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カメラに魂は宿るか

「カメラやレンズに魂は宿らない。宿るとすれば、写真に宿る。」

これは僕が好きな写真家が良く言っているのだが、僕もそのとおりだと思う。

もしもカメラやレンズに魂が宿るとすれば、それはカメラメーカーの設計者が「プロダクトとしてのカメラやレンズ」に込めるのであって、個々のカメラやレンズに対してではないと思っている。

今回の写真は茶色成分が多めである。

「僕のLEICA M11には魂が宿っているが、その店のストッカーにあるLEICA M11には魂は宿っていない」とはならない。

そもそも、カメラ自体に魂は宿らないし、宿る対象でもない。
カメラは光学機器であり、撮影機材である。
もちろん、機材として愛着をもって扱うし、手入れも苦ではないが、それは魂を宿すために行っているのではなく、良い写真を撮るために行っていることだ。
カメラをぞんざいに扱う写真撮りは写真も雑になるし、一流の写真撮りは、カメラの扱いも一流である。
そもそも、写真撮りはカメラがなければ写真は撮れないのだから、機材に愛着を抱くのは自然なことのように思う。

写真撮りはクリエイターなので、自分を写真作品で表現する。
そのため、魂を込めるべき対象は写真作品である。
写真で自分をどのように表現するのかをひたすら突き詰めていけば、自分の思想や感情がその写真に現れるはずだ。
そして、それを色濃く現すことが出来れば、その写真には自分の魂が自然と宿るだろう。
魂は込めるものではなく、宿るものなのだ。

それ故、写真撮りは魂を込めてシャッターを切ったり、愛着を持って機材を扱うが、カメラに魂を込めることはしない。
料理人が魂を込めるのは、いま自分が調理している料理であり、手に持っている包丁ではないことと同じである。

それでも「俺のカメラは魂を宿している」と言い張る写真撮りがいるとしよう。
その場合、そのカメラは呪物であるので、手放すと共にお祓いをしてもらうことを強く推奨する。
そのカメラは危険だ。撮影すると魂を込めるどころか、逆に魂を抜かれるだろう。

写真撮りは写真に魂を込める。カメラでもレンズでもない。

だからこそ、写真は芸術に至ることができるのだ。

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