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中国のおっさんと京都の店長と白い髪飾り

大学時代は京都の町中華の店でアルバイトをしていた。
70歳の店長と、その奥様と、店長の息子出切り盛りする町中華。いつだって大人気で、カウンターの席はいつも満席でお持ち帰りの列も長蛇の列。町の人と、そこで働く人を支える地域密着型のお店だった。
 ある日、友人に台湾旅行に誘われて旅行費を稼ぐためにバイトを探していた私はこの町中華のお店の前を通りかかり、おなかもすいていたのでなんとなくのれんをくぐり、酢豚定食を注文した。出てきた酢豚を食べながらぼんやりと壁に貼っている異論ポスターを眺めていると、
「至急!アルバイト募集中!まかないつき!」
という達筆な手書きの張り紙が目に入った。
 レジでお会計の時に、
「すみません、あれってまだ募集してるんですか?」
と貼り紙を指さすと、銀縁のめがねをかけて、白い中華調理服に白い料理帽子をかぶった店長は、
「貼ってあるわけやからそりゃ募集中や。働いてくれるの?」
と、にかっと笑った。
そしてその場で面接の日程が決まった。
それでその二日後開店前のお店にでかけた。
面接はかしこまったものじゃなくて雑談みたいなものでその場で採用になった。
「ほな、今日少しだけ働いてみよか」
と、言われてバックヤードに案内されて、店長からエプロンと中華帽子と長靴を渡されて。
言われたとおりに身につけてお店の厨房に入りその日は3時間ほどひたすら皿を洗い、洗い場の進め方やお店のどこに何があるかを教えてもらった。
 その日から、私は結局大学生活5年間、留学に行った1年間を除いて4年間ずーっとそのお店で働かせてもらった。店を営むご夫婦と息子さんにはいたく可愛がってくれて、留学のために1年間バイトを休むことになった私のことも快く送り出してくれた。

