ってみている。たまに、部室内のキーボードを弾きながらクリスや師匠とセッションを行なっているのが自然となった。
驚くことに、美弥子は同じ京都学術院大学の三年で、フランス語圏文化学科の学生であった。結局、師匠以外は全員同じ学年で構成されることになる。尤も、賢祐だけは二年も年が上なのだが。あれ、美弥子は何歳だ?
そんなわけで、いつのまにかほぼ部員扱いとなっていた美弥子は、何度も顔を出しているうちに、クリスだけでなく音楽性の違いで難色を示していたリョーコとさえも仲良くなった。だが、賢祐だけはなぜか美弥子とはあまり口をきかないでいた。演奏している際も、座って見ている美弥子と全く目を合わせようともしなかった。
本人の意図はどうあれ、美弥子はそんな賢祐のあからさまな態度を最初からおかしいと感じてはいた。バンドに加入しないか否かはどうあれ、まるで同じ空気を吸っているのが嫌そうな態度を取られて、さすがの美弥子も我慢ならない。
同日の夜、美弥子は一人、部室から借り出したキーボードをもって公園で路上ライヴを行なった。以前から彼女はストリートでも演奏してみたかった美弥子は、リョーコとクリスにその話をすると、彼らは、
「別にキーボード持ち出してもいいんじゃね?」
「壊さなきゃいいよ。」
と許可が与えられたので、二人に言われるがままキーボードを持ち出してしまったのだ。えらく適当である。そして、彼女の念願だった路上ライブ決行である。
曲目は、前のライブハウスでの演奏と同じ、スタンダードなバラードである。彼女の伸びやかな歌声に、通りかかる人々はふと立ち止まる。土曜出勤で会社帰りのサラリーマンや、近所の子供達や主婦、あるいは遊び帰りの女子大生たちや練習帰りのバンドマンまで、結構な人が美弥子の歌声を聞いている。この素朴な歌声に、それほどの力があるのは不思議である。そして、また一人、外食帰りの大学生がここにやってきた。賢祐である。
彼は歌声を聞いてすぐに誰のものかがわかり、わざわざ聞きにやってきたのだった。複雑な面持ちでいる賢祐。だが、彼女の歌声はいつ聞いても、彼のなかで不思議な恍惚感が得られるということを賢祐はよく知っていた。
すべてを歌い終えてキーボードに備えつけられていた椅子から立ち上がり、いつもどおり丁寧にお辞儀をして、
「聞いていただいて、ありがとうございました!」
と元気よく言う。やはりこの時の美弥子は、どこか無邪気な子供のように晴れやかである。聞いていた人々は各々に拍手をし、各々にその場を離れた。ぼーっと余韻に浸りながら立っている賢祐。しばらくしてハッと我に帰り、先ほどまでいた聴衆たちが続々と帰っていくのを見て、キョロキョロ辺りを見回す。
すぐさま立ち去ろうとする賢祐に、
「ねえ、ちょっと待って。」
振り向くと、そこには俯きながら少しばかりムッとした表情でじっと見ている美弥子の姿が。
「ちょっとだけ時間もらってもいい?」
黙ってうなずいた賢祐。
近くの喫茶店に入り、二人ともアイスコーヒーを頼む。
「どうして、賢祐君はさ、いつもそういう態度を取るのかな。」
賢祐は黙りこくっている。
「別に、私のことが嫌いならそれでいいんだけど…、はっきりしないところが気になるから、聞いておこうかなって。それだけなんだよ。…それだけ。」
少し間を置いて賢祐は口を開く。
「嫉妬……してたんだ。」
「嫉妬?」
「うん。オレはさ、幼い頃からピアノをやっていたんだ。でも、一向にうまくならなくて。それで、オレよりも遅く始めた美弥子のほうがなんでうまいのかなって、無性に腹が立ってきて……。」
美弥子はふふっと笑いながら、
「なんだか子供みたいだよ、それ。」
顔を赤らめる賢祐。
「わ、悪かったな……。オレはさ、プライドばっかり高いから、誰かに負けるってのが嫌なんだ。」
微笑みながら美弥子、
「負けず嫌いなんだね。賢祐君は。」
賢祐はじっと黙り込んでしまった。
「私、そういうところ、嫌いじゃないよ。」
賢祐はばつが悪そうに、依然として黙りこくっていた。美弥子も残っていたアイスコーヒーを飲み干してから、首を傾けて覗き込むように言った。
「でも、誰にだってダメなところはあると思うから、賢祐君のダメなところ、私が何とかしてあげられないかな?」
覗きこみながら近くで見る美弥子に動揺を隠せない賢祐。今まで抱いていた美弥子に対する感情が、嫌悪ではない何かであると実感するには、まだ時間は足りないようだ。
「ごめんな、美弥子。オレが悪かった…。」
テーブルに手をついて謝ると、
「私のことは、み~やって呼んでくれていいよ。」
美弥子は立ち上がり、
「ちょっと散歩しよっか。」
と言って二人は勘定を済ませて外に出た。
賢祐は今まで、他人の気持ちや考えていることを汲むこともなく、ただ下らないと見下していた。自分が一番で、自分よりも高尚なことを考えることのできる人間はこの世にはいないと思っていた。しかし、こうして自分にぶつかってきてくれる人間に始めて出会ったことで、賢祐が新たな感情が芽生えた気がしていた。少なくとも、それまで抱いていたモヤモヤは晴れたように感じていた。
賀茂川沿いを歩いていると、美弥子は腰の後ろで手を組みながら嬉しそうな表情で、
「よかった、賢祐君と話ができて。」
と言うその顔を覗き込みながら賢祐は、
「オレも、そう思うよ。」
と晴れやかに言うとみ~やははしゃぎ気味の様子でスキップをし始めた。何歩か賢祐よりも前に歩いた先で振り返って、
「私はね、昔はこんなに人と話すことができなかったんだ。師匠以外とはね。師匠は最初に私の話をただ黙って聞いてくれていた人。でもね、こうして人にぶつかって、分かり合えるってことができたのは、賢祐君が始めて。」
穏やかな表情で賢祐はみ~やをじっと見ていた。二人は川沿いに座り込んだ。
「オレも、こうしてぶつかってきた人間は、美弥…み~やが初めてだよ。今まで、他人の気持ちなんか知る気もなかったけど…、み~やのお陰で人と分かり合えそうな気がしてきたかもしれない。」
「えへへー。そう言ってくれると嬉しいなー。」
目を閉じて嬉しそうに笑うみ~やは純粋で無垢な少女そのものだった。
「師匠に言われたよ。悩みっぱなしは体に良くないって。どうせならちゃんとぶつかってみろってね。まあ、難しい言葉で言ってたから、合ってたかどうかはわかんないけど…、大体そんな感じ。」
賢祐はふふっと笑いながら、
「あの詩人はいつも難しいことばっかり言うからなぁ。ははは。」
「うん。でも、すごく優しくて深い人。いつも助けられてるよ。」
穏やかに笑う二人。賢祐の幼少期にもこれだけ他人と一緒に笑えることがあったろうか。
「絶対に後悔しないようにって、思った。賢祐君とは絶対分かり合えるって自信があったし、絶対分かり合いたいって思ったから。」
間を置いて、サッと賢祐を振り向いて、
「私……、歌いたい。」
賢祐はそっとうなずき、み~やの頭をなでた。
「これから、よろしく。」
夢の始まり
「そういうわけで、美弥子を新たなヴォーカルとして迎えようと思う。異論は認めない。」
部室に入るや否や、突然そんなことを言い出す賢祐に、キョトンとする三人。横で美弥子はクスクス笑っている。
「どうしたんだ?急に。」
リョーコは怪訝そうに賢祐を眺める。クリスは嬉しそうだ。
「ヴォーカルを務めさせていただくことになりました、み~やです。力及ばないこと多くありますが、よろしくお願いします。」
美弥子は丁寧にお辞儀をする。師匠は黙って頷いているだけだが、口元は少し緩んでいる。
「よろしくねー!」
相変わらずはしゃぐクリスに対し、
「おいおい、ちょっと待てよ。」
と何やら不満げに言うリョーコ。一同、彼女に注目する。
「結局、アタシだけが仲間はずれなんだね…。」
冷ややかになる空気。クリスも今度ばかりは何も言えず黙っている。賢祐と美弥子も、唐突なリョーコのこの態度に、どうすればわからず慌てている。
リョーコは「フッ」と笑い、
「いいよ、認める。」
と。この言葉に、一同の空気は緩み、賢祐と美弥子はお互い顔を見合わせ、「やった!」と言いながら両手でタッチする。美弥子はリョーコに近寄り、丁寧にお辞儀をしながら、
「ありがとうございます。不束者ですがよろしくお願いします!」
と元気そうに言うと、頬を赤らめながら、
「お、お前……、いつからヨメ入りしたんだよ。」
とツッコミを入れる。美弥子も恥ずかしそうに、
「あ……、そっか。」
というと、賢祐もクリスも大笑いする。師匠もこのときばかりは、「はっはっは。」と高笑いした。彼が初めて見せる笑いに釣られて、一斉に大爆笑する軽音部一同であった。
こうして、このバンドは、今後二度と現われないであろう最強のラインナップとなったのである。
程なくして、三度目の学園祭シーズンがやってきた。新メンバーのみ~やがヴォーカルとして加入したバンドは、それまでコピーしてきた楽曲のままでは埒が明かないとして、心機一転のためにオリジナル曲を演奏しようという話になった。み~やの持ち歌であるスタンダードバラードと共に、リョーコが適当にかき鳴らしたスラッシュメタルのリフやクリスが鼻歌のメロディと一緒に弾いたベースなどを元に、師匠のアレンジが加えられ、さらに数曲が作られた。ある日、賢祐も負けじと、『紺碧の地球』をアレンジし、さらに速くした『紺碧~Sapphire』と改名された楽曲と歌詞を持参。音源は相変わらず打ち込まれたものであるが、ドラムパートがより趣向を凝らしており、以前はなかった前奏部まで加えられた。まさに歌謡曲調のメロディックスピードメタル調のものとなっている。
「よーし、ふざけんなぁ。どっかで聴いたことあるアレンジだぞ、これ。」
リョーコは呆れ顔で言う。しかし、何度も聞き入っている美弥子。
「素敵なメロディだね、これ。私、これ歌うよ。」
この一言で、渋々演奏されることとなった。師匠も頷きながら、
「悪くはないな。」
と同意。リョーコ、頭を掻き毟りながら言う。
「あー、どれもこれも同じように聞こえるジャンルじゃねーかよー。」
いずれにせよ、メンバーによる大幅なアレンジが加わったため、バラード曲もメロスピも、またリョーコとクリスが手がけた楽曲も、すべてこのバンド独自のサウンドとなった。こうして、この一ヶ月でかなりの曲数が揃ったバンドは、学園祭のライヴに向けてバンド初のオリジナル曲を練習することとなった。
観客の反応が薄かった二年前の学園祭、今や安定したギタリストと、素朴だがどこか魅力的なヴォーカルが入ったことにより、確実な進化を遂げたバンド。オリジナル曲を引っ提げ、どれほどの表現ができるか、今度こそ本当の挑戦であると認識する五人。だが、以前よりも随分落ち着いている。それどころか、むしろ楽しんでいるように見える彼ら。それぞれがそれぞれの想いをバンドに向けながら、まるで虹のような色彩を織り成すバンド。個性の違う五人が奏でるサウンドが一体どのようなものになるのか…。
遂に、試合開始である。例年通り、一般参加のバンドとして出場したバンド。バンド名はジャンケンで勝った詩人が適当に決めた『み~やと愉快な仲間たち』である。み~やはいいとして、お前はそれでいいのか?
ステージに上がり、キーボードに座るみ~や。最初に演奏されるのは彼女が一人で演奏していた『Reincarnation』というバラード曲である。今回のライヴでは、単なる弾き語りではなく、バンドによる演奏である。この綺麗なメロディの曲に、力強い演奏が加わり、より説得力のあるサウンドを作り上げる。何よりも、野外のステージで音の通りが良くないと思われたが、み~やの歌声は伸びやかで響き渡っていた。こうして、それまではまったくウケずに終わったこのバンドの演奏も、もはやまったく新たなバンドとして人々の注目を浴びていた。バラードの演奏を終え、盛大な拍手を浴びるバンド。み~やのMCが入る。
「みなさん、聞いてくれてどうもありがとうございました!」
再び拍手が巻き起こる。
「えっと、メンバー紹介します。ギター、リョーコ!」
リョーコ、へヴィなリフを刻んだ後、タッピングの速弾きをする。
「ギター、師匠!」
師匠、黙ったままスローなアルペジオを弾いて一例。
「ベース、クリス君!」
スラップで飛び跳ねるようなベースを弾くクリス。そして、お辞儀。
「ドラム、K!」
ブラストビートと高速タム回しをするも、スティックが吹き飛ぶ賢祐。笑ってごまかし、少しだけ笑いが起こる。
「そして、ヴォーカル、み~やです!」
丁寧にお辞儀をするみ~やに、拍手。すでにこの会場は彼女によって支配されている。
「では、次の曲行きます。『Guilty Conscience』『紺碧』っていう曲で、速いロックです。このバンドはロックバンドらしくて、ロックなんか今まで歌ったことないけど、一生懸命歌います。聞いてください。」
演奏が始まる。師匠のクリーンギターのリフとみ~やの歌声から始まる楽曲で、ドラムとベースが入っていく。そして、サビと思わしき部分でスラッシュメタルに近いハードロックとなる。ハードな演奏に負けず劣らずの声量と勢いで攻めるように歌うみ~や。ギターソロを経て、途中曲調が変わったあたりで、「メシア」というヴィジュアル系バンドを思わせるような歌詞が現われる。み~やはマイクをもってしゃがみこみ、祈るような仕草をしながら歌う。天に向かって精一杯手を伸ばす彼女。歌詞に込められた意味を一つも無駄にせず、体全体で表現するみ~や。学園祭ライヴだというのに、まるでミュージカルの世界に引き込むのような表現をする彼女。観客はみ~やの演奏にただ圧倒されるばかりだった。
こうして、『Guilty Conscience』が終わり、つづけて『紺碧~Sapphire』の演奏が始まる。み~やの弾くキーボードからオルゴールの音源が流れ、イントロを歌う彼女。そして、ツーバス連打の十六連リフでメロディックスピードメタルが始まる。み~やの伸びやかな歌声がフルに生かされているのは確かで、メタルやハードコアの力強さや重々しさなどとはまた違った世界が繰り広げられた。
この学園祭ライヴで、最も大きな拍手が得られたのはこのバンドで、メンバーたちにとっても今までにない充実感をもってライヴの幕を閉じることができた。リョーコもクリスも、そして賢祐も、このバンドこそ自分達の居場所であると確信することができたこの瞬間。詩人にとっても、また美弥子にとっても、このライヴが彼らの未来を決定付けたといっても過言ではないだろう。
こうして、ライヴの余韻を残しながらメンバーたちは学園祭を終え、打ち上げで近所の行きつけのラーメン屋に入って乾杯した。
絶対無敵
賢祐は想い出に耽っていた。
夢に見るあの赤みがかった空、沈もうとする太陽の下、ただ空を見ながらもの憂げな顔をして窓辺にたたずんでいる少女を…。
彼女の名はRachel、賢祐が中学二年の頃に留学した際、ホームステイ先で出会った少女で、彼にとって初恋の人と言える女性である。
彼は中学時代、あまりに中学が楽しくなく、クラスメイトから邪険に扱われていたので、いつしか外界との接触を非常に避けていた時期があった。いつしか、彼の空想の世界は、まるでビッグバンで宇宙が誕生した直後の宇宙の進化のごとく、広がりを持っていた。あまりにコミュニケーションを取ろうとしなかった賢祐を見かねて、彼の母が提案した海外留学であった。
その時に出会ったRachelという少女、賢祐にとって最も印象に残っており、最も興味を寄せていた人物である。十年近く経った今でも、何度も何度も思い出す女性。いつまでも忘れえぬその人を思いながら、彼は詩を綴り、旋律を作った。
『Rachel』と名づけられたこの曲は、彼のそんな想いが託された楽曲である。
―――五月、再び参加した地元のイベント。
以前も見た白塗りの地獄バンドに加え、「NO FUTURE」を高らか掲げたフリーター青年たちの勢いだけで突っ走るメロディック・ハードコアパンクバンドやらキーボード弾き語りの女の子とフォークギターの男による、まるで詩人とみ~やを思わせるかのようなポップバラードユニット。そして、どこぞの高校から参加してきたらしい放課後ティータイムなるガールズバンドなど、出演者は以前よりもさらにバラエティを増してきていた。
だが、賢祐もリョーコも、負ける気がしなかった。彼ら自身も以前までのロックコピーではなく、より幅を広げたパフォーマンスを行なえるようになっていたからだ。持ち時間は一バンドおよそ三十分。彼らは、このイベントでもすべてを出し尽くそうとした。夢の西部講堂に立つまでは、どの公演もすべて同じ価値のある勝負なのだ。
このパフォーマンスでは、バンド内でどれだけのことができるかに焦点が置かれ、すべてオリジナル曲。今の彼らにできるすべてをやり尽くそうという気構えがあった。
最初に出てきたのはみ~や。彼女が弾くピアノの旋律が終わったかと思うと、つづいて賢祐のスラッシュビートのドラムが入り込み、キーボードの弾き語りで歌いこなす美弥子。賢祐の家に度々お邪魔していた美弥子が賢祐の作曲活動に興味を示し、作った楽曲、『NEVER ENDING STORY』という楽曲である。賢祐の趣味が色濃く反映され、疾走曲であった。速い楽曲を難なく歌いこなせるようにまでなっているみ~や。このバンドを経て、立派なボーカルとして成長している。
そして、み~やにつづいて賢祐の家に入り浸りだしたクリスと二人で手がけた『夢幻』を演奏しだす。ポップで幻想的なメロディが流れる楽曲で、何とも不思議な浮遊感を持っていた。さらに、リョーコの出番、『Thunder Machine Gun』と『Sonic Canon』のスラッシュ攻めで勢いをつけてくる。
勢いで突っ走ってきた彼らも、クールダウンするかのように静まり返り、今度は師匠によるフォークギターのソロが始まった。一分少々弾いた後、今度は彼がかつてバンドをやっていた頃に書いたという『Stigma』というフォーク曲をみ~やの歌声で演奏。少し暗いように聞こえるが、どこか不思議な雰囲気を漂わせている。
最後に、賢祐たっての希望で、『Rachel』が演奏された。彼が以前から一度はコピーしたいと思っていた曲で、み~やのボーカルと、現在のメンバーでどれくらい表現できるかが試された。最初に、師匠のヴァイオリンとみ~やのピアノでサビのメロディが始まる。そして、ピアノを弾きながら、サビを歌う。このメロディだけでも、彼女の伸びやかで澄んだ歌声は生かされているように思える。そして、バンドによる演奏が始まった。
賢祐のパワフルで、前のめり感のあるドラムに、リョーコの荒々しいギターに、クリスと詩人の安定した刻みが入る。演奏のレベルも相当なもので、本家とはまた違う趣向が彼らにはあった。テクニックなどを差し置いても、どの楽曲を演奏しても彼らのものとして食い尽くすほどの勢いがあった。
かくして、五月のイベントで発散した彼ら、休息を取りつつ、練習と曲作りを重ね、あっという間に夏がやってきた。バンド活動とソロ活動でもはや地元の顔となっていたみ~や。商店街で買い物をするときにも、八百屋のおばさんに、
「み~やちゃん。今度ライヴいつやるんだい?」
と一声かかる。
「7月末に公民館でピアノコンサートと、8月末にお祭りでバンドのライブやりまーす!」
軽快に答える美弥子。
「そうかい、頑張るねー。見に行くよ。あ、ほら、大根サービスするよ。持っていきな。」
もはや、近所の顔である。
彼らにとっての最後の夏は、スパートをかけるように早足で過ぎ去った。それまでの退屈な日々を払拭するように、若いエネルギーをすべて、バンドという一つの無敵艦隊に費やしたのだ。このままスペインと戦っても、きっといい勝負ができるに違いない。
み~やのピアノコンサートに足を運んだ彼ら。賢祐が前回見たときよりも客足が増えているようだ。美弥子の出番になって、客は騒然とする。やはり、彼女の演奏を聴きに来たのだ。み~やは完全に街の顔となってしまっていたようだ。特別なカリスマ性や派手さよりも、彼女が帯びているどこかゆったりとした時間の流れや素朴な雰囲気などに癒されに来る人が多いのだろう。賢祐も、その一人には違いない、と自身で確信していた。
一昨年と同じ調子で丁寧に挨拶し、演奏を始める美弥子。数々のライヴ経験から、彼女のピアノはより真に迫るものになっており、また歌声もより安定したものとなっており、力強さも増している。はっきりした美弥子の成長を知るのは賢祐だけだという自信から少し満足感のある彼。―――あ、詩人もそうか。ふと横に座る詩人の方を見る賢祐。微動だにせず見ている彼の様子からは何も察することができなかった。
そういえば、美弥子は以前から詩人と知り合いだったそうだが、いつから知っていたのだろう。いずれにせよ、彼女の歌のことも知っていて賢祐を誘ったのだから、きっと歌声のこともわかっているはずだ。少し悔しくなり、詩人に対して静かな嫉妬心を感じる賢祐である。
美弥子の演奏も終わり、すべてのプログラムが終了して帰路につく。美弥子は家の用事があるということで真っ先に帰った。リョーコも同じく、バイトですぐに別れ、クリスも方向が違うということですぐに別れた。―――って、あれ。詩人と二人。
賢祐は少し悩んだ。詩人から美弥子と出会った頃のこと、彼女の活動のことなど、聞きだしてみたかった。そんな好奇心に駆られながらも、彼は気恥ずかしさもあってそんなことを切り出すのもどうかと思った。まるで、美弥子のことで詩人に嫉妬しているみたいじゃないか……、そう思えた。実際しているのだが。
だが、すぐさま美弥子が以前言っていたことがふと頭に浮かんだ。
―――悩みっぱなしは体に良くないって。どうせならちゃんとぶつかってみろってね。
普段から慎重な賢祐。だが、慎重すぎて、考えすぎるところが良くないのだ。そうだ…、ぶつかってみないと。悩みっぱなしはよくないのだ。こうして考えている時間が勿体無いのだ。
そういえば、これも師匠から聞いたとも言っていた気はする。まあいい。
「あのさ……、美弥子と始めて会ったのっていつなんだ?」
遂に賢祐は切り出した。詩人はじっと賢祐を見て、
「気に、なるのか?」
と一言。賢祐は気持ち肩を下ろし、負けた、という気がした。聞くんじゃなかった。詩人は少しだけ口元を緩めて言った。
「そういえば、賢祐とはあまり話をしたことがなかったな。」
賢祐はキョトンとしながら詩人を見ていた。クリスもリョーコも、詩人と話していたというのか。
「最初に出会ったのは、確か美弥子がまだ十三の頃だったな。フリースクールでNPO活動をしていた頃だった。」
「フリースクール……?美弥子が?」
「ああ。アイツは、十歳の頃に過度なストレスによって半身不随に陥った。それから、まともな生活が送れないようになっていたんだ。」
「え……。」
賢祐は改めて聞かなければよかったと思った。今度は、本当に聞いてはいけないことを聞いてしまったという罪悪感からである。
「それから、しばらく入院生活を送り、一年かけてようやく回復したらしい。リハビリのために始めたピアノがきっかけで美弥子は音楽活動を始めたんだ。」
返す言葉もなく、ただうなずく賢祐。
「俺が始めて出会った時はまだあんなに伸びやかに演奏できていなかったな。身体は普通に動くようだったが、彼女の精神がまだ外界に打ち解けていないせいかぎこちなかった。だが、その時持って行ったヴァイオリンとのセッションで、段々音楽に楽しさを見出したようだったな。」
ふと空を見上げる詩人に吊られ、同じように顔を上げる賢祐。幾多もの星々が綺麗に輝いており、天の彼方に世界を見出す彼であった。すっと空に向かって右手を伸ばす詩人。
「それから美弥子はピアノに合わせて歌うようになった。とても楽しそうだったから、俺はアイツに音楽活動をすることを進めたんだ。歌も演奏も、見る見る上達していったな。」
詩人は何かを掴むような仕草をする。きっと彼の見ている星を掴もうとしているのだろう。だが、掴めるのは空気だけである。
「美弥子は音楽で何かを表現できればそれで満足だった。俺は、ひょっとすると、アイツなら歌手としてやっていけるんじゃないかと期待したが…、美弥子はそんなことにこだわっていない。お前達と同じようにな。」
賢祐はハッとした。
「俺たちが……?リョーコも、クリスも…?」
「ああ。俺は数々のバンドを経験してきたし、見てもきた。だが、結果だけにこだわらないで、今に必死なヤツらはお前達が初めてだ。」
「ふーん。」
リョーコのあの勢いを見ていてとてもそうは思えないような気がした賢祐。久々に笑顔を見せる詩人。
「美弥子にとってこのバンドは、最高の居場所かもしれないな…。つくづくそう思うよ。音楽活動を続けていたアイツが突然大学受験をするなんて言い出した時は驚いたがな。」
「そういえば、アイツ高校とか行ってたのか?」
「いや、ずっとフリースクールだった。だが、美弥子がちょうど二十歳になった年に大検で入学したから、ちょうど二年遅れだな。」
「え……?」
驚いて詩人の顔を覗き込むようにする賢祐。まさか…。
「オレと、同い年……。」
「え、そうなのか?お前も……なのか。」
二人ともキョトンとしたまま黙って歩いた。そのまま無言でそれぞれの帰路についたのであった。
賢祐にとって、初めて美弥子という存在の重みを知ってしまったと同時に、なぜだか妙な親近感を得たような気がした、そんな夜であった。
この世界の果てしない空の彼方まで……よろしく!
