沈黙の被写体
ここ数年、花を撮影する割合が増えた。
かつては、花を撮る人の気持ちがまったくわからなかった。
若い頃は、ちょっと変わった形の静物や美しい空、非日常を感じられる風景ばかりを撮影しており、花を撮影することはまずなかった。
そもそも、花の写真など図鑑を開けば山ほど見られる。
そんな写真をわざわざ自分で撮影する意味があるのかとさえ思っていた。
しかも、僕は花屋の生まれだ。
小さい頃から花に囲まれているのが当たり前だったため、花に対して特別な感情を持てなかったのかもしれない。

そんな僕が、最近になって花と向き合うようになり、梅や桜、藤、紫陽花など季節の花々を追うようになった。
なぜこれほどまでに惹かれるようになったのか、理由はいくつかある。
まず、花は色彩がとても豊かだ。
薔薇の鮮やかな色合いや、桜の優しい発色、藤の強烈な色彩など、花は色に富んでいる。
そして、今日撮影したその花は、1週間後にはもう色も形も変えている。
逞しく大きく咲き誇る花、力なく萎れている花、変色し立ち枯れている花。
わずか1週間のうちにも、生命としての盛衰を見ることができる。
こちらに対して語りかけることも、なにかの仕草をすることもなく、咲いてから枯れるまでのあいだ、ただそこにあり続ける。
花開き枯れて行くそのプロセスに、人工物にはない生命が持つ力強さと儚さを感じることができる。

花は被写体として魅力に溢れていると同時に、少々難易度が高い被写体だと思う。
風が吹けば花は揺れる。
スナップ写真であれば、それは動きとして肯定できるかもしれないが、花の可憐な佇まいを表現する場合には適さない。
また、ピント合わせもシビアで絞りの加減が難しい。
ピントはしべに合わせるのか、花びらに合わせるのか、それとも絞ってどちらにも合わせるのか。
ピントの位置により写真のテーマが全く変わる難しい被写体だ。
そして、花びらの柔らかさ、葉脈のキメ細かさ、茎の力強さといった異なる質感を1枚のなかに表現しなければならない難しさもある。
それゆえに、花を撮ることは、街角のスナップとは異なる独特の魅力があるように思う。

季節の花を追うようになったのは、自分が年齢を重ねた証でもあるのだろう。
かつては興味すらなかったものを、今は写真で表現したいと感じる。
時の流れとともに、僕の感性や趣向が変化したのかもしれない。
成長とは異なる変化を実感できることも、写真を撮り続ける楽しみのひとつと言えるな。


・・・と、ここまで少々背伸びして書いてみたが、実はそれほど深く考えていないのかもしれない。
下世話な話をすると、カメラやレンズの性能がダイレクトに伝わってくるため、撮影するのが楽しいのだろう。
つまるところ、花そのものに興味が出てきたのではなく、花を撮ってうまく写真に表現していくという行為に興味が出てきたわけだ。
まあ、趣味だし、別にそれでもいいか。
そんな理由も、写真を撮り続ける楽しみのひとつと言えるな。