2018年12月。
一年の中国留学を終えた私は、夜着の飛行機で帰国して、次の日の開店時間と同時にお店に駆け込んで「店長!」と叫ぶと、
奥のスペースから中華帽をかぶった白い料理着姿の店長が
「あらまあ!蒼子ちゃん!お帰りなさい」
と顔をくしゃくしゃにして笑った。
「今日は、また働かせていただきたくお願いに来ました。」
というと、
「あらー。そうなの?どうしようかなあ」
と茶化す店長をつつきながら、奥から出てきた奥さんが私の名札とエプロンと長靴を持ってきて、
「みんな帰ってくるのを待ってたのよー。いつから入れるの?」
と言ってくれた。
息子さんとシフトの相談を始める私の横で店長は少し考えて突然いたずらを思いついた子供のような顔になって、
「そーや!センセイや!センセイに連絡せんと!」
と叫ぶように言って外へ飛び出していった。
結局その日センセイという人物とは連絡がつかなかったらしく、しょんぼりと店長は帰ってきて。でもすぐにころりと気持ちを切り替えてシフト管理係の息子さんに
「蒼子ちゃんは次いつ働きにくるの?」
と聞いていた。
センセイ。それって誰のことだろうと思った。
だって私は大体の常連さんの顔も名前も呼び名も把握していたのにセンセイなんて存在は聞いたことがなかった。
その次の日私は1年ぶりのバイトに出かけることになった。
その日1年ぶりのバイトでてんてこ舞いになっている間に1人のお客さんがカウンターににこにこ笑って座っていた。大仏さんのような顔をしたその男の人は、なんだかひどくワクワクした顔をしていた。大急ぎでお水を持って行き、
「ご注文はお決まりでしょうか?」
と、問いかけた私にその人はひどく困った顔をした。
「あ、蒼子ちゃん。その人你好(にーはお)しかわからへんよ」
となぜか店長が教えてくれる。
「ごめんなさい、このお店は中国語のメニューがないのですが、どんなものが食べたいですか?」
と中国語で聞いてみると、その人は写真付きのメニューからニラ玉を指さしながら、
「ここの店いつもご飯が多すぎるからいつもの半分にしてくれってお願いしてほしい。」
と中国語でお願いをしてきたので
「店長、ニラ玉定食でご飯は半分ですって。店長がよそうご飯がいつも多すぎるって言ってますよ」
と言うと、
「なあなあセンセイ?どうや?うちの蒼子ちゃん。いまのおうてる?」
と店長はその人のところに走っていって目をキラキラさせて質問した。事態が読めない私に、その人は少し申し訳なさそうに笑いながら訛りひとつない流暢な日本語で
「こんにちは。ソウです。店長が中国語が話せる日本人の女の子がバイトしてるっていつも私に自慢してて、あなたと中国語で話してほしいってお願いされたんですよ。」
と気まずそうなその人と、いたずらが成功した子供のようにケラケラ笑ってる店長とのテンションの差になんだか和んでしまって私も笑ってしまった。
「それにしても、よく勉強しましたね。発音は正確さに欠いていますが、大丈夫です。完全に分かりましたよ」
と、率直に感想をぶつけてくれた。
話を聞くにその人は、京都の某大学に1年間研究員として広東省の大学から派遣されてきている准教授とのことで、ひょんなことから店長の持ってるアパートに下宿することになったらしい。
1960年代に店を開いた店長は、それ以来高度経済成長期の日本の企業戦士や労働者たちを支えに支えてほぼ無休で働き、そのお金で店からほど近いところに学生用のアパートを建てて、昔は物件を見つけるのが難しかった外国人の学生や実習生に積極的に部屋を貸し出すということを行っていた。そして現在もそれを続けている本当に素晴ら人だった。かねてから、日本の平均的な下町で現地の人と関わりながら暮らしてみたいと思っていたセンセイにはこの物件はうってつけで、少し年季の入った学生アパートを1年間の日本滞在での住処に決めたらしい。
センセイの出向先の大学が自分の大学だったことから、その日私とセンセイは連絡先を交換して、暇になるとセンセイの研究室に遊びにいったり、開店前店のカウンターで下拵えをする店長を横目にセンセイの論文のネイティブチェックを行ったりした。2019年の夏までの任期の先生と私と店長はほぼ毎日会っていたし、夏休みの繁忙期にはセンセイも店長に皿洗いに駆り出されて店内を駆けずり回っていた。
「中国の自分の学生が日本でバイトする話を聞いてずーっと羨ましかったんですよ。まさかこの歳で叶うなんてね」
と笑いながら、めちゃくちゃ忙しかった夏の日の閉店後に店長からもらった葡萄を店内に広げて食べながらセンセイはおかしそうに笑った。
「先生は日本に留学してた時バイトとかしてなかったんですか?」
「留学?そんなものしたことないですよ。私は広東省にある広州の外国語大学で日本語を勉強したあと、ずーっと広州で日系企業で働くところから始めて通訳者になって働きながら大学院に行って今の大学で教職って仕事にたまたまつけただけなんです。だから、今回の日本の大学への出向の話が決まったときは本当にうれしかったんですよ。」
と、目を細めていた。当時40代も中盤だったセンセイにとっては日本での今回の滞在は初めての完全独り暮らし。初めての自由な生活だったのだ。センセイはいつも店長や私といろんな話をしたがったし、店長の古典落語に出てくるようなきれいな上方弁を興味津々でメモしたり、質問したりしていた。
「店長の大阪弁はアニメやドラマとはもちろん違うし、広州にいる関西人の関西弁とも全然違いますね」
「当たり前や。大阪の人やら兵庫の人の話さはる言葉と一緒にされたらかなわんわあ。
私は生まれも育ちも京都ですぅ」
と、まんまと京都人の地雷を踏みぬいて店長にこれまた聞き取りにくい京都弁で投げ返されているセンセイをみて大笑いした。
センセイのいる毎日は楽しかった。
いつも論文執筆の合間にご飯を食べにくる先生に、
「またニラ玉かいな。うちの店ぎょーさん他にメニューあるんに」
と、店長は言うけど、先生はいつもいつもニラ玉を食べていた。大量のニラと玉ねぎと卵を店長しか製造方法を知らないという調味料で炒めるニラ玉はめちゃくちゃ美味しかった。やさしくて毎日食べられる味で、お店でも人気のメニューだった。