夏の終わりも近づいて、祭りの熱気を吹き飛ばすほどの熱気。それが、彼らの巻き起こすエネルギーだった。
夏祭りのライヴにバンドで出演をした「み~やと愉快な仲間たち」、なりふり構わずステージで暴れまくっている。今回の曲目は、もはや定番となってきた『紺碧~Sapphire』、五月のライヴでウケたみ~やとクリスの曲から『夢幻』というチョイス。
そして、リョーコによるバッハの『幻想曲とフーガ』のギターアレンジが途中まで弾かれた後、『Vide Infra』が演奏された。
さらに、詩人のアコースティックギターの演奏が入る。リョーコと詩人によって作られた、『Thunder Machine Gun』、『Sonic Canon』につづく高速スラッシュメタルの流れを汲む楽曲、『Burning in the Air』であった。五人では始めて演奏されるスラッシュメタルも、声が太くなってきたみ~やは演奏に負けず歌い切る。ギターソロは、詩人の愛用するワウペダルで弾かれた。
そして、テンポが変わり、み~やのキーボードとヴォーカルで入る定番のバラード『Reincarnation』で締められた。
もはや、ただのハードロックバンドじゃすまないような、何が出てくるかわからないスリル。しかし、どんな曲も自分達のものにしてしまうこのバンドは、まさにモンスターそのものであった。
五人の勢いはとどまるところを知らず、彼らを知るもの、また初めて見る者たちも含めて興奮の渦に飲み込まれてしまった。地元では、どのバンドもこの怪物を止めることはできなかった。
夏のライヴを終え、学園祭、最後のステージとなるこのバンド。最初こそウケはイマイチで、リョーコ、クリス、賢祐にとってもトラウマのように残っていた記憶も、前回と、そして、このライヴですべてを吹き飛ばすことになる。
しばらくカヴァー曲で乗り切っていたバンドも、この学園祭ステージで本気を出す。み~やと愉快な仲間たち、オリジナルの楽曲がセットリストに並ぶ。以前演奏した『紺碧~Sapphire』『Guilty Conscience』『Reincarnation』に加え、『Rachel』という賢祐作のバラード曲と、『Vide Infra』と名づけられたリョーコ作のハードロック曲が演奏された。両方とも英詞であったが、難なく歌いこなすみ~や。両曲とも、彼らがそれまでに演奏してきたヘヴィメタル色から、よりマイルドで落ち着いた楽曲となっていた。これも、み~やという存在のお陰だろうか。自然ととげとげしさも失われ、音としては洗練されていったのだ。こうして、メンバー間の化学反応が起こった結果、彼らは独自のサウンドをより完璧な形で体現することに成功したのだろう。
彼らは五人とも、結果ではなく、「現在(いま)」を楽しんだ。確かに詩人の言ったとおりかもしれない。なりふり構わず、ただやりたいことだけに力を向けた。
賢祐もそういう時間を長く求めていたのかもしれない。体裁や地位に囚われていた生活からの解放、それが彼の最も望んでいたこと。はっきりとそう思えるようになっていた。
―――そして、冬が近づいた。
先のライヴの予定もなく、部室でダラダラしていたメンバー達。賢祐の家からわざわざ運んできたこたつに入りながら、クリス、詩人、み~やの三人はUNOをやっている。賢祐は一人、壁にもたれかかってボーっとしている。ここ最近、あまりに忙しく充実していたため、こうしてまったりできる時間は久しぶりのような気がした。こういう時の彼は、端から見ると何か謎めいたことを考えているのではないかと思われがちだが、本当に何も考えていない。
突然、慌てて部室に駆け込むリョーコ。一斉に入り口の方を見る一同。自宅からずっと走ってきたのか、リョーコは息を切らしながら、かがんでいる。
「来た……!」
小刻みにうなずくクリス、
「うん。見たらわかるよ。」
リョーコは首を横に振って、
「違うって。ついに来たんだよ……!」
首をかしげるクリスに、無表情のまま賢祐は、
「〈無敵艦隊春日〉現るってか。」
と冗談めいて言う。リョーコは賢祐に拳骨を食らわす。「イテテ。」と両手で頭を押さえる賢祐。リョーコは握ったままクシャクシャになったハガキを見せながら、
「西部講堂で演るんだよ!」
クリスは急に立ち上がり、
「え、え、本当に!やったね!」
と飛び跳ねて、リョーコと両手でハイタッチする。ニヤリとする詩人に、驚いて周囲を見渡しているみ~や。そして、同じく立ち上がってポケットに手を突っ込みながら突っ立っている賢祐。
なんと、京方大学西部講堂の大晦日イベントに出演できることになったバンド。特に、リョーコとクリスにとっては、念願だった大晦日のステージ。そして、彼らと共に歩んできた賢祐にとっても、この事件は胸躍るものであった。よくわからないまま一緒になって喜ぶみ~や。
大晦日まで、残された時間は一ヶ月となかった。だが、この報告から彼らが練習に入るまでそう時間はかからなかった。とにかく、高いモチベーションがメンバー内で保持され、次の目的に向かって突っ走る。学園祭のライヴで演奏した楽曲を再び練習しながら、さらに曲数を増やしていく。持ち時間は一時間。この中で燃焼しきる、それが彼らの念頭においていたことだった。
結果を焦ってはいけない。なぜなら、これは挑戦権を得たというだけで、未来が約束されているわけではなかったからだ。それは、五人ともよくわかっていた。だが、そんなことはどうでもいい、ただ彼らの最大限を発揮し、状況を楽しむということが生きることだと実感していた。
―――そして、大晦日。
遂に待ちに待ったイベント出演の日がやってきた。メンバーそれぞれが自分達の想いを背負い、この公演を待ちに待っていた。特に、大学に入る以前からこのイベントに出演することを夢見ていたリョーコとクリスは、今まで以上の緊張感と躍動感を胸に秘めており、いつになく表情が真剣であった。なぜだか、賢祐にはこの日のリョーコはいつもと違ってまるで幼い子供のように見え、また、クリスはいつもよりも大人びて見えた。なぜだろうか、このバンドを始めてからというものの、賢祐自身の内面にも落ち着きが生じてきたようにも思える。それは、ドラムというものを通じて獲得した彼の自信だろうか。彼自身でも、それははっきりとわかっていたようだ。初めて見出した居場所…、それがこのバンドであり、ライヴのステージなのである。
三人に加わって、大学生活四年間のうち半分を共に過ごしてきた詩人とみ~や。彼らもバンドにとっては不可欠な存在である。荒々しいが、どこか迷いのあるリョーコのギターをしっかり支えるバッキングの役割を担う詩人、そして、天性の伸びやかな歌声と表現力でライヴを自分のものにするみ~や。もはや、このバンドは無敵である。あとは、このライヴでいかに燃え尽きるか、それに尽きる。
大晦日で、年越しをこの場所で迎えようとする観客の熱気は凄まじいものだった。彼らの熱気に圧倒されそうになるが、ここで退いてはならない。戦いは始まった…。
ハードロック曲の『Vide Infra』につづき、『Guilty Conscience』が演奏される。最初は何をやっているかよくわからない観客であったが、次第に楽曲の雰囲気に呑まれていき、盛り上がりを見せる。み~やのパフォーマンスは、いつになく過剰ともいえるべきものだったが、まるで演劇のような世界観を見せつけており、それがプラスの方向で出たのであった。『紺碧~Sapphire』、リョーコ作の『ヴァジュラ』などの激しい曲が演奏された後、み~やの弾き語りによる『Reincarnation』が演奏される。この時点でも、まだ持ち時間は半分に満たなかったが、すでに会場は彼らが支配していた。
「この曲を演奏しきって本物だろう。」
と、賢祐が真剣に勧めていたみ~や作の20分にも渡る楽曲『Fantasia…』が演奏されることになった。美弥子のピアノから始まり、彼女自身で最初の部分が歌われる。その旋律は、明るめの楽曲と、彼女自身の人柄からは考えられないほど、どこか儚く、華麗だが、もの悲しい雰囲気のあるものであった。ステージ上のメンバー達も、会場に集まる観客達も、同時に息を呑んだ。
―――そして、バンドによる演奏が始まった。
彼らの演奏は正確で、一番しんどいと思われる賢祐も、この四年間でかなり体力がついており、長い演奏でもテンポをキープしながら突き進んでいた。何度も差しかかるピアノソロにおいても、み~やのもっているすべての感情を吐き出すかのように演奏された。そして、最後のパートまで差し掛かる。このとき既にメンバーは全員トランス状態に入っており、観客も彼らの演奏する姿に圧倒され、ある者は涙を流して聴いていたのだった。そして、彼らは最後まで駆け抜けていく……。
遂に、この楽曲の演奏が終わった。だが、これで終わるわけにはいかない……。詩人は彼のヴァイオリンを取り出し、旋律を弾きだした。夢の公演は、『Rachel』で締めくくられた。20分近くもの楽曲を演奏してもなお、自分達の表現をつづける彼ら。
終わることのない今を生きること、一瞬の中の永遠を創ること、まさに人間のドラマがここにあった。
こうして、すべての演奏を終え、リョーコ、クリス、詩人、み~や、そして、賢祐たちは、この夢の公演で燃え尽きたのであった。
第一楽章 完
黄金色のメモリー
秋、黄金色の風が吹く京都の街並み。木々の色も褐色を帯び、紅葉になっていく。少し肌寒さが増し、寂しげな季節感が出てメランコリックな空気が漂う。某高校にて、一人、毎日を退屈そうに過ごしている女がいる。長いストレートの金髪を翻しながら、昔ながらのスケバンを思わせるかのような長いスカートの女子生徒、その名も春日遼子である。思春期特有の恥じらいもなく、同じクラスにいる女子生徒たちのようにショッピングや恋愛に明け暮れず、学校以外ではただ引きこもってギターばかり弾いていた。
彼女の愛用するフライングV、それは遼子の唯一の育ての親である父親から託された唯一のオモチャである。それも、家が貧しくて贅沢する余裕もない経済状況の中、我慢してきた彼女が始めておねだりしたものである。
父親は車好きが乗じて、自動車修理工として生きてきており、どこか気持ちに余裕があり、遼子にも夢を持つようにと言って聞かせてきた男である。だが、彼のそんな生き方に愛想をつかした母親は、遼子を引き取らずして他の男を作って逃げてしまった。
遼子は最初、そんな情けない父親を疎みこそしたが、次第にどうでもよくなっていく。彼女にとって、自分の生き方を曲げない父親をむしろ支えたいというささやかな欲求から、自分が我慢することで生きてきた。だが、そんなフラストレーションから、中学時代、彼女は非行に走るようになる。毎日ケンカに明け暮れ、ただ思うまま暴れていた生活を送っていたが、次第に彼女の中でそんな生活に対して虚しさを感じるようになる。
レディースを抜けようとした遼子だったが、仲間からはこっぴどい暴行を受けるようになる。それを見かねた遼子の父は、何とか彼らを説得し、彼女を仲間から抜けさせるように頼み込んだ。
こうして、父親に助けられた遼子、受験勉強の末に何とか高校に入ったある日、転機が訪れる。父親に連れられていった高校の学園祭ライヴを見て、ギターに憧れるようになり、父親にギターをせがむようになった。こういった経緯で手に入ったのが、彼女のギターなのである。
初めて自分の夢を持つようになった遼子は、高校生活も勉学とギターだけに打ち込むようになった。友達も作らずに日々の授業を何となく過ごしていた遼子。彼女の高校生活も半分に差しかかった頃、彼女のクラスの男子の間で不穏な動きがあるのを目撃する。
遼子は一人、ぶらぶらと購買部へパンを買いに行った帰り、人気のなさそうな裏庭で不良っぽい数人の男子生徒たちに囲まれて金をいびり取られている生徒を見かけた。何かと思って見てみる遼子。絡まれているのは遼子よりも鮮やかな金髪だが、小柄でそばかすのある、一見日本人とは思えない顔つきをした生徒だった。そういえば、遼子のクラスメイトに帰国子女がいたような気がするが、彼女にはどうでもよかった。
黙って見ていた遼子に、金をせびりとった輩たちは男子生徒の前から立ち去る。脅された金髪で小柄な生徒は涙目で弱々しげにうずくまっていたが、すぐに立ち上がり、涙を拭って教室に戻っていった。
同じく教室に戻った遼子であるが、確かに教室にはその金髪の少年がいた。ふと掲示板に名前が目に入った。“若林・クリストファー・フェルディナント”―――長い。どこかの国の王子様か?そんなことを思いながら、少年を一瞬だけ横目で見遣りながら、自分の席に戻って行った。先ほどまであれだけ泣いていたというのに、教室ではまるで何事もなかったかのように平然としている。そんな逞しい姿に、感心せざるを得なかった遼子であった。
別の日の夕方、遼子は授業が面倒くさくなって学校を早退し、街中をウロウロしていた。楽器屋やCDショップなどを回って時間つぶしをしていた。夜も遅くなり、ちょうど8時を回ったころ、そろそろ帰ろうと商店街を歩いていると、路地裏で男子学生たちが一人の生徒を囲んでいる光景を目にした。
―――クリスだ…。
紛れもない、遼子の同じクラスにいる帰国子女のクリストファー少年がそこにいた。どうやら、以前見たときと同じ面子もいたが、違うのもいる。見たところ、上級生か、大学生らしきのもいた。OBか?
「若林くーん、今日もおこづかいもってきたよねぇ?」
怯えながら壁越しにうずくまる若林少年。彼は横に何度も首を振る。すると、彼らの中でも一際大きな図体をした男が少年の胸倉を掴んで、少年の軽い身体を持ち上げる。
「てめー、ふざけんじゃねーぞ。もう無いだと?お坊ちゃんなんだからママに小遣いねだってこいや!」
ケラケラ笑っている取り巻き達。少年を持ち上げている大男が横にいた青い髪で口に何個ものピアスをつけた男に向かって、
「おい、テメェ、やれ。」
と命令すると、その男は、ニヤリと笑いながら少年に殴りかかろうとする。怯えて目を瞑る少年、だが……。
「な、なんだてめぇ!」
少年が目を開けると、目の前には長身で黄金色の長い髪を垂らしたヤツが青い髪の男の首をもって、片手で高く持ち上げていた。遼子である。彼女は青い髪の男をもの凄い形相で睨みつけながら、
「やめとけよ。」
と啖呵を切ると、男の表情は髪の色と同じく真っ青になる。遼子はそのまま、男を向かい側の壁に投げ飛ばすと、怯えながら男はその場を逃げ出した。遼子は彼らを睨みつけながら、
「お前らか、ずっとコイツをいじめていたのは。なんでこんなことをする。」
彼女のクラスメイトらしき学生服の赤髪男が言う。
「だ、だって……、気持ち悪いじゃねーか!俺たちとは違って金髪なんだぜ、こいつ……。あ。」
美しいストレートの長い金髪を華麗に翻しながら、リョーコは睨みつける。
「金髪が気持ち悪いだ?あ?殺すぞ、テメェ。」
赤い髪の男の腹に、キツイ蹴りが入り、倒す。そして、戦闘が開始した。図体のでかい男を取り巻いていた者達を次々と殴り倒していく遼子。彼女は少年を見遣って、
「ボサっとしてないで、早く逃げろ。」と叫ぶ。
「は、は、はひ……。」
だが、逃げようにも腰が抜けて逃げられない少年。
「ちっ、しょうがねーなぁ……。」
残った図体のでかい男も、女だからといって容赦せずに遼子に殴りかかるが、避けられてしまう。男の前でしゃがみこんだ遼子、そのまま飛び上がり、アッパーカットを食らわせ、一発KO。遼子の跳躍力は、まさに昇天する龍の如く、であった。
「ふぅ。終わった。」
腰が抜けたまま動けない少年は、ひくひくした様子で言う。
「あ…、あ、ありがとうございました。」
遼子は彼に手を差し伸べた。
「ほら、立てるか?」
彼女に掴まれたその手は、その小柄な体型に似合わず太くて、意外と頑丈そうに思えた。立ち上がった少年はすぐさまその場を立ち去ろうとすると、遼子は彼を引きとめ、
「おい、待てよ。一緒に帰るぞ。お前、あちこちから目をつけられているみたいだからな。アタシと一緒にいれば、絶対に安全だ。」
そういいながら、少年は立ち去る遼子の後ろを、少し距離を空け、うつむきながら歩いていった。まるで、親についていく子供みたいだった。
「お前、若林っつたよな。」
サッと顔を上げる少年。
「え、なんで僕の名前を?」
振り向く遼子。
「クラス、一緒だろ。」
ポカーンとしている少年。
「え。そ、そうなんですか?」
「ま、いいや。名前なんだっけ?長かったからよく覚えてねぇ。」
「あ、えっと、若林・クリストファー・フェルディナントです。」
しばらく間を置く遼子。
「やっぱり長ぇな。お前、クリスな。」
「は、はぁ……。」
淡々と歩く二人、沈黙がつづく。急に、クリス少年が口を開いた。
「あ、あのう…、どうやったらあんなに強くなれるんですか…?」
立ち止まって振り返りながら、遼子は彼に指差して言う。
「……カッコよくなることだな。お前、何か人よりすごいものあるか?」
うつむきながら、クリス、
「いえ、何も…。僕、小さくて、弱いし、取り柄もないから。ピアノはちょっと弾けるけど……。」
「おい、お前。バンドやってみないか?指太いから、ベースできそうだ。やろう。」
「え。」
キョトンとする少年。
「え、でも……。」
「ステージに立って演奏するようになれば、絶対カッコいいし、強く見えるぜ。」
「う、うん。」
「よし、そうと決まったら、今度ベース見に行くぞ。弾き方とかコードはアタシがみっちり教えてやるよ。」
「あ、ありがとう…。」
こうして、高校生活に少しは変化が出たような気がした遼子。残り半分の高校生活も、クリスと日々を共にする。遼子と一緒のときは、誰もクリスには絡もうとせず、クリスは次第に本来の明るさを取り戻すことができた。受験勉強も共にし、二人とも同じ京都学術院大学に合格する。
「おい、クリス行くぜ!」
「うおーっ!」
―――そして!
黄金色のメモリー 完
第二楽章
―――Rachel、バンド名はそう名づけられた。
この名前は賢祐たっての希望で、西部講堂ライヴ前に正式に決められた。
それまで、リョーコが決めた〈Unnamed Angel〉名義で活動しており、み~や加入後も変わらなかったのだが、心機一転の意味も兼ねて改名することになった。
「『阿修羅番長』。」とリョーコ。
「『ブラスト和尚』は?」賢祐が言う。皆、シカト。
「『スーパー満智子ブラザーズ』がいいっ!」と手を挙げながら言うクリス。
「『キリング坊主』。」再び賢祐。誰一人まともに取り合おうとはしない。
「『み~やと愉快な仲間たち』。これがいい。」顎に手を当てながらうなずく師匠。
―――こうして、ハンバーガーショップで三時間にも及ぶ話し合いがつづいた……。
「Rachel? 何で女の名前なんだ? 気持ち悪いな、お前。」
リョーコは言う。
「でも、素敵な名前だと思うな。お母さんの名前?」と美弥子。
「えーっ、Kって帰国子女だったの!」
驚くクリス。
真剣な面持ちで賢祐は答える。
「オレが十四の頃、フランスに留学していたときに出会った少女の名前だ。初恋って程じゃないが、思い入れがある。」
「未練がましい男だな。やっぱり気持ちわりぃ。」
怪訝そうな顔で言うリョーコ。
「賢祐君、フランスに行ったことあるんだ!いいなぁ、私もいつかはフランスに行ってみたいんだー。」
目を輝かせる美弥子。
「帰国子女じゃなかったんだー、K。つまんなーい。」
いじけるクリス。
一連の会話で始終無言を通していた師匠。たまには何か喋れ。
かわいい子は旅せよ 前編
京方大学西部講堂でのライヴが終わり、すべてをやり切ったかのように思えたメンバーたち。だが、リョーコのもとに届いた一通の手紙から物語はさらなる展開へと紡がれるのであった。
突然呼び出された賢祐。卒業間近だというのに何だというのだ…。とはいえ、バンドに熱中しすぎていて就職活動やら院試やらのことをすっかり忘れていた彼は、母親には音楽をつづけていくのだろうと言われていたが、本人にはまったく自覚がない。ニート生活でもしようかと思っていた矢先のことである。
「というわけで、メジャーレーベルから話が来たんだが……。」
とリョーコ。しかも、一つではなく複数のレーベルから来ているようだった。
―――まさかのメジャーデビュー……、
思わぬところにチャンスは転がっているものだ。賢祐はニートにならなくて安心だと思う反面、自宅でゆっくりできないのは少し寂しいと思っていたのだが。
契約に当たって、主に賢祐と詩人の二人を中心に交渉が進められた。冷静な対応ができ、バンドとしての経験が豊富な詩人と、幼い頃に親に知識を詰め込まれたことによってある程度のノウハウを知っていた賢祐がバンドの事務要員としての役割を担うことになっていたのだ。春以降、契約までに長い時間と協議を重ねた結果、9月には漸く大手のレーベルと契約することに成功したのであった。
正式に2011年の9月にメジャーデビューを果たしたRachelであったが、いきなり全国ツアーに乗り出した。とりあえず、全国各地に彼らを知ってもらおうという賢祐と詩人による提案であったが、他に類を見ないものであり、レーベル側も戸惑ったが交渉の末に承諾に至った。1stアルバムの発表は、おそらく年明けということになりそうである。
バンドとしての活動はまさに絶好調で乗りに乗っている時期と言えるが、彼らの旅はそう一筋縄では行かない。何よりもまず、彼らは主に京都を中心に活動していたために、日本各地での彼らに対する反響は未知数である。それは、CDの売り上げやインターネット配信のダウンロード数からは想像できない、[地元の空気感]をこれから体感せねばならないのだ。彼らにとって、バンド人生を決定づける本当の戦いがこれから始まると言っても過言ではない。
新幹線の中、荷台に大きな機材を乗せてメンバー達は博多に向かう。ツアーの順は西から東、博多、広島、大阪、名古屋、東京、そして大晦日で京方大学西部講堂という予定になっている。マネージャーなども特にいないこのバンド、ライブブッキングなどの雑用はすべて賢祐の仕事である。移動手段はリヤカーで直接歩くというリョーコの案もあったが、さすがに全会一致で却下される。こういう突拍子もない提案をするのは彼女か賢祐のどちらかと相場は決まっている。賢祐に関しては自転車だ。もはやどうしようもない。
京都から博多まで、およそ三時間前後。夕方近く、外は雨が降っている。クリス、詩人、み~やはトランプで遊んでいた。ただのババ抜きにもかかわらず、常にポーカーフェイスの詩人にオーバーリアクションのクリスとみ~や。演劇の練習か…?端から見ると妙にシュールな光景であるが、彼らなりの楽しみ方をしている。
窓の淵に肘を置き、景色を見ながらボーっとうなだれているリョーコに、なんだか具合悪そうにうつむいている賢祐。と、賢祐の目の前に手をかざして上下するみ~や。
「おーい、どしたー?」
ハッとしながらみ~やの方を向く賢祐。
「具合悪いの?」
「いや、別に。」
「だったらいいけど……。」
み~やはすぐさまシュールなババ抜きを再開する。チラッと横目で見るリョーコだが、すぐまた窓の外を見る。
数時間後、無事博多に到着したメンバーは、予約していたホテルにチェックインする。部屋割りは、クリスと賢祐、師匠、そして、リョーコとみ~やと決められた。遅い時間なので、ホテルを出て全員で近所のファミリーレストランで食事。ライヴのことなどお構い無しに相変わらず談笑しているメンバーたち、端から見れば学生の集団にしか見えない。ただ、リョーコだけはムッとしながら黙っていた。
そして、各自部屋に戻って就寝する。
「博多公演まであと二日あるね。ゆっくりしていってね。」
とにっこりしながら言う美弥子。しかし、リョーコはどうも落ち着かない。
「どうかしたの?」
心配そうに尋ねる美弥子。
「いや、なんつーか……。」
首を傾げる美弥子に、リョーコはばつが悪そうに言葉を詰まらせながら、
「緊張感ないよな…、全員。」
微笑む美弥子、リョーコの隣に座って、
「肩肘張らないでリラックス、リラックス。」
とリョーコの肩を揉む美弥子。リョーコはそれを振り払う。
「そんなんでいいのかよ、せっかくのツアーなのによ。」
「いいんじゃない?せっかくのツアーなんだし。」
溜息をついて、頭を下げながら額に手のひらを当てるリョーコ。もはや、これ以上噛み合わない会話をしても無駄だと判断したリョーコは、
「あーあー、そうかい。わかったよ、もう寝るよ。じゃね。」
と不貞腐れて布団に潜り込む。美弥子はクスクス笑いながら穏やかな表情と声で、
「おやすみなさい…。」と一言残し、自分のベッドに戻って眠りについた。
一夜明け、全国ツアー初日を次の日に控えたこの日、メンバーによる博多観光が開催された。初めて足を踏み入れる博多に胸躍らせてはしゃいでいるみ~やに対し、部屋から出たがらないリョーコ。結局、四人だけで観光することになったが、普段から無口な詩人を差し置いても、いつになく口数の少ない賢祐。度々うつむいていたり、上の空だったりして、あまり楽しんでいない様子だ。
そして、ツアー初日、博多での公演当日の朝となった。清々しい快晴である。会場はおよそ数百人単位を収容できるだけの中規模のクラブであった。昼前から入念な機材の整備やリハーサルが行なわれる。セットリストに沿ってリハーサルが始まった。だが、なぜだろうか、いつもと違って勢いが足りないように感じられた。一曲を終えると、ふっとドラムの方を見る前の四人。
「あれ?何だかドラムの勢いが足りない気がするんだけど。」
美弥子は不思議そうに尋ねる。
「え?そ、そうか?」
少しうろたえている様子の賢祐。人差し指を立ててクリスが、
「もう一回!」
と合図をすると、再び賢祐のカウントから曲が始まる。だが、やはりドラムが弱いように感じられ、どこか調子が外れていた。
「やっぱり具合悪いんじゃない?」
とドラムセットに駆け寄り、賢祐の額を押さえる美弥子。賢祐は無理矢理作り笑いで、
「大丈夫だから。うん、大丈夫。次、行こう。」
「そう?」
とまだ心配そうにみ~やはマイクスタンドに戻り、リハーサルが再開する。こうして、まだまだサウンドに勢いが足りないことが心配されるなか、一通りの楽曲を演奏し、本番に臨むこととなってしまった。それでも、まだ賢祐の調子があまり上向きでないのか、猫背で腰かけている彼に後ろから背中を叩くクリス。
「しっかりしよう!」
さっと振り向きながら、相変わらず無言でうなずいている賢祐だった。同じ頃、ロビーで休憩していたリョーコ、うつむいたまま気分悪そうにうつむいている。飲み物を買いに来た詩人は、彼女の様子を見て驚いた顔で尋ねる。
「おい、大丈夫か?」
リョーコは顔を上げ、悲壮な顔をしながら、
「う~、気持ち悪ぅ……。」
その情けない声に、呆れ顔の詩人。どうやら前日、ホテルに引きこもって飲んでいたテキーラで二日酔いしてしまったようだ。つづいてやってくるクリスは、リョーコの様子を見て思わず声を上げる。
「え、え、どうしたの?」
「う~、頭がガンガンする……。工事現場か、ここは?」
詩人と同じ調子で呆れ顔のクリス。先ほどの音出しで、低音が頭の中でずっと鳴り響いているらしい。
