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読解(どっかい)いわさきちひろ💞ドストエフスキーの「愛とは、苦しむ者に寄り添うことである」を読み解く!

いわさきちひろが読む
「愛とは、苦しむ者に寄り添うことである」

ドストエフスキーの言葉
「愛とは、苦しむ者に寄り添うことである」
この言葉を、もし画家の いわさきちひろ が受け取ったなら、彼女はそれを壮大な思想や宗教的命題としてではなく、もっと静かで、もっと日常に近い場所から読み解いたはず。

彼女の描く子どもたちは、決して雄弁ではない。大きな瞳、やわらかな線、淡い色彩。
その多くは笑っているが、同時に、どこか泣き出しそうな気配をまとっている。
いわさきちひろは、幸福そのものよりも、「傷つきやすさ」を描いた画家だったと言えるだろう。

ドストエフスキーが語った「苦しむ者に寄り添う愛」は、犠牲や忍耐を強いる重い言葉として読まれがちだ。
しかし、いわさきちひろのまなざしを通すと、それは決して声高な行為ではない。

手を引くことでも、励ますことでもない。ただ、そばにいること。逃げずに、目を逸らさず、同じ空気を分かち合うこと。
その静かな姿勢こそが、愛なのだと彼女は感じ取っただろう。

いわさきちひろは、戦争を知り、貧しさを知り、社会の矛盾を知っていた。それでも彼女は、悲惨さを直接描くことを選ばなかった。
代わりに、傷つきやすい存在、特に子どもを描いた。
なぜか。
それは、苦しみの中心にいる人ほど、大きな言葉を必要としていないことを、彼女が知っていたからだ。

ドストエフスキーの小説に登場する苦しむ人々は、罪や貧困、絶望を背負いながら、それでも人との関係を求め続ける。
いわさきちひろなら、その姿を「特別な人間の物語」としてではなく、「誰の心にも宿る風景」として捉えただろう。
大人であっても、強く見える人であっても、内側には必ず、泣き出せない子どもがいる。その存在に気づき、そっと寄り添うこと。それが愛だと。

彼女の絵には、説明がない。
背景は省かれ、物語は語られない。
だが、その余白こそが、寄り添いの空間である。

何があったのか、なぜ悲しいのか、それを詮索しない。
ただ、その存在を受け入れる。
その姿勢は、ドストエフスキーの言う「寄り添う愛」を、もっとも純粋なかたちで体現している。

いわさきちひろは、愛を「救うこと」と同一視しなかっただろう。相手を立ち直らせること、元気づけること、正しい方向へ導くこと。それらは時に必要だが、必ずしも愛そのものではない。
苦しむ者にとって、本当に必要なのは、「理解」よりも「不在にならないこと」だ。去らないこと、見捨てないこと、沈黙の中でも同じ場所に立ち続けること。それが寄り添うという行為なのだ。

ドストエフスキーの思想が、人間の罪と救済を巡る深い闘争を描くのに対し、いわさきちひろの読み解きは、もっと低い目線に降りてくる。床にしゃがみ込み、子どもの目の高さで世界を見るように、愛もまた、相手の高さまで降りていく行為なのだ。

もし彼女がこの言葉に一文を添えるなら、こう記したかもしれない。
愛とは、何もできない自分を許しながら、それでもその人のそばを離れないことだ、と。

ドストエフスキーの重く深い言葉は、いわさきちひろのやさしい線によって、静かな光を帯びる。愛とは、何かを成し遂げる力ではない。苦しみの隣に、黙って座る勇気のことである。その勇気こそが、人間を人間たらしめるのだと考える。

わたしは、過去の愛を振り返り思う。
わたしの愛は、リスペクトするいわさきちひろさんと同じだったのかと・・

これは、わたしの妄想コラムです。エンターテイメントとしてお楽しみください。


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