50年近く厨房に立ち続けカウンター越しに世界を見つめる店長は、自分の中にしっかりとした核と世界観を持っていた。
だから店長の言葉は特有の力を持っていて私はこの店長からいろんな影響を受けた。いつもお店が暇になる16時頃の時間帯には静かな店の奥で新聞を広げて隅から隅まで目を通していた。そして、バイトに来た私に
「蒼子ちゃん。今日こないなことあってんでー」
とその中でも自分が面白いと思ったことやびっくりしたことを話してくれた。 
そしてそれはセンセイに対してでも同じで、センセイもまた店長の話には興味津々で新聞の記事を頼んで切り取らせてもらったり持ち帰ったりそんなことをしていた。
あっという間に時間は過ぎ去り、センセイは帰国の日を迎えた。帰国が近くなるにつれ店長が寂しそうに
「論文書き終わらんかったら帰らんでええんと違うか?」
などと子供っぽいことを言い、センセイは困った顔をした。
それでも最後の日はやってきて。
9月のある日、センセイは借りていた部屋の鍵を店長に渡して関西国際空港から広州へと帰っていった。最後にお店にあいさつに来て大きなスーツケースを抱えた先生が乗り込んだ車が見えなくなるまでいつまでもいつまでも店長は長靴のまま店先に立ち尽くして微動だにせず見つめていた。

センセイが京都を去ったあともいつも店長とセンセイの話をした。
広州からきれいな広東の夜景を切り取った絵葉書も届いた。
はがきの裏にはびっしりと「ぜひ広州にきてほしい」というセンセイの思いが書き込まれていた。店長はその絵ハガキをお店に飾って、時々黙って見つめていた。
そしてある日、バイトが終わって賄いを食べていた私の目の前に、ドン、といきなり2人前の餃子を出してきて
「なあ、蒼子ちゃん。センセイに会いに行かへんか?」
と覚悟を決めたように言ってきた。毎週月曜日定休日。店長は一週間に一回しか休めない。
そんな店長が連休を取るのは1年間に盆と正月だけである。
カレンダーは11月。
店長はお正月休みに中国にいるセンセイに会いに行きたいのだとわかった。当時すでに70を超えていた店長にとってそれはすごく勇気が必要な決断だったに違いなくて、それほどまでに店長はセンセイに会いたかったのだ。

私と店長はその年末12月30日関西国際空港から中国に向けて飛び立った。店長にとっては30年ぶりの中国だった。
空港からの移動はセンセイが手配してくれていたタクシーに乗ることになっていた。
ギラギラと光るビル群に圧倒されながら、窓に張り付くように外を見ている店長は、あれはなんだこれはなんだと私に質問を投げつけ続けた。そして、不意に車が止まり
「つきましたよ」とぶっきらぼうに言われた。
荷物を持って車から降りようとすると、
遠くから、子供を抱いてものすごい勢いで走ってくる人がいた。
「店長!!!店長!!!!」
センセイの声だった。
28度の暑い暑い12月の広州で、コートを着て車を降りた私と店長。センセイは近くまで来ると、抱いていた子供を下ろして、店長の手を取り力強い握手をした。
「店長!店長!ようこそ広州へ!本当に来てくれましたね。うれしいです」
「センセイ本当に来ちゃったよ。ほんまに遠かったわあ。」
と店長は照れ隠しをするようにそんなことを言いながら笑った。
「センセイに持ってきたものがあるんよ」
そういうと店長はスーツケースを開いて、水筒を取り出した。
「本当は、先生が帰るときに渡したかってんけど、あんときは荷物が多かったさかいにな。
センセイ好きやったやろ?うちとこのニラ玉」
店長のセンセイへのお土産は、店長しか作り方を知らない店長特製ニラ玉のたれだったのだ。センセイも私も意味を理解するのに数秒かかって、私より少し早くに意味を理解したセンセイは、感情が洪水したように少しだけ泣きそうになりながらきつくきつく店長の手を握りなおした。
「ようこそ、ようこそ。蒼子さん、店長を連れてきてくれて本当にありがとう!」
センセイに中国語でそう言われて、私は真冬の広州の空を仰ぎ見る。
ゆるい南国の風にヤシの葉っぱが天を仰ぐ私の視界の中に揺れていた。そうでもしないと、泣いてしまいそうだったから。
広州までの距離3500キロメートル。
店長と、店長の水筒に入った大事なニラ玉のたれを広州に連れてくるのは本当に大変だったけど、本当にこの場にいれてよかったと心の底から思った。
 その次の日から3日間、センセイは店長と私を広州のあらゆる綺麗な場所に連れていき、
広州のあらゆる名産品を店長の舌に味わわせた。