バンドがあまり本調子でいかないまま、開演時間が近づいた。初めてのツアーだというのに、インターネットを通じてか、それとも口コミでかは知らないが、会場には結構な数の観客が今か今かと待ちわびていた。せっかく集う観客に、下手な演奏は見せられない。先ほどのリハーサルから、ツアー始まって以来、バンド内に初めてプレッシャーが漂った。
緊張の中、遂にツアー初日のライヴが開演する。詩人が適当に選んだショパンの『練習曲第一番ハ長調』がSEとして流れる中、ステージ袖で全員が手を合わせ、み~やの「せーの!」という掛け声で全員が手を下ろし、入場。
観客は京都の地方バンドであるにもかかわらず、彼らを熱気で受け入れる。ステージ上で圧倒されそうになる五人も、彼らに負けじと演奏に入る。最初の曲は勢いがあって、かつ構成が少しトリッキーな『Personation』から始まった。まだ美弥子が入っていなかった時期に、リョーコ、クリス、詩人、賢祐の四人で次々と音を重ねていった結果、複雑な構成になっていったものであるが、わかりにくさはともかく観客は曲の勢いに乗ってヘドバンをしたり、体を上下に動かしたりと思い思いに楽しんでいるようだった。み~やの歌声も、ロック歌手としてかなり板についており、彼女なりの表現で何やら異彩を放っていた。
畳みかけるように、展開の激しい『鏡面世界』、『Vide Infra』、『Guilty Conscience』などを次々と演奏していき、休憩が入る。相変わらずドラムの勢いは足りないように思えたが、あえて気にすることもなく次のステージに入る。
休憩中に備えつけられたピアノ、ピアノ椅子に腰かけるみ~や。彼女のピアノから曲は始まり、『Reincarnation』が歌われる。それまでの勢いから一転して休みを与えるようにバラードを歌いきるみ~や。そして、詩人のヴァイオリンが入り、しばらくソロで弾いた後、『Rachel』がつづいて演奏された。ヴァイオリンによる旋律に、アコースティックなバラードが繰り広げられる。そして、曲の終わりに流れるオルゴールから、『紺碧~Sapphire』が演奏され、再び勢いを取り戻す。観客達はこの流れに動じずついてきており、この楽曲のサビでみ~やが煽ると、歌いだす観客。そして、その勢いにさらに拍車をかけるようにリョーコの十八番の疾走ナンバーである『ヴァジュラ』が演奏される。賢祐のドラムも、少しずつ勢いがついてきており、BPM200というテンポを殺さずにプレイする。曲の途中、リョーコのギターソロが入り、10分近く弾きまくった後、再び『ヴァジュラ』を演奏しきる。そして、再び休憩に入った。
今度はみ~やのキーボードが設置され、いよいよ大詰め。リョーコ作の女吸血鬼をモチーフにした怪しいフレーズで始まる『Carmilla』も激しい展開で流れるように、まるでミュージカルの場に居合わせているかのように表現されていくのだ。そして、ドゥームメタルを思わせるようなおどろおどろしいピアノから、重苦しく歪んだ音の演奏が入る。そこから、急激にテンポが変わり、ドラマティックに流れだす賢祐の楽曲『BLACK MAGIC KINGDOM』が演奏される。そして、最後の曲で哀しい旋律のピアノバラードであるクリス作の『夢幻』が演奏され、幕を閉じたのであった。
アルバム全曲からの演奏は持ち時間上、無理であったが、反応は上々。バンドブームが過ぎ去ったとはいえ、それでもバンドを求める観客によって支えられているということを実感するメンバー達。二日酔いに悩まされていたリョーコも、すっかり吹き飛んだようで、満足そうな様子であった。こうして、無事博多での公演も終え、次なる目的地広島でも、同様のセットリストとパフォーマンスで観客を魅了したのであった。
かわいい子は旅せよ 中編
大阪の公演当日がやってきた。前日遅くにホテルに到着し、倒れるように寝入った一行だったが、まだツアーは中盤。先はまだまだ長い。
一階に降りて朝食を取るメンバーたち。さすがに序盤で響いたのか、アルコールを控えていたリョーコは平常どおりであったのだが、どうも賢祐の姿がなかった。美弥子は同室だったクリスに尋ねる。
「あれ、賢祐君は?」
「さあ、まだ部屋にいると思うよ。」
「具合悪いのかな…?」
首を傾げながら、おにぎりを頬張るみ~や。食べ終わってもまだ降りてこないので、煮を切らした美弥子は、
「私が行ってくる。クリス君、鍵ちょうだい!」
クリスはうろたえながら、
「えっ、でも男部屋だよ。僕が行くよ。」
しかし、美弥子は聞く耳を持たず、ただ手を差し出したまま、
「いいから。」
仕方なく部屋の鍵を渡すクリス。
エレベーターで上階に昇り、賢祐の眠る部屋まで颯爽と駆け抜ける。鍵を開け、アクション映画を思わせるかのような勢いで部屋に飛び込む美弥子。ベッドには、布団にくるまりながらうずくまる賢祐の姿があった。呼吸から察するに、眠っているわけではなさそうだ。美弥子は強引に布団を剥ぎ取って、
「起きろーーーっ。」
と叫ぶ。賢祐は虚ろな目をしながら美弥子のほうを見遣り、弱弱しい声で、
「あ、美弥子さん……。おはようございます。」
と呟く。腰に両手を当てながら、「はぁ。」と溜息をつく美弥子。
「ライヴだよ。ラ・イ・ヴ。ほら、さっさと朝食食べて、リハーサル行こ。」
まるで学校に遅刻しそうな子供を起こす母親である。
「無理……。無理っす。」
と弱々しく言い、布団から手だけ出して左右に振っている賢祐に、顔を半分ひきつける美弥子。
「なんで?」
「オレ、ドラム叩きたくないっすわ…。」
遂に我慢の糸が切れたのか、美弥子は突然彼の脇腹にエルボーを放つ。
「うぐっ。」と言いながら脇腹を押さえる賢祐。振り向いて、
「ちょ、おま。何すんだ!」
「何すんだじゃないでしょ。あのね、ドラマーがいなかったらどうにもならないでしょ。」
賢祐は再びそっぽを向いて言う。
「オレは、ただドラムやっているだけで幸せだったんすよ……。プロとか、メジャーデビューとか、ツアーとか、実際どうでもよかったんすよ。」
とことんまで腐りきっている賢祐。
「ほほう。ならば、かくなる上は、この唯一神・美弥子様が渡辺賢祐に気合を入れてしんぜよう。」
目を吊り上げ、声を低くして言う美弥子。白いハイヒールを履いた彼女の右足が天に向かって高らかに振りあがった。美弥子の方を向き、思わずのけぞる賢祐。白いワンピースの長いスカートが大きく捲れ、青いレースのパンツが丸見えである。少し得した気分だが、そんなことはどうだっていい。恐れおののく賢祐の急所に、今、美弥子のかかと落としが炸裂した。クリーンヒット!賢祐は断末魔の声を上げる間もなく、股間を押さえながら絶句し、ベッドの上を転げ回っている。
「思い知ったか、迷える子羊よ。」
さすがの賢祐も、この時ばかりは観念し、起き上がってベッド腰に座り、体勢を立て直した。美弥子も横に並んで座った。
「私が代わりにドラムを叩こうか?」
賢祐の顔を覗き込み、まるで子供をあやすように言う美弥子。
「お前、叩けないだろ……。」
「だって、バンドの土台を支えているのはドラマーだよ。ドラマーがいなかったら、その上で頑張っているみんなも崩れちゃうじゃない。」
黙ってうつむく賢祐。もはや頭があがらない。
「ごめん……。」
二人はしばらく黙った。そして、
「もう少し頑張ってみるよ。」
にっこり微笑む美弥子。賢祐の手を取り、
「行こ。」
美弥子の説得は成功に終わった。
ひどく塞ぎこんでいた賢祐を連れ出し、会場に向かうメンバー。入念なサウンドチェックの後、リハーサルが始まる。二度もライヴをこなしてきたからなのか、それとも、また別の理由でなのか、賢祐のドラムに勢いが戻っていた。彼の地鳴りのようなドラムに、バンドはいつものノリを取り戻すことができたように思える。このことについて、美弥子は何も語らず、にっこり微笑んでいるだけであった。
良い雰囲気を維持したまま、大阪での公演は開催された。今までのセットリストに、途中カヴァー曲やみ~やのネタの広いMCなど、初日に比べてもさらに盛り上がりを見せるライヴ。大阪だけに、ノリのいい観客が多かったからか、地元京都から近いところにあるからなのか、バンドの方でもかなりやりやすいライヴだと感じていた。
大阪の公演が無事終わり、一晩を明かした一行は、次なる目的地、名古屋へ向けて出発する。再びドラムの勢いを取り戻したバンドは、土台の凄みを増して名古屋に臨む。この地域もやはり西日本に近いだけあって観客の反応がかなり良かった。
Rachelが何のバンドかよくわかっていない髑髏や怪物が描かれた黒Tシャツ軍団は、疾走曲に入るや否やモッシュが起こっていた。
ギターを弾きながらニヤリとして、
「かかってこいやぁ!」
と吼えるリョーコ。
「気合入れろや!」
ドラムを叩きながら、賢祐も乗じて叫ぶ。煽られた観客は我を忘れて腕を高らかに振り上げる。ギターソロで長く乱れた髪を扇風機のように振り回しながら弾くリョーコに観客はさらに興奮する。そして、一斉にメロイックサイン。
この一連の光景に呆れながらもしっかり歌いきるみ~や。お陰で近隣住民から苦情が来るという、リョーコと賢祐、そして、師匠にとっての「栄誉」が与えられてしまった。こうして名古屋公演も無事終わり、東京に移動する一行であった。
年末になって賑わう街並み、さすがに首都圏だけあって、数々のイベントで盛り上がる東京であった。新幹線で東京駅に着いた一行であったが、今度はみ~やが体調不良を訴えていた。東京では渋谷、中野、目黒の三ヶ所でライヴハウスでのライヴが決まっていたが、幸いなことに最初の公演まで五日間のブランクがあるのでホテルでゆっくりできるということだった。
部屋でじっくり休む美弥子に、同室のリョーコはつきっきりで看病していた。
「ありがと……、リョ―コ。」
熱に冒されながら、無理に微笑むみ~や。額に水で濡らしたタオルを置くリョーコ、
「いいってことよ。美弥子には最高のコンディションでライヴに臨んでもらいたいからね。」
目を点にしてじーっと見つめる美弥子にうろたえるリョーコ。
「べ、別に……、美弥子のためにそう言ってるわけじゃないんだからな。アタシのため、そして、ライヴのためだ。」
と目をそらしながら言う。美弥子はニヤリとしながら、リョーコの頬を人差し指で突っつく。
「ツン、ツン、ツ~ン。デレデレ~。」
「う、うるせぇな。お前は黙って休んでろっ!」
完全にみ~やぺ~すに乗せられているリョーコであった。
「本当にごめんね……、リョ―コ。もしかしたら、私、次出られないかもわかんないから……、その時は歌、よろしくね。」
珍しく弱気を吐く美弥子。ふぅと息をつきながらリョーコは、すかさず彼女のバッグから「Jack Daniel」と銘打たれたウイスキーを取り出し、真顔で言う。
「これ飲んだら治るぞ。飲め。」
美弥子、すかさずベッドから起き上がって、「いりません!」
かわいい子は旅せよ 後編
東京での初公演まで残り二日となった。熱に冒され寝込んでいる美弥子に、必死で看病をしているリョーコを部屋に残したまま、気晴らしと観光を兼ねて新宿の街並みを散歩していた男三人。賢祐は東京まで出るのは初めてで、何もかもが新鮮であった。クリスは辺りをキョロキョロ見回しながら、あちこち興味を示していた。詩人は相変わらず無言のまま、両手をポケットの中に突っ込みながら淡々と歩いていた。
詩人曰く、「賢祐が好きそうなCDショップがある。」と連れられるがまま行った場所、まさに賢祐好みのデスメタルやブラックメタルがたくさん揃えてあるショップで、興奮が鳴り止まなかった。クリスは雰囲気に馴染めなさそうに、萎縮して詩人の側から離れないようにしている。賢祐は気の向くままあっちこっちのCDを夢中で漁っていたが、先に来ていたらしい三人ほどの客とニアミスしてしまい、お互い顔を見合わせる。
「あ、すんません。」
ととっさに小声で言う賢祐だが、相手側は少し機嫌悪そうに賢祐を睨みつけていた。彼らは奇抜でピンクや金のヘアスタイルをしており、楽器を持っていかにもバンドマンらしい格好をしている。あれ、どこかで見たような気が……?
三人は無言で賢祐の前から離れたが、去り際に出入り口付近でクリスと一緒にいた詩人に気がついて一瞬動きが止まる。詩人の横を通り過ぎる際、小声で何かを呟いていたように見えた。見た目にも一番年上の詩人が、ケンカでも売られたのだろうとでも思い、賢祐は再び気を取り直して、CD漁りを再開する。
しばらくして、賢祐は欲しいCDを選び出し、会計を済ませたとき、出入り口付近にはクリスしかいないことに気がついた。
「あれ、詩人は?」
「ちょっと待ってろって言って出て行ったよ。」
と少々慌てふためいた様子で言うクリス。まさか、彼らのケンカを買ったのではないだろうな……。ツアー中で、もうすぐ大詰めだというのに、ここで問題を起こしたらすべてがパーになる。そんな不安を抱えながら、すぐさまCDショップの入ったビルの一階へ降りる二人であった。
一階に降りて外に出ると、先ほどショップにいた派手な格好のバンドマン達と詩人が話しているではないか。まだケンカは始まっていないようだ。離れて様子を見ることにした賢祐とクリスであった。
「久しぶりやな、坂上。ようぬけぬけとしょうもないバンドやっとるな。」
ピンクのヘアーをした男が言う。無言のまま、煙草に火をつけている詩人。もう一人の金髪の男が、
「あの清純そうな女の子がやっているバンドにいるってすぐにわかったぜ。ウチらでやっていたバンドの曲がセットリストにあったからな。勝手に使いやがって……。」
煙草をふかしながら、
「あれは俺の曲だ。俺がどう使おうと勝手だ。」
と答える詩人。ピンクのヘアーをした男が詩人に詰め寄る。
「み~やとか言うたか?あのコ、男馴れしてへんやろうから、誘ったらすぐにヤらせてくれそうやな。それか、力ずくでもヤりたいわー。」
と冗談交じりに言うと、詩人はその男に掴みかかる。賢祐はヤバいか、と思ったが、じっと堪えた。ピンクのヘアーをした男は少々焦った様子で、
「わ、悪かったよ、冗談だよ……。残虐で傍若無人な〈ジャック〉さんよ。おっと、今は温厚で無口な〈師匠〉で通っているんだっけ?へっへっへ……。」
詩人は彼を掴んでいた手を話し、再び煙草をふかしていた。
―――ジャック?
賢祐ははっと思い出した。詩人の家に上がりこんだときに貰った〈SCHiZOiD〉というヴィジュアル系バンドのギター&ヴォーカルをやっていた男の名だ。それに、あの三人、確か詩人の家に貼ってあったポスターで見たのだ。まさか、あの詩人があんなバンドに?どう見ても合いそうにはないと思っていたが、詩人の奥さんがバンドと聞いた時にぼそっと言っていたセリフからも、納得できた。だったら、このツアー中に演奏された『Personation』と『鏡面世界』は、どちらも彼らのカヴァー曲ではなかったということか……。
一通り口論を終えたのか、詩人と例の三人はそれぞれ別れた。彼らと何らかの因縁があったとは、ますます謎が深まるばかりの詩人である。クリスと賢祐は、CDショップから偶然出てきたかのように装って詩人と合流し、ホテルに戻った。ここで起きた一連の出来事は、賢祐とクリスとのあいだで秘密ということにしておいた。
―――東京での公演初日、
リョーコの熱心な看病により体調も元に戻りつつあったみ~や。元気そうな彼女の姿を見て、
「もう大丈夫なのか?」
声をかける詩人。
「うん、おかげさまで。リョーコのお陰だよ。」
といつもどおりにっこり微笑みかけるみ~や。そんな彼女の姿を見て、どことなく安心感が沸いてくる賢祐であった。
彼らはすぐさま、宿泊していた新宿から山手線で、公演予定の渋谷へ向かう。渋谷なんて、詩人を除いてはテレビの中でしか見たことがなかったので、今までにないくらいのはしゃぎようを見せるメンバー達。
「見てみてー、ハチ公だよ。」
と駆け寄るクリス。
クリスに釣られて駆け寄るみ~や。それまでとても病気だったとは思えないほど元気を取り戻しているようだ。賢祐もまんざらではない様子で、二人の後につづく。そして、五人で記念写真を収めた。
渋谷の某ライヴハウスで始まったリハーサルも順調に進み、本番を迎える。さすが都心部だけあって、今までに見たことのないゴスロリや外国人なども見られたが、彼らなりに気負いせずに伸び伸びとしたプレイでライヴは成功に終わった。さすがのリョーコも賢祐も首を痛めたのか、無茶なプレイはしないで淡々と演奏していたが、それでもクリスや師匠などの安定したプレイに支えられながらしっかりと歌いきるみ~や。
こうして何度もつづいてきた公演であるが、一度たりとも気を抜くことなく、一回一回を大切に演奏してきたRachel。その後の中野、そして目黒での公演も同様にその時の最高のプレイをするに至った。この間、み~やの体調も心配されたが、最後までしっかりと演奏しきり、懸念された喉のほうも、冴え渡った歌声を発することができたのだ。
そして、東京での公演を無事に終え、その日の新幹線で京都に戻る一行。十月から始まったツアーも、すでに年末に差しかかっていたではないか。月日が過ぎるのは早いかと思いきや、すでに何年分もツアーをした気分であった。公演は残すところ、あとは二度目の西部講堂でのライヴであった。ちょうど一昨年前のライヴから、楽曲と演奏のラインナップも増えたRachel。さらなる進化を遂げて、大晦日、再び出陣の時が来た。
前年と同じく熱気に包まれた講堂であるが、さすがにホームだけあって五人にとっても馴染みやすい雰囲気が感じられた。とはいえ、持ち時間は一時間、前回のように無理に30分近くの楽曲を演奏しなくても十分すぎるほどの時間であり、むしろ時間内にどれだけのことができるかというのが勝負の分かれ目だった。
「よっしゃ、やったるぞ。」
息を呑むリョーコ。
「頑張っていこう。」
天上のライトが反射し、いつになく輝いて見えるクリスの表情。前よりも貫禄が出ている。
「……。」
師匠、無言のまま。帽子で目の上の部分まで隠れている。
マイクスタンドに立ち、にこやかな表情でいるみ~や。この旅で五人はそれぞれ何を思い、そして、何を得たのだろうか……?一年間の彼らの成長がここで発揮される時が来た…。
ドラムスティックのカウントが入る、
「ワン、ツー、スリー。」
4カウント目でフィルが入り、楽曲が始まった…。
―――こうして、Rachelとして初めての旅は、最高潮のまま終わりに向かっていったのだった。
神の思し召し
初の全国ツアー、様々な困難に直面しながらも、無事に終えることができたバンド、Rachel。年明けすぐに、彼らの演奏した曲や新曲などを収録した13曲入りの1stアルバム、『BLACK MAGIC KINGDOM』が発売された。
命名者の賢祐によると、
「プリズムのようにいろんなジャンルの要素が入っているけど、このバンドにかかれば全て黒く塗りつぶされてしまう。そんな逆カメレオンみたいなアルバム。」という意図がこもっているという。逆に、「既成のジャンルに囚われない、本当の意味でオルタナティヴなもの」という意味にも取れるという。
また、ツアー中にウェブサイトから、『紺碧~Sapphire』『Reincarnation』『Vide Infra』『Guitly Consceience』『Rachel』などの楽曲が次々と配信されていき、年が明ける頃にはかなりのダウンロード数を記録していた。
年が明けてすぐ、再びリョーコに呼び出されたメンバーたち。彼女が呼び出すと必ず奇跡的なニュースが飛び込んできたものだが、今回も思った以上のニュースを持ち込んでいたのだ。
「いいか、お前ら。落ち着いて聞けよ。」
息を呑む一同。
「ついに、日本武道館へのチケットを手に入れた!」
ファミレスで大いに盛り上がる一同、幸い夜中なので人気はない。オーダー待ちの店員だけは五人をじーっと見ていたが。
「ぶ、ぶぶ、武道館!観客のほうではなくしてですかっ!?」
いまだに信じられない賢祐と美弥子。二人で口を揃えて言いながら、お互いに顔を見合わせる。
「そうだよ。遂にウチらが武道館でプレイする日が来たんだよ!」
なんという急展開。まだメジャーデビューし、全国のあちこちでツアーを終えたばかりなのに、もう武道館という展開…。日程は割と早く、2012年3月2日となっていた。あれ?
大学に入学して以来、どんな急展開にも慣れきってしまっていた賢祐。自分の人生が思わぬ方向で、これほどうまくいっていいものなのだろうか?そんなことを考えながら歩いていた帰り道、同じ道を歩いていた詩人が突然口を開いた。
「俺は、心配だな。」
詩人の顔をじっと見つめる賢祐。
「こんなに急激に物事が進むのは悪くない……が、前回のツアーで美弥子は倒れたばかりだ。アイツは生まれつき体が弱い。メンタル面でも完全に治癒できたわけじゃない。」
賢祐は不意に随分前に詩人が話した言葉を思い出した。かつて美弥子が入院とリハビリ生活を送っていたことを……。しばらく黙りこんでいた賢祐。
「……まあ、美弥子自身が決めることだが。」
そういい残して去っていく詩人。
―――オレには…、何ができるのか……?
夜空に向かって手を伸ばしてみる。何も思いつかない…。考えれば考えるほど、美弥子はあまりに重い存在であり、賢祐はあまりに無力であると思えてしまう。この無力感……、だが、それは賢祐だけではない。美弥子はあの小さな体で、あまりにも弱い存在なのだ。そんな感情から、彼は何かを生み出すきっかけとして作曲に打ち込んだ。
苦心の末にできあがった曲、それは『Pearl White Drops』と名づけられたものであった。歌詞も楽曲の構成自体も、彼お得意のスピードメタルナンバーにも関わらず、かなりへヴィな内容であった。歌詞には抽象的な言葉が並べ立てられていたが、これが今の賢祐にとって最大限の表現なのである。だが、彼には、この曲を美弥子に歌わせるということが懸念された。彼女の精神に、この曲が背負いきれるであろうか……?
次のセッションの日、以外にも早く着いた賢祐。待っていたのは美弥子である。少し戸惑ったが、彼は自分の作った楽曲を彼女に聞かせることにした。
「す、すごい曲だね。賢祐君、天才に近づいちゃった?」
感心しながら、にっこり微笑む美弥子。突然、美弥子のその弱く小さな体を抱きしめる賢祐。急なことに、驚いて頬を赤らめる美弥子。
「ど、ど、どうしたの、賢祐君?苦しいよ……。」
賢祐はただじっと目を瞑って、彼女の存在を確かめるように言った。
「どこにも行くなよ……、美弥子。」
美弥子は同じように目を瞑り、ただ黙って頷いた。
―――日本武道館…、ロックアーティストならば誰でもが目標とし、また、何か別の重要な意味づけをもつとして一部では避けられるような会場。
この場所に、また一つのバンドが立ち上がろうとしていた。その名はRachelである。彼らは前年の秋にデビューしたばかりなのにもかかわらず、京都で博していた人気と、全国ツアーや楽曲配信、アルバムの売り上げなど反響も大きく、この場所に漕ぎ着くまでに壮絶な勢いを持って現われたモンスターとも言うべき音楽集団である。
3月2日、朝から彼らのファンがずらりと並ぶ。全国ツアーを観てファンになった者も多くあり、中には前日から並んでいたという者もちらほら。名古屋にいた怪物の描かれた黒Tシャツ軍団も彼らの音楽性に共感したのか、まるで場違いの迫力を放っていた。
リハーサルに入るメンバー五人、このホールの巨大さに誰もが感嘆せざるをえない。ひたすらはしゃぎながらあっちこっちうろうろするクリスに、リョーコまでつづいてはしゃいでいるではないか。詩人も落ち着きなく客席のほうをうろうろしながら天井のほうを見渡している。まるで皆、童心に返ったかのようである。
新調したドラムセットに腰かける賢祐。タムやバスドラの点数が増えており、その黒光りするボディから、遠くから見るとまるで戦艦のような迫力を持っている。試奏してみると、機材のよさからなのか、ホールの広さからなのか、あちこちで音が返ってくるような感触で、悦に浸る賢祐であった。
ふとステージ左の袖を見遣ると、そこにはじーっと座っている美弥子の姿が見えた。
「おい、美弥子。大丈夫か?」
ドラムセットから声をかける賢祐のほうを振り返り、いつもよりも弱く微笑んで手を挙げる美弥子。
「うん、大丈夫だよ~。」
いつもよりトーンが低いような気がした。
機材のセットやサウンドチェックなどが一通り済み、リハーサルが始まる。新曲や新たなパフォーマンスなども合わせて、演奏を通してみるメンバー。普段どおりに行けば順調に済むかと思われたが、一曲終わるごとにみ~やはふらふらしながら近くの段差に腰かける。心配になったクリスとリョーコ。
「お、おい…、大丈夫かよ?」
「どうしたの?」
うつむいている美弥子、顔を上げて無理に微笑みながら、
「大丈夫、大丈夫。心配しないで、ちゃんとライヴはやってみせるから。」
ドラムセットから離れて美弥子のもとに駆け寄る賢祐。
「おい、やっぱり休んだほうがいいんじゃないか?」
「大丈夫、大丈夫だから……。」
それでも会場スタッフとメンバーに休憩を促す賢祐。結局、美弥子の体調を見計りながらのリハーサルとなった。早くもライヴに暗雲が立ち込める。
「熱っぽいのか?」
と尋ねる詩人。美弥子は顔を上げ、微笑みながら健気に言う。
「ちょっと、体がだるいだけだよ……。」
「ボーカル代わろうか?」とリョーコ。
「そ、そんな。だめ、絶対だめ!せっかくの武道館だよ。明日歌えなくなってもいい…、ちゃんと最後まで歌いきるから。」
そう言って聞かない美弥子。詩人もリョーコも黙り込んでしまった。そんな彼らのもとに近づいてくるのは賢祐であった。
「美弥子、お前はこのバンドの大切な仲間だ。だから、お前が倒れでもしたらってみんな心配なんだ。それでもお前が歌うって言うのなら……。」
と賢祐の片手に握られていたのはリボビタンDだった。
「最後までやろう。」
「ありがと……。」
小さな声で言うと、両手でリボビタンDを持ってグイグイ飲む美弥子。結局、賢祐にできることと言えばこんなことぐらいだろう。それでも、何もやらないよりはマシだと思いたかった。
美弥子の体調が戻ったところでリハーサルは再開した。リボビタン効果なのか、美弥子の調子は先ほどより悪くなることはなかった。こうして、大事に至ることもなくリハーサルを終え、本番を迎えるまでになった。
―――開場時間が来た……、殺到するファンが武道館に詰めかけていた。開演まで大分時間があるというのに、会場内は観客がひしめき合っている。すでにヒートアップ状態だ。
Rachelの方も、まだデビューしたての新人だというのに、これほどの大きい会場で演奏するということに多少気後れしていた。しかし、彼らがやるべきことと言えば、会場の大きさや観客の数など関係ない…、今、このステージで力を出し切るということに尽きるのであった。そして、戦いは始まった。
美弥子がキーボードで打ち込んだパイプオルガンの荘厳なSEが流れると、観客は大いに沸いた。今回は衣装にまで気合が入っているのか、入場してきた五人はゴシック服に身を包んでいる。Rachelがゴシックメタルバンドであるという表明なのだろうか……?
