本当の小説を書くということ。
これは〝俺専用令和最新版まとめ〟ですので悪しからずご了承ください。
よくある「創作論」ではありません。
あくまでも私的まとめです! 人には人の乳酸菌!
作家の2タイプ診断。自分はどっち?
タイプが2つしかなくて草。物好きなあなたは診断してみてください。
羅列する要素であてはまるやつが多いのがあなたの作家タイプです。
作者タイプ1.自分が好きすぎる
自分が好き。大好き。最高だと思ってる。鏡を見はじめて気が付くと1時間経っている。生活ルーチンが整いすぎているので口を開けば他人にもオススメしてしまう(「早朝の散歩いいよ」「常温の水をね」など)。小説を書く場合は一人称、あるいは自己を投影したキャラを主人公とする三人称。主人公は自分と共に年をとっていく。ヒロインは好みのタイプしか書かない(女性の場合は逆)。主人公の行動が自分よりはっちゃけているケースにおいても「自分がやりたいことの範囲」を超えることはない。つまり登場人物は、ほぼ自分。いっそ顔も自分かもしれない。
作者タイプ2.自分が嫌いすぎる
自分が嫌い。かろうじて現世にとどまっている。鏡は直視しないし、どうしてもせざるをえない場合は一番いい顔を作った上でようやく映る。生活が乱れている(部屋も。何もかも)。小説を一人称で書くときは理想すぎる主人公を設定する。キャラに自己を投影したことはない。ヒロインや恋人枠なんてもっての他。そんなものは芸術に対する冒涜ですよ。主人公の行動、言動に近しいものが自分の肉体を通して出ることはありえない。登場人物は完全なる他者であり想像の産物。作者は世界に存在しない。かやのそと。
そして当然のことながら俺は作家タイプ2です。
俺によるまとめ。
ものすごく残酷なことを言うなら、自分のことが好きすぎる作家に自分以上のキャラは書けません。いや、そういう人は、べつに自分以上の人間が書けなくても平気なくらい自分が好きすぎるんだろうからいっそ幸せでうらやましい(富岡義勇並み感想)。
GPT君のまとめ。
自分のことが好きすぎる人にとってキャラって「自分を気持ちよくする装置」なんだろうね。自分が救われる。自分が選ばれる。自分の思想を肯定する。自分の痛みを正当化するための装置。
だからすごく濃いキャラを書いても、全部作者の自尊心に回収されてしまう。自分以上の人間を書くには、その人物に負ける必要があるから。
「この人なら、俺より高いところへ行く」
「この人なら、俺の欲望ではなく、自分の倫理で動く」
「この人なら、俺が言わせたいことではなく、自分の言葉を言う」
というふうに。
自分が好きすぎると、それが受けいれられない。だからキャラを自分の側に置きたがり、キャラに自分を見上げさせ、キャラの愛や苦しみを、自分への承認に変えてしまう。自分以上のキャラを書くためには、自己愛への欲望を超え、そのキャラ自身の価値観と人生を守る必要があるから……。
作者タイプ2にとってキャラ作りとは?
