短編「胡桃と僕のありふれた日常」最終話 〜陽向に包まれ陽影に眠る〜
「胡桃と僕のありふれた日常」
陽向に包まれ陽影に眠る
僕は新生児室のガラス越しに、ナースに抱かれている僕と胡桃の子を不思議な気持ちで眺めていた。
小さいなあ……指なんて動いてるのが不思議なくらいに細い。
「えらいぞ、胡桃」
陣痛室のベッドに横になった彼女に囁くと、
「当然よ、ふふん」と、得意げに答えたあと、
「でも、分離しちゃってちょっとさびしい」と、ぺたんこになった腹をさすりながら言った。
分娩室に入る寸前まで痛いとか気持ち悪いとかやめてとか泣いていたのに、今は疲れてなお晴々しい笑顔がそこにあった。
僕はまだ実感の湧かないままに、この穏やかで不思議な時間と緊張を含む複雑な平和感を味わった。
しかしこの数時間後、安全地帯であってほしいこの病院の危機管理を問う事件が起こったのである。しかもそれは、ピンポイントで胡桃に降りかかったのだ。
*
胡桃は笑顔の可愛い僕のお嫁さんであり、現在産休中のナースである。そこに居るだけで面白い彼女は、意思とは関係なく僕のストレスを笑いによって消滅させてくれる天使のような存在だ。
その彼女が、僕達の子の出産に臨んでいるのだ。
二十四時間以上前から陣痛室に横たわっている彼女は、後からやって来る妊婦達に赤ん坊の誕生を追い越され、中々生まれてこようとしない我が子に不安が募っていた。
「お母さんのお腹の中が、よっぽど居心地いいのね」
助産師のナースがにこやかに言っていたのも束の間、僕が最後に陣痛室に入った時は、胡桃は微弱陣痛のため陣痛促進剤を投与されたあとだった。辛さと焦りで半べそをかいていて、
「そんなじゃ、お母さんになれないわよ!」と、叱られているところであった。
陣痛を促すために、四つん這いで尻を振る体操をさせられたりして、
「みっともないから、楽くんあっち行っててよ!」
逆ギレかと思えるような涙を浮かべた半白目で僕を睨み、ぷんぷん起こりながら尻を振っているのであった。
がんばれ、胡桃!
やがて彼女は分娩室に移動する。僕は分娩時の講習を受けられなかったから、ここまでだ。
そして未明、ついに僕達の子の産声を聞いたのである。
からだ中に胡桃の血液が所々付着した、取り上げられたばかりのその姿を見て、胡桃は一言「かわいい」とだけ言った。
産後の処置を終えた胡桃の元には食事が用意され、生まれたばかりの我が子と朝まで同じベッドで眠ることが約束されている。
そんな至福の時を今か今かと待っているところに、耳慣れない足音が忍び込んできたかと思うと、個人の結界ともいうべき各ベッドを囲むカーテンを次々開ける、シャッシャッという音と男の短い声が聞こえる。
「ちがう…ちがう…」
ついに一番隅の胡桃のカーテンが開けられた。
胡桃はロールパンを口に詰め込んだところで、もごもごと言葉が出なかった。
そこには大きなバックパックを背負った見知らぬ青年がカーテンに手をかけたまま、もごもごして目を丸くしている胡桃をじっと見つめている。青年は、バックパックをベッドの足元に置くと、
「見つけた! おまえだ!」
「…………もぐもぐもぐ」
「おまえは、今夜おれと一緒にニューヨークに行くんだ」
「もぐもぐ…‥ごくん……だれですか?」
「おまえは、アイドル夏野ひめや、二十三歳。おれの恋人だ」
「人違いです。あたし、アイドルじゃないです」
しかし胡桃こそが夏野ひめやだと言い張る彼を正すため、免許証まで取り出し(ばかなのか、胡桃)、
「私は別人です。顔も名前も年齢も違うでしょ。とにかく、私は出産したばかりで疲れているしお腹も空いているので、出てってくれますか」
「おまえはアイドル夏野ひめやだ。生まれた子はおれの子だ」
子供? それまで強気に対応していた胡桃は激しく恐怖を感じ、ナースコールを押した。
「至急来て下さい、何か思い違いをされてる方が陣痛室にいらっしゃいます」
夜中の陣痛室に関係者以外入れるわけがない。ふたりのナースが何事かと駆け込んできた。青年はナース達にも同じ主張をし続けながら、ナースのひとりに腕を引っ張られ胡桃の視界から消えた。
「赤ちゃんが盗まれちゃう、赤ちゃんが盗まれちゃう」
気が狂ったように繰り返す胡桃をなだめながら、もうひとりのナースが胡桃の荷物をてきぱきとまとめる。
生まれたての我が子と朝まで枕を並べて過ごすはずだったのに、その至福の時は幻となった。朝までゆっくり身体を休めたあと、車椅子で一般病室に戻るはずだったのに、夜明け前の静かな廊下をひたすら病室までせかせかと歩かされた。ナースが後から運んでくれた食べかけの食事をひとりわびしく摂った。そして納得できないまま眠れぬ明け方の眠りにようやく就いたのだった。
これを事件と言わず、なんと言おうか。
*
ナースの話によれば、青年はこの宮越産婦人科の近くに家族と住んでいて、アイドル夏野ひめやの大ファンだったらしい。ある精神疾患を患い、最近とある病院から退院したばかりだということである。あのあと警官と父親が来たそうだ。
それにしても扉がいくつも重なる陣痛室に入り込めたのは、彼が以前この病院で清掃のアルバイトをしていて、内部構造を把握していたのだろうということだった。いや、僕に言わせれば、むしろこの時代に部外者が簡単に入れてしまうシステムにこそに問題があるだろう。
その後の噂では、新生児室には邪魔だとされていた鍵の代わりにICカードリーダーが設置されたらしい。
退院までの一週間、胡桃の災難の噂はナース達の間で広がり、事件そのものの重大な内容より、胡桃がどれだけアイドル夏野ひめやに似ているのか、興味本位で病室や授乳室を訪れるナースは少なくなかった。ま、似てると言えば似てるのかもしれない。が、僕にはよくわからない。どっちでもいいことだ。
妄想とはいえ、ずいぶんと年下のアイドルに思い違いされたことに、胡桃は今となってはまんざらでもないようだが。
「たまたま忍び込んだ日にいた中で、胡桃が近かっただけなんじゃない」
「何よ、それ。あたしが可愛くないとでも?」
僕の左腕をつねりながら、半白目で睨む胡桃。
「そんなこと言ってない……けど、アイドルは白目剥かないと思うよ、ぷぷっ」
母となってもちっとも変わらない彼女は実に可愛い。
一週間後、母子ともに無事に元気に退院したところで、三人家族の記念写真を居間で撮った。
命名「陽向」
万物を照らす惜しみない光とエネルギー、万物の休息の影を作り、夜の安らぎに月を照らす。そんな太陽の方をいつも向いている向日葵のように元気な明るい子になりますように。
え? 男の子? 女の子? どちらでもいいじゃない。
胡桃、産んでくれてありがとう。
陽向、生まれてくれてありがとう。
ひとりではひとは生きられない。これからも万物に感謝しながら、護られながら護っていこう。
「楽くん、これからもよろしくね。これからが冒険よ」
「こちらこそよろしくだよ。胡桃との冒険はスリルと笑い満点だな、きっと」
笑顔の可愛いナース、僕のお嫁さんだ。
最終話 おわり
いずれ、面白ナース胡桃の面白主婦っぷりを番外編にて筆を執れたらと思っています。


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