拝啓マエストロ【第二楽章】
顧問の提案で早めに休憩をとり、以降は音楽室にてチューニング、合奏。意外性で場を和ませた先生は指揮台に上がって、
「県大会はみんなで決めたゴール。僕も行きたい、指揮者として。ところが、一奏者としては自問自答を繰り返す。実は。先生のくせに中途半端で、言葉が足りなくて、ごめんなさい。どうも気負い過ぎてるように感じた」
と、素直に打ち明ける。あまりにも等身大で、ぱっと全員の視線が向けられた。
しかし、あくまでも当人はいつも通り、やや乱れた髪を撫で付け、譜面台にフルスコアを広げて、ゆっくりと室内を見渡す。
「さて。最初に音を出せた瞬間の感情、覚えてる? ここで楽器を始めた子たちには、たとえ中学で吹奏楽、部活は辞める予定でも、できれば音楽を嫌わないで……寧ろ、スタートなんだよ。高校、アルバイト先、今後ずっと新しい出会いが待ってる。毎日が素敵なことばかりじゃなくて、泣いたり笑ったり、生きていく中でふと、形は変わっても、音楽や楽器に、触れる。好きでいてくれたらいいな、いつか君を救うから。僕らが一緒に歩んできた道のりは本物、自信を持って。じゃあ、経験を通して〈こんな風に〉できますか」
「はい」
私たちは(条件反射で)即座に応じる。
だが、いざ楽器を構えても、肝心の譜面が滲んで読めなかった。あちらこちらで肩を震わせ、鼻を啜る或いは擤む、目頭をハンカチで拭う、マウスピースに唇を当てられない、コンサートバスドラムの影に隠れる、顧問すら頬を濡らし、引き換えに窓外は通り雨が止んで、からりと晴れている。
原点。心の奥に仕舞って、いつの間にか埃をかぶった大切な想い出に訴え掛けられると。
新入生歓迎会の演奏で巡り合った自分にとっての〈カッコいい〉を、椅子に早速ぶつけて怒られる、パート内では微妙なポジション、吹けても存在感が薄め、小柄な私と正反対な管楽器の重さに伴う首の痛みに襲われ、「向いていない」と思った、永遠に基礎練習、腹式呼吸と肺活量の強化トレーニング、厚みを増す楽譜ファイル、喧嘩別れの友人、疲労に塗れた帰りの坂、忙しいなか弁当を作る母、やがて五百円玉が机に置かれた。数々の光景が映画のように流れて、将来の姿さえ、ありありと目に浮かんだ。
つまりは、我々の胸に響いた。彼が説く内容でこうも左右されるなど、まさにこの曲の展開(成る程、掴めた気がする)。
「ありがとう、みんなの強い思いが伝わってくるよ」
「今の気持ちで合奏しましょう。よろしくお願いします!」
しばらく間を置き、流石は部長、立花が仕切る。
十代の私たち、二十代の顧問、三十代の先生。それぞれの道が一つになった、或る夏の出来事は料理に加えるスパイスのようなもので、楽譜の右下に書かれた『楽しもう』を極度の緊張とプレッシャーに負けそうな本番直前に、指でなぞった。
指揮者含め腹を括った〇〇中学校は二回ステージに立つ。編成のうち大部分が下級生、奇跡的な快挙と騒がれる。
目標を達成し、秋の行事で華々しく引退、受験、進学。私は燃え尽きて、暗転、吹奏楽に終止符を打った。
まだ一年生だった〈後継者〉の彼女から相談を受け、OGとして差し入れを持って行ったきり、バリトンサックス(※略称。英語ではSaxophoneでサクソフォン、サクソフォーン、サキソフォン、読み方の違い)は吹いておらず、更に、苦楽を共にした仲間と成人式後の同窓会で無事に再会を果たすも、各クラスの担任と学年主任が呼ばれ、そうでなかった顧問や外部指導の先生とは全く会っていない。
ちなみに制服がセーラーからブレザーに変わったと噂で聞く。
立花がソロコンテストにトロンボーンで出て教職に就き、元ホルン担当の浜は専門店のリペア(修理・メンテナンス技術者)に、夢を叶える。
自分は?