SEが終わると同時に、なんと最初から長編の楽曲『BLACK MAGIC KINGDOM』の演奏が始まる。息を呑む観客達、演奏する側も真剣である。だが、この選択が功を奏したのか、最初の曲からすでにRachelが会場を支配してしまったのだ。長編の楽曲から、『鏡面世界』、『Carmilla』、『Vide Infra』、『Personation』、そして、『夢幻』から早くも『紺碧~Sapphire』が演奏された。これらの演奏の中で、すでにライヴの感覚も掴んできたメンバー達は、それぞれのパフォーマンスで観客を魅了した。特に、み~やの異常なまでの入れ込み具合に、まるでこのステージがバンドの演奏というより、演劇を鑑賞しているかのような世界観が表現されていた。歌詞の内容から、楽曲のドラマティックな構成から、そして、このライヴパフォーマンスから、Rachelというバンド自体が歌劇団だと評されることもしばしばであった。
しばらくの休憩が入り、み~やのピアノから『Reincarnation』が演奏された。彼女の歌声はツアーを通じてか、以前よりもさらに深みと安定性を持っていた。体調のほうも心配ない様子で、顔色もすっかり戻っていた。
このバラード曲の演奏が終わると、MCが入る。
「今日ここに集まっていただいたみなさん、わざわざお越し下さってありがとうございました。」
ピアノの椅子から立ち上がり、深々とお辞儀をするみ~や。会場は盛大に湧き上がった。
「デビューしたばかりでこんな武道館でやらせてもらえるなんて、私達もとてもびっくりです。これも応援してくれた皆さんのお陰だと思っています。本当にありがとう!」
彼女の素直なMCに、袖で見ていた賢祐と詩人は思わず顔が綻んだ。お互い顔を見合わせ、頬を赤らめた。
「このライヴのために新しい曲を用意してきました。哀しい曲ですが聴いてください。『LAST ANGEL』。」
み~やの言うとおり、もの哀しい旋律が流れる。ピアノのバラードであるが、み~やが作ったものとしては妙に陰鬱な感じがする。み~やの歌声も、どちらかというと海外の女性歌手を意識しているのか、英詞で伸びやかに歌っていた。この間、演奏隊の四人も袖で聞いていたが、なぜだか暗い気持ちになってくる。なぜ、美弥子がこのような楽曲を作ったのだろう……?そんなことばかりが気にかかった。
10分近くの長いバラード曲であったが、観客の中には涙を流しながら聞いているものもいた。歌詞も聞こえる単語だけ聞いているとどこか救いようがないように思える。
そして、次の曲でもさらに新曲が続いた。今度は賢祐が手がけた『Pearl White Drops』という疾走系の哀愁歌である。これも前曲と負けず劣らず叙情的な旋律を放つものだ。テープでイントロの旋律が流れ、バンドの演奏が始まる。BPM180近くだが、黒Tシャツ軍団が盛り上がれるような楽曲というよりは、メロディを聞かせるようなものになっている。構成も複雑で、ギターソロ部分が終わってピアノの弾き語りになるところで、まるで美弥子が何かに取り付かれたかのように不協和音を弾き鳴らす。これが芸術家というものなのだろうか……?観客はただただ圧倒されるばかりである。
こうして、巨大なインパクトをもって二つの新曲が演奏され、大いに拍手を受けた。そして、新たな勢いをつけるかのように『Guilty Consceience』から、一気に『ヴァジュラ』、さらに、またしてもリョーコの十八番スラッシュナンバー『曼陀羅』が演奏され、黒Tシャツ集団がモッシュしだして、他の観客からは顰蹙を買うという始末。リョーコも賢祐も悪ノリして頭をガンガン振りまくりながら演奏する。
とうとう最後のナンバーであり、彼らのテーマ曲として名高い『Rachel』で幕を閉じたのであった。初の武道館公演を大いに盛り上げた五人。だが、彼らにとっては、そのライヴの規模がどうであれ、やりきったという充実感でいっぱいだった。
―――こうして、新人バンド《Rachel》は見事に武道館コンサートを成功に収め、伝説となった。
故郷の昼下がり
―――何もやる気が起きない……。
ベッドの上で寝転がりながらそう思う賢祐。季節は春を過ぎ、もう夏が迫りつつあった。武道館での公演以来、まるで魂が抜けきった屍のように毎日何もせず過ごしていた賢祐。このアパートに引っ越して何度目の夏だろうか…、そんなことを考えながらだらしのない格好で眠り続けていた。
そういえば、新しいアルバムのレコーディングをしなければならなかった気がする。どうなったのだろうか?みんなどうしているのだろうか?
ふっとベッドから起き上がり、外に出ることにした賢祐。さすがに夏も近づいて、暑い日ざしが照りつける中、彼は賀茂川周辺を歩いていた。何度も夏を経験していたが、こんな日には大体、河川敷でフォークギターを弾いている詩人の姿を見かけるものだ。だが、彼の姿はどこにもなかった。ただ、河川敷を一通り歩いたはいいが、何も変わったことはなかった。
腹が減ってきた。賢祐はその欲求の赴くままにハンバーガーショップで腹ごしらえをする。近所の女子高生たちや、仕事の合間で休憩しているサラリーマンなどの姿が見受けられたが、賢祐はただ一人、食べるものを食べてさっさと出て行く。空腹は収まったのに、それでもまだ足りないような気がしていた。それは、食物では収まらない何かのような気はしていた。
ぶらっと近くの公園をうろつく賢祐。そういえば、バンド活動でツアーやらレコーディングやらで忙しかったため、地元の近所をぶらつくのは久しぶりのような気がした賢祐。確かに、今の生活も充実してはいるのだが、なぜだろう、この胸の空いた感じは……。
公園の広場に出てみると、子供たちが楽しそうにサッカーボールで遊んでいたり、彼らの母親らしき女性たちがたわいもない話をしていた。彼は以前、ここでみ~やの弾き語りライヴを見たことをふと思い出した。その時だったろうか、去り際に美弥子が怒った顔でシャツの背中を引っ張っていたのは。それから、彼女と和解できたんだ。
だが、昼下がりの公園にはみ~やらしき姿は見られなかった。おそらく、家にいるんだろう。そう思った。
彼の母校、京都学術院に無意識に足が向いていた。なぜだかわからないけれど、少し寄ってみたくなった…。賢祐は自分にそう言い聞かせる。言い訳でもなんでもないのだけれど、彼は自分と向き合いたいという衝動に駆られているようだ。
思えば、エリートの両親を持ち、京方大学に入るのが当然だろうと考えていたのにもかかわらず、落ちてこの場所にやってきたのだ。最初は彼も行き場のない怒りや、言いようのないモヤモヤの中で悩んで、そして、どこかにそれらをぶつけていた。だが、この場所で出会ったクリスとリョーコのお陰で、彼はいつしかそんな小さい悩みをすべて忘れることができた。そう、あの汚くて狭く、ジメジメした部室で。
部室の前に立って、賢祐は思わず微笑んでいた。近寄って、金属ドアを開けてみる。
―――もぬけの殻。しかも、誰も手入れをしていないのか、中はホコリだらけで汚いままだった。
「しょうがないなぁ……。」
と中に入り、徐に掃除を始める賢祐であった。いつも散らかって、ホコリまみれになる部室を掃除していたのは賢祐だった。ガサツなリョーコに、ひたすらはしゃぎまわるクリス。いつも忙しく、ほとんど現われることがなかった詩人に、いつもどこかぼーっとしている美弥子。
そんな仲間のことを思いながら、賢祐はフッと笑ってみせる。
「なに一人で笑ってんだよ。気持ちわりぃな。」
声がして、驚きながら扉のほうを見遣る賢祐。そこには、部室を覗くリョーコとクリス、そして、美弥子の姿があった。
「一人で掃除なんて偉いね!Kは。」
軽快なステップで中に入ってくるクリス。
「誰もやらないからな。」
掃除機をかけながら言う賢祐。
「手伝おうか?」
と美弥子はホコリ取りを持って天井の蜘蛛の巣をはたきだした。賢祐はそっと美弥子に問う。
「なんでみんなここに?」
美弥子は振り向いてにっこり微笑みながら、
「だって、ここが私たちの居場所だから。」
と。この時も、詩人は忙しいらしく、来なかった。
第二楽章 完
詩旅
彼はどこか醒めていた。幼少時から、近所の子供達と同じように遊んでいたが、彼一人だけ馴染みきらずに離れたところから見ているような感じで、どことなく浮いたところがあった。最初は同級生に嫌われないように道化のように振舞っていたが、どうしても馴染みきれず、言葉にも毒を含んでおり、次第に同級生だけでなく、周囲の大人達からも気味悪がられるようになっていった。
少年の名は坂上智宏。どちらかというと、東京郊外のブルジョアの裕福な家庭に生まれ、なに不自由なく育ってきた彼。親は彼に対して教育熱心な方ではあったが、勉強ばかりを強いられることもなく、かといって成績も上位にいたので、塾通いもせずによく外で遊んでいた。
だが、学年が上がるにつれ、彼は表情を失っていった。まるで仮面を被ったピエロのように、感情が欠落していったのである。彼には幼い頃から親しい間柄にあった友人が一人いたのだが、中学一年の頃、彼の目の前で交通事故に遭ってしまう。だが、このことでトラウマになるどころか、動かなくなっていく友人をじっと観察していたと現場に居合わせていた目撃者たちは言う。彼が初めて死を知ったとき、まるでその死というものが恐怖や絶望を帯びたものではなく、むしろ甘美なものなのではないかと思えていた。
中学二年になった頃、それまで大人しく過ごしていた智宏は、急に生徒会長に立候補した。動機はごくシンプルなもので、ただ彼の強権を奮うことで生徒達や学校の制度を意のままに操ろうとしていた。この頃、彼は独裁者というものに憧れていたのだ。だが、上級生や教師陣たちからは、彼の中学生にしては筋が通り過ぎていてカリスマ性を秘めていた演説を危険視し、智宏を候補から無理矢理除外したのだ。彼の野望は、あまりに常軌を逸していたのだ。
以下は、彼のマニフェストの一部を抜粋したものである。
私が生徒会長になった暁には
頭髪、服装はすべて自由
携帯電話の持参もよし
バイク通学も自由 アルバイトも自由
我々を抑圧する教師や上級生達から
解放を約束しよう
そして、我々の自由は我々で作り上げていこう
高校受験を控えていた中学三年、智宏はある同級生の女の子に告白し、付き合い始めた。彼女の名は岡嶋朋子、優等生で運動神経もいい、そしてスタイル抜群というすべてにおいて完璧な女子であり、同級生達からも人気があった。二人の交際に、優等生カップル誕生と噂されていたが、智宏は歪んでいた。彼は朋子にできる限り尽くし、自分に夢中にさせていった。勉学はもちろんのこと、朋子はいろいろなことに疎かになっていった。彼女は彼にとって奴隷のように扱われていた。
進路指導の際、二人が目指していた地域でトップクラスの高校には、余裕で入れると太鼓判を押された智宏に対して、無理だから志望校を下げろと言われてしまう。
プライドがズタズタに引き裂かれた朋子は、ある日、智宏に切り出す。
「ごめん、坂上。やっぱり、この関係は私達のためによくないんだよ……。」
だが、智宏は彼女にトドメの一言を突きつけた。
「そうじゃないんだ。お前は所詮、どう頑張っても女なんだよ。」
どん底まで突き落とされた朋子。たとえ完璧だと言われていても、まだ中学三年生。精神的にまだ弱い部分があるにも関わらず、それをわかっていて彼女の堕落していく様をまるで愉しみながら観察していた智宏だった。そして、事件は訪れた。
学校近くのビルの屋上から、知世は電車に飛び降り自殺を図ってしまった。彼女が飛び降りる様子を、偶々その場に居合わせた智宏は、何一つ動じずにじっと見つめていた。そして、静かに呟く。
「あーあ。……壊しちまった。」
根っから常軌を逸していた彼は、高校受験もどうでもよくなり、願書を出さずに中学を卒業してすぐ家出した。しばらくは公園でホームレス生活を送っていたが、ゴミ箱を漁っていて拾ったフォークギターの弦を張り替え、それを弾きながら過ごしていた。
そして、智宏が十七になる頃である。生業として弾き語りをしていた彼に目をつけた男が、彼にバンドで活動しないかと話を持ちかけた。彼は考えずにその話に乗り、初めて組むであろうバンド〈SCHiZOiD〉に加入することになった。
中学の頃からヴィジュアル系バンドやハードコアパンクバンドなどに造詣を持っていた彼は、ソングライティングの面でも他のメンバーに比べて秀でていた。しばらくは彼の住んでいた地域だけで活動していたが、都心に出なければならないという判断を下し、彼は二十にして親元に帰り、必死の勉強の末、大検に合格し、ソフィア大学に入学した。兼ねてから興味を持っていた哲学科に入ったが、智宏は精神病理学に興味をシフトしていき、それが彼の作風にも表れていった。
智宏のバンドでの影響力は凄まじかった。彼は〈SCHiZOiD〉で、カオティックハードコアメタルなるジャンルを持ち込んで活動していたが、楽曲ごとのクオリティはとてつもなく高く、細部まで緻密に凝られていた。演奏面においても、ステージ上の〈リッパー・ザ・ジャック〉と言われるほど、狂った道化師のような格好をしてギターを弾きながら歌っており、ソロを弾くときに至っては不気味な笑みを浮かべていた。演奏中は微動だにせず、歌いながら正確に難解なリフを弾いていた。彼の姿を目の当たりにしたものは、その外見からは考えられぬほどの放たれるサウンドと技術に背筋を凍らせ、戦慄さえ覚えるほどで、ジャックこと智宏は瞬く間にアンダーグラウンドで名を轟かせた。
だが、智宏は活動しているなかで、性格が落ち着いていったわけではなかった。ステージ上ではたとえ微動だにしないピエロでも、裏では名のとおり残忍であった。バンド対決の際に、腹が立った相手バンドの控え室に、ライヴを終えた後に【お礼参り】と称して鉄パイプを持って乗り込んで暴れるという強行に出ることが何度もあった。バンド内でも、酔った勢いでメンバーの楽器を破壊したり、全治三ヶ月の重症を負わせたりもして、智宏ともう一人のギター以外のメンバーが固定することはあまりなかった。
ある時には、スタジオや居酒屋などで暴れ、〈ジャックまたはSCHiZOiD立入禁止〉の札が貼られていることもしばしば。また、メンバー内のベースとドラムが、同じ女を狙って揉めていたことがあった。あまりに口論がやかましかったのに怒り狂った智宏は、二人の前に当の女を呼び出し、彼自身で殺そうとして全力で止められたことがある。
このような調子で、度々メンバーで揉め事や問題ごとのタネになっていたが、バンド自体はジャックの存在のお陰で伝説とまで化していき、某所で行なわれたアンダーグラウンドでのバンドトーナメントでも、優勝を掻っ攫っていった。
だが、決定的な事件が起こる。智宏が大学三年になる頃、彼の作った新曲をすべて採用するかどうか、あるいは、ギターソロパートの振り分けで、智宏を誘い、長い間連れ添ってきたギタリストと揉めてしまう。智宏は例の如く怒り狂い、彼をクビにするどころか、本気で簀巻きにして海に沈めようとしてしまったところを他のメンバーに取り押さえられ、バンドを追放されてしまう。
―――智宏のバンド人生は終わってしまった。
通常通り、講義に通って研究をつづけていた智宏、そこである女性と出会った。金髪で優雅な出で立ちをしたその女性。彼女の名は、
幼い頃から歪みきっており、他人を傷つけても何とも思っていなかった智宏には、その隙のない、すべてを見透かしている女性にとてつもない嫌悪感を抱いていた。
講義の演習で度々同じグループに入れられることがあり、いつもいいように窘められ、智宏はやりづらそうにしていた。しかし、彼女はずっと楽しんでいる様子だ。
ある日、大学では大人しく過ごしていた智宏は本気で彼女に怒り狂ってしまった。
「お前は、一体何なんだ!オレに付きまとうな!このアバズレ女が、くたばれ!」
必死で罵声を浴びせる智宏に、女性はクスクス笑いながら、彼を嗜めるように言う。
「あらあら、坂上君。もっと大人びていると思っていたのに、意外と子供っぽいのね。」
智宏は彼女に拳を奮おうとグッと上げたところで、ピタッと止まってしまった。彼女は動じる様子もない。にっこり微笑みながら、彼女は言う。
「さすがのジャックさんもいつもいつも暴力に訴えるわけじゃないのね。うふふ。」
「え……、なんでその名前を?」
智宏は振り上げた拳を下ろし、体全体から力が抜けるようにだらりとなってしまった。
「うふふ、あなたがバンドをやるために上京してきて、トラブルでクビになったことも、全部知っているわ。」
もはや何も言えない智宏。空っぽになった彼を優しく抱きしめる女性。
「本当は……寂しかったんでしょう?こうやって、抱きしめてくれる人が、欲しかったんでしょう?」
抱きしめる彼女の体は、まるで孵化したあとすぐに寄り添う親鳥に似て温かかった。智宏は、幼い頃から親を含めた大人達に冷ややかな目を浴びせられ、このように温もりを与えてくれるような者は誰一人としていなかった。親に甘える子供のように、ただ彼は彼女に身を寄り添っていた。
こうして、彼は彼女の本当の温かさを知り、心の表面にびっしり生えていた棘も、すっかり消え去ってしまった。それから、彼はその女性と籍を入れ、共に京方大学の大学院に進学し、京都に移住した。彼女のすすめでフリースクールに通う子供達の世話をするボランティア活動に乗り出した。何より、奉仕している時が彼の心を満たしていくようで、彼はいつしか癒しの感覚を得ていたのだ。
そして、彼はある年、一人の少女に出会った。少女は小学校高学年の頃に、精神的な重圧から半身不随に陥り、入院生活を送っていた。リハビリを終えた後、彼女はピアノに向かう。まだぎこちなかったが、彼女のゆったりとしたペースで弾く音色に心惹かれてしまった智宏だった。
興味を持って少女に話しかけてみた智宏だったが、少女は彼に警戒しているのか、一言も話そうとしない。話によると、彼女は重症で、言葉がまだ発せないでいたのだ。どうすれば彼女の心を開けるのかを考えた後、智宏は昔から習っていたヴァイオリンで彼女と演奏してみた。音楽を通じて、交流を重ねる智宏と少女。いつしか、心を開いていった少女は、遂に言葉を発するようになった。
「けんちゃん。」
最初に発した言葉は、それであった。誰かの名前だろうか?それだけが気にかかった。智宏は少女に名前を尋ねてみる。
「え、と、えっと……、み~や。」
智宏と金城寺美弥子という名の少女の交流は深まっていったのだった。
詩旅 完
第三楽章
―――少女の姿
ずっと遠い土地で
君は泣いていた……
なぜ泣いているの?
そう尋ねると
少女はそっと答えた
大切なものを失った
ずっと遠い空の彼方へ
手の届かないところへ
一緒に探しに行こう
そう言うと君は
笑いながら頷いた……
惑う星々
3月以降、デビュー後一年も満たずして初の武道館ライヴを成功に収め、話題騒然となったロックバンドRachelであったが、それから表立った活動も見られず、沈黙を守っていた。おそらくレコーディング作業をしているのだろう、まことしやかにそう囁かれた矢先、メンバー五人とも疲れきって休息に入っていた。メジャーレーベルと契約後、プロダクションに頼らない方向で無理矢理活動を推し進めようとした結果、めまぐるしいまでの展開でバンドがのし上がっていった反面、次の作業に至るまでの気力はもはや残されていなかった。
スケジュール管理などは主に賢祐と詩人で行なわれていたが、詩人の提案で美弥子の体調のこともあり、しばらくは休止することがウェブサイト上で告げられた。ちなみに、楽曲配信や情報を管理するウェブサイトの管理者は、コンピュータ関係担当のクリスであった。レコーディングの際でのエンジニアリングはすべてクリスに任されており、事実上セルフプロデュースで成り立っていた。
しかし、何の動きもないまま年月だけが過ぎていき、いつの間にか半年近くが過ぎていた。夏が終わり、充電しきったところで何度かメンバーで集まってミーティングや、スタジオでのレコーディングリハーサルが行なわれたりしたが、次回作の方向性について何一つ決まらなかった。前作の『BLACK MAGIC KINGDOM』は、大学時代から演奏していた曲が大半で、元々自身で持っていた楽曲をバンドでアレンジした詰め合わせのような作品であったのだが、ライヴで披露した新曲に続き、どれだけの統一性をもって製作するかで迷いが生じていたのだ。
「ゴリゴリのスラッシュ路線で行くか。」
とリョーコ。美弥子はすかさず返答する。
「私、それだと歌えません。」
「プログレっぽくコンセプトアルバムにするというのは?」
と賢祐が言う。
「それだとキャッチーさが……。」
とクリス。それぞれが意見を出し合いながらも、広い音楽性を持っている詩人を除いては好みがそれぞれ異なっているメンバーで、何か一つのものを作るという困難さが早くもここで生じていた。再びリョーコが、
「ブラックメタ……。」
全員、すかさず、「「それは却下!」」
こうして何一つ明確な方向性を打ち出せないまま、活動も凍結し、いつの間にか寒い季節が近づきつつあった。年末にまたライヴがあるんじゃないかと噂されてはいたものの、アルバム製作のことでそれどころじゃないバンドRachel。このまま何もせず、ここで終わってしまうのか?
結局、年末年始は各々で曲作りに励み、持ち寄った楽曲を検討することにした。そして、年が明けてそれぞれが持ち寄った楽曲はどれも決定打に欠けていたのである。ここで選ばれたのはクリスの打ち込んできた『蝶が舞う…』と『The Great Mother』、そして、詩人がフォークギターで録音してきた『樹海』と『Stigma』、そして、美弥子がシンセサイザーで打ち込んできた『ほしのこえ』と賢祐の展開の激しい『心の闇~Inner Space』がひとまず選ばれた。全体的に、作ってきたそれぞれのメンバーが互いに遠慮してなのか、それとも武道館で演奏した新曲などを意識したのかはわからないが、どれも陰鬱な感じと哀愁漂うメロディ、そして浮遊感などを重視した楽曲ばかりで統一されていた。なぜこれらが選ばれてしまったのか、誰一人として明確に答えられはしなかった。一人つまらなさそうに脹れているのは、自分の録音してきたスラッシュメタル系のリフがまったく採用されなかったリョーコである。
こうして、これらの楽曲をアレンジし、レコーディング作業を無事に終えたバンド。
「アルバムタイトルはどうする?」
と尋ねるみ~やに、
「『血と薔薇にまみれて』」(賢祐)
「『病んだ瞳の奥で…』」(詩人)
「『ニャルラトホテップ』」(クリス)
などと様々な意見が出る中で、リョーコが、
「『Sex & 禅』」
と言ったのに対し、意外にも詩人が、
「いい。それ、いいぞ。俺は絶対にそれがいい。」
と食いついてきたので、食いつかれたリョーコですら少し戸惑っていた。だが、詩人の輝くような瞳に負けて、さすがに最初は難色を示していたクリス、賢祐、美弥子も譲ることにした。リョーコ曰く、
「……深い意味はないけど。」
ということであるが、詩人は何に共感を示したのか…?
以降、それについてはまったく触れようとはしなかった詩人。美弥子が尋ねても、「フフフフフ……。」と不気味な笑みを浮かべてごまかすだけであった。
こうして、製作の過程で様々な葛藤に突き当たったRachelのメンバーであったが、2013年8月、無事にセカンドアルバム『Sex & 禅』を世に発表することができ、再び全国ツアーに乗り出すことを宣言するバンドであった。
この時すでに、以前のツアーから一年以上が経っていた。ファン待望と銘打たれるも、アルバムの内容は、デビュー前からの音や前作の頃と比べると、アグレッシヴさや荒削り感がなくなって、かなり落ち着いている。それどころか、ポップだがどこか陰鬱で、何か狂気を感じさせるような音作りとなっており、ファンや音楽評論誌などで、賛否がはっきりと分かれてしまった。いわゆる、問題作である。
全体的にテクノやエレクトロニカなどから影響を受け、アンビエント系の音楽を意識しており、クリスお得意のポップなサウンドや、師匠によるアコースティックギターをフィーチャーした陰鬱なプログレッシヴロック的な楽曲などがアルバム前半を占め、前作の流れを汲む曲は後半からのリョーコのスラッシュナンバーである『曼陀羅』、賢祐の十八番『Pearl White Drops』、そして賢祐と美弥子による共作バラードの『LAST ANGEL』のみである。実際のところ、このアルバムの主導権はクリスや師匠ではないかとまことしやかに囁かれていた。さらに、メンバー各々の持ち味がことごとくつぶされ、迷走しているようにも思われた。
いずれにせよ、この作品を高く評価するファンや評論家は、彼らの挑戦を肯定的に見た。だが、周囲の評価にかかわらず、バンドの雰囲気はあまり良くなかった。いつしか、メンバー同士で互いに遠慮するようになっていた彼らだが、互いに気を遣いすぎて自分のペースで伸び伸びと楽曲作りや演奏がしづらいような空気感がバンド内を走っていた。
―――年末が近づき、Rachelによる全国ツアーがいつ行なわれるかと待たれる中、大変なことが起きてしまう。
年明けにツアースケジュールが決まっていたバンドであるが、なんと年を明けずして美弥子が倒れてしまうという事態に見舞われてしまう。医者によると、原因は彼女がメジャーデビュー後、ずっと溜めてきたストレス性の自律神経失調による不具合で、しばらく美弥子をバンドから離すよう言われてしまう。残されたメンバー、悔やむのは誰よりも賢祐であった。
ついこの間、師匠から美弥子の話を聞いたばかりなのにも関わらず、彼女を救うことができなかった。そんな自責の念が賢祐を襲う。彼自身が書いた曲、『Guilty Conscience』の歌詞を思い出し、メシアに救いを求めたい気持ちに現在の自分を重ねてしまう。
途方に暮れるメンバー、迫る年明けのツアーを前にして、焦燥感だけが襲う。そんな状況に拍車をかけるよう、無神経なマスメディアは『Rachelに新ヴォーカル加入か?』、『Rachel解散か!?』などという記事や特集を組み、メンバーにインタビューを求める依頼が度々来る。
ツアー前のミーティングで黙り込む四人だったが、遂に賢祐はリョーコに切り出した。
「リョーコ、お前、歌えないのか?」
顔を下に向けていたリョーコは、すっと顔を上げて賢祐を見る。
「アタシが? さあねぇ……。でも、観客はアタシの歌声を聞きに来るわけじゃないだろ。」
再び顔をうつむけるリョーコに、それでも諦めず、頭を下げ彼女を説得しようとする賢祐。
「頼む、リョーコ。歌ってくれ。オレは、このツアーを絶対に中止したくない。美弥子はきっと戻ってくる。」
一人、一生懸命に話す彼を真剣に見つめている師匠。
「美弥子が、いつ戻ってきても歌えるように、ツアーは絶対にやろう。ここでやめちゃダメだ。」
彼の強い説得に、真っ先に立ち上がるクリス。
「そうだよ!Kの言うとおりだ!美弥子は歌うことしか考えていないから、きっと戻ってきて歌うよ……。」
そう言ってリョーコの肩を叩く。リョーコはふぅと溜息を着いて言った。
「わかったよ。参った。K、お前の言うとおりだ。み~やがいない分、アタシらでキッチリ埋め合わせよう。」
静かにうなずく師匠。こうしてツアー決行は決まった。予定通り、美弥子抜きでツアーを行なう旨をメディアに発表し、年が明けた。
Rachel二度目のツアーは、京方大学西部講堂の大晦日ライヴから始まった。これで三度目の公演となるが、彼らをよく知っていた地元住民は、み~やがいないことを残念に思っていた。しかし、ギターを弾きながら必死で歌うリョーコの姿を見て、彼らに感情移入する者も少なくなかった。
こうして、み~や不在で始められた二度目の全国ツアー。今回は地方を回らず、大阪、名古屋、そして東京と、大都市を中心にまわるツアーであった。当初はみ~やの体力を考慮されて組まれたスケジュールであったが、当のみ~やはおらず、四人で大きな会場でのライヴをできる限りでこなしていくバンドであった。
年が明けて1月の中旬に大阪城ホールでのライヴ。観客はまちまちで、一般人からゴスロリ、分厚いメイクを施したバンギャルから外国人まで、幅広いファン層に支えられているRachel。彼らはそんな観客に感謝しながら、必死で演奏しきった。
同じく名古屋でも、前回のツアー時にいた髑髏や怪物の描かれた黒Tシャツ軍団もより一層の盛り上がりを見せながら、無事にこなすことができた。
2月中旬、都心部でも六本木、新宿、渋谷などでギグを行ないながら、3月末に迫る東京ドーム2Daysライヴを待った。
最後の天使
三月末、いよいよツアーも大詰めとなり、遂に彼らの念願であった東京ドーム2Days〈Inner Space~深淵へ……〉コンサートが行なわれる五日前となった。賢祐にとっても憧れの東京ドームでプレイできるという感覚に胸が沸きあがる思いがしたが、彼にはまだ気がかりなことがある。
そう、いまだツアーメンバーは四人。ゲストのキーボーディストを参加させているとしても、どうしても戻ってきて欲しいメンバーがいた。そのことを懸念しながらも、公演に向けて綿密なリハーサルが行われる。へヴィなリフを弾きながら、必死で歌うリョーコ。このときばかりは、一つも不満を言わずに演奏している。
このリハーサルの間、バンドのテンションと一体感は最高潮に達していた。東京ドームという大規模な公演に向けてのプレッシャーもあるが、それ以上に、きっと帰ってくるであろうメンバーに対しての最大の敬意がバンドの原動力として動いていたのだ。会場の大きさなど、彼らにはもはや問題ではなかった。五人揃って演奏する、この一体感こそが彼らにとってのライヴなのだ。
ツアー最後の公演まで、三日と迫った時、遂に彼らの待ち望んだことが起きた。
―――美弥子だ……。
入院していたはずの美弥子が、精神状態の安定を取り戻し、体調も良くなったということで、リハーサルに現われたのだ。メンバー一同、彼女の方を見遣り驚いている。
「美弥子。」
真っ先に声を発したのは賢祐であった。クリスもチューニングを中断し、すぐに美弥子のもとへ駆け寄った。
「み~や、大丈夫なの!」
美弥子は微笑みながら、
「うん。おかげさまで。」
そして、歩み寄る三人。賢祐は心配そうに、
「お前、出ても大丈夫なのか?」
うなずく美弥子。
「ええ。みんな、私の分もツアー頑張ってくれてありがとう。最後のこのステージで、私、一生懸命歌うよ。」
彼女らしいお辞儀とともに、バンド内に安心感と新たな一体感が最高潮に達する。だが、賢祐は心配そうに、
「でも、もう三日しかないが、演奏は大丈夫なのか……?」
と尋ねると、美弥子はにっこりしながら答える。
「大丈夫……、夢の中でみんなと一緒に演奏していた。だから、今度は私も演奏できる。」
この一言だけで、メンバーのモチベーションは支えられる。Rachelにとって、美弥子の存在感はあまりに大きい。一人欠けても崩れてしまう、一人ひとりが繊細だが、全体が強固な結びつきをもったバンド、それがRachelなのだ。技術や経験などでは説明できないような強さが、このバンドにはあるのだ。
こうして、二度目の全国ツアーで初めて、五人揃ってのリハが行なわれた。それまでの一体感がさらに強みを増し、一曲一曲すべてに命が吹き込まれたかのように完璧なサウンドを織り成していた。演奏に対して心配された美弥子でさえ、完璧に歌いこなしていった。それも、一生懸命に歌っていたリョーコとは違い、まさに天真爛漫さを帯びてサウンドを作り上げていく。もしかすると、本当に彼女は四人と共にツアーをしていたのかもしれない。それも、物理的にはとても説明できないような形で。ツアー中にリョーコが歌っていた歌声の中に、み~やが生きていたかのように自然であった。
Rachelによる全国ツアー、最後の公演の三日前にして、突然み~やの復活が大々的に報じられ、この公演を楽しみにしているファンを早くも沸かせるのであった。
二日間にもわたる東京ドームでのコンサートは大盛況の中で行なわれた。
―――再び集結した五人、満を持してステージに立つのであった。そして……!
