小説 「逢いに来ました、真野先生」(全17回) 素描の横顔天使〈1〉
「逢いに来ました、真野先生」(11)
素描の横顔天使〈1〉
まれは結婚したのか……あっさり絵筆も捨てて……私の知る限りの高校生のまれからは想像も出来なかった。
ふと、これまでの自分の思考に驚き、自分自身に総毛立った。まるでまれが、すでにこの世にいないかのように、教え子たちの不思議な話をすんなり受け入れていたのだ。
四半世紀近く経っても、まれとの約束を果たせないでいる罪悪感と喪失感と諦念。
ぼんやりと木々の茂みに切り取られた星のない夜空を見上げ、息を死ぬほど吐いて、しばらく吸うのを我慢してみる。意外に苦しくないことに気づくと、気分が楽になった。
「やはり、まれに逢わなくてはならない」
決心してみると、なぜ今までそうしなかったのだろうと、ひとり苦笑した。
ぐらぐら沸騰しているクッカーに、玉蒟蒻とさつま揚げを投入する。
豆板醤入りの味噌を付ける前に、いつもの君たちにお裾分けだ。岩に寝そべっている縞猫に、縁の下からもそもそ出てくる狸に、雨の夜中でも飛ぶ烏に、惜しみなくさつま揚げを進呈した。
そして私は缶ビールのタブを引いた。
ある風のない蒸し暑い昼、私は麓の無人駅に居た。
山に入って一年数ヶ月、この列車に乗るのは初めてだ。
単線、三両編成の列車の停車するホームは狭く短いが、木のベンチが設置されていて、長閑にも真っ白な猫が無防備に眠りこけている。
さて、どこに行けばまれに逢えるのか皆目わからないが、とりあえず青柳くんの大学で情報を得る心積もりだ。
時刻通りの赤い列車に乗り込んだのは私ひとり。平日昼間、車内は疎らだった。乗り換えの終点まで五駅約三十分、車窓からの風景が新鮮だ。この列車から海が見下ろせるのかと、今更ながら感心する。
乗り換え案内のアナウンスのあと、列車は長めのトンネルに入った。向かいの窓に自分の姿だけが映し出され、いつの間にか車両にはひとりきりになっていた。随分と利用者が少ないのだなと思いながら、終点の駅のホームに降りる。
ところが、主要駅への通路どころか……ここは三十分前に乗ったばかりの元の駅ではないか!
信じられずに狭いホームを見回す。見覚えのあるベンチ。違っているのは、白猫が眠りから醒めていることくらい。よく見ると片方の眼球が……おそらく生まれつきだろう、くぼみがピンクの肉に覆われて……無かった。
時計を見ると、時刻は経過している。
またしても狐につままれたように耳が遠くなる。列車に乗った白昼夢でも見ていたのか……そんなはずはない。いや、不可解なことは普段気づかないだけで、日常あることなのだ。
気を取り直し、三十分後の次の列車に乗り込む。
しっかり目を開けて、「よし!」と、乗り込んだことを指差呼称して確認する。
海を見下ろす風景を眺め、乗り換えのアナウンスを聴き、トンネルを抜けて、次の終点で降りる……嘘だろ……元の駅だ。
さっきと違うのは、数人の学生風の若者たちが、無人の改札にICカードをタッチして駅を出て行く後ろ姿を見たことだった。
時計を見ると、やはり時間は経過している。一体どうなっているのだ、このままでは日が暮れてしまう。もう一度だけチャレンジを決めて、次の列車に乗り込んだ。今度こそ。
海を見下ろして、アナウンスを聴いて、トンネルを抜けて、終点で降りる……私は諦めることにした。どうやら何の因果か、私はこの街から出られないらしい。
ホームのベンチには、今度は白猫ではなくて……
「君は……」
「真野先生! 良かったあ。先生の携帯につながらなくて途方に暮れていたんです。平弓です、憶えてますか」
「平弓さんか、憶えてるとも! 君の素晴らしいコンポジションは忘れるものか。すっかり大人になって、見違えてしまうよ」
彼女は目を潤ませ、ほぼ半べそのような顔になって、
「先生、助けてください」と、私の腕を掴んできた。
「怖いわけじゃないんですけど……やっぱり怖い」
「話を訊こうじゃないか」
人気のない改札を出て、駐車場に停めた車が消えているなんてことないよな、と若干、いや大いに危惧したが取り越し苦労だった。
車の中の平弓さんは、当時の美術部の思い出話に暇がない。私も再採用の赴任直後でまだまだ若かったし、生徒たちに自分の持っている技術を自信を持って惜しみなく伝えていた頃だ。
まさか、それが今の世にマッチした生徒たちの発想の才能に怖気付いて教職を去ったなどと、私を慕ってくれる平弓さんに言っていいものだろうか。
山小屋までの半分ほどの道のり半ば、白黒写真の中で存在を強調するような鮮やかに色付けられた花束が目に入る。
「あ……」と発しただけで、平弓さんはそれから口を噤んで、ふたりして無言のまま山小屋に到着した。
「下界はあんなに蒸し暑かったのに、ここは肌寒いくらいに自分の輪郭を感じますね」
平弓さんは薄いスカーフを首筋に巻いた。
私は早速、珈琲の準備に取り掛かった。
「逢いに来ました、真野先生」 素描の横顔天使〈2〉に続く
マガジン↓↓↓
