「今日の一言」授業中の子どものように生きていこう。
「何になりたいの?」を問う乱暴
子育て期を振り返ると、俺もけっこう子どもらに「何になりたい?」「何がやりたいの?」て聞いてしまってたけど。
これかなり乱暴な言葉だったな、て反省した。
よく考えたら、自分が聞かれてもすんなり答えられないもん。
「何」
というのは、すごく哲学的な問いだったんだな、と気が付いたよ。
「なにが?」
というのは、実は簡単なようで難しい言葉なんよね。
「何が?」を考えるって、かなり本質的、哲学的なのに、軽率に庶民に解放されたよね、この問い。
すげー哲学徒みたいなこと言ってるな。何の根拠もないままに。
でも、そもそも「何」を考えること自体、「内面にある見えない何か」を言語化しておろすことなんだから。
子ども相手に無茶言うなってなるよね?
すごい盲点だけど、 Whatよりもhowのほうが、より具体的なんだ。
「あなたはどう思う?」
だからむしろ、こう聞いたほうがよかったんだな。
「自分の将来について、どう思う?」って。
あるいは、「あなたは何をしてるときが楽しい?」って。
「それは何ですか」よりも。
「(あなたにとって)それはどうですか」のほうが、問いとして頭がいい。
だって、Whatの対象には他者、他物が入るけど、 howって自分の心が主役だもんね。
「どんなふう?」を表現するには、自分の心を通さなくてはいけない……。
自分とは、主体とはなにか
俺は子どもと話すとき、無意識に「あんたはどうなの」を聞いてきた。
友達が、先生が、ではなくて主体を思わせてきた。
たった一度の人生に何を叶えたいか? それは人間の至上命題として。
何より、まず自分を主体に置くことを、習慣化させたかったのだと思う。
孤独な人は主体「すぎる」
そしてこの「自分にとってどうか」という考え方って。
孤独な子どもほど、苦も無く習慣的にできることなんだよね。
孤独だと「合わせるべき周り」の存在が薄くなるから。
その環境は子どもの思考を深めるし言語化能力を高める。
でもときに深めすぎ、高め過ぎてしまう。息をするように大量の文字を吐き出してしまうみんなたちには、身に覚えがあると思う。
群れにあっては「主体をなくす」
人は本当は、群れの中に在りながら自分を意識する訓練をすべきなんだ。
孤独は主体を「育てすぎる」から。
でもうまくいかないわけさ。
集団はたやすく「個」をつぶしてしまうから。
まず集団生活に慣れましょう。
まず輪を乱さないように。
まず、まず……。
そうこうしてるうちに「自分」なんて邪魔になる。
「主体」なんて要らなくなる。つつがなく楽しくできれば……。
集団の中で「個」でいること
学校って。
授業中って、楽しくなかった?
あれが人間にとって理想の「集団の中の個」だったからなんだよ。
また俺ちょっと真理をつかんでしまったけども。
学校のいいところは授業! 悪いところはそれ以外ぜんぶ!
これ、いじめられっ子と不登校児の共通見解や思う。
俺がまさにそう思ってた、ってことに今はっきり気付いちゃった。
俺は授業中だけ生きていた
あかるい教室。
さわやかな春の風がわたりカーテンがなびく。
みんなしんとして先生の話を聞いている。
先生がいい話をすると。
みんなそれに感じ入っている「ように見える」。
「いじめっ子もこれで心を入れ替えてくれるかもしれないように見える」。
幻想だったろう。でも、そこには確かに幻想があったよ。
それを一瞬だけでも信じさせてもらえる静謐があったんだ。
あの授業中こそ理想の時間
ちゃんとしたカリキュラム通りの教育を受けた大人のもとで。
偏見や利己にまみれていない真実をだけ浴びていたいんだ。
学校の先生が教壇に立つとき。
みなが静かに着席して教科書を見るとき。
正しい知識を受け取るとき。
あれこそが人が自分をつくっていく基本の時間だったし。
それは大人になったって変わらないことだろう?
おわりに
もう学校にいく年じゃなくなったけど、本屋さんではいっぱい新書を売ってるし、学び直す機会はいくらでもあるのよね。
放送大学とかマジでやりたいしなぁ、お金があれば……。
がやがや他人としゃべる時間もね、楽しいものだよ。
一人じゃないんだ、俺は私は人気者だ! って思える時間もね。
そういうものが欲しくてもいい。
承認欲求のすべてがダメじゃない。むしろそれがなかったら楽しくない。
人間は群れから学ぶためにいっぱいいるんだから。
でも。
ときどきあの静けさを。
クラスのみんながしんみり、ゆっくり、正しい知を浴びて「変われる可能性」を信じさせてくれた時間を、思い出してみるとね。
幸せな気持ちにならないかなと思って。
