『アクタージュ』の喪失は作家が負う十字架の重さを教えてくれる。
連載が始まった当初から注目し、先の展開を期待していた物語が描かれなくなることは、身体の中にあった大きい血管が絶たれるのと同じことだ。描かれるはずの物語に向かう読者の期待は、大げさでなく肉体的実感を伴っている。
『アクタージュ』の連載途絶(喪失)はそういうことをしたと思っている。
前提として犯罪は許されない。
前提として犯罪者は称賛されるべきではない。
ただし日本国憲法は「すべての国民」の人権を保証するものであるから、刑法犯にも人権はある。
「すべての国民」のうち、国がその人権を放棄することがあるとすればそれは、死刑執行の瞬間だけであるし、それとて法に則って「それ以上致し方ない」と判断された時のみ行われている。
であるから犯罪者にも権利はある。
しかしそれはしばしば被害者の権利と衝突する。
『アクタージュ』を作品として評価する言説そのものが被害者とその周辺の人たちにとって悪夢となること、それは可能性としてある。
だからこそ、その断崖を埋め合わせるため司法は加害者に反省の弁をうながし謝罪文を書かせようとするのだと思う。
かすかな光とも呼べないその可能性、加害者の「犯意」と「正気」とを分け、「正気」の座標において塀の外の人々と分かり合うため、よりどころを見出そうとして……。
創作者は犯罪をしてはならない。
創作がになう空間は途方もなく広く、それは有名無名を問わない。いつどんなきっかけでその作品が評価され多くの人に求められ始めるかなんて、誰にもわからないのだから。
俺は『アクタージュ』を再開してほしいとは言わない。されるべきでないとも言わない。
少なくとも二度と商業作家があのような事件を起こさないため必要な自戒は業界内において出尽くしているだろうから「二度と起こすな」などと威丈高なことを言うつもりもない。
日々新しい創作物が誕生する。
その裏側にあるのは生きている人間の弱さと強さ、その間を揺れ動くてんびんのような心だけである。
そうして今日も俺たちは期待と希望の血管を性懲りも無く伸ばしてしまう。
創作物に限らず。
技術の革新。
誰かの笑顔。
新しい仕事。
そうしたもの。そうしたものへと。
今日も社会のどこかで罪を帯びながら伸びゆく欲望、衝動。内心のそれを行動に変えた瞬間、加害は生まれる。他者の心に鮮血をほとばしらせる。
犯罪は被害者の、加害者の、周囲の人々の日常を破壊する。その修復は容易ではない。
さらに加害者が創作者であるならば、無辜の読者が罪悪感を抱かされたり、沈黙を強いられたりする。物語によって生まれ得たはずの感動も経済活動もまた、消失する。
ただ生きているというだけで誰もが、罪のかたわらを歩いているものだけれど。
さらに創作をしている俺たちは、頼まれてもいないのに「架空の世界を増やす」という営みを帯びているから。その美しい世界までも、そこに連れ去ってしまった誰かの心までも罪の海へと沈めてしまわないよう、肝に銘じなくてはならない。なぜならすべての創作者は、その「架空の世界」によって魅了した人々の心、その重たさの分だけよぶんに、法律に書かれてすらいない見えない罪を、公然と課されてしまうことがあるのだから。