センセイは店長と並んで歩き、店長に自分の街を得意げに紹介して歩いた。
夜になると先生の奥さんや二人の子供やたくさんのお友達とご飯を食べた。
「センセイはこんなに大きくてきれいな街から来た人だったのね」
巨大なビル群を見上げながら店長はため息をつくように言った。
「でも広州の空は狭いですよ。私は京都の広い空が好きです」
とセンセイは言った。
そういう話をずっとしていた。まるで先生が京都にいたころに毎晩お店でしていたように。
最後の日に、レクサスに乗って私と店長のお見送りに来てくれたセンセイに店長は黙り込んでいた口を開いた。
「405号室。ずっと空室にしとく。センセイいつかまた日本においでね。そしたらまたすんだらええねん。センセイの子供が住んでもええよ。待っとるさかいにな」
405号室。
先生が住んでいたアパートの部屋の番号だった。今度こそ先生は堪えきれず、顔をくしゃくしゃにして笑いながら泣いていた。
「そんなもったいないですよ。ちゃんと貸して金稼いでくださいね」

心の底からここに来てよかったと思った。お店の厨房からここまで店長と一緒に空を飛んで海を越えて国境を越えてここまで来れて。ここまで来ないと見られないすべてが目の前にあった。
その後、コロナが始まり、私は大学を卒業し京都を離れた。センセイは離れていてもいつも私のことを気にかけてくれた。社会人一年目でパワハラで適応障害に陥り、ボロボロになった私を心配して電話をくれて、ずっとずっと話を聞いてくれた。

「とにかくね、辛くても、苦しくても死んじゃダメですよ。あなたは私にとって本当に大事な1人の人間なんですから。死にそうになって全部ダメになってもなんとか広州まで来なさい。そしたら私がなんとかしますからね」

というセンセイの言葉がどれだけ私を救ってくれたか。きっとセンセイは知らない。
センセイが広州という心の逃げ場を作ってくれたから、私はなんとか耐え抜くことができた。

そんな先生が、2023年の秋の夜。
私にメッセージを送ってきた。
「蒼子さん、こんなことを聞いて申し訳ないのですがあなたのご家族の中に消化器専門のドクターはいますか?」
 私の家族には医師が多く、センセイが日本滞在中は具合が悪くなると、良くいろんな相談を受けていて、そのたびに私は医師である父や叔母に連絡を取り、ドラッグストアでも買える薬を探してセンセイと一緒に買いに行ったものだった。
「はいー。叔母がそうですよ。センセイどうしたの?」
「ちょっとお願いがあるのですが、今から送るファイルのCTをおばさんに見てもらうことは可能でしょうか?」
「もちろんです。」
センセイからのお願いならどんなことでも断らないと決めていた。私が死ぬほどお世話になった人からのお願いだ、というと叔母は
「そんな大袈裟なこと言わなくても、蒼子ちゃんのお願いならおばさん聞くわよ」
と言って快く請け負ってくれたので、そのまんまセンセイが送ってきたCTのファイルを転送した。
「これは、、蒼子ちゃんちょっと厳しいわ」
叔母はそう言った。
「いったいこれ誰のなん?」
そういえばそれを聞いていなかった。
叔母に言わせればこれはタチの悪いスキルス胃癌で、状態はかなり悪かったらしい。
その旨をセンセイに伝えて、CTの中の胃の持ち主が誰なのかを聞いてみると、ポンっとスマホに浮かび上がった文字は、
「私の妻です」
というもので、私は目の前が真っ暗になってその瞬間の前後をよく覚えていない。