ゴシック
メジャーデビューを果たしてから二枚のアルバムを発表し、二度にもわたる全国ツアーを成功させたRachelであった。しかし、ファンや世間の期待や評価の反面、音楽の方向性に迷走し、メンバーそれぞれが一体どこに向かっていけばいいかわからずにいたのである。
アグレッシヴな音楽を追求したいリョーコの意向は、サウンドプロダクションの過程の中で抑えられてきた。また、暴れ狂うドラマーとして定評のあったKも、そのような環境の中でソフトな方向へとシフトせざるを得なかった。元々、アグレッシヴでエクストリームなサウンドばかり追求してきた詩人にとっても、Rachelというバンドの未来を見据えるのは困難であったし、たとえポップ志向と言っても、引き出しに数限りあるクリスも引き出す作業には限界を感じていた。しかも、彼の持ち前であるテクニカルなベースも抑えられている。そして、伸び伸びと素朴な歌声で、決して自分のペースを崩さずに歌い続けていたみ~や。バンドを経験していく中で技術や表現力が上がっていく中で、彼女自身が心から表現したいものに関してジレンマを感じざるを得なかった。それぞれが自分の在り方に迷走しだしていた、そんな時期であった。
これまでの流れで、ポップな路線が打ち出され、多くのメジャーアーティストの運命を同じように辿ることとなってしまったバンド。メンバー間と、彼らを取り巻くスタッフたちとの亀裂は深まるばかり。しかも、そんな先行きの見えないバンドに対し、レーベルが契約打ち切りを告げてきていた。こうして、彼らは新たにレーベルとディールを結ばねばならないこととなる。
そのような状況のなかで、無謀にも世界に向けて宣戦布告がなされたのだ。インターネット上のウェブサイトで正式に告知された。メディアではあまりに早計な判断であるとあちこちの音楽雑誌やメディアで叫ばれていたが、彼らは気に留めることさえなかった、
これを提案したのはリョーコである。勝機があって提案したことなのか、それとも焦りからそうしたのかは推測しようがなかったが、彼女なりにバンドが陥っているこの状況を打開していこうという姿勢が見られたのは確かだった。いずれにせよ、一度言い出してしまったものは、もう後には引けない。彼らはこの苦境をいかに乗り切るかを試されているのだ。
新たに楽曲を製作するため、地元京都でミーティングを重ねながら、スタジオで音出しをしていくメンバー達。しかし、何度やっても、決定的な方向性を打ち出せるものはなく、ただただ時間ばかりが過ぎていくばかりであった。たった二枚のアルバムでさえ、互いにまったく異なるものであり、どちらの路線を取っていくべきか、はたまた、新たに路線を開拓していくべきか、悩むべきところは多かった。
開き直ったのか、リョーコはお得意のヘヴィなリフを弾き出した。
「世界に喧嘩を売るんだ。せっかくだから、思いっきりアグレッシヴなもので行こうぜ。」
誰も口を開かず、反論されることもなかったので、気まずくなるリョーコ。スタジオ内に凍りつくような緊張が走っていた。詩人も、エフェクトをクリーンにして、少しフォークのリフを弾いては、「違うな……。」と首を傾げ、弾くのをやめる。クリスも、その小さな身体にベースを抱えたまま、座っている。
こんな調子で、作業どころか、バンドとしての機能さえ滞っていた。来る日も来る日も、ただスタジオに篭もって進まない作業に向かっているだけ。我慢の限界が真っ先に訪れたのは、リョーコである。彼女はストレスに負け、アルコールに走り出す。二日酔いでやってきては、無言のままただ座っているだけという状態がつづいた。彼女の悪習についても、モチベーションの低下についても、誰一人としてそれを咎めるわけでもなければ、かといってどうしてやることもできなかった。
このような雰囲気の中、遂に緊張の糸が切れてしまった。
「あー、もう、やってられっか!」
リョーコはギターを置き、そのままスタジオから去ってしまった。賢祐は思わず、
「リョーコ!どこに行くんだ。」
と言って彼女の後を追ったが、すでにスタジオ周辺からは消えてしまっていたので追えなかった。賢祐は小声で呟く。
「言い出したの、アイツだろ……。」
リョーコに対する怒りや無責任さを感じていたというのではなかった。何もできないという無力感や、心もとなさに、先行きの見えない不安に駆られていた賢祐だった。このまま、世界に対して売った喧嘩は不戦敗で終わるというのか?こんなことがあるのか。
スタジオに残された四人であったが、相変わらず作業は進まず、み~やが徐に弾くピアノも、まったく琴線に響かない。あれだけ伸びやかで素朴だったメロディも、なぜか今聴くと色あせているような気がしてならない。これは迷いか?それとも、何かわだかまりが……。み~やは黙したまま、何も語ることはなかった。まるで普段の詩人のように。
スタジオ内に、メンバー達に不安が高まりつつあった、まさにその時である。今度は、賢祐に異変が起きたのだった。
バンドを始めてからというものの、彼はずっと健全な状態で活動をつづけてきた。そのお陰で、すっかり人とコミュニケーションができるまでになっていたのだ。だが、こともあろうに、この張り詰めた状況によって、賢祐の精神は遂に異常をきたしてしまう。
リョーコにつづいて、レコーディングに来なくなってしまった賢祐。一体どうなっているのかと心配しつつも、〈世界デビュー〉というプレッシャーに彼を心配する余裕もなかったスタジオの空気は、依然としてレコーディング作業に彼らの意識を向けさせた。
そんな中、み~やだけは、やはりどこか落ち着かない様子を隠せなかった。彼女は賢祐を心配して、その日の作業を終えた夜、すぐさま彼の住むアパートに向かった。
そして、レコーディングスタジオからはそう遠くない彼の住んでいたアパートに到着し、インターホンを押すが、音沙汰がない。
「……誰もいないのかな?」
もう一度インターホンを押すが、やはり誰も出ない。諦めかけたみ~やが、何気なくドアノブを回すと、施錠がされておらず、鍵が空いているではないか。何とも無用心だと思いつつ、美弥子はドアを空けて中に入っていった。
美弥子の視界に真っ先に飛び込んできたのは、右腕が血まみれの状態で倒れ伏せている賢祐の姿だった。美弥子は青ざめながら、慌てて靴を脱いで賢祐のもとへと駆け込んだ。
「賢祐君!」
近づいて、倒れ伏せた賢祐の頭をみ~やの膝元に置いた。どうやら彼は気を失っているらしかった。おそらく血を大量に流しすぎたせいかと思われる。
「賢祐君、しっかりして。賢祐君!」
美弥子は、ただ涙を流しながら、賢祐の名前を連呼した。彼の左手には軽くカッターナイフが握られており、美弥子が揺さぶるとカッターナイフが床に転げ落ちたのだった。
「大丈夫だから、賢祐君。」
そう言うと、すぐさま美弥子は部屋の洗面所からタオルを持ち出し、彼の右腕を固く縛って結びつけた。そして、すぐさま冷蔵庫からミネラルウォーターをコップに注ぎ込み、賢祐を後ろから抱きかかえた体勢で彼の口に飲ませた。
すると、かすかに目を開け、「美弥……子?」と声を発した。
曇った表情がすっかり晴れた美弥子は、そのまま賢祐の頭を後ろからギュッと腕で包み込むようにして抱きしめた。
「よかった……、賢祐君。目が覚めて。」
賢祐はまだぼんやりしながらも、覚束ない声で、
「オレは……生きているのか?」
美弥子は口をつぐみながら黙って頷く。
賢祐は溜息をつきながら、「そうか……。」とだけ言って、そのまま寝入ってしまった。美弥子は賢祐をベッドに就かせ、美弥子も床に伏せてそのまま眠りに就いた。
翌朝、み~やは電話でクリスと師匠にしばらくレコーディング作業は中止しようと持ちかけ、二人はすぐさまOKした。結局、世界デビューアルバムの製作は、当面の間、延期となった。
何度でも甦る
こうして美弥子はしばらく賢祐の家に入りびたりとなった。動けない彼のために家事・洗濯などは彼女がすべて引き受けている。しかし、意識が戻った後も賢祐はぼんやりしながら口を開こうともせず、心を閉ざしきっていた。
「ご飯ここに置いとくね。」
と、美弥子が食事をテーブルに差し出してもウンともスンとも言わない状態がしばらくつづいた。賢祐自身、こんなことになってしまうとは思いも寄らなかったが、今は考える力も持たず、ただ空をぼーっと眺めているだけであった。
―――赤みがかった夕空、ずっと遠くで同じ空を見ている者がいる……。
ふと賢祐が小声で囁く。言葉の意味をわかりかねた美弥子であったが、どう見てもこの部屋の中ではない、また自分ではない誰かを示しているようだった。
窓から見える黄昏時の空を見て、美弥子は胸が苦しくなってしまった。
そして、数週間が経った。美弥子に献身的な世話のお陰で徐々に体力を回復していった賢祐。普通に運動することができるぐらいまでにはなったが、意識だけはまだぼんやりしており、いつも空を眺めながらうわごとを呟いているように見えた。そんな賢祐に早く回復してもらおうと、健気に彼の世話をつづける美弥子。だが、この間にもバンドのことは忘れておらず、賢祐が眠っている合間にペンを片手に詞を書き綴っていた。
意識を十分に取り戻し、以前のようにうわごとを言わなくなった賢祐。美弥子とはまともな会話が交わせるようになっていた。
「はい、おじや作ったよ。」
と差し出す美弥子。
「ありがとう。」と一言礼を言って、差し出されたおじやを食べる賢祐。ただ、美弥子の気持ちだけが嬉しかった。だが、同時に彼女に対する自責の念や、自己嫌悪がまだ解消し切れていない賢祐。ふと美弥子がそっとつぶやいた。
「あなたは……どうして、自分を殺そうとするの?」
食べる手が止まり、うつむく賢祐。美弥子はまだ続ける。
「私は、きっとあなたとは逆。ただ、生きたいって思っている。それなのに、私はあなたが理解できない……。」
それは賢祐にもわからないことだった。彼は絶対の自信を持っていた幼少時とは違って、いつしか自分の存在が嫌になり、自分を傷つけることも厭わないようになっていた。いつも過去を振り返り、今を失おうとする。美弥子はそんな彼をずっと見守ってきたが、遂に疑問を投げかけてきた。無言のまま、ただ何も言えずにいる賢祐である。
「私は……朝起きるといつも思う。今の自分は、昨日の自分と同じなんだろうかって。寝る前もいつも不安で、明日も同じ自分でいられるかって、すごく恐くなるときがあるんだ……。」
いつになく真剣に語る美弥子。笑顔を振りまいている彼女から、こんな言葉を聞くとは思ってもいなかった。
「でもね、朝になるといつも生まれ変わったように清々しくて、心がすっかり晴れていて。雀の鳴き声も、朝の澄んだ空気も、何もかもが気持ちが良くて…。ああ、私、生まれ変わったんだなって、いつも思うんだ。」
少しだけ笑みを浮かべた。彼女は、普段何も考えていないのだと思っていた。いや、何も考えないようにしているのだと思っていた。賢祐だって、こういうことを考えていた時期はある。だが、不安定になってきて、自分の居場所がわからないようになってしまう気がして、いつもやめてしまう。それを、美弥子は自分なりに答えを探そうとしていたなんて……。
「あのね、昔、誰かから聞いたんだけど…、人っていうのは生まれるために死ぬんだって。だから、今の私たちは、常に死んで、そして生まれつづける。だからね、今をもっと楽しむべきなんだって。」
突然の彼女の言葉、賢祐にはどこか引っかかった。どこかで聞いたことある言葉。確か、彼が六歳だった頃に近くの禅寺の坊さんからそんな話を聞いたことがあったような、なかったような……。そんな不思議な感覚に囚われながら、彼はただ美弥子をじっと見つめていた。
すると、賢祐の手を取り、うつむく美弥子。
「だから、あなたも……、ちゃんと生きて。自分を殺そうとしないで……。」
願いかけるように彼女は言った。まるで、自分の中にある傷を押さえるように。そして、二度とその傷を広げないように……。賢祐は、そっと美弥子の前髪をかきあげ、彼女の額に自分の額をあてがった。
―――雨、薄暗い空の色、部屋の中。賢祐も美弥子も黙ったまま、ただ窓の外に見える空をぼんやりと眺めていた。
「私たち、これからどうなっちゃうんだろう……?」
ふと美弥子がつぶやく。賢祐はずっと黙っている。
「これで、本当によかったのかな?Rachelも、私たちも……。」
美弥子の方をチラリと見遣り、賢祐は吐き捨てるように言った。
「お前、もう帰れ。」
突然の彼の発言に、言葉を失う美弥子。
「どう……して?」
「オレは……、美弥子に看病を頼んだ覚えもないし、一緒にいて欲しいと頼んだわけじゃない。」
うつむきながら、「ごめん。」とだけ言って、美弥子は激しい雨の中アパートから去っていった。
その後数日間、雨の日は続いた。賢祐はただぼんやり、先のことも、今やらなければならないことも考えが及ばないまま、一日三回の精神安定剤を服用しながら日々を過ごしていた。
数日して、しばらくつづいた雨もやみ、すっかり晴れ渡っていた。夜空には星がたくさん輝いており、なんとも清々しい光景になっていた。
あまり外に出る気がしなかった賢祐だが、雨の間、数少ない食料で過ごしていたため、空腹が真っ先に彼を襲った。少し気分が晴れたような気がした賢祐は、外出用の服に着替え、ドアを開けた。玄関を開けてすぐ側には、驚くことにできあがった鍋焼きうどんが置かれてあった。しかも、できたてである。
賢祐はしゃがみ込んでそのトレイに目を遣ると、紙切れがおいてあるのに気がついた。美弥子だ。
賢祐君
ちゃんと食べて体力つけてね
待ってるから
美弥子より
賢祐は、ただ黙ったまましゃがみ込んでいたが、空腹に耐えかねて、トレイを部屋の中に運び込んだ。
―――そして数時間後、すっかり夜中になり、街が寝静まった頃、賢祐のアパートに忍び足でこっそりとやってくる美弥子の姿があった。物音一つ立てないよう、抜き足、差し足、忍び足といった具合で賢祐の部屋に向かう。
ガタッ
驚いてキョロキョロ辺りを見渡す美弥子。屋根の上に黒猫がいる。「ふうっ」と、腕で額に滲む汗を拭う美弥子。賢祐の部屋の前に着くと、すでに食べ終わった鍋焼きうどんの鍋がトレイの上に置いてあったので、彼女はすぐさま回収しようとする。と、紙切れが置いてあるのに気がつくが、自分の筆跡ではない。
美弥子
わざわざありがとう
美味しかったよ
あと、この間は本当にごめん…
賢祐
この言葉で、美弥子はその場でギュッと紙切れを握り締めながら、それを嬉しそうに抱きしめるようなしぐさに出る。
「うーっ、食べてくれたんだ。よかったぁ。」
突然、部屋の玄関の扉が開き、びっくりする美弥子。ドア越しから賢祐が顔を出している。美弥子は唖然としながら、
「あ、ああ、け、賢祐君。どうもー。」
と笑顔でとぼけてみた。
「よう。」
賢祐はドアを完全に開き、
「夜遅いだろ。危ないから泊まって行けよ。」と言う賢祐にうろたえながら、
「え、あ、はい。」
と高い声で二つ返事。結局、賢祐のアパートに泊めてもらうことになる美弥子であった。
そんな中、音楽雑誌やテレビなどで、リョーコが新バンドを結成して新たに活動するというニュースが報道されたのであった。
一騎当千
Rachelのギタリスト・リョーコによる新プロジェクト〈METALLIX JAPAN〉。Rachelには無いヘヴィでアグレッシヴなサウンドを作る、そう大々的に宣伝された。このニュースに、初期のへヴィな音を求めていたファンからは支持され、彼女の活動に拍車をかけるように全国の音楽メディア、特にヘヴィメタルを扱う雑誌などに持て囃された。リョーコ自身、このプロジェクトには今まで以上の自信と輝きに満ち溢れており、このままだとRachel脱退ということもありうると実しやかに囁かれている。
この状況を、最も早く感知し、何も言わずにそっとしておこうと決めていたのが、彼女の幼い頃からの親友・クリスであった。彼は、リョーコが本当にやりたいことを一番よくわかっていたし、彼女を止める理由も、手段も持ち合わせていなかった。いつもは元気にはしゃぎながらも、ムードメイカーとしての役割を担ってきたクリスも、今度ばかりはさすがに無力感に襲われていた。
結局、残されたクリスと師匠の二人は、Rachelの活動の目処も立たぬまま、ただ取り残され、時の流れるまま、流されることしかできなかったのである。
しかし、この報道を見ていた美弥子は、黙ってはいられなかった。何事もない午後の昼下がり、燦々と照る太陽の下、ベッドの上で気持ちよさそうに眠る賢祐であった。そんな彼に背を向け、玄関に立つ美弥子。
「ごめんね、賢祐君。私、行かなきゃ。」
そういい残して、美弥子は彼の部屋から去っていった。
街を走りゆく美弥子、急いで公園に着くと、そこにはクリスと詩人の二人が待っていた。二人の側に寄り、前に屈みながら息を切るみ~や。
「ごめんね、急に呼び出して。話しておきたいことがあるから…。」
クリスはみ~やが切り出す前に、
「……リョ―コのこと、だよね?」
み~やは顔を上げ、クリスを見ながら小刻みにうなずく。
「リョーコは、好きにやらせればいいと思う。」
少し目をそらしながら言うクリス。いつもとは考えられないほど冷たく見えたが、み~やはそれに負けないように、
「違う。違うんだよ、クリス君。あんなの、彼女が本当に出せた答えじゃない…。」
ただ黙って立っている二人。詩人が珍しく口を開き、
「賢祐は、どうだったんだ?」
「彼は……、賢祐君は、まだ悩んでいる。彼はまだ、答えを探している。」
「そうか。」
詩人は帽子をかぶりなおし、腕を組んで黙ったままうつむいた。
「師匠……、私、行ってくるよ。」
クリスは慌てて、
「行くって言ったって、どうするの?」
み~やは自信ありげに笑いながら二人を見る。
「リョーコと……戦わなきゃ。」
そう言い残してその場を去っていく彼女、そして、詩人は言う。
「あいつは……、まだ一人で答えを出そうとしているのか。」
クリスは黙ったままうつむいていた。
―――み~やの戦いは始まった。
彼女は一人、キーボードを持って全国各地に単独でのプロモーション活動を始めた。活動といっても、主に路上ライヴによるものだった。都心部はもちろんのこと、九州から中部地方、時には東北や北海道まで渡り、彼女の弾き語りを披露した。今までの楽曲だけでなく、おそらくこれから楽曲として形になるであろう新作なども披露して言った。本当にそれが世界デビューとしての武器となるかどうかはまだ彼女もわからないところであったが、関係はなかった。ただ、Rachelというバンドの本来の姿を取り戻すため、そして、彼女の居場所を取り戻すための戦いだったのだ。
そして、東京、渋谷でのイベントに出演し、演奏しているときであった。遂に、彼女の目指すべき宿敵、リョーコと出くわすことになる。彼女はすでにソロプロジェクトを進めており、レコーディングが終わってライヴ活動を始めたリョーコのバンド。彼女と、見知らぬギター、ベース、ドラムスでの活動である。どのメンバーもバリバリのメタルファッションで、リョーコ自身も顔を白塗りにし、奇抜な衣装に身を包んでいた。同じロックバンドでも、相変わらず青いワンピースで弾き語りをしていたみ~やは、多少気後れしたが、気持ちは負けていないつもりであった。Rachelを知るものとしては、夢の共演のようなものが期待されるところだったが、事情はそう甘くはない。それぞれの演奏が終わり、舞台裏でリョーコに問い詰める美弥子だった。
「どうして、離れたの?」
リョーコは白く塗られた顔面を一つも歪ませることなく、ただ美弥子を見下しながら言う。
「うるせぇ……、関係ないだろ。」
そんなリョーコの態度に屈することなく美弥子は、いつになく鋭い目でリョーコを見ている。リョーコはまだ続ける、
「アタシはね、自分の信じる音楽を、ただまっすぐ貫きたかっただけなのさ。これからが、アタシの本当の戦いなんだ。」
美弥子は、顔を俯け、拳を握りながらしばらく間を置いて言った。
「違う……、リョーコ。貴方は逃げているだけ。」
「……何だと?」
「貴方は、自分で放った言葉の重みに耐えかねて、逃げているの。」
「そんなこと……。」
「もうわかっているはずよ。」
しばらく沈黙がつづいた。リョーコに背を向け美弥子、
「私は、一人だって戦うよ。たとえ貴方が言ったことだとしても、私はそれを背負って戦える。……だって、私がいないときも、みんな私の分まで背負って頑張ってくれたから。それに、私の居場所を失いたくないから。」
「くっ……。」
リョーコは壁に拳を打ちつけ、そのまま黙りこくってしまった。美弥子はそんなリョーコを憐れむような目で振り返りながら、そのままリョーコの前から立ち去ってしまった。
こうして、二人はすれ違ったまま、み~やの活動は終わりを迎える。世界デビューが発表された三月から、もうすでに三ヶ月近くが経っていた。もう夏も終わる……。
現実と理想のなかで
み~やの単独プロモーション活動はひと段落つき、クリス、師匠とで再びレコーディング作業に戻る。三人の作成していた楽曲デモでかなり作業を進められると思われたが、まだ決定打が足りない。このままでは、前作の『Sex & 禅』で犯した失敗をさらに繰り返してしまいかねなかった。それだけは避けねばならない。そんなプレッシャーの中、スタジオに再び緊張が走る。
世界へはばたくには三人の力だけでは到底足りないように思われた。そんな張り詰めた空気の中、レコーディングスタジオのドアが勢いよく開く音がした。
「待たせたな、諸君!」
堂々たる姿で、自信ありげな表情をしている賢祐であった。
「賢祐君!」
「K!」
彼の登場に、少し元気を取り戻した様子のクリスと美弥子。二人で彼に近寄り、
「もういいの?体調は。」と美弥子。
「ああ、おかげさまで。」
と二人の頭を撫でる賢祐であった。いずれにせよ、彼が戻ってきたことで、三人は何かが進むことを予感していた。期待通り賢祐は、真っ先に鞄から自前のMDを持ってきた。
「渾身の力を振り絞って打ち込んできたデモだ。聞いてみて欲しい。」
こうして、彼の作ってきた十二曲入りのデモを流す。今度のアルバム作りにあたって、グランジ寄りのポップな路線やエレクトロニカを含めた音、あるいは、アコースティック路線を避けて話し合われたのであるが、賢祐のデモからは、以前までの疾走曲や構成が複雑で荘厳あるいは陰鬱な楽曲ではなく、避けられるべきと思われた前者のポップ路線を積極的に推し進め、さらに発展させたような内容となっていた。この意外な路線に、驚きながら顔を見合わせるクリスと師匠。二人には、賢祐のこの行動が、彼の妥協なのか、それとも、積極性なのか、はたまた開き直りなのかわからなかった。だが、賢祐の表情は依然として自信に満ち溢れていた。
そして、デモが半分ほどに差しかかったとき、再び扉が開く音がした。一同、一斉に扉のほうを向く。入り口に、腕を組んだまま立っていたのは、リョーコであった。
「リョーコ……。リョ―コだ!」
真っ先に見つけたクリス。申し訳無さそうにリョーコは、
「よ、よう……。」
とだけ言うと、み~やはリョーコに向かって駆け出し、彼女に飛びついた。驚きながら、み~やを受け止めて頭を撫でるリョーコ。
「リョーコ~、戻ってきたんだぁ!よかったぁ!」
「ごめん。本当にごめんな……。」
リョーコの方を見ながらムスッとしながら、
「もうっ、心配したんだからー。」
とみ~や。少し涙ぐんでいる。安心しきっているリョーコの表情は、依然として申し訳無さそうな感じであった。離れたところで見ていた師匠と賢祐。二人で顔を見合わせ、何かを了解しあったかのように何度もうなずいている。
「やっぱりさ、うまくいかなかったよ。ソロ。」
開き直ったように穏やかに笑うリョーコ。いつも強気なリョーコが珍しく見せるこの表情、まるで家出して帰ってきた不良娘のようだ。すでに、彼らは家族のようなものだった。
「アタシはさ……、やっぱりこのバンドが無敵だと思う。ホントごめんな。」
全員、穏やかな表情で照れくさそうに言うリョーコを迎え入れる。クリスはそっとリョーコの側に寄って囁き声で言う。
「わかってるよ。」
すまなそうに軽く頭を下げる彼女。そして、リョーコは指を指しながら、
「んで、今流れているのはデモか?」
クリス、師匠、み~やは揃って賢祐を指差す。賢祐は首を少し傾けながら堂々とした表情で、
「オレの作ったデモだ。」
リョーコはニヤリと不敵に笑いながら、
「らしくねぇ。……だが、いい。」
というと、すぐに彼女愛用のフライングVを取り出し、流れる曲に合わせるようにリフを弾き始めた。世界に向けて売った喧嘩、自分で売った喧嘩に落とし前をつけなければ、そう一番に思うのは、言い出した本人であるリョーコである。
こうして再結集し、いい雰囲気で始められたレコーディングは難航することもなく、ただ伸び伸びと彼らのペースで進められた。この時、ただ彼らの信じる音楽をひたすら突き進もうという雰囲気でいっぱいになっており、世界デビューとか売り上げなどといったプレッシャーはもはや彼らにはなかった。ただ、彼らの表現したいままに音楽を作り続けていった。
こうしてできたアルバム。『Reality』、『Imagination』と名づけられた二枚が対になったアルバムであり、彼らの創作意欲がフルに詰め込まれた。歌詞は全詞英語であり、日本語詞もついてあった。両詞は互いに意訳となっていたのであるが、おそらく、日本で行なわれるツアーでは日本語で歌われるのだろうと予想された。この二枚の作品はそれぞれ異なった雰囲気を帯びている。
『Reality』の方は賢祐、師匠、リョーコらが手がけた楽曲にヘヴィでアグレッシヴ、かつ複雑な構成のアレンジなどが加えられている。主にリョーコの意見が強く通っており、歌詞の内容に関しても、彼女が普段からもっている社会に対する辛辣な批判や不満の爆発がありありと表現されている。また、個人的なアルコール依存症の問題や、人間関係のもつれ、そして、孤独感など、リョーコだけでなく、まさに彼らが置かれていた状況がダイレクトに反映されたものとなっていた。
それに対する『Imagination』の方は、クリスやみ~やの意見が強く反映されているのか、テクノやポップな楽曲が並ぶ。また、リョーコ自身も開き直ってしまったのか、ストレートだがどこか奇妙なハードコアパンクの楽曲も入り、全体的に浮遊感のあるサイケデリックな内容となっていた。世界観は素直な表現や悟りの境地など、不安や緊張が解けて、どこか開き直ったようなところがあるものが主となっていた。
Rachelによって世界に向けて製作された二枚の対となったアルバムであるが、まだレーベルとの契約問題が残されていた。み~やのプロモーション活動がどれほど効果があったのかは知らないが、この製作されたアルバムをどこかに売り込むのが先決である。話はそれからだ……。
すでに一丸となっていた彼らは、とにかくあちこちを走り回った。マネージメントもプロデュースもすべて自分たちで担っていた彼らは、一つ一つの課題をクリアしていくのに多大な労苦を強いられていたが、それらもすべて乗り越えてきた。五人ならきっとできる……、そう信じていたメンバーはそれぞれの想いを秘めながら、二枚のアルバムを売り込めるだけ売り込んだ。時には、直接歌ったり、楽器を演奏したりもした。非常識ではあるが、とにかく必死だった。
多大な時間と労力を費やした後、何とか大手の、しかも海外に通じているレーベルと契約に漕ぎつけた。数々の苦悩と葛藤の末に製作された二枚のアルバムは、それぞれの翼をもって世に放たれた。日本中でも、長く待たれた彼らの新作としてメディアで大々的に報道され、また各地で受け入れられた。
これらの内容について、ファンの間でも、また音楽雑誌の間でも賛否が分かれてしまった。彼らの貪欲かつ挑戦的な姿勢についていけないリスナーは次々と脱落していき、また、一部の音楽雑誌からは酷評されもした。
しかし、彼らはそんな逆境もすべて振り切るように、この二枚のアルバムを引っ提げて世界ツアーに乗り出すことにした。まさに強行突破である。世界といっても、賢祐の精神状態やみ~やの体調、そして、バンド全体としての調和なども考慮されてアジア地域のみに限定されることにした。最初から無理はできないという詩人の冷静な判断である。彼は、最初の武道館公演からメンバーの体調に関して神経過敏になっていた。
―――こうして、Rachelは再起へのロードを走ることになった……。
離散
満を持して世界ツアーに向けて着々と準備が進められたRachelであったが、この準備がなかなか大変で、急に日本のポッと出のバンドが海外でツアーをするというのにも手続きが複雑であった。ライヴブッキングなどは主に賢祐が行うというのは定例どおりだったが、幾度にもわたる電話やメールでの海外スタッフとのコンタクトやスケジュール調整など、相当な時間がかかった。しかし、プロダクションに頼ることなく、すべて自分達でやるという彼らのスタンスは決して変えることはなかった。今までだってそうだったように……。
この間、残されたメンバーもプロモーション活動を欠かすことはなかった。ラジオやインターネットを通じたメディアへの露出、み~やと詩人の二人によるアコースティックライヴ敢行など、彼らなりにやることはやった。
世界ツアーが告知されてから半年が経った夏、遂に彼らの海外ツアーが敢行されることが告知される。上海、香港、バンコク、台北、そして、大阪、東京で公演が行なわれることが決定した。
「切符を……手にしたんだな。」
ふと声を漏らすリョーコ。飛行機の中で全員、ただじっと黙って勝負の日を臨んだ。誰一人として、滅多に口を開くこともなかった。
「まだ、スタートラインだけどな。」
賢祐が少し間を置いて言う。誰も、これ以上会話を続けようとはしなかった。ただ、未知の観客への期待と不安のなかで張り詰められた緊張感と戦っているだけだった。Rachelのメンバー五人とも、メジャーシーンに進出してからというものの随分変わってしまった。現実を知り、世界を知った。それだけで十分だった。
―――本当にこれが彼らの目指していたところだったのだろうか……?
