小説 「逢いに来ました、真野先生」(全17回) 光を喰う黒水晶〈3〉
「逢いに来ました、真野先生」(16)
光を喰う黒水晶〈3〉
***
満月。
山小屋には黒髪を巻き上げた藤見まれが居た。
主人の無い小屋の中で、彼女は一枚の油画を手に取る。
漆黒に見える画面は、観る者や時間によって表情を見せる深い碧の湖に潜む、過剰なまでの幾何学に守られた球体の集まりのような少女の姿が浮かびあがる。
月蝕が始まるとともに、絵の中の水面がざわざわと波打つ。
*
真野先生、やっと描けたんだね。
あたしも、やっとこの場所に来たんだよ。
だって知らなかったんだもの、先生のこと……
先生はあたしとの約束破っちゃって、離れ離れになってもあたしのこと探してくれなかったし。
先生はあたしを描きたいって言ったけど、醜く生まれたあたしの醜くないところばかり描いたし。
でも、あたし知ってたんだよ、本当は先生があたしの醜い部分に惹かれてたことを。
「まれの瞳は私を飲み込んでしまいそうだね」
「よく見て、あたしの瞳。見たくないものや感じたくないものを、光に包んで隠しちゃう不思議な瞳なんだよ」
「怖いな。黒だけの瞳……呪縛的だ」
「あたしの負の物語を閉じ込めたキュビズムだもの」
「まれの負の感情のキュビズムでもあるか……」
「先生、あたしはね、もうひとつ目が欲しいの。見えないものが見える目。それから脚は七本くらい欲しい。だってそれだけでどこへでも行けそうだもの。ついでに翼も取り付けたい」
「欲張りだな。天使というより怪物みたいだ」
「先生、どうせ描いてくれるなら、あたしの本当の象を描いて」
あの時、先生笑ってたけど、あたしは本気で言ったんだよ。なのに、美しい天使みたいなの描こうとするから……
だから、先生と離れちゃった時は、ほら、そこに転がってるカシューナッツのタッパーみたいに空っぽになっちゃって……自分で自分の絵を描いて、空っぽを埋めたんだよ。
それなのにさ、今頃になって、突然あたしの前にぼんやり現れて、
「きみは全くもって何も悪くなかった。私も悪いことをしているつもりは毛頭なかった。ただただきみを描きたいだけだったんだよ」
って、何度も何度も言うんだもの。
ハンス・ベルメールを観たいって無理強いしたのは、そもそもあたしだったのに。
先生が現れた時、最初は驚いたけど、先生が約束を憶えていたのがうれしかったんだ。
あたしへの罪悪感と、その約束が心残りで彷徨ってるってわかった時、先生がすごく愛おしかった。
でもさ、先生のおかげで、不安や哀しさや悔しさみたいな過去もあるからこそ、前に進めることを知ったんだよ。
住みにくいこの世界の向こうに、安心や笑いや幸せがあればいいって。
年を経るごとに、過去の記憶が少しずつ事実とずれてくるのかもしれない。もし、自分の都合いいように書き換えたとしても、それは自分の中での羽化。飛ぶための準備……だよね。
*
黒い月。
光が蝕まれて、辺りは本当の闇に侵食される。
まれは小さな焚き火を作ると、真野祐介の遺念の油画を焚べた。
燃える要素しかないその作品は、歓喜と愛惜を示すように、ゆらゆらと漆黒の空に向かって燃え続ける。
「いつか誰しも死ぬことを忘れない。だから、今の自分を好きでいることにする。あたしはもっともっと生きるよ」
ゆっくりと月が膨らんで、銀色の満月が現れた。
まれは、足元に転がる漆黒の石を拾い上げて、月に翳した。
それをポケットにしまうと、右目の穴に指を入れて、ピンク色の柔らかい肉を擦った。
「先生、ありがとう、さようなら」
天体ショーを終えた夜空から、ぼたぼたと大粒の雨が山に降りはじめた。

「逢いに来ました、真野先生」 エピローグ に続く
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