小説 「逢いに来ました、真野先生」(全17回) スケッチブック〈1〉
「逢いに来ました、真野先生」(2)
スケッチブック〈1〉
教え子の美島くんと再会したのは、私が週二回のカルチャーセンターの講師を終えて、帰路の山道に差しかかる分岐点だった。
ぽつぽつと雨が降り始め、道が煙る前に小屋に着きたいと思いながらも、前をゆっくり走るバスに合わせて、のんびりとハンドルを握っていた。
やがてバスは、隣町まで山越えをする舗装された道と、私の住む山小屋の集落……と言っても数戸だが……へ向かう山道に分かれる場所にあるバス停で停車した。
そのバスから降りてきたのが、美島くんだったのだ。
こんなところで降りてしまって大丈夫だろうか、というような不安たっぷりの顔があどけなくて、思わず笑ってしまいそうになった。
「美島くん! 美島くんじゃないか。元気だったか。どうしたんだい、こんな山にひとりで来るなんて」
「真野先生! よかったあ。本当にここで降りていいのか不安だったんですよ」
今にも泣き出しそうである。
この先に恋愛成就のお宮があるから、ご利益でももらいに来たのかと、ふざけて訊ねてやると、
「違いますよ! それなら合格祈願ですよ。ぼくは先生に逢いに来たんです」
わざわざひとりでここまで来るというのは只事ではなかろう。
雨が強くならないうちにと、私は美島くんを車に乗せると、我が山小屋へ招待した。
「うわあ、雰囲気ありますね。集落といっても隣の家は見えませんね。怖くないですか?」
などと言いながら、きょろきょろと部屋の中を見回している。
「そういえば、さっき合格祈願と言っていたが、受験はどうだったんだい」
「先生、ごめんなさい! 美大進学に反対していた両親を、先生があんなに説得して下さったのに、僕、落ちちゃったんです……それで……」
「今はどうしてるんだい」
淹れたての珈琲を美島くんに渡しながら訊ねる。
「親は元々反対だったから浪人させてくれるわけもなく、今はコンビニでバイトしながら、デッサンだけ習いに行ってます」
「どうせ受験で個性出し過ぎたんだろう。中途半端に主張するより、合格したいなら基本を無視してはいけないよ……いや、君の場合、学科に問題があったのかもしれんな、ははは。でも、何も美大に進学しなくても自分自身の創作をしていけばいいんじゃないかと思うけどね」
「はい、確かに学校の勉強は嫌いですけど」
美島くんは私と目を合わさず、中途半端に笑みを浮かべて珈琲を啜る。
「私など美大を出ていたって真面目なばかりで進歩ないんだよ。技術は持っているから上手い絵はいくらでも描けるよ。でも本当に描きたいものが見えてこなくてね」
と、苦笑してみせた。
しばらく沈黙のあった後、美島くんがバックパックの中から、木炭で汚れた一冊のスケッチブックを取り出した。
「あっ」
声を漏らしたのは私だ。
「これ、真野先生のですよね。サインが入ってる」
「ど、どこでこれを……いや、なんで」
美術室か? 職員室か? そんなはずはない。だってこのスケッチブックはあの時……
「これ、今僕がデッサンを習ってる先生のアトリエにあったんです。スケッチブックの裏に真野先生の名前があって、デッサンの先生に訊いたら、知り合いなら返してやってくれって言われて……」
忘れたくても忘れ得ぬ『藤見まれ』という生徒の姿が、懐かしさと悦びと愛しさと苦しさを伴う吐き気とともに思い出され、思わず口を押さえた。
その私の異変に気づいているのかいないのか、美島くんは私を見ないまま話し始めた。
「このスケッチブックを預かってから、時々現れるんですよ」
雨脚が強くなっていた。
「逢いに来ました、真野先生」 スケッチブック〈2〉に続く
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