パパがとった、おいしいあゆ【ショートショート】
「昔さ、じいちゃんに連れてってもらって、鮎のつかみどりしたんだよなあ」夫がぽつりとこぼした一言が、今日の物語の始まりだった。
そういう思い出は、大人になっても意外と残っていて
心の隅っこで光り続けるものだ。
うまく掴めたこと、逃げられて悔しかったこと、
ぬるりとした感触が怖かったこと。
成功も失敗も、色褪せない記憶になる。
「優くんにも、そんな思い出、作ってあげたいね」
その想いを後押しするように、お義母さんが、優くんと生後十ヶ月の従兄弟のために、お揃いの服をプレゼントしてくれた。
「これを着て、みんなでお出かけしましょう」と微笑むお義母さん。
すかさず私は提案する。
「鮎のつかみどりにみんなで行きたいです」
行き先は決まった。岐阜県郡上、あゆパーク。
一週間前から、私たちは予習していた。
鮎が泳ぐ姿を動画で見せ、私は両手を合わせて魚の形を作り、
くねくねと泳がせる。
「こうやって、ぎゅってするんだよ」
そう言うと、優くんは私の手を小さな両手で力いっぱい、
握りしめた。
うん、予習は完璧。
当日。車を走らせること約二時間。
山道を抜けると、木々の隙間から、ふと赤い電車が見えた。長良川鉄道だ。まるでおもちゃみたいな踏切の標識と、となりのトトロに出てくるさつきとめいの家を支えていそうな古びた木でできた、小さな無人駅。
深い緑の額縁に飾られた一両の赤い電車は、
どこか遠い国の物語から迷い込んできたようだった。

あゆパークは、想像よりこじんまりしていたが、私たちの心を躍らせるには十分すぎるほどの魅力が詰まっていた。
駐車場から歩き出すと、岐阜名物のけいちゃんや鮎の巻き寿司が並ぶレストランがあった。
そこを通り過ぎると、ふわりと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
炭火でじっくりと焼かれる、鮎の匂いだ。
その匂いに誘われるように進むと、芝生でできた小さな丘がいくつも連なっている。
優くんは、解き放たれた子犬のように、その丘を駆け回り、きゃっきゃと笑い声を響かせた。そんな息子の背中を追いかけているじいじは、趣味の釣りと写真で山に行きすぎてか、すっかり日焼けしている。

しばらく丘で遊んだ後、せせらぎへと向かった。
サメの尻尾がついたお気に入りの水着に着替えると、優くんのやる気は最高潮。だが、いざ足首ほどの深さの川に足を入れると、その冷たさと初めての感触にぴたりと動きが止まった。戸惑いながら、のそのそと慎重に歩を進める。

みかねた私が「えいっ」と水を蹴ってかけてやると、それがスイッチになったらしい。いつもの、プールではしゃぐ怖いものなしの優くんになった。
「ばあばも入ろうかしら」と裾をまくり、優くんの小さな手を引き始めた。優くんと、パパと、ばあば。優くんが真ん中になり、三人が手を繋ぐその光景は、何でもないけれど、どうしようもなく愛おしい一枚の絵に見えた。
いよいよ、鮎のつかみどり。
「30分で4匹」を目標に、小さな池へと向かった。
太陽の光を浴びてきらきらと光る水面の下で、
たくさんの鮎がひしめき合っている。
「うわー!おさかないっぱい!」
優くんは目を輝かせ、早く早くと私の手を引く。
「よし、練習の成果を見せるぞ!」
パパの声に、ゆうは「うん!」と力強く頷き、教えた通りに両手をぎゅっと握りしめて、鮎を捕まえるポーズをとって見せた。
自信に満ちた横顔だ。
しかし、いざ水の中に足を踏み入れた瞬間、その自信は揺らぎ始める。
足元を、ぬるり、するり、と銀色の影がかすめていく。予測不能な動きに「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げ、体がこわばる。
「大丈夫、追いかけるんだ!」
パパに背中を押され、再び気を取り直して、目の前の鮎に狙いを定めた。
けれど、あと一歩のところで鮎は身を翻し、優くんの手の中から鮮やかに逃げていく。
「あ!」「まてー!」と声こそは勇ましいが、その手は一度も魚体に触れることができない。
「こうやって、角に追い込むんだよ!」
パパがお手本を見せようと、素早い動きで鮎を追い詰め、一匹を捕まえてみせた。手の中でぴちぴちと激しく暴れる銀色の魚体。その剥き出しの生命の躍動感は、優くんの想像をはるかに超えていたのだろう。
それまで「おさかなさん」だった存在が、急に得体の知れない「生き物」に変わってしまったからか、目の前でうごめき、方向転換する無数の影とその群れに、恐怖を感じ始めた。
「こわい……」
か細い声が漏れた。
とうとう近くにあった唯一の安全地帯(池の中に一本だけ立っていた柱があった)にしがみつくと、水からも足を浮かせた。
「こわいぃぃ!もうやだぁぁ!」
世界中の「こわい」が、あの小さな池に凝縮されてしまったかのような大号泣。
結局、目標の4匹は、昔取った杵柄でパパが一人で捕まえた。
優くんは、柱にしがみついて泣きじゃくりながらも、
その様子を目で追っていた。
つかみどりを終え、川辺のベンチに腰掛けた。じゅうじゅうと音を立てて焼かれた鮎は、最高の塩加減で、頬張ると香ばしい香りが口いっぱいに広がる。心地よい風に吹かれながら、みんな無言で鮎にかぶりつく。

私は、涙の跡がまだ乾かない息子の頬を撫でながら尋ねた。
「優くんが頑張ってとってくれた鮎だよ、おいしい?」
すると、ふるふると首を横に振って、はっきりとした声で言った。
「ううん、ちがうよ。パパがとったあゆだよ。おいしいよ」
思わず笑ってしまった。
「そうだね、パパがとった鮎だね。」
怖くて泣いてしまったことも、正直にそう言える素直さも、
全部まとめていつかの思い出になる。
優くんが大きくなったとき、今日のことを覚えてくれているだろうか。
怖かった鮎の記憶と、それでもみんなで食べた塩焼きの味を。
パパがとってくれたあゆ、と素直に言える優くんでい続けて欲しいと思った。