五人の脳裏に浮かんできつつあった疑問、誰一人として、それに対する正しい解答を持ち合わせていなかった。このツアーで、答えが出せるのかはわからない。だが、何かきっかけにはなるだろうとは思えた。それ以上でも、それ以下でもなかったのだが…。
Rachel初の世界ツアーは準備や作業などにかなり時間がかかったが、まるで駆け足のような早さで過ぎ去ってしまった。アジア地域にもインターネットや地上波メディアなどを通じて情報が行き届いていたためか、現地でも彼らは温かく迎えられた。日本の観客に負けず劣らず熱気が壮絶なものがあった。
しかし、どの地域で演奏しても彼らが大きな反応を示すのは初期の頃に演奏していた楽曲であった。セットリストでは初の世界ツアーということですべての楽曲を広く演奏しようと組まれていたのであるが、『Reality』『Imagination』からの楽曲に対する反応は薄いばかりか、まるで退屈そうにしている観客。これではバンドの方もやりづらかった。幸い、楽曲の順番も偏らないようにしていたので初期の疾走曲やバラードなどでは合唱が起こっていたが。
いずれにせよ、アジアの四ヶ所を回ってみた感触は彼らの期待を大きく裏切り、現在の路線の再確認を強いられることになってしまう。メンバー全員、飛行機の中でも始終無言。帰国後のライヴにおいても、リハーサルや休憩時でのコミュニケーションはほとんどなく、以前のような充実感も見られなかった。スタッフや観客から見ても、彼らはまるで空気と一緒に演奏しているかのように見えるほどに、一体感を保つのさえ難しくなっている。
―――これがRachelの行き着くところだったというのだろうか……?
こうして、Rachel初の世界進出は果たされた。だが、これはまだ序章に過ぎない、それまでならばそう考えていただろう。だが、ツアーの明らかな反響により、彼らは五人とも疲れきっていた。どこから来るのかわからない無力感…。彼らの世界への挑戦として生み出された双子の兄弟は、まだ世界で受け入れられるようなものではなかった。皮肉にも、彼らが振り切ったものに共感していた観客が多かったという事実、それは先を見据えていたつもりのバンドにとっても、大きなダメージとなった。
―――今の五人に足りないものは何だ?
―――本当にこれが彼らの目指していたところだったのだろうか?
という疑問が五人を取り巻いていた。だが、皆、考えるのに疲れ果ててしまった。何も考えたくなかったし、これ以上バンドというものに向き合いたくないと思っていた。
帰国し、何の余韻も残さずに京都に戻る五人。帰るまでの間、重苦しい空気が彼らを取り巻いていた。これは、自信喪失か、敗北感か、いずれとも言い尽くしがたい感情が支配する。
結局、沈黙を守ったまま京都に着く。クリスが最後に尋ねる。
「これから、どうなるのかな……?」
すかさず、リョーコは、
「さあな。」
と不敵に笑いながら言う。クリスの目を見ようともしない。
「しばらくは……沈黙か。」
詩人はすっと言う。目を閉じて、うつむいたまま。
美弥子は拳を握り締め、唇を噛み締めながらじっと立ち尽くしていた。
「みなさん、本当にお疲れ様……。とにかく、ゆっくり休むことにしよう。やるだけのことはやったんだ……。」
と、賢祐が低い声で言うと、誰も何も言わずにそれぞれの機材を持って解散した。
こうして、しばらく誰もミーティングさえしようとしなかったし、メディアに向けても何ら情報は発せられなかった。嵐が来る直前のような静けさでもなく、ただ淡々と彼らの存在が消えていくのを待っているだけのようであった。
―――そして、時が来た。
突然、賢祐に詩人からメールが届いた。
「美弥子がいなくなった。どこに行ったかはわからない。何かあれば教えてくれ。」
驚いてすぐさま美弥子に電話をかける賢祐。しかし、つながらない。電源を切っているのか、はたまた、本当に電波の届かない遠くへ行ってしまったのか…。彼の中で妙な胸騒ぎを感じていた。メールを送っても、アドレスを変えられていたのか、「MAILER DEMON」と返ってくる。もはや、賢祐と連絡を取ろうとも思わないというのか……?
それから、一週間ほど考えに考え尽くし、もはや疲れ果ててしまった賢祐は、遂に彼が最も送りたくなかったメールを他のメンバー三人に送った。それから三日三晩待ち続けても、誰一人として反応がなかったので、賢祐の中で納得し、オフィシャルサイトや関係者にも同じく告知した。
まことに勝手なことながら、
Rachelは無期限の活動停止を正式に発表することにしました。
応援してくれたファンの皆さんにはとても申し訳ない気持ちでいっぱいですが、
個人的な事情や求心力などの問題から
この決断をせざるを得ない状況ということになったことを
深くお詫び申し上げます。
K
第三楽章 完
輝いた傷跡
まだ物心がついて間もないその少年は、始めて見る様々なものに対して好奇心を示し、じかに触れ合うことで世界を知ろうとする。まだ幼かった賢祐は、家のレッスンや勉強がないときは、じっとしていられず一人で外をうろうろしていた。
幼稚園にも行っておらず、近所の公園に行っても友達と言える子もいなかった賢祐は、一人でブランコやジャングルジムで遊んでいたり、アリの行列を見ていたりと、孤独ながらもそれなりに楽しんで過ごしていた。ただ、彼自身も気の赴くままに行動していたため、時々遠くに行き過ぎてどこにいるのかわからなくなるときがあった。そんな時は、知らないおばあちゃんやおまわりさんなどに道を尋ね、時には自宅に送ってもらうこともあった。親は滅多に家にいなかったので、お手伝いさんなどが対応していた。勝手気ままに外に出る賢祐を心配しながらも、家の世話に忙しいお手伝いさんは彼にまで手が回らなかった。
そんなことを繰り返しながら、いい加減周囲の土地勘に慣れきった賢祐。ある日、一人で夕方近くに自宅から少し離れた公園に遊びに行った。さすがに時間も遅く、誰もいないかと思われたが、砂場でしゃがみ込んだまま一人泣いている少女の姿をそこに見出した。
「えぐっ、えぐっ。」
声をあまり立てず、両手で目を覆いながらずっと泣いている少女。ロングヘアーで、褐色がかった髪の、白いワンピースを着た少女だった。おそらく、賢祐とあまり変わらない年端の子に見えた。同年代の子供とほとんど話したことがない賢祐であったが、泣いている少女を放っておくのはさすがに忍びないと思い、少女の側に近寄り、
「どうした?」
と声をかける。すると、少女は振り向き、少し泣き止んだ。
「あのね、お母さんが…、いなくなっちゃった。」
少女の言葉の意味を理解しようと少し考える賢祐。
「帰ってこないのか?」
黙ってうなずきながら、少女は、
「うん。お父さんがね、お母さんは遠くに行っちゃったから、もう戻ってこないって。」
「遠くへ?外国か?」
少女は首を横に振りながら。
「ううん。お外に行ったんじゃなくて、おうちの中で、動かなくなった。それでね、お話ができなくなったの。」
賢祐は彼の持っていた知識のなかではっきりと答えた。
「君のお母さん、死んじゃったのか?」
「死んだ……?」
少女は始めてその言葉を聞いたかのようにキョトンとしながら賢祐を見ていた。賢祐は「死ぬ」ということを、彼の持っているボキャブラリーで一生懸命説明しようとしてみた。
「うん。人って言うのは、いつか動かなくなって、お話もできなくなってしまうんだって。それが、死ぬってことで、二度と会えなくなることなんだって。」
彼なりに一生懸命答えたが、彼の言葉はあまりに明確すぎて少女にはよく伝わらなかった。当の賢祐も、「死ぬ」という言葉の意味を読んだ本の知識として知っているというだけで、どういったものかはよくわかっていなかった。首をかしげながら少女は、
「もう、お母さんは戻ってこないの?」
賢祐はただ黙ってうなずくだけだった。少女は再び泣き出したが、賢祐は彼女の背中を擦りながら、どうしたらいいのかわからず、とりあえず少女を家まで送ってやることにした。幼いながら、賢祐は両親とも家にいないのが当たり前で、急に母親が動かなくなるということに明確なイメージをもつことができなかった。況してや、死ぬということがどれほどのものかということは想像を絶することだった。
後日、しばらく「死ぬ。」ということについて思いを巡らせながらも、よくわからないでただ好奇心のままにあちこちをウロウロしていた賢祐。夕方、再びあの公園に行った。
すると、この間泣いていた少女が、砂場でぼんやりしながら虚ろな目でスコップを持って山を作って遊んでいた。作っては壊し、壊しては作り、そんなことを繰り返している少女。賢祐は何となくその光景が奇妙に思え、彼女の側に寄ってみた。
「あのね、お父さんに聞いてみたよ。お母さんは死んじゃったの?って。そしたら、お父さん、違うって言ってた。」
近づいてきた賢祐のほうを見ることもなく、少女は単調に話す。賢祐は、ふぅと溜息をつき、近くで死んでひっくり返っているアリを指差して言う。
「ほら、ここにアリがいるだろ?このアリは動かない。もう死んでいるんだ。」
「そんなことないもん!」
少女は怒って賢祐に言う。再びうつむく。
「そんなこと……、ないもん。」
見る見るうちに、泣き出す少女。困ってしまった賢祐は、少女の頭を撫でてあげていたが、一向に泣き止む様子もない。困り果ててしまったが、賢祐は以前に近所の禅寺にいる坊さんから聞いた言葉を思い出した。
「あのな。この前に聞いた話なんだけど、人っていうのは生まれるために死ぬんだって。ぼくたちも生まれてきて生きてるけど、やっぱり死んだから生まれてきたんだって。そう言ってた。」
少女は少しだけ泣きやんで、頭を撫でながら話す賢祐のほうをじっと見ながら聞いていた。
「だからな、よくわかんないけど、お前のお母さんもきっとまた生まれてくるから。生まれるために死んだんだから……。大丈夫だよ。だから、泣くな。」
賢祐の言葉に、少女は安心したのか無理矢理笑ってみせた。
「ぼく、けんすけって言うんだ。よろしくな。」
少女はにっこり微笑んで、
「うん。わたしは……。」
よく聞き取れなかったが、しばらく少女と交流を始めた。小学校に入るまでの数ヶ月間だったが、人とろくに交わることのない賢祐にとっては、この先も当分現われないであろう友人であった。
最初はお互いに話すことなく、ただ一緒にいるだけであったが、次第に打ち解けあい、二人は切っても切れない仲になっていた。賢祐の親も、また少女の親も、二人が夕方近くに一緒にいるということを知らなかった。そのことが、まるで秘密の逢引のように感じられ、子供ながらにワクワクしながらその時間を楽しんだ。
「私ね、大きくなったら、ケンちゃんのお嫁さんになりたい。」
頬を赤らめながら、にっこり微笑んで言う少女。
「うん、いいぞ。ウチはお金持ちで家が大きいから、……がお嫁に来たらお姫様にしてあげる。」
「うれしいな~。だったら、ケンちゃんは王子様だね!」
二人は幸せそうににっこり微笑む。
だが、幸せなひと時もつかの間、数ヶ月が経ち、賢祐が私立の小学校に入学した頃、少女と会うことはほとんどなくなってしまった。毎日、勉強に追われ、夕方にあの公園に行くということをすっかり忘れてしまっていた。
あの少女はどうしているだろうか……?
彼女の最後は笑顔だったに違いない。
いや、そうは思えないのだが、
そう思いたかったのだ。
彼女は、もう二度と……。
輝いた傷跡 完
第四楽章
―――オレは死んだのか? オレはただのガラクタになってしまったのか?
鏡に映っているのは、のばしっぱなしの髪と髭でみすぼらしい姿になってしまった三十路近くの男だ。しかも、三年間の鬱とストレスによる心的疲労によって彼の髪は以前の黒々とした状態から、人生に疲れ果てた老人のように白髪と化してしまっていた。その姿はあまりにも汚らしく、外に出たら間違いなく職務質問を受けるだろうが、それは日本での話。
ここイギリスでは他人に干渉しないのが当たり前の人情深い(?)人が多い国だ。この頃の賢祐はと言えば、生きるために最低限の空腹を満たすために食料を得る以外では部屋に閉じこもりっきりの引きこもり生活を送っていた。その一室は昼間でもほとんど太陽の光が入らず、ジメジメした部屋であった。こんな空間におよそ三年近くも閉じこもっているためか、かつての輝きを完全に失ってしまっている。
三年ものあいだ、ただ彼の思う最高の音楽を作り上げるためにオンボロのピアノの前に虚ろに座っているだけだった。彼はただひたすら問いかけていた。なぜ、Rachelはこんなことになってしまったのか。彼の想いは、本格的な音楽活動を始める以前の京都にいた頃に巡っていた。京方学術院大学でクリスとリョーコに出会い、ドラムを始め、彼らと共に成長していった。だが、あの頃の彼は、最初からここまで来られることなど予期できたのであろうか?
賀茂川で詩人と出会い、そして、み~やという一人の表現者と出会い、いつしか彼らも仲間として生活を共にしていた。思えば、この十年間、片時も彼らと離れたことがなかった……。賢祐には、それまで友人などといったものはなく、心の交流も彼ら以外とではありえなかった。それなのに、いつの間にか、互いの存在が疎ましく思えてきたのか…、いや、違うな。
賢祐は思わず首を横に振る。彼にとって、四人とも大切な仲間だったはずだ。会いたい……、そして、もう一度彼らと音楽を通じてつながりたい……。
想い出の中で輝いているみ~やの存在。だが、彼女は三年前のある日、忽然と姿を消した。彼の書いた、『Pearl White Drops』の歌詞の一節が頭に過ぎった。
消えてしまった…目の前から 音を立てずに 過ぎ去った
消えてしまった…何も言わず 最後の言葉もないまま
Ah 遍く星々の中から 君の姿だけ見つめ
そう リアルな幻想の中でだけ あのぬくもりをただ感じて…
これが現実……?それとも、幻想……?
この言葉を綴った本人でさえ、思いも寄らなかった結末に、彼の意識は朦朧としていく。
―――半狂乱……。
再び思いを巡らせる。バンド内での作業も、何もかも分業になってしまっていた。音作りも、個人の主義主張が強く出ていた。ただ、世界という舞台で勝負するために。
こういったやり方に誰一人として疑問は持っていなかった。だが、本当にこれでよかったのか?
ボーっと考えていると、突然、詩人の言葉がフラッシュバックした。
―――美弥子は音楽で何かを表現できればそれで満足だった。
まるでエコーするように脳裏に響くこの言葉。そういえば、美弥子の話を詩人から聞いたときに言い放っていた気がした。
―――俺は、ひょっとすると、アイツなら歌手としてやっていけるんじゃないかと期待したが……、美弥子はそんなことにこだわっていない。お前達と同じようにな。
この奇妙な感覚に、賢祐は思わず耳を押さえた。まるで白昼夢を見ているようだったが、彼はじっと聞いていた。
―――結果だけにこだわらないで、今に必死なヤツらはお前達が初めてだ。
急に胸が苦しくなった。まるで息が詰まり、呼吸が止まってしまいそうなくらいに締めつけられそうな感覚に襲われた。罪の意識か、または絶望か……? 死に至る病……。
ずっと忘れていた。いつの間にか、このバンドが美弥子の居場所を奪っていたというのか……?賢祐の目からすーっと涙が零れ落ちる。思考力をギリギリのところで保ちながら、彼は心の内で戦っていた。
日々の迫り来る目まぐるしい日常に、彼は忘れかけていた感覚を取り戻しつつあった。Rachelというバンドは、五人で作り上げてきたものであるのにかかわらず、誰もがこのバンドに居場所をなくしていたということ…。まるで、このバンドを工場のようにしか捉えていなかったということ……。
せっかく五人で作り上げてきたものも、いつの間にか失われ、離散してしまった。それが音に出てしまっていたというのか……?賢祐は、頭を抱えながらうつむいた。誰一人として言わなかったこと。気がつかなかったこと。そして、忘れかけていたこと……。
彼は何かが拓けたような気がした。そして、決意した。彼の三年間の思いをありのまま描いた楽曲を必ず完成させること。そして、彼自身でさえ、この構想していた楽曲が空虚なまま、錆びた鉄くずのようなままで風化してしまうのではなく、確かな輝きを取り戻しつつあることを予感していた。
離散してしまったそれぞれのメンバー、この宿命に逆らえずに無言の仲たがいで終わってしまったバンドRachel。それぞれの人生を歩み始めたかつての仲間ともういちど、最高の音楽を作り上げたいという欲求は、誰よりも強く握っていた。それは、バンドの一員としての責務でもあった。だが、それ以上に彼の夢を…、『永遠の幻想』をその手に握り締めたかったのだ。
そして、未完成だが、彼の構想を彼なりに表現したものがここに結実した。賢祐は、信じていた。たとえ、今が未完成だとしても、いずれ、五人の手によって、それが最高のものとして完成するであろうということが……。
想い出の地、フランスより愛を込めて
―――いつまでも、変わらないあの日の空。あの日の雲。君と過ごした日々、果たして幸せだったろうか?
イギリスよりバスに乗ってドーバー海峡を渡ってフランスの地へ上陸した。賢祐は微かな記憶の糸を辿り、ただある場所を目指していた。それは、彼が十四歳の頃に一度だけやってきたことのあるパリの街。留学、という名目で足を踏み入れた、夢の地である。
だが、彼の目的地はパリからは離れた、ノルマンディー地方のオンフルールであった。パリのサン・ラザール駅からリジュー駅まで1時間40分、そこからバスで約40分~1時間のところである。ホームステイ先のエリザベート家のあるところだ。賢祐の父の知り合いらしく、彼はその家でホームステイをしながら長い時間をかけて学校に通っていたという。フランス語が堪能になったというわけではないが、彼の海外経験は後に賢祐の感性に影響を与えてきたのである。
そう、エリザベート家の一人娘であり、賢祐の活動していたバンドRachelその人が住んでいるのだ。彼はその家で、Rachelと出会った。日本にいた頃はロクに他人と関わろうとしなかった彼。外の世界に興味を示さず、同級生や教師が何を考えていようと、賢祐には知ったことではなかった。
だが、Rachelだけは違った。彼女だけは、今でも賢祐の記憶に鮮明に残っているくらい、特別な空気を持っていた。それは、Rachelが特別な才能に秀でていたとか、人目を引くような絶世の美女であったとか、そんなものではない。Rachelはいつも陽光があまり差し込まない、湿った部屋の窓辺で、憂いの表情を浮かべながら頬杖をついて座っていた。賢祐が話しかけても、彼女は大した反応を示さず、ただ黄昏時の空を眺めているだけだった。賢祐を嫌っていたとか、人間嫌いとか、そんなものではない。もしかすると、彼女も自分と同じものを持っていたのではないか…?思春期に入りたての賢祐にもそう思えたのだ。
電車の中で昔のことを思い出しながら、車窓からノルマンディー地方の自然を見ていた賢祐。薄みがかった橙色の空、彼が何度も夢の中で見た光景そのものであった。なぜか感慨深く、それでいて何か哀しいものがこみ上げてきたようである。
想い出にすがっているのか?それとも、忘れられない過去に区切りをつけようとしているのか?今の時点で、彼にはまだ答えが導き出せないでいたが、いずれわかるだろう。そう思いたかった。
―――もう一度、Rachelの顔が見たい。
まだ物憂げな顔をしているだろうか……?それとも、大人の女性として幸せを掴んでいるのだろうか……?
