母親を辞めたいと思っていた過去:悩んでいた小学生ママの心が軽くなった一つの考え方とは
日々忙しく生きていると、余裕がなくなった母親はもしかしたら子どもへの愛情を疑ってしまうことがあるかもしれない。
どうしても思い通りにはしてくれない子ども。
自分の想定外の存在。
1、母親を辞めたい
自分とは別の存在なのに、子どもには何か自分の一部であるような、場合によっては所有物である(というとだいぶ語弊があるが)というような感覚に陥ってしまうことがある。
それは自分に似すぎている部分があるからなのか、自分の分身という感覚があるからなのか、それはわからないが、子どもという存在は他の誰とも違う、不思議な、そして唯一の立ち位置で存在している。
息子が小学校に上がった頃、私は子どもとの関係でかなり悩んでいた。
第一子だったので、初めての「小学生の母親」という立場。
子どもを学校に通わせるということ、先生との関係、学校行事、何もかも初めての体験。
今思うと平常心でいられないほど余裕がなかったのかもしれない。
息子は今で言うとグレーゾーン的な男の子だった。
小学校にあがることで私がこれまで抱えてきた価値観、思い込みをまざまざと見せつけてくれた。
「学校には行くもの」
「先生の話は聞くもの」
「授業中は静かにしていること」などもっともっと数えきれないほどの思い込み。
しかし私の思い描く理想の小学生像とはかけ離れたことをする息子。
しばらくは登校渋りもありかなり滅入っていた。
その頃の私は、土日関係なくフルタイムで働きながら、2人の子を育てるワーキングマザー。
余裕など全くない状態。
日々会社と家庭でのストレスでけっこう参っていた。
そんな中での小学校でのトラブルの数々。
思ったよりもだいぶこたえていたようで、子どもと離れたいとか、なんなら母親を辞めたいと思ったこともあった。
自分は子どもを愛することができない欠陥品だ、とも思っていた。
愛情とは目に見えないものだからこそ、その存在を信じることができなくて、本当はそれを持っていても気づけないこともある。
あるけどないような感覚。
ただそれを感じられるかどうか。
そのときは感じられなかった。
感じる余裕がなかった。
その後は結局、思い悩みながらもその時の自分の精一杯で駆け抜けた。
必死過ぎてあまり記憶すらないけど。
とにかく必死だった。
あれから時が過ぎ、
今では子どもと学校へのストレスは格段に減った。
2、愛情は見えないからこそ感じられないときもある
今、子どもを愛しているかと問われれば愛しているとは答える。
もし、子どもが命の危機に瀕していたら自分はどうなってもいいから子どもを助けたいと思うだろう。
でも本当に心からの愛情であふれているかといわれると、正直そうは感じられない。
愛情があると確信はできないのだ。
だって心の中は見えないものだから。
数値化できないものだから。
かわいいと思うときもあれば、とにかく憎たらしいと思うときもある。
関係が近すぎるからこその思い。
それはどうしたって仕方ない。
3、それぞれが人生の主人公
私が私の人生を歩んでいて、子どもは登場人物の中の一人でしかないのだ。
子どものためにしてあげたいこともあるけど、でもそれには自分が満たされていてこそ。
子どもに振り回されるのではなく、子どもから学ばせてもらいながら、自分の人生を歩む。
あくまで自分が主役なのだ。
子どもはわき役。
子どもは子どもの人生を主役として歩んでいるだけ。
そこでの母親はわき役でしかない。
あくまで登場人物Aなのだ。
そう思えるようになったら、前みたいに肩に力が入っている感じはしない。
いい意味で手抜きというか、心が軽くなった気がする。
まるで植物のように子どもは放っておいても勝手に成長する。
成長は誰かの手で止められない。
逆に手をどれだけかけたとしても、思い通りに育つとも限らないもの。
母親にできることは限りなく少ないのかもしれない。
ただただ人生の登場人物との関係をよりよくしていくことを考えるだけ。
お互いが気持ちよく過ごせる場所があったらそれでいい。
できるだけ干渉しないこと。
それを思いながら今日も子どもと笑ったり怒ったり。
そんな毎日を過ごす。
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