『ロボット・ドリームズ』感想 いい映画には、絶対いい奴がいるのさ
本作の上映が終わった後、映画館で目にした出来事が、とても印象的だった。あの、映画史に残るであろうセプテンバーが流れるクライマックスから一転し、エンドロールの終了とともに劇場に明かりが灯るとともに、黙々と函を後にする人々。私もそのあとをついていくようにフロントにやって来たのだが、そこにはロボット・ドリームズ関係の物販を求める人たちでごった返していたのである。ざっと見た感じは、定番のパンフレットはもちろんだが、観客が求めていたのはどちらかというと、主要キャラクターであるドッグとロボットの顔が刺繍されたTシャツや、ちっちゃなバッグといったキャラクターグッズだった。Tシャツは、季節がもうちょっと前だったら買っていたかもしれないが、とりあえず私はパンフレットだけを買ったのだが、それにしても、カップルやファッションに関心のあそうな若者以外でも、その手のグッズにあまり関心のなさそうな年代の男女が、さっきみた映画のアパレルを手にしていたのが、妙に記憶に残る。
厳密な意味合いは異なるかもしれないが、ある種の「オタグッズ」であることは間違いあるまい。好きなアニメのキャラやアイドルの姿がプリントされたり、ぬいぐるみやフィギュアにしたあれである。それを求めるファンの心理は、まるで偶像のように肌身離さず持ち歩きたい要求……などと書くと大仰の極みだが、取りも直さず言うなら、「キャラが好きだから」に他ならないだろう。
つまり、ロボット・ドリームズを見た人々は、すぐさまドッグやロボットを、102分の短い上映時間で、好きになり何だったら愛してしまったのではないだろうか。こう断言気味に言えるかというと、ようは私がそうだからである。なんというか、見終わってから「もう1回ドッグやロボットたちに会いたい」という思いが去来したのだ。こんなこと、映画人生の中でも相当珍しいと言っておこう。カウンターの電光掲示板で次の上映スケジュールを探してしまったのは、人生で初めてだ(あいにく、私が見たのはこの日最後の上映だったが)。
素晴らしい映画には絶対的な条件がある。それは、良い登場人文がいることだ。思い返してほしいが、面白い映画、何回もリピートしたくなる映画には、だいたい、面白い奴、悪いけど妙にかっこういい奴、そして何より優しい奴がいないだろうか。
やや飛躍した感はあるが、要するにロボットドリームズが素晴らしい映画なのは、ドッグやロボットが優れているからに他ならない。本作にはセリフこそないが、彼らの感じ方、気持ち、そして人生で下すしかない重い選択と決断、その全てを私たちは理解できたし、そして肯定できる。
言うまでもなく、そう私たちに思わせる音楽のチョイスや演出も間違えのないものだった。ロボット・ドリームズは、アニエス・ヴァルダの「幸福」が容赦なく描いたように、私たちが錦の御旗のごときたたえる愛情や友情がいかにはかないものかを描く。誤ってはいけないのは、別に本作をそうした人間関係の切り捨てや乗り換えを肯定してはいない点だ。自分の経験に即して思い返してみれば、それは絶対ひどいことに他ならない。それを、本作にしても、私たちの日頃の行いにしても、絶対に見誤ってはならないだろう。本作に話を戻せば、ドッグや、成り行き上仕方ないといえ相手を乗り換えたロボットも、相手からすればたまったものではないだろう。しかし、それを恰も原罪のように描くことで、どこか救済をもたらす印象を私たちに与えるに過ぎない。だからこそ、私たちはこの「救済の」クライマックスで罪をつきつけられることでショックを受け、そして人によっては涙を流すことになる。
本作のイメージソングのように流れるセプテンバーの「Do you Remember?(9月を覚えている?)」の歌詞とともに、いくら目を背けたくても、私たちの能力や記憶力の低さ、そして歴史への無関心によってすでに忘却しかけていても、残酷なまでにスクリーンに映し出されるニューヨークのツインタワー。いわば本作は、あの事件を機に変わってしまったニューヨークを、在りし日の姿を取り戻すために、パブロ・ペルヘル監督が仕掛けた運動であり、映画という、何度でも見ることができる夢に他ならないのだ。
余談だが、アースウィンドファイヤーの曲が使われる映画は名作が多いよな、最強のふたりとか。