いずれにせよ、それで賢祐がどうしてやることもできないとは悟っていた。だが、それでも、彼の想い出に眠る少女の姿を一度見ておきたかった。
そう思いながら、彼はリジュー駅に到着した。バスに乗り込み、再び景色を眺めながら、色々な考えを頭に浮かべていた。だが、いい加減疲れてきたので、彼は何も考えないようにした。努力した。だが、想いは思考から来るのではなく、自然と内から湧き上がってくるのである。彼は、そんな切なさとずっと過ごさねばならなかった。
バスを降り、オンフルールの空気を吸っていた。風光明媚な風景を満喫し、若返った気分でいたが、それは以前やってきたときのものかどうかは、定かではなかった。もはや、あの頃にどんな気持ちで過ごしていたかは覚えていない。彼の記憶にはただ一点、少女Rachelの姿しかないのだ。
こうして、エリザベート家があったと思われる場所を探し回った。彼の記憶では、エリザベート家は教会の近くにあり、いつも日曜には礼拝に行った記憶がある。そういえば、彼が『Guilty Concience』と作曲したときに、その風景を思い浮かんでいたのだということを、今改めて想い起こした。こうして、彼の記憶の糸を辿り、遂にやってきた教会。そして、その周辺を見渡すと、古びた見覚えのある家が…。
―――エリザベート家。
遂に到着した。彼はすぐさま、エリザベート宅の側に行き、呼び鈴を押した。すると、すぐさま扉の中から白髪で長髪の老人男性が出てきたのだ。紛れもない、彼の記憶によると、彼はエリザベート家の家主、アレックスさんである。
「誰かね?」
フランス語で話しかけてくる老人に、覚束ないフランス語で賢祐、
「いきなり尋ねて申し訳ありません。私、かれこれ18年ほど前にアレックスさん宅にホームステイさせていただいた渡邊賢祐と申します。」
と言うと、老人はみるみる驚いた表情をする。
「おぉ、君は賢祐君か……。大きくなったもんだ。さあさあ、入りたまえ。おい、母さん。賢祐君が来てくれたぞ。」
アレックス氏は家の中に向かって誰かを呼んだ。すると、中から、老女性か出てきた。彼女はアレックス氏の妻で、セシール夫人であった。
「あらまぁ……。賢祐君じゃない。わざわざよく来ましたね。さあ、おあがりなさい。」
遠慮しながら、「はい。」と言って丁寧にお辞儀をする賢祐。夫婦に従って、家の中にあがらせてもらう。
ちょうど夕飯時だったのか、彼はわざわざ二人にご馳走になっていた。謝礼をしながら、彼はどうしてもある人の姿が見当たらないのを不思議に思って辺りを見渡した。
そう、Rachelである。
「あ、あの……、Rachelはどうされたんでしょうか?」
賢祐が尋ねた途端、楽しそうに会話をしていた二人はパタッと動きを止め、ナイフとフォークをナプキンの上に置いて口をつぐんだ。彼自身、無頓着な性格から、この動きからすべてを悟るに至るまで少々時間を取った。少しして、アレックスさんがしわを寄せ、疲れた顔をしながら重い口を開いた。
「どうやら、君はここに来るのが少し遅かったようだね……。」
アレックスさんは一瞬だけセシール夫人のほうをチラリと見遣って、再び賢祐のほうを向いて言った。
「Rachelは去年……癌で亡くなったよ。35歳じゃった。彼女は、婚約も決まっていたよ。せっかく幸せを掴んだと思ったら……、この有様じゃ。」
セシールさんは、急に声をすすりながら泣き出した。うつむいたまま、黙り込むアレックスさん。賢祐は急にやってきて彼らの平穏を壊してしまったことを、急に後悔しだした。どうして、Rachelに会おうと思ったのか…。罪悪感だけが彼を襲う。
すると、アレックスさんは少しこわばった笑みを浮かべながら賢祐の肩を叩いて言った。
「君が……、日本でRachelという名前のバンドをやっていることは知っていた……。Kと名乗っていても、すぐに賢祐君だということがわかったよ……。」
叱ってでもくれれば良かったのに、もはや言葉も出ない賢祐。Rachelという名を冠してバンド活動をやっていたということに、多大な重責を負わされた気分になった。
結局、彼はエリザベート家に一晩止めてもらい、早朝のミサでお祈りを済ませてから、彼はアレックスさんとセシールさんと一緒に墓標に向かった。Rachelという名前が彫られた墓標を指差され、彼は教会に来る前に抜き取ってきた白いコスモスの花を捧げた。
―――少女の純潔。
アレックスさんによると、Rachelは初めて彼女が愛し、そして彼女を初めて愛したという男性と結婚するはずだったのだと言う。こうして、賢祐は、Rachelが今、どんな表情で今を生きていたのかを知ることができなかった。
賢祐は、ずっと想い出に息づいていた少女が眠る墓標の前に手を合わせ、じっと目を瞑って立っていた。この時、彼は何を思っただろうか……。
翼の折れたエンジェル
―――一人で飛べなくなったその鳥は、共にはばたける仲間を探していた。孤独を抱えながら、その鳥は、ただ歌うだけだった。
ノルマンディー地方からパリに戻ってきた夜、賢祐はパリの街をぶらぶらと歩いていた。いつまで経っても習性というものは直らないものだ。ふと目に付いたバーに立ち寄り、久々に酒でも嗜もうかとカクテルを頼んでカウンターで黙って飲んでいた。賢祐に声をかける女、しかしどこかつれない様子の賢祐に愛想をつかしてその場を去る。
ちょうどバーで演奏が行なわれる時間になったが、あまり気乗りのしない賢祐。聴こえてくるメロディにはどこか耳なじみのある声と旋律、ふとステージを見てみると、そこには見覚えのある姿があった。
―――み~や……、そう、紛れもない金城寺美弥子の姿がそこにあった。
彼女はピアノに向かいながら、Rachel時代にバンドで歌っていたバラードやハードロック曲まですべて弾き語りにアレンジして歌っているではないか。しかも、彼女の歌声は以前よりも遥かに伸びやかになり、情感も増している。いや、むしろバンドであくせくしていた頃よりもずっと、自由に歌っているではないか。
賢祐は彼女の歌声を聞きながら、およそ十年前、最初に見た美弥子の姿を思い出した。まさに、あの頃の姿そのものだったのだ。
『Reincarnation』や『Last Angel』、『Pearl White Drops』などを歌い終え、つづいて彼女が『Hearts』と呼ぶ、はじめて聴く曲を歌い始めた。それは、『Reincarnation』にも通じるスタンダードなバラードである。
You are my friends…
You are the sunshine…
その印象的なフレーズが賢祐に残り、彼女の素直な想いであると確信した。彼女は、まだ求めている。Rachelというバンドに再び息を吹き返そうと、ただ一人頑張っているではないか。悔やんでも悔やみきれない気持ちで拳を握っている賢祐。彼がイギリスで引きこもっていた三年もの時間はすべて無駄にしてしまったのではないか―――そう痛感した。
「Hearts」の演奏が終わり、彼女は最後の曲を題名も言わないまま演奏しだした。歌詞も歌わず、ただピアノでメロディラインを弾くだけであった。だが、賢祐にはどこかで聞き覚えのある曲に感じられた。
どこかもの悲しい雰囲気を帯びており、華麗なのに、どこか儚い。どこで聞いたのだろう……。
―――西部講堂、
そうだ、京方大学西部講堂で始めてライヴを行なった時、彼女が作り、賢祐自身で演奏することを勧めた楽曲、『Fantasia…』そのものであった。
この楽曲は正式に発表はされておらず、以降も忘れられていたナンバーであるが、三年間の引きこもり生活の中で何度か彼の頭の中にフラッシュバックしたことがあったような気がしていた…。それが、この曲だったのだ。
『Fantasia…』、この曲は今の賢祐にとって、とても重要な鍵となった。なんと、調性からメロディから、また情感も何もかもが彼の三年間の想いを詰めて構想されたものと似通っている。いや、似ているどころか、この楽曲がベースだったのだろうと改めて思う賢祐である。
―――Eternal Fantasia…永遠の幻想曲
そう名づけられた楽曲。しかし、三年間の引きこもり生活でさえ、それは構想だけに終わってしまっていた。彼に新たなメロディを生み出す力は残されていなかったように思えたが、特別の力も何も無い、ただ純粋な想いを奏でつづける美弥子にはそれができるのだ。だったら、賢祐にもできないはずはない。ただ、きっかけがなかった。
―――金城寺美弥子。
彼女の存在は賢祐に、またしても大きく影響を与えることになるとは……。
演奏を終え、かつてのような弱々しく無垢な少女のようにお辞儀をして袖に戻るみ~や。会場では大きな拍手が巻き起こった。賢祐も複雑な想いを抱えながら、バーから去る。
そして、外に出るとよろよろと心もとない様子で帰ろうとする美弥子の姿を見つけ、声をかけた。すっと振り返ったみ~やは、以前よりもやつれた様子に見えたが、賢祐の姿を見るや否や、あからさまに明るい表情を見せた。
「賢祐君……?賢祐君!」
嬉しまぎれに賢祐に抱きつく美弥子。恋人との再会というより、まるで親子の再会のように見える光景だったが、賢祐は「う~」と鳴き声を上げているみ~やの頭を撫でた。美弥子はすっと顔を上げて微笑みながら言う、
「おかえりなさい。」
二人は特に宿泊先を決めていなかったので、二人で泊まれるツインの部屋を探し、あちこちをまわってようやく見つかったホテルで宿泊することにした。お互い、話すことはたくさんあった。
最初は美弥子の番だった。
「フランスで歌いつづけてたんだ。一人でも多くの人に知ってもらえるように、ずっと。Rachelをあんなところで終わらせたくなかったから…。」
「三年間も……。よく頑張ったんだな。」
「そんなことないよ。何も言わず、勝手なことしてごめんね。」
「謝ることなんかない。それより、危ない目には遭わなかったか?」
横に首を振りながら、
「ううん。大丈夫。」
「そうか……。」
しばらく無言でいた賢祐に、にっこり笑いながら美弥子、
「心配、してくれたの?」
少しうろたえながら賢祐、
「べ、別に、そういうわけじゃないが……。」
「ふふっ。賢祐君はどうしてたの?」
「三年間イギリスで……、引きこもっていた。」
決まり悪そうな様子の賢祐、美弥子は怒るような様子をまったく見せず、ただ穏やかな表情を見せてながらじーっと賢祐を見ている。とても三十路を過ぎた女性に見えないほど若々しい姿を保っている。しかし、どこか以前には無かった優雅さまでも持ち合わせているように見えた。
「それで、どうしてフランスに?」
「ちょっと、用事があって。」
「もしかして、Rachelさんのことで何か?」
賢祐のことをまるで見透かしているようだ。……それもそのはず、Rachelというバンド名を決めるとき、彼は一度Rachelという女性のことを話したことがあるからだ。
「Rachelは……死んだ。去年、癌で亡くなったらしい。」
少し目を落とす二人。
「……そう、残念ね。でも、きっと、私たちの曲を聴いてくれていたと思う。」
「そうだといいけどな。」
気まずい空気に、妙な間が生じた。
「Rachelさんって、どんな人だったの?」
「彼女は……いつも儚げだった。そして、いつも窓から空を見上げていた。何か待っていたのか、そうでないのかはわからないが。ただ、姿を見て、居ても立ってもいられなかった。でも、無力な自分では、何も出来なかったんだ。」
手を額に当て、顔を俯ける賢祐。美弥子は依然として穏やかな表情で、
「きっと……、待っていたんだと思う。空の向こうから、翼を生やしたエンジェルが、広い世界に連れ出してくれることを。」
賢祐は、その言葉を聞いて、自分にもそんなことを考えていた時期があったような気がした。
「私もね、幼い頃は病弱で、体が半分動かなくなったとき、ずっと病院で寝たきりになっていたことがあるの。その時はね、ずっと窓の向こうの空を見てた。私にも翼があって、自由に空を羽ばたけたらなぁ、って。翼を生やした誰かが、私を迎えにきてくれないかなぁ、って。ずっと思ってた。」
賢祐は黙りこくって彼女の話を聞いていた。かつて、詩人から聞いたことはあったが、美弥子本人の口から聞くのは初めてだった。それにしても、美弥子の言葉は賢祐の気持ちに妙な感触を覚えさせ、穏やかで、癒される気がする。そう思えた。
「私の体が治ったとき、いつかフランスに行ってみたいな~、って思い始めたんだ。ほら、フランスって王族とかお城とか有名じゃない!だから、きっと王子様が迎えに来てくれるかなぁ、って思ったから。」
美弥子は少し取り乱しながら、顔を赤らめて恥ずかしげに話していた。そんな美弥子の姿にも動じず、ただ静かに見守っていた賢祐。
「馬鹿みたいな理由だよね、ホント。子供っぽいっていうか……。」
―――夢の国、フランス。
そういえば、賢祐がこの地にはじめてやってきたときも、彼女と同じ夢を持っていた気がする。彼を待っていたプリンセス……、それがRachelだったというのだろうか…?だが、まだわからない。迷いと、そして、罪の意識でいっぱいになる賢祐の心。どうして、彼女を迎えに……。
「……でもね、ちゃんと会えたよ。私を迎えに来てくれた王子様が。」
不意な美弥子の言葉に、賢祐はエッと小さく口を開けた。
「迎えに来てくれて、ありがとう。賢祐君……大好きだよ。」
頬を赤らめ、少し俯きながら言うみ~や。賢祐も、同じように俯きながら、小さくうなずいた。
―――ようやく、はっきりわかった気がする。
美弥子とは諍いもあった。冷たく接した時もあった。それでも、バンドのために、そして、自分のために、必死でぶつかってくれた。そんな美弥子を二度と離したくない、そうそう確信できた。
「私は、Rachelさんの代わりにはなれないと思う。でも、きっとRachelという名を持つ翼をもったバンドを、みんなで一緒に、羽ばたかせることはできる。そう、信じてるよ。」
「……ああ。オレたちならきっとできるさ。」
さっきまで微笑んでいた美弥子は、涙ぐんでいる様子で、
「ありがと。私はまだ、賢祐君と一緒に頑張りたいから。ずっと、一緒に……頑張りたいから。」
賢祐は立ち上がり、美弥子の後ろへ回って彼女を抱きしめた。そして、二人の長い夜が始まった……。
―――土台となっている賢祐に、美弥子の奏でるメロディが重なりあって、『Eternal Fantasy…永遠の幻想曲』は、芸術的な高揚感を伴って、より完成に近づくのだった。
永遠の幻想より
―――Eternal Fantasy…彼の想いのすべてが、彼の思う世界がすべてそこにある。
久々に見る京都の街並み、三年前と何も変わっていなかった。賢祐がメールで三人を呼び出し、ミーティングに使っていたファミリーレストランで久々に集ったRachelのメンバー。チャリティーや支援活動などに参加していたクリス、再び研究活動に勤しんでいた詩人を加え、ただひたすら自分の音楽と向き合っていたリョーコ。彼らは、離れ離れになっていた家族のように二人を迎えた。
クリス、リョーコ、詩人に向き合って、まるで初々しい夫婦のように小さくなって座っている美弥子と賢祐。最初に、美弥子が口を開く。
「えっと……、この度はいきなり消えてしまって申し訳ありませんでした!」
深々と頭を下げる美弥子。クリスと詩人は、穏やかに微笑みながら謝る彼女を見守っている。
「バカ野郎、心配したんだぞ。」
と、少々涙ぐんでいるリョーコ。
「あの、一つ報告があります。えっと……、」
言いづらそうにしている美弥子に、横から賢祐が彼女に代わって言う。
「この度、我々、付き合うことになりました。」
少し間を置いて、向かい合う三人は揃ってクスクス笑い出す。何がおかしいのかと、キョトンとしている賢祐と美弥子であった。帽子を押さえてクスクス笑っている詩人がボソッと言う。
「……やっと、か。」
「え?」と口を揃えながら、互いに顔を見合わせる二人。顔を綻ばせながらクリスは、
「二人とも、いつまでも煮え切らないからどうなるのかなーって、ずっーと心配してたんだよ。」
美弥子は残念そうに、
「そ、そんなぁ~。」
賢祐も、真っ赤になっている。
「お前ら、わかりやすすぎるんだよ。どっちも、大概表に出やすい性格してるからな。」
呆れ顔になって、腕を組みながら横を向くリョーコ。
「で、でも、ほら、バンドの雰囲気が悪くなっちゃうかなぁ、って……。」
と、あたふたしながらフォローする美弥子。お腹を押さえながらリョーコは苦笑いして言う。
「誰も〈バンド内恋愛禁止〉なんて言ってないだろ。むしろ、Kとうまく行かなくなって逃げ出したのかと思ったじゃないか。」
気まずそうに、何もいえなくなる賢祐と美弥子。せっかくの報告も、これでは台無しである。
長い話も終わり、すぐさまスタジオへ向かった一同。そして、スタジオでは、み~やによるピアノの演奏で、『Eternal Fantasy…永遠の幻想曲』は奏でられ、その美しく、そして儚げで、それでいて壮大な楽曲に三人は、Rachelの未来を見出した。これが、バンドとしての本当にやりたかった渾身の芸術であると、全員が気づくまでにどれほどの時間がかかっただろうか。それもすべて、金城寺美弥子という存在の大きさによるものであると、全員が確信したのだ。この楽曲の歌詞とイメージは、美弥子によって綴られた詩に基づいて作られていった。
このレコーディングに、メンバー一同、早くも難局に立たされた。Kの構想によると、序章と全4章からなる組曲となり、およそ一時間近くもの楽曲になる。
序章……、美弥子の弾くピアノから始まるもの悲しい旋律。すべての始まりはここから……、そんな予感を与えるよう。時間にしておよそ8分、彼女の弾き語りの演奏が終わると、そこからメンバーそれぞれによってアレンジが加えられる。『BLACK MAGIC KINGDOM』の頃を思い出させるような一体感のある作業。しかし、今回は黒く塗りつぶすのではなく、それぞれの持つ色で鮮やかに彩られていく。細部までグラデーションを帯びていく。こうして、序章のパートが完成する。ピアノだけだったものが、バンドの演奏により、バラードのような楽曲となったのであるが、単なるバラード曲に終わらない絶妙な構成美が施される。そして、余韻を残して次の章へつづくのだ。
第一章……、リョーコとクリスによって挿入された部分で、主にプログラミングや効果音のようなギターなどがあちこちでうごめくように鳴り響く。次第に温かみのあるシンセ音が流れてきて、混沌の中の不安感から解放されるかのような、あるいは、迷妄の中に光が差し込んできたかのような、そんな音がどんどん流れてくるのだ。『Sex & 禅』で目指していたアンビエント系や空間音楽の真骨頂がここに表現されている。
第二章……、ここからが賢祐の思い浮かべていたパートである。前章とは一転して、バンドによるロックの演奏から、次々と移行していく展開の激しいパートとなっている。その音作りは、まるでメンバーそれぞれが、自分達の楽器でそれぞれの感情をぶつけ合うようなスリリングな演奏が見られる。『Reality』のような重々しさや、激しい展開が再びここで見られている。
第三章……、ここで一転して、一旦立ち止まってそれぞれが休息を取り始めるかのように落ち着いていく。再びシンセの音が入り、まるで星々が降りかかってくるかのような、幻想的な音世界を構築している。バンドの演奏が入ると、感情の激しいぶつかり合いはなくなり、まるで全体に調和を帯び始めるように絶妙に音が折り重なっていく。『Imagination』の雰囲気を踏襲しているかのようである。
第四章……、いよいよ終章。賢祐が最後まで完結することができなかったパートであるが、クリス、リョーコ、詩人、……そして、美弥子らの手によって、終章にふさわしいアレンジが加えられた。それは、激しい心の叫びを表すようで、どこか温かい、そんな人間味溢れる優しさに満ち溢れたパートとなっていた。そして、美弥子の希望によって加えられた本当に最後の最後と言えるパート、それは彼女の本当に伝えたいメッセージが含まれており、彼女の願いとも言われるようなフレーズであった。
賢祐をはじめ、誰一人として彼女の意図するところを察することはできなかったし、あえてそうすることもしなかった。
以上の一連の作業を終え、遂に『Eternal Fantasy ~ 永遠の幻想曲』は、レコーディング開始からおよそ一年をかけてここに結実した。Rachelは再び息を吹き返し、この楽曲は大いなる翼をもって世界にはばたくこととなる。
『永遠の幻想』
美弥子の詩より
これが夢なら
覚めないで欲しい
永遠の夢なら
ずっと見ていたい
わからなかった
私が本当にここにいていいのか
私が本当にここにいるのか
すべては幻想の海へ
置いてきてしまった
静かな浜辺で
波音を聞きながら
そんなことを思う
気がついたら
誰もいなくなっていて
ただ孤独に泣いていて
どうしようもなく彷徨っていた
居場所が欲しくて
ずっと探しつづけていた
本当にここしかなくて
みんながいてくれる ここしかなくて
ただ信じつづけていた
世界はきっと
私達を見捨てないと
そう思えたから
紺碧の空
それは私たちを包んでくれる
優しい地球の色だから
すべては私たちの中にあった
それに気がついたとき
あなたが側にいてくれた
これは神様がくれた贈り物
途方もなく ただ灰色だった日常に
輝きを与えてくれた
乱れ咲く花のように
散り行くのではなく
あの咲いていた一輪の花のように
ひっそり咲いていたかった
崩れていく
目の前から暗闇がすべて
光によって 崩されていく
心の闇
暗黒の帝国
すべては光の中へ
すべては偉大なる母の中へ
手を伸ばしても届かなかった
輝く無数の星々
真珠色に輝くもの
それは私の涙だった
それに気がついたとき
あなたたちは側にいてくれた
最後の天使が語りかけてくる
再び私が生まれたときに
もう一度私でいられるように
いつまでも私でいられるように
貴方はそのまま墜ちていった
私も貴方のように墜ちていくだろう
それでもきっとまた―――私で居続けられるから
現実と理想のあいだで
変わりゆくものの中で
変わらないものを求めつづけた
悩みつづけて
やっと見つけた
生きていても
死んでしまっても
そこに在りつづける永遠
絶対に消えてしまわないように
私は歌いつづけたい
いつかきっと また聴けるように
もう二度と 光を失わないように
立ち止まって考えた
そして気がついた
満天の星空の下
私は優しく包まれているということを
みんなと繋がりあっているということを
同じ空の下 同じ星を見ている
またいつか みんなで見られるように
輝いてくれている
この世界は私たちを
絶対に見捨てないから
永遠の幻想は
きっとそこにあるから
覚えていますか? 私と出会った頃のことを
覚えていますか? 私と別れた頃のことを
私は、貴方と出会い そして 貴方を知る
私は貴方によって私が存在し
私によって貴方が存在した
私は、絶対に忘れない
貴方の傍に私がいたこと
―――そして
私は貴方を愛していたということを
いつまでもその光を……忘れないでください……
ありがとう―――そして、さようなら―――
すべての始まりは……
―――もう一度飛べるとわかった鳥たちは、再びあの紺碧の空を目指して飛び立とうとしていた。
2019年、9月。突然のRachel、復活。それも、彼らの自信作として引っ提げられた『Eternal Fantasia~永遠の幻想曲』が世に発表された。復活後第一弾のアルバムは、全55分の組曲としてファンの間にも、またそれまで彼らを知らなかった人々の間にも衝撃を与えた。それまで無理を承知で次々と活動を行なってきた彼ら、またしても無茶な行動であるかと報道され、一般的にも話題の種とされた。だが、作品を聞けばすぐに、この作品が今までのRachelすべてを確実に包括し、そして、あらゆるものを凌駕しているとわかった。五部で構成されたこの楽曲を全曲通して聴いてみても、また、どれか一つを取って聴いてみても、つかみどころがないようでいて、どこか深く心に訴えかけてくるような陶酔感に襲われてしまう。まるで音の洪水、そう言っても過言ではなかった。
あえなくして、Rachel復活後第一弾のライヴは、まさに彼らのスタート地点である京方大学西部講堂の大晦日イベントであると発表された。だが、この時のバンドは慎重さからか、また守りからか、インターネット上のウェブサイトのみで伝えられ、大々的に宣伝しようとはしなかった。この事実に、多くの雑誌やメディアからは物議を醸したが、彼らには関係のないことだった。常に自分達のペースで活動してきた五人、そのスタンスを忘れかけていたこともあったけれど、それがこのバンドにとって最もよい姿勢であると、誰もが確信していた。それゆえのやり方なのである。
―――京都、そう、この地で世界は始まった。
かれこれ十年ほど前になるだろう。渡辺賢祐が生まれ育った場所で、数々の出会い。そして、今に至る。
西部講堂、ここで歴史は始まったのだ。『Eternal Fantasia~永遠の幻想曲』を引っ提げて、この京都の地に今降り立った。Rachelがはばたくきっかけとなったこの場所で、今、再び大きく翼を広げようとしている。
大晦日ライヴ出身のメジャーアーティストによって公演が行われることは珍しくもないが、Rachelはこれでもやっと三度目である。三度目にして、ひしめき合っている観客は胸を躍らせて待っている。パンフレットは観客全員に配られていたが、どのページを見てもその日のセットリストは記されていない。というより、すでに内容から何の楽曲が演奏されるかは皆知っていた。持ち時間は一時間…ちょうどである。
美弥子が一人、相変わらず心許ない様子でふらりと出てきた。世界をはばたくロックバンドに似つかわしくない白いワンピース姿で、彼女はピアノの椅子に座る。静まりかえり、観客達は息を呑む。そんな雰囲気のなか、美弥子はじっと目を閉じている。
―――そして、ピアノの悲しげな音色が始まった。
彼女が弾く旋律……、今まで弾き語りをしてきた楽曲の中でも、一際物悲しさを帯びていた。このメロディに、それまでの三年間、……いや、それ以前から感じてきた孤独感、あるいは絶望感が表現されていた。もしかすると、いつも明るく、希望に満ち溢れた未来を歌う美弥子が初めて表現した本音なのかもしれない。この想いは受け止めるにはあまりに重い。だが、儚く過ぎ去っていく……。それがありありと音に表現されていた。
しばらくこのメロディが流れる間、ピアノを弾く美弥子の姿は今までになく優雅で華麗であった。賢祐がフランスで再開した頃と同じように。もしかすると、彼女が絶えず、孤独や絶望と葛藤し続けた結果なのかもしれない…、少なくとも賢祐にはそう思えた。
聞くものの耳にも、彼女の表現がそれまでにない、何か大きな力を持っているように感じられた。この旋律によって、美弥子の世界に引き込まれていくのだ。壮大で、果てしない、そんなイマジネーションの世界。一言では形容しがたいほどの何か。
ピアノの前奏につづき、美弥子の歌声が響き渡る。それまでバラードやロックなどを通じて彼女の声は、力強さと幅広い表現力を備えてきた。今、彼女に歌われる美弥子の声は、それらを超え、声そのものが美弥子の息吹となって会場の中をあちこちで飛び回っているようにも思えた。技術や経験だけでは説明できないような、美弥子の感情そのものが人々の心に強く訴えかけてくる。かつて、彼女が師匠に言われたように、とにかく人にぶつかっていくという態度。それがメロディとしてそのまま表れていたかのようである。それだけに、刹那的に過ぎ去っていくようでいて、心に深く刻み込まれるようだ。後々消えない傷跡のように。
それから、第一章に入り、メンバーは沈黙、シンセサイザーや、所々で弾かれるギターや、効果音のようなドラムのシンバルによって、まるでスクリーンの中で宇宙を見ているかのような空間的音楽世界がここに表現されていた。目を見張る観客達。まるで、この時間だけ異次元にやってきたかのような錯覚を覚えた。不安と期待が同時に煽られ、交錯する。そして、光が舞い降りた……。
バンドの演奏が始まり、ロックの演奏かと思いきや、まるでそれぞれが楽器で言い争いをしているかのように楽曲が流れていく。拍子も流れるように変化していき、何をやっているかよくわからないようでいて、美しく流れていく。
―――感情のぶつかり合い、
ありありとした現実、目を背けたくなるような醜い現実をすべて、音楽という手段を通じて表現していこうとする彼らの試みに、その場に居合わせた観客達はそのスリルや緊迫感に圧倒されていた。
そして、バンドの演奏が止まり、み~やの弾くシンセサイザーの音だけになる。彼女がゆったりと弾いていく旋律に、誰もが音を出さず、争いに疲れて休んでいるかのようにも見える。衝突の虚しさを知り、ただみ~やの指し示す道に乗っかっていくメンバーたち。そして、調和の取れた演奏が始まる。ここで、バンドメンバー全員が、ある一定の線―――み~やという一つの光に沿って歩き出す。まるで、Rachelというバンドが一隻の船で、漂流していたところを天使に導かれるように……。
そして、最終章に差しかかった。持ち時間一時間のライヴも、いよいよ大詰めである。バンド全員で作られたこの最終章、彼らの持ち味であるバラードとハードロックを組み合わせたパートとなっており、最後の盛り上がりでみ~やのメッセージが入り、最後まで止まることなく駆け抜けていく。
―――Rachelは、再びあの大空へ羽ばたこうとしていた。
このライヴの開演前、すべての観客に一枚のパンフレットが配られた。以下の内容となっている。
『Eternal Fantasia~永遠の幻想曲』/Rachel
著‐K
~追憶編~ 浜辺にて、波音を聴きながら…
静寂と回想
広い海が見える。僕はどこから来て、どこへ行くのかわからない。でも、この海だけ
は懐かしい感じがする。帰りたい、あの場所へ帰りたい……。
想い出、記憶、温かさ、愛―――すべてはその海の底に置いてきた気がする……。僕は、波音を聞きながら、ただ過ぎ去ってしまった時を思い出す。現在(いま)、それはその瞬間では感じることができない、刹那の永久。想い起こしたその時に、すでに過去になっているその瞬間。現在を想う未来を、想うことができるだろうか?過去も、現在も、未来も、すべては今、僕の思いの中にあるのだ。世界は、まさに今、此処に在る。
Ⅰ. 第一章 無明 ― 混沌~光
何も見えない、聞こえない。闇の世界、闇、自分の存在さえわからない。これは夢?幻?無限に広がる闇の中で、僕はただ叫ぶ。光を求めて手を伸ばす。そうしないと、自分の感覚さえわからなくなってしまうから。僕が感じることのできるその闇は、感じられないのと同じ感覚…。冷たく、暗く、何も無い……。無我夢中に叫ぶ、この何も無いこの世界で。何も無いから、世界でさえない、存在でさえない……。
しかし、僕にはわかる……、ただ僕の意識しないところで何かが動き、何かの音がすることが。ただ、それは僕のもっている秩序の中に整理できない、この感覚。呆然とする僕の視界と聴覚で、ただぼんやりと様々な景色が次々と、フィルムが次々と差し替えられるよう。それが何を意味するのかわからない。意味が無いのかもしれない……。あまりに秩序を失ってしまったこの感覚、まさに混沌。僕は、世界が…わからない。意味を失ってしまったのか、これが絶望……?