センセイの奥さんは、本当に本当に綺麗な人だった。初めて会った時、体のラインがピッタリとしたパンツスーツを着て、真っ黒で艶のある長い黒髪をポニーテールのように後ろにまとめていた。
プラダのカバンをなんてことないように持って。センセイよりも背が高かった。
「あたしの気が強いからなかなか結婚決まらなくて、ちょっと背が低いのだけが欠点だって言われて紹介されたのがこの人よ。結婚してみて分かったけど、本当に背が低いのだけが欠点なの」
とイタズラっぽく笑った。
先生曰く、奥さんは政府の国際関係の仕事をもう20年くらい続けていてかなり出世しているらしい。
広東省でも随一の名門大学を卒業していて、アメリカへの留学経験も持っているスーパーキャリアウーマンだった。すっと涼しげなシャープな目を、限界まで細めて緩めて、ニコニコと先生と2人の子供を宝物のように見つめている奥さんは、私が初めて出会った都会で働く中国人の女性だった。私もいつかこんなふうになりたいと思っていた。先生みたいにどこまでも心根がまっすぐな旦那さんと、可愛い2人の子供を自分も稼いで輝きながら育てる人。自分の足で人生を華麗に歩く女。私は彼女の全てが素敵だと思っていた。

「いつ、これが分かったんですか?」
「3ヶ月前です。ねえ、蒼子さん。日本に、日本に行けば何か治療方法はあるんじゃないですか?中国は医療も遅れてるし、それに医師の質も低いし、、」
先生がそう言ってくることはなんとなく予想できていた。
だけど今や先生が住む中国の大都市と日本に医療水準の差なんてない。中国の大学病院で撮られたというCT画像にしても、日本国内でも珍しい最先端の設備で撮影されたような精度のもので、
「ここまで細かいCTが撮れるなんて中国はすごい。」
とまで叔母に言わしめたもの。処方されていた抗がん剤も、最先端の高額の薬だったのだ。
「このケースは5年の生存率が7%だ。」
叔母が最後に言った残酷な呟きを私は胸にしまいこみ、センセイに伝えることはできなかった。

「蒼子さん、妻があなたに会いたいと言っています。今年の4月中国の観光ビザは解放されましたよね。蒼子さんは私たちに会いに来れますか?」

センセイの言葉に、頷いて、頷いて、頷きまくった。
会わねば、会わねば、会いに行かねば。

そして、怒涛の勢いで2024年1月1日広州へ飛んだ。奇しくも、それは4年前店長と一緒にセンセイを尋ねた日と同じ日だった。駅まで迎えにきたセンセイは、疲れ果てた顔をして力無く微笑んだ。
「ひさしぶり、蒼子さん」
広州の白雲区にあるセンセイの家に着くと、2人の子供が出迎えてくれた。四年前に会った時と比べて2人とも大きくなっていて驚いた。上の子は小学六年生で、下の子は今年小学校に入るらしい。
「ようこそ我が家へ!」
という2人は私のことをしっかり覚えていた。
そして、奥の部屋からゆっくりとグレーのスウェット姿の奥さんが優しい優しい顔をして出てきてくれた。
「まあまあ、すっかり綺麗なお姉さんになったわね。旦那から聞いてるわ、大きな会社で働いてるんでしょ。すっごく素敵になったわね」
青白い肌の色を見ないふりして、
「あらー、久しぶりです!そんなに褒められたら調子に乗りますよ!奥さん病気って聞いてましたけど心配して損しちゃった。すっかり元気そう」
と大きな声で言うと、奥さんは弱々しく笑った。

「お母さんは病気だよ、それも大変なやつ」
息子はしれっとそう言った。
「うん、だからみんなで助けないとダメなのよ」
娘もそう言った。
センセイの方をさっと振り返ると、しょうがなさそうに微笑んだ。
「そりゃね、隠す人もいるだろうしそういう選択肢もありますよ。そういう選択も間違っていないとすら思います。でもね。子供は馬鹿じゃないです、お父さんとお母さんが何か隠してるかくらい何も言わなくてもすぐバレてしまう。」

午後16時。広州の夕暮れ。鋭い夕焼けの光が部屋に差し込み、眩しくて目を細めた。
「もう夕方ですね、電気をつけましょう」
と言ってセンセイは電気をつけに行く。
「突然いなくなったって思われたくないの。」
ポツリと奥さんはそう言った。夕陽に照らされて、スッと美しいセンセイの奥さんの横顔のシルエットが鮮やかに浮かび上がっていた。
「一生懸命やるってどういうことなのかを、見ていてほしいと思うの。
人間がどうにもならない困難に陥った時、苦しくても痛くても最善を尽くして、死ぬ気でやっていく姿を見ててほしい。困難に巡り合った時に逃げなかった姿を見ていてくれたら、たとえあの子たちの困難の場に居合わせることができなくても何かの糧になれる気がして。」