上京、第一志望の最終面接でズタボロ、「落ちた」としか考えられなかった日。雑踏に紛れたシャウトを耳が拾う。
路上での弾き語り、アコースティックギターの腕はともかく所々、音程が外れて歌はいまいち、なのに、魂がこもっていたのだろうか。
専ら掻き鳴らして畳み掛けるようなオリジナルソング、力強く、且つ弱さに寄り添う詞、汗が飛び散り、滲み出る〈人生〉に自然と惹かれて足を止め、リクルートスーツのまま、久しぶりに聴き惚れた。
世界でたったひとり、履歴書にはとても記せない本当の私を歌ってくれる、まるで、中学三年生の夏休みとスパイスの如く感極まり、心が動かされて。
驚くべきことに、これがかつて先輩のバンドでボーカルを務めた彼で、いやはや、全てが繋がっている。
運命の恋と愛はどんなものかしら。
どうにか就職活動を終えて『お疲れさま。ライブハウスにおいで』との誘いに乗り、初デートで交際を求められ、すぐに
「俺、万人ウケは狙ってねえ。答え探しをやめにしろ。評価の基準は曖昧なもん」と「貴重な意見感想は活かしな。スカウト待ち、食べてく気あんの」で論争、
「てか私も偉そうに言えないや、適性なしでショック引き摺った。挑んだならあっち側に見極められるのは当然?」
なお、今や夫婦。
振り返ってみると挫折を味わって良かった。
「ママぁ、遅い」
七夕。家族連れが多い、港のショッピングモールにて。優しいパパと手を繋ぐ娘は近頃、私に反抗的だ、が、母曰く「あんたにそっくり」らしい。
ぽつんと置いて行かれて、何となくで楽器屋に寄る。練習中、必須ながら頻繁に滑り落としたチューナー。忘れ難い味と匂い(湿った木)のリードは消耗品。どれも値段が高く、十五年の経過をひしひしと感じた。
ガラスの向こうに展示されたアルトサックスの艶やかさが懐かしい。大型のバリトンは高額ゆえに手が届かず、親から買い与えられる子が少々、羨ましかった。
眺め回し、うっとりと束の間の幸せに浸れば、
「もしや、八木さんではありませんか」
ふいと旧姓で呼ばれて、姿勢を正す。合奏の間にうたた寝してバレた際のような。
恐る恐る、声の持ち主を確かめると、やはり真っ白いシャツにシワのないスラックスで清潔感漂う、クラリネットケースを携えたーー即ち、未だにスマートな恩師が楽譜コーナーの角にいる(なんとまあ、豊富な品揃えだこと)。
「はい。久方ぶりです」
こちらの返事で舞台照明みたいに目が輝き、世にも朗らかな笑顔に変わり、つられて頬が緩む。
何から話すか。存在自体がタクト、影響を受けて、特にあなたの言葉には、事ある毎に支えられた。楽しむ余裕が生まれるまでの旅路は楽ではなく。
ともあれ、教え子として記憶に残っていた事実が信じられないくらい嬉しい。
「先生」
ドラマティックな新楽章の幕開け、夫と娘を紹介しよう。
私たちは、音楽が好き。
《未知鳴るB♭》
★あとがき、のような。
『人生を楽しむオトナ』
幼少期は祖父のオーディオルームでジャズやクラシックを聴いていました。ある時、気に入ったCDを何枚か借りたのですが、コレクションの一部を祖父は何故か「返さなくていい」と。
それが最近、僕の生まれ年に買い揃えたものだと知り、歳月を経て、込められた想いと邂逅を果たすーー以上、おまけのショートエッセイでした。
お読みいただき、ありがとうございます。