僕は何も無かったのだ。何も無いところから、なぜか、温かさを持った。それは、光。温かい光…、真っ暗な水の中で、目の前に、ぼんやりと浮かぶ温かな光……。僕は、その光に手を伸ばした。その光を、掴もうとした。その光の先に…、何か見つかる気がしたからだ……。
Ⅱ. 第二章 誕生 ― 大地~草原~天空
僕は、この広い大地に放り出された。光の中で、色、音、形、空気、どれもこれもがある一定の様相を持っている。これが、世界?僕は、まだわからないが、ただこの地に、自分の足で立っているのがわかる。広がる大地、どこを見渡してもただ広がるばかりの土であった。何かあるのか?僕は、ただ独り、この大地に立っているだけだ。とにかく、何かを見つけたくて僕は走った。この大地をしっかり踏みしめて、僕はただまっすぐ走った。走っても、走っても、何も無い。それでも……、何かあるとただ信じて、走りつづける。
草原、緑に包まれた大地。僕は、緑というものがあることを知る。この大地に、僕と同じように息づいている何かがあるのを知る。生命、僕と同じ、この世界に何か意味を求めて、ただ呼吸をしている。考えようが、考えまいが、この世界で生きようとする、同じ何か……、生命だ。僕は、命を知る。
僕は、走り疲れた。疲れたというこの感覚、呼吸の速さでそれを知る。僕は、立ち止まった。立ち止まり、休む。呼吸を整える。上を見上げた。僕の頭上には、ただ青い空が大きく広がっていたのだ。空、大地とは別の、僕が踏み入れられない場所。上を見上げれば、とてつもなく高いところまで伸びている…。手を伸ばしても、とても届かない場所にいる。僕には届かない世界もあるのだと知る。それは、この世界が、無限の広がりを持っているということ。そして、僕はあまりに限られた、ちっぽけな存在なのだとわかる。僕は、この世界に、ちっぽけな存在としての意味を問い始める。
僕は、今ここにいて、ここで在るこの僕でしかないのか?
あの空の向こうに、僕は無いのか?
僕は、此処に在って、向こうには無いのか?
僕は、此処と、そして、彼方を知る。
僕の知らない世界が、まだまだ存在するということを知る。
Ⅲ. 第三章 啓示 ― 夜と星々~宇宙
僕は、ただ草原に寝転んでいた。ずっと、空を見上げていた。すると、段々空の色が変わる。澄んだ青から、段々橙色になり、空を彩っていた光を発している太陽が、段々地平線の向こうで隠れていく。見た目だけには、ただ太陽が下に動いているだけに見える。でも、今立っているこの大地の向こうにも、まだ大地が広がるのだとしたら……、地平線の向こうにもまだ世界が広がるのだと知る。
そして、太陽がこの空間から完全に消え去り、空は段々暗くなっていく。真っ暗……、でも、見上げると、月と、無数の星々が輝いている。僕は、まだ完全な闇の中にいるわけではないと知る。無数の星々、太陽が照らしている時には見えなかった世界……、空の向こうにも世界があるのだと知る。いくら手を伸ばしても届かない…、それでも、僕はこの大地とは別の世界が在るのだとわかった。そして、僕は、自分の立っている大地が、その煌く星々の一つであるのだと、そう感じる。そう、僕の存在する世界が、あの輝きの数だけ、存在するのだ。それも、とても数え切れないほどである。
僕は、あまりの世界の広大さに眩暈さえ覚えた。そして、僕は、あまりにも自分の存在がちっぽけで、卑小なのだと知る。それ以上に、僕はこの広がりの中で、とてつもなく孤独なのだと知る。
この世界は、僕だけではない。僕の世界も、この世界だけではない。なんだかわからなくなってきた。それでも、僕はこのわからない世界に生きている。この奇妙な感じ。それが、僕の存在する世界。その上に立っている。それは、僕がそう感じているから。
Ⅳ. 第四章 収束・源泉へ…… ― 永遠の幻想
そして、ユニヴァースへ…
何もかもが違う、何もかもが混在し、何もかもがそれぞれの様相を持っている。それは、僕自身もそうだ。無限に、存在する、この世界には。でも、みな同じ場所に息づいている。それぞれが、何か意味をもっているのか、もっていないのか?
僕らは相容れない?…そんなことはない。みな、この大いなる無限の一の中に、同じように息づいている。生命、すべては―――収束する……。
大いなるものに包まれているという感覚。それは、僕が、神を知ること。絶対的なるものを知ること。僕は、ただ自分だけで存在することはありえない。すべてが同じ自分で存在する、無限の数だけ。これは真実?それとも、幻想?
―――永遠の幻想……、時間も、空間も、何もかも超えた、それは無限に広がるファンタジー。僕は、ただそれを、感じ取ることができる。最初に僕が手を伸ばしたあの光。その温かさに包まれて、このファンタジーを感じ取っている。僕は孤独を感じている。それは、つまり、僕が、本当の意味では孤独ではないことを知ることだ。
―――ユニヴァース……、あらゆる存在も、あらゆる差異も、すべては何かの様相をもっていて、存在し、差異をもつ。それでも、僕はこの無限なる秩序の中にいる。それを神と呼ぶのか、無と呼ぶのか。そう、どちらでも同じことなのだ。僕は、ただ、ここにいる。それだけ。大いなる、ユニヴァースというこの感覚の中に……。
P.S.
覚えていますか?僕と出会った頃のことを。
覚えていますか?僕と別れた頃のことを。
僕は、貴方と出会い、そして、貴方を知る。
なぜなら、僕は貴方によって僕が存在し、僕によって貴方が存在した。
僕は、絶対に忘れない……。貴方の傍に、僕がいたこと……。
―――そして、
僕は、貴方を愛していたということを……。
いつまでも、その光を……忘れないでください……。
ありがとう―――、そして、さようなら―――
地平線の彼方に…….
―――一片の翼もった二人は…地平線の彼方に飛び立とうとしていた……
まさかの復活を遂げたRachel、まさに不死鳥の如く、鮮やかな飛翔であった。京方大学での彼らの伸び伸びとしたプレイに、観客は魅了され、再び話題となり、一世を風靡することとなる。以前からのファンも、新たなファンも、皆Rachelの次なる活動に注目していた。
一方、バンドの方はというと、この復活劇に決して気分を良くすることもなく、ただ五人揃って音楽活動をやっていくということに意義を感じていた。
大晦日のライヴから時を待たずして、インターネットより『Hearts』という楽曲が配信された。この楽曲はみ~やがフランスでピアノの伴奏で歌っていたものをバンドでアレンジしたものである。スタンダードなバラードで、歌詞にみ~やらしいメッセージが込められている。バンドを通じた仲間との心の交流がテーマで、今までになく美しく優雅な旋律と歌声に、ダウンロード数はかなりのものであった。
このシングルが配信されてすぐ、彼らは年内に新たなアルバムを出すことを決定する。それは楽曲が作られる前に『horizon…』と名づけられた。以前までなら、アルバムやツアーを終えるごとに疲れ果て、次の作業がすぐに滞っていたが、今回は順調に話し合いと製作が行なわれていった。大学生活最後の年、彼らが精力的に活動していた頃とほぼ同じか、またそれ以上のテンションを保ちながら作業が進められたのだ。五人とも、精神的に充実していた。
こうして、『horizon…』『Holy Judgement~信愛の果てに…』『Spiritual Memories』などを含む全10曲が完成し、レコーディング作業が始まった。最初に、み~やのヴォーカル録り、そして、彼女の歌声を先頭に、楽器隊の音が作られていく。なぜこの方法を取ったのかはわからないが、この方法が功を奏したのか、そうでないのか、事件は突然起きた。
クリスがプログラミング作業をしていた最中、突然、美弥子が倒れてしまった。
―――また……、いや、違う。
なぜだろうか、賢祐には妙な胸騒ぎが感じられた。今までとは違う、何か決定的な……。
「美弥子。しっかりしろ、美弥子!」
賢祐の膝に乗せられた美弥子の頭、彼女は朦朧としながら、彼を見てゆっくりと手を伸ばし囁いた。
「ケン……ちゃん……。」
こんな呼ばれ方をされたのは初めてだったか……、いや、一度だけある。初めて美弥子と出会った日もこんな呼ばれ方をされた気がする。だが、その呼ばれ方になぜか違和感がなかった賢祐。彼は懸命に美弥子の名を呼ぶも、彼女はそのまま意識を失ってしまった。なぜだろうか、このまま美弥子が帰ってこない、賢祐はそんな気がしてしまった。
すぐさま救急車を呼び、レコーディングスタジオから病院へ運び出された美弥子。付き添う賢祐。残された三人は、次に美弥子が目を覚ますまでにアルバムが出せるようにと賢祐の望みどおり、レコーディングを再開する。状況が変わったバンド、果たしてどうなってしまうのか?
―――ぼんやり映る青い空、白くちぎれた雲。
私はずっと、あの空を飛びたかった。
もし翼があったのなら……
もし翼をもった誰かが私を迎えにきてくれるのなら……
私はあの大空を越えて
地平線の彼方へ…… 飛んで行きたい
病院のベッドで安らかな顔で眠る美弥子。楽しい夢を見ているのか、それとも……。賢祐は心配しながら、美弥子から決して目を離そうとはしなかった。彼の中で、ひと時でも目を逸らすと彼女は病室の窓から、まるで羽のようにどこかへ消えてしまうのではないかという不安でいっぱいだったからだ。
「渡邉さん。ちょっといいですか?」
突然、賢祐を呼ぶ看護士に連れられ、医師のもとへ向かう。
「貴方がお連れの方ですか?」
「はい。」と一言、そしてうなずく賢祐。
「落ち着いて聞いてくださいね。金城寺美弥子さんは……、もう長くありませんね。彼女は今、癌に冒されています。持ってあと半年ほどでしょう。」
医師の言葉に、思わず意識がぼんやりし、どこかへ飛びそうになる賢祐。少ない言葉なのに、あまりに重く、まるで彼の未来を閉ざされてしまったような、そんな感覚に襲われてしまった。
―――美弥子と……、断絶?
「彼女の体は元々弱く、脆い。それなのに、きっと彼女は無理をしすぎたのでしょうな…。それも、一時期だけでなく、彼女の人生を通じて……。」
賢祐は美弥子と出会い、過ごしてきた一連の時間、すべてを思い起こしていた。
―――ピアノコンサートが行なわれた公民館。
美弥子はその時から、弱々しく儚い存在に見えた。賢祐にとって、何かデジャヴのような感覚に襲われ、意識の中で何度も美弥子の存在を突き放そうとした……。彼女そのものが、彼のつらい想い出とリンクしてしまうことを恐れたからだ。
―――共に歩んだバンド、Rachel
メンバーたちの中に溶け込み、いつも一人でこの場所を守ってきた、したたかな、まるで母親のような存在だった美弥子。四人とも彼女の存在の強さに支えられ、皆、離れ離れになりながらも、ずっとこのホームから離れることはなかった。
―――少年時代、出会った少女……
なぜだ、賢祐の記憶に巡ってくるもう一つの情景。その小さな女の子……、泣いている、誰だ?はっきり思い出せない。だが、彼の人生で、記憶の一部を構成していて、なぜか輝きをもっている。Rachelではない、何か。はっきりとわからないまま消えていった……。
賢祐は面会が許されているときはずっと美弥子の側にいた。面会時間が終わると、すぐさまレコーディングスタジオに向かい、何度もリハーサルを重ねた後、緻密に録音作業を続けていった。
こうして連日徹夜を繰り返していった賢祐。さすがにかなりの疲れを感じていたが、今の彼には「このアルバムを完成させること」、「美弥子が目を覚ますこと」、そして、「美弥子がアルバム完成を見届けること」しか頭になかった。
ほぼ半月を経て、アルバムは一つの作品として完成を見たのだった。リョーコ、クリス、詩人には彼女の容態を告げておらず、三人が帰ったあともただ一人、作業を続けた結果、賢祐にとって、そして、彼の想う美弥子にとっても、最高のものとなった自負があった。
世に放たれた『horizon…』と呼ばれるこの作品。二人の天使が碧い海と、無数の星々が輝く銀色の空との間で羽ばたく姿が描かれたジャケットが示すように、まさに飛ぶように売れ、CDが売れないとされるこの時代にミリオンセラーを記録した。だが、売れ行きなどどうだろうか。Rachelとして活動できる期間も、刻一刻と終わりが近づいていた。
ある朝方、いつものように病室に入る賢祐。そこにはベッドから起き上がり、ぼんやりと空を眺めている美弥子の姿があった。
「美弥子……。」
すぐさま彼女に近寄る賢祐。美弥子は彼の方を振り返って微笑んでいる。その笑顔は、いつものような無垢な笑顔ではなく、まるで何かを悟ったかのような、菩薩を思わせるような神秘的な雰囲気を放っていた。
「賢祐君、来てくれたんだ。」
「あぁ。そうだ、美弥子に伝えないといけないことが…。」
「アルバム……、ちゃんと完成させてくれてありがとう…。嬉しいよ。」
その言葉に驚き、そのまま立ちすくむ賢祐。美弥子はにっこり微笑みながら言う。
「私、最後まで歌うよ。みんなに、伝えたいから……。」
―――最後まで?そんな……。
賢祐の瞳から頬を伝って一筋の涙が流れた。
―――美弥子は……、すべてを悟っている。
思わず、美弥子のその小さく、脆い体を全身で抱きしめる賢祐だった。
すべての終わりが近づいて……信愛の果てに……
―――理想の世界、完成された世界……聖なる審判は僕らを導く
〈Rachel最後の飛翔~地平線の彼方へ……〉ツアー、パンフレットより
罪の意識に苛まれ、絶望の苦しみと救いの手を待っていたあの日々から、
僕は天上の光に包まれ、永遠を手にするだろう。
君と二人だけで、きっとリアルな幻想を超えた真実の世界へと至るだろう。
信じるものだけが救われる、
そうわかった日から、君と二人で手を取り合って、
お互いの折れた翼で地平線の彼方にある、
あの光まで飛ぶことが出来ると確信できた。
そして、物体を超えた、精神の世界へ。
〈Rachel最後の飛翔~地平線の彼方へ……〉と名づけられたツアーは始まった。と同時に、み~やの最後の時は刻々と迫りつつあった。彼女の身体を蝕む癌と戦いながら、彼女は最後のその瞬間まで歌おうとする。
医師には止められた。だが、リョーコ、クリス、師匠も含めた賢祐による必死の頼みに、医師は承諾せざるを得なかった。いずれにせよ、彼女にとって最後となるステージ、大いに羽ばたいて欲しい、そう願っての承諾である。
ツアーを開催するにあたって、美弥子の死期が近づいていることは公には決して告げられなかった。美弥子たっての願いで、先入観なしで、最後まで生きている自分の歌を聞いて欲しい、という意図である。
いつまで持つのかわからない……、メンバーたちが心配する中、遂に最後のツアーは始まった。以前とは変わらず新幹線の移動で、博多、大阪、名古屋とまわった後、最後は9月に東京ドームで控えているツアー・ファイナル「世界最後で最初の日」ライヴであった。新幹線で移動している間も、美弥子は途中何度もつらそうにしている中、初めて全国ツアーでまわったときと同じようにクリスや師匠、それにリョーコと賢祐も混じってババ抜きで遊んでいた。度々、癌の進行を遅らせる薬を服用しながら、美弥子は博多、大阪、名古屋とライヴをこなしていった。幸い、これらのコンサートを行なう中で、彼女の体調に急激な異変はなかった。やはり、み~やの力によるのか、他のメンバー四人も安心して演奏していられる。反面、彼女がこんなことになってしまったという責務も大きい。
四人とも、み~やにできる最大の恩返しといえば、最後のその瞬間まで彼女が歌いきれるようにということであると、それが頭にあった。心は皆、一つであった。
6月から始まったツアーであるが、あまりあちこち回っていないのにもかかわらず美弥子は安静を保ったまま活動していた。そして、遂に最後の時がやってきた。
―――9月である。
医者に告知されてから、もうすぐ半年になる。美弥子は、最後までみ~やとして歌えるだろうか…?
そう心配されながらも、遂に「世界最後で最初の日」ツアー当日になった。東京ドームには、久々に活動を始めた往年のファンたちで賑わっていた。かつて彼らのライヴを武道館や、この東京ドームで目の当たりにしたメンバー。さらに、西部講堂ライヴでRachelというバンドを知った人々。また、バンドの活動自体が凍結していた時期に新たに彼らを知り、ファンになった者。いずれにせよ、これが最後となるライヴで、彼らにはまだこのコンサートの副題の真意を知らされていない。だが、み~やにはそれは関係ないことだ。ただ、最後まで歌いたい、その純粋な想いだけで突き動かされている。
―――開演時間が訪れた……。
SEで『The Ascension』が流れた。何か新たなことが始まる予感のするようなシンセサイザーの楽曲、この楽曲を製作したのはクリスと賢祐で、フォトンベルト・アセンションをモチーフにした、人間意識の進化についての楽曲である。一見、オカルト的に聞こえるが、芸術の表現には十分な素材であった。こうして、SEが終わると同時に、『Imagination』のイントロ部分が流れる。会場に張り詰める緊迫感。いよいよ始まるのだと、バンドと観客達は双方に暗幕越しに想いを巡らせる。そして、幕が下りた。
バンドの演奏が始まり、み~やはピアノを弾きながら歌っている。幻想的な音世界に加え、み~やの伸び伸びとした歌声に、早くも観客は魅了された。世界ツアーで演奏したときとは比べ物にならないほど、この楽曲の演奏は余裕が感じられ、心地も良かった。
そして、Rachelらしいハードロック曲、『Holy Judgment~信愛の果てに…』『Guilty Conscience』、そして、『BRAVE NEW WORLD』などが演奏される。観客達がノリノリになる中で、み~やのMCが入る。
「みなさ~ん、元気ですか!」
盛大な歓声が巻き起こる。
「わざわざお越しいただいてありがとうございます。一時は活動の危機に見舞われましたが、Rachelはこれから、より高く大空に羽ばたいていくでしょう!聴いてください、『horizon…』」
神秘的なシンセの音が流れる。しばらく、み~やは床に膝をついて祈りを捧げるような体勢になっていた。そして、イントロのシンセが終わると、疾走曲が始まる。この楽曲を製作したのは賢祐、詞は賢祐の書いたものをベースに、美弥子が書き換えていったものである。ドラマティックな展開と、まるで本当に羽ばたいているかのような疾走感。スピードメタルの枠を超えた、まるで癒し系を思わせるかのような旋律が流れる。
演奏を終え、そのまま『Vide Infra』が演奏される。初期の楽曲に興奮するファンたち。そして、しばらく休憩に入り、み~やのピアノソロが始まった。彼女のピアノスタイルは、初めて公民館で見たときからほとんど変わっておらず、まるで自然が生んだピアニストの如く、彼女のペースで弾く。つづいて、ポップで幻想的なバラード曲『Ground Zero』を彼女の弾き語りとバンドによって演奏される。そして、流れるように『蝶が舞う…』が演奏された。曲が終わると、照明が青で包まれオルゴールが流れる。往年の名曲『紺碧~Sapphire』である。この楽曲を昔からよく知っていたファン、そして、新たに知ったファンは、一緒にサビを歌う。
余韻が残っているうちに、『ヴァジュラ』、『曼陀羅』とリョーコや賢祐、詩人に黒Tシャツたちが暴れるためのスラッシュメタルが一気に演奏され、このコンサート一番の熱気と盛り上がりを見せた。
そして、再びドラマティックな疾走曲の『Pearl White Drops』が演奏され、『Imagination』に収録されていた楽曲、『飛翔~Tidal Wave』で再び合唱。東京ドームに押しかけた観客とバンドは一つになった。
―――そして、一幕を下ろした。
しばらく、暗幕に包まれ、会場では長い間アンコールが起こっていた。中々出てこないので、心配しながら見守る観客達。
ステージの照明が輝き、再び幕が上がる。そして、出てきたのはヴァイオリンを持った詩人と、ピアノに向かうみ~やである。二人で心に響くフレーズを演奏する。アンコール最初の楽曲は、彼らのテーマ曲として位置づけられている、『Rachel』である。バンド全員で再び奏でられるこの楽曲は、さらに成長した彼らの演奏でより深みと味わいを増しており、ステージの空が賢祐の見たあのノルマンディー地方の赤みがかった空を思わせるかのようであった。
そのまま、み~やの弾き語りで、初期の頃からずっと歌われていたバラード曲、『Reincarnation』が歌われる。演奏が終わった後も、ファン達はサビを歌い続けている。
アンコールも大詰めになり、歌い続けている観客達の前に出たみ~や。SEで『LAST ANGEL』が流れる中、彼女は最後のMCを始めた。
「みんな、人は……なぜ生きて、なぜ死ぬと思いますか?」
急に、観客に問いかけたみ~や。観客は、突然の言葉に騒然とする。メンバーたちも、み~やが一体これから何を言おうとしているのか、まったく検討がつかなかった。彼女の容態や状況を一番把握している賢祐でさえも……。彼はドラムセットにつきながら、ただ黙って、前の方で小さく映る美弥子の姿をじっと眺めていた。
「私の母は……、幼い頃に亡くなりました。私がまだ物心ついて間もない頃でした。でも、そのときに出会ったある男の子に言われたことがあります。『人は、生まれるために死ぬんだ』って。だから、『心配するな』って。それから、私は笑えるようになりました。」
賢祐は、このMCですべてを思い出した。彼は、ピアノコンサートで見る以前から、そして、Rachelに出会う以前から、み~やという名の少女と出会っていたことを。初めて見た彼女はずっと泣いていた……。だが、彼の言葉でずっと笑うようになった。最後のメモリー……、それが。
「だから……、私は、二度とこのステージに立てなくなるかもしれないけれど……、心配しないでください。」
この言葉の途中で、美弥子は初めて涙を流した。マイクを持った華奢な腕を目元に寄せ、泣いていた。幼い頃、母親を亡くして砂場で泣いていたあの少女のように……。
この広い会場であちこちが騒然とし、中には大声を張りあげて泣いている者も見られた。何も伝えられていない観客には彼女の意図するところがわかりかねていたが、メンバーは痛いほど知っていた。だが、美弥子の歌声は、そして、Rachelの演奏はそんな生死を越えて、永遠に羽ばたいていくだろう…。美弥子はそう信じていた。賢祐も、彼女の気持ちをよくわかっていた。
このMCを終えると、『Spiritual Memories』が弾き語りで演奏された。Rachelのライヴ、最後の楽曲として演奏されるものである。途中から入ったバンドの演奏の上に、み~やは彼女に残された力を振り絞って、素朴で、伸び伸びとした旋律を歌う。言葉にも、歌声にも力があった。賢祐は後ろで聞いていて、背筋に震えが走った。初めて彼女の歌声を聞いたときも、また、数々のライヴの中でも感じていたものだった。これが、感動……?
すべてを歌いきり、み~やは衣服のポケットから一枚のメモを取り出した。彼女なりの最後を飾るための結詞であろう。
『Everlasting…』
悲しまないで 私はいつも傍にいるから ずっと
いつまでも貴方に届くように 歌いつづけるよ…
この世界で 私はずっと探しつづけているから
その笑顔を絶やさないように 歌いつづけるよ…
From Everlasting To Everlasting…Beautiful
Don’t forget you are not alone…
温かい表情で微笑みながら、み~やはすべての観客に届くように一字一句はっきりと朗読した。そして、『Hearts』がSEとして流れ、五人は手を繋いで飛び上がる。こうして、Rachel最後のコンサートは、幕を閉じたのであった。
―――2021年9月、京都出身のロックバンドRachelは正式に解散することが発表された。
美弥子 その世界
―――美しく 永久に そして、子供のように
2021年10月、Rachel最後のコンサートから半月が経っていた頃だった。ライヴが終わった数日後、急に美弥子の容態が変わり、すぐさま病院に運ばれた。そして、苦しい闘病生活の中、賢祐、詩人、クリス、リョーコの四人の下に電報が届いた。
駆けつけた五人、ベッドにはもはや戦い疲れ、力尽きそうな少女の姿があった。賢祐は、その弱りきった少女のもとに駆け寄った。
―――美弥子、彼女は力の限り顔を上げ、微かに微笑を浮かべながら言葉を発する。
「賢祐……君……、みん……な……。来て……くれたんだ……。」
にっこりする美弥子の手をしっかりと握る賢祐。彼女の手は冷たくなりつつあった。うつむきながら、賢祐は祈るようにして言う。
「無理して喋らなくていい……。大丈夫、ちゃんと側にオレがいるから……。」
後ろで見ていた三人は、うつむいて黙り込んでいた。そして、リョーコは突然、
「ごめん、K。アタシ、これから用事があるから……。美弥子のことは……、頼んだよ。」
と言い残して、病室を出て行った。賢祐は何も言わず、出て行くリョーコに頭を下げた。クリスと詩人も、彼女につづき、賢祐によろしくと言って部屋から出て行った。
残された二人。見る見るうちに弱っていく美弥子、心拍数は徐々に減っていく。彼女の手を握りながら、うつむいていた賢祐は顔を上げ、じっと美弥子の目を見つめていた。微笑みながら、美弥子は言った。
「賢祐……君……、一緒に……いてくれ……て……、あり…が……とう……。大……好き……だよ……。」
賢祐は大粒の涙を流しながら、美弥子の頬に、彼の頬を当て、消えゆく彼女の存在をずっと確かめていた。美弥子はかすれた声で最後に囁く。
「あとは……頼んだ……よ……。」
―――美弥子は、力尽きた。
人は、もう一度生まれるために死ぬのだ、それは賢祐が彼女に言った言葉だ。あの時はまったく意味がわからなかった言葉、今はもうわかる。
Rachelも、五人と共に一緒に羽ばたいた仲間となって生まれ変わった。そして、美弥子も、再び……。賢祐は窓に映る青く澄んだ空を見上げていた。あまりに美しく、とこしえに、そして、子供のように澄んだあの空を……。
病室の外、クリスと詩人がちょうど出てきたとき、リョーコは壁に背を持たれながら、天井に向かって大粒の涙を流し、まるで子供のように泣いていた。三人とも、いつかきっと、美弥子が再び生まれてくることを信じて、これからも生きていくことにした……。
Eternal Fantasia~永遠の幻想曲 完