まっすぐ生きるとはこういうことなのか、と思った。
この人たちはどこまでもまっすぐに自分の人生に降りかかる全てを真正面から受け止めていた。病気になってもならなくても、センセイも奧さんも何にも変わってなくて、変わらないまま生き抜こうと必死に前を向いてる姿が悲しくて、でもやっぱり私が憧れた姿のままで。
 その夜は奥さんと子供二人と、みんなでご飯を食べた。4年前のあの日のように。
食べ終わると、センセイの奥さんはまとわりつく二人の子供に細い腕をのばして柔らかくやさしく触れた。その指先が美しかったことは今も私の中に強烈な記憶として残る。

「あ、忘れるところだった。あなた、蒼子ちゃんに準備してたもの持ってきてよ」

センセイは奥さんにそう言われると奥の奥さんの寝室から綺麗な青い箱を持ってきた。
奥さんはその箱を私に向けて渡して、
「あけてあけて」
と言った。パカリとひらくと、中には白い花の髪飾りが入っていた。揚州というところの伝統工芸の絹を使った布工芸らしい。


「妻はあなたのために結構時間をかけて選んだんですよ」
と口を挟むセンセイに奥さんは恥ずかしそうに笑った。
「これね、花嫁衣装に合うように選んだの。真っ白なウエディングドレスにも似合うし、もしも中国人と結婚することになったら、真っ赤な中国の伝統衣装にもすごくすごく似合うと思うのよ。」
泣いてはいけない、泣いては。
「すっごく綺麗ですね。これすごく好きです。早く嫁に行けるように私ったら、頑張んないとですね!」
と言うと、
「ちがうわよ。周りの人を見て心がざわつく瞬間がきっとあると思うの。
でもね、あなたはそのまま自分の行きたい道を行くのよ。周りに流されてはいけない。
それでちょっと年齢重ねたって関係ない。それで、あなたの行きたい道のその先に素敵な出会いがあったらその髪飾りつけて胸張ってお嫁に行くのよ。あなたのこと、実の娘のように思ってるのよ。」
そう言われて、向けられたまっすぐな好意によろめきそうになる。
次の日、止めるセンセイを振り切って奥さんは2人の子供を連れて私を最寄りの駅まで送るセンセイの車に乗り込んだ。車の中では取り止めもない話をした。
あっという間に駅に着いて、センセイに荷物を下ろしてもらい、やっぱりまた握手をした。
「また来てくださいね」
「もちろんです。」
窓から顔を出した奥さんが、
「また会いましょう。」
と微笑んだ。
その車に向かって見えなくなるまでいつまでもいつまでも手を振って、見えなくなった後広州の空の下ボロボロ泣いた。泣いて、泣いて泣いて泣きじゃくり、心配したお節介なタクシーの客引きのおっちゃんと地べたで水を売ってるおばちゃんが寄って来て水を差し出しながら
「どうしたんだどうしたんだ大丈夫か?」
と言ってきてまた泣いた。
何もかもが優しくて、でも全部が悲しくて。
広州の夜空はどこまでも広くて。

帰国した後、店長のところに行って、センセイから預けられていたお土産を渡して、センセイの近況について話すと
「そうかあ、センセイも大変やなあ。まあ人生長いからいろんなことあるわ」
と、あっさり、でもどっしりと受け止めてそんなふうに言った。
「悲しいこととか辛いことのない人生なんてないやん。でも、悲しいばっかりの人生もないんよ、蒼子ちゃん」
冬の京都の道を歩きながら店長は全てを飲み込んだように静かにそう言って白い息を吐いた。

会いたい人には会いに行こう。
大切な人に会うためならば国境さえ越えて、距離も越えて。
私は私がやれることをやろう、信じる道を行こう。
そんな感じで私は今、自分の人生や周りの人に降りかかる困難や逆境に渾身のファイティングポーズを決めている。


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