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【オーストリア国歌】 ドイツ国歌になってしまった哀しき歴史  ハイドン: 弦楽四重奏曲第77番 作品76-3 2楽章

音楽史上・政治史上非常に有名なハイドンの最高傑作をめぐるエピソードについてのお話です。

現在、ドイツ国歌として世界中に知られている美しいメロディ。
もともとはオーストリアの偉大な作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが、オーストリア皇帝のために作った「オーストリア公式の歌」だったのです。

オーストリア国歌

オーストリアの宰相サウラウが「国民の愛国心を高めるための賛歌が必要だ」と考え、詩人のハシュカに作詞を、そして「音楽界の父」であったハイドンに作曲を正式に依頼しました。

誕生
 1797年、当時の神聖ローマ皇帝フランツ2世の誕生日を祝う歌として作られました。

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン作曲 (Franz Joseph Haydn)
後に、弦楽四重奏曲第77番 作品76-3 
通称『皇帝』の第2楽章に使われているメロディです

曲名 『神よ、皇帝フランツを守り給え(Gott erhalte Franz den Kaiser)』

歌詞 オーストリアの詩人ロレンツ・レオポルト・ハシュカ
  (Lorenz Leopold Haschka)

ハシュカは、当時のオーストリア政府の依頼を受け、ハイドンの作曲に合わせて歌詞を書き上げました


1797年2月12日、皇帝フランツ2世の誕生日に、ウィーンのブルク劇場をはじめとする各地の劇場で一斉に演奏されました。

これが大好評となり、すぐに「皇帝賛歌(オーストリアの公式な歌)」として定着しました。
ハイドンがこのメロディを弦楽四重奏曲『皇帝』の第2楽章に組み込んだのは、その数ヶ月後のことです。

その後の皇帝(フェルディナント1世やフランツ・ヨーゼフ1世)に合わせて、名前や内容が少しずつ修正されました。

最終版(1854年): ハシュカの歌詞ではなく、ヨハン・ガブリエル・ザイドルという詩人が書いた「特定の皇帝の名を出さない歌詞」に改められました。

ドイツの国歌になった流れ

1841年

当時は、「ドイツ」とは国名ではなく、同じ言語を話す地域全体のことで、その「ドイツ地域」のトップに君臨していたのがオーストリア(ハプスブルク家)だったのです。
ハイドンの曲は「他国の曲」ではなく「同じ民族の偉大な遺産」だったのです。

1841年当時、神聖ローマ帝国はすでに滅亡し、バラバラの小国に分かれていましたが、国民の間では「もう一度、大きな一つの『ドイツの国』を作ろう」という運動が盛り上がっていました。

このメロディにプロイセン出身の詩人、ホフマン・フォン・ファラースレーベンが『ドイツの歌(Das Lied der Deutschen)』という歌詞を付けました。

歌詞の内容 当時のドイツはバラバラの小国に分かれていたため、「ドイツよ、すべてのものの上にあれ(Deutschland über alles)」と歌い、統一を呼びかける内容でした。

多くの知識人や一般国民の多くが望んだのが「大ドイツ主義」という構想、「オーストリア