俺みたいな作者タイプ2における最高の主人公作りってのは、藍は藍よりいでて藍よりも青しを地で行くこと。つまり自己否定と背中合わせ。
主人公が最高なほど作者である自分の未熟さ、逃げたさが見える寸法。
俺の最愛の主人公ちゃんなんて、まさにそういう存在だからね。ていうかあれは俺の人生から俺のよくないとこを生成した要素だけを丁寧に抜き取って作ったらこうなった人間なんだから当たり前か……。
作者タイプ1はダメ? そうではない
ふつうに書けば間違いなく「とりあえず自分を中心とした世界がしっかり書けました」までは行けるから。
でもその一作を超えられない、永遠に突き抜けられなくても不思議はなくて、なぜなら作者が自分のことを好きすぎるあまり……。
「自分が救われる話」は書けても、
「自分ではない誰かが生き、救われる話」は書けない。
「自分の痛みはわかってほしい」けど、
「案内役に徹して他者の痛みと救済を見せる」はモチベにならない。
自分のことが好きすぎる人は自分から目が放せないので、
「私はこうだった」「私はこう感じた」「私は傷ついた」
「私はこう見る」に拘泥してしまう。
まあ、それを延々と強く書き続けられるというのも一種の才能なんだけど、そこに描かれてるのって完全に本人の自意識の世界よね。
登場人物は全員、作者の感情を説明する装置。敵も恋人も友人も社会も「私」を映す鏡でしかないわけだ。
ただ、それについてくる読者さえいれば、それって王国の王様なので。
そういうのを「愛読者」「熱狂的なファン」と呼ぶんだろうから、ぜんぜんそれでいいんだ。なので、めちゃくちゃ酷い言い方すると、
「お前が自分を誰よりすげーと思ってるのはもうわかったから」と思われさえしなきゃいい、てことなんよ。俺すげー文学を死ぬまでやったとて、それを楽しく読み続ける読者がいるならそれでいいんだよ。
まあいつまでたっても「俺すげー」じゃ、さすがに「そういう人なんだな」と離れていく読者はいるかもだけど。
あと、そういうことだと他者性のある最高に愛すべき主人公に出会えないよね。主人公おおむね自分なんだから。ただ、そこまで自己肯定感が高いって、めちゃくちゃ幸せでうらやましいと思うけどね(二回目の富岡義勇並感)。まじで心底うらやましいけど、まあ俺はそうじゃなかったから最高の主人公に出会えましたしぃ……いいんですけどね?!
ちなみに第三の刺客もいて
作者タイプ1(主人公が自分)でもない。
作者タイプ2(主人公は自己超克する第三者)でもない。
そういうタイプの作家も、まれにいる気がする。
いわゆる、お人形ごっこタイプ。
そういう作者は、自分を脅かさない世界設定を作り上げて、登場人物を配列して安心して遊んでいるのだと思う。
いちおう小説を名乗るなら、主体はせめて自己を超えるものか、平然と自分自身か、その二択であってほしいけど……まあエンタメならいいのか。
読んでて、それ、どこに作者自身がいるん?! て思うときないですか。
そういうやつのことです。
自分が置いていないので、作者自身は泥をかぶらない。
安全な場所でストーリーだけを運ぶ。
泥さえかぶればいいって話じゃないけど、作者は舞台のこちらがわで登場人物の配置だけいそいそと変え、セリフの吹き替えをしている。
血が通わない。
だって人形だから。
話を運ぶための触媒だから。
成長もしない。
肺をつかってため息もつかない。
心臓がないから動悸も起こさない……。
そんな安全な第三項なんて、いらないでしょう。
自分を出すなら逃げずに出し、自分でないものには自分を超えさせるしかないでしょう。どちらもできないならそれは部屋の中でする遊びだ。
世界に出す小説に、なっていない。
セリフと地の文だけでは見えない何か
小説にはキャラがいる。地の文がある。セリフがある。
でもそれだけじゃない。
その奥に何かがなければ、小説にはならない。
その何かとは、切実さだと思う。
そこに書かれたキャラが、どこかに手を伸ばしている感じがすること。
そして「その感じ」に気付くためには、そもそも人間ってどういうものかを知らないといけないんだよね。生身の人間に対する感受性。
それを感じられない人には良し悪しすらわからないのだと思う。
技巧だけなら語れる。キャラ設定の目新しさだけならわかる。
構造。冒頭の比喩。言葉選び。基本。
世界観の独特さとか……そういうのは。
でも、もっと底をのたうつもの。
耳をすましても言葉になりきっていないもの。
気のせいレベルの何か。
それが聞こえるか? それは本当に「鳴っている」か?
ページの奥に。活字の裏に。おそろしいまでの情念が。
沈められた井戸のような、見落としてはならない思いが。
形にならない願いが見えているか?
文字だけ読んでないか。
類型的にビジュアル化できるかどうか、だけで見ていないか?
その話には「え、わからん」がありますか
「え、わからん」
を思わせない話って、書いても意味ないと思う。
それって読者の読解力を揺らせていないので。
もちろん文章が不親切で意味不明な「わからん」は論外。作者自身にも整理できてない、説明をサボってる、雰囲気だけで煙に巻いている、そういうことではなくて……
「今なにが起きたか」「この人はなぜそんなこと言う?」
「これって価値観として正しいの、間違ってるの」
「それなら自分がこれまで〇〇だと思っていたものは、何だったの?」
みたいに読者の理解が一瞬止まる場所。
一瞬わからない。でも、あとからわかる。
この「あとからわかる」にこそ、小説のすべてがあるのだと思う。
読みながら全部わかるような話なんて、既存の範疇にしかない。読者の今の語彙、今の倫理、今の欲望、今の理解力で処理できるレベル。
読めば「わかって気持ちいい」かもしれない。
でも、読んでも何も変わらない。揺らされない。
だから何も残らない。
本当に意味ある話は、読者の中に「なかった感覚」を置いていく。
最初は「え、わからん」となる。
でも、だいぶ時間が経ってから、人生のどこかで似た苦しみや愛や責任に触れたとき初めて、「あ、こういうことだったのか」と戻ってくる。
それが本当の小説にしかない「遅効性」なんだと思う。
わかりやすさだけを目指した小説は、読者の現在地に迎合するだけだ。
本当に書かれるべき小説というのは、読者の現在地より少し高いもの、少し遠いもの、少し怖いものなんだよ。
だから「え、わからん」は失敗じゃない。そこが入口なんだ。それは読者がまだそこを知らない、辿り着いていないことの合図ですらあるんだ。
種を持ち帰らせる
読み終わった読者が、なんでもいい、考える種を持ち帰れること。
それが、まずにして小説がなすべき仕事なんだと思う。
作者自身にすら、まだ答えが出ていない、人生に対する未完の問いがあるからこそ、その問いが小説の世界全体の奥底に響き続けるんだよ。
俺は『指輪物語』を映画『ロードオブザリング三部作』でしか知らないけど、それでもわかったからね。あの物語の底の底には、この世界とは本当に残すに足るものなのか、というトールキンの絶望が響いてるんだよ。
聞こえない人には聞こえないかもしれないけど。
生涯をかけて学びたいと思うものに出会えた。
愛する人に出会えた。
愛する人と家庭を持ち、子どもを育てることで、その成長過程を、育てる親の気持ちを知ることができた。
しかし、戦争もあった。
人間はなぜ、美しいものを守り愛でる心を持ちながら人を殺めるのか。
欲とはなんだ。人は欲から離れられないのか。
無念の中で亡くなった人の魂はどこへいくのだろう……。
死があるから悪いのか。
ならば不死の一族がいたらどうか?
死なない、ということはすべてを解決するか?
美しさとは?
平凡さとは?
ちびで小太りで食べることが大好きな種族がいたとしたら。
彼らはとるに足らないものだろうか?
行きて帰りしとき。
人が本当に故郷に持ち帰る宝物とはなんだろう……。
トールキンは死ぬ思いでそれを考え続けたんだと思う。
だからそれがすべて『ホビットの冒険』と『指輪物語』に落ちた。
それが種だ。
トールキンの苦悩そのものが見えない種となって物語の地面に落ち、それが文面の奥で芽吹いてすらいなくとも鳴り、低く響き、聴こえてきたんだ。
それは、あるいは技巧としてあらかじめ敷かれていたのかもわからない。
俺はトールキン研究者じゃないからわからない。
でも俺みたいな、半可通で映画しか見てない人間にすら、それは聞こえてきたんだ。響いてきたんだ。
心に、直接。
小説なんて、そんなたくさん書けなくても
いいじゃないかと思う。
デビューしたからってどんどん新作を書いて。
いっぱい刷らなくたって。いいじゃないかと思う。
一人の人間が一生かけて追及する問いなんて、そんなにたくさんない。
問おうと思えば問えるだろうけど、ほんとに「自分自身」を通して書くならば、そんなにたくさん、いいものは書けないと思う。
一作書いたら死ぬまで遊んで暮らせるくらいお金をもらえる世の中のほうが、俺はいいと思う。
そのために書いて、それで終わりでいいでしょう。
なんなら別に、お金なんてもらえなくても。
自分がこれまで生きてきて、ずっとずっと問いたいと思ってたことを、トールキンのように種として物語の土に植え、読んだ誰かの心に残せたなら。
誰かが俺の心の響きを、感じてくれたなら、聴こえた、と言ってくれたなら、もう、それでいいよ。
それが小説を書くということだよ。
今日、この日、俺にとっては、ということ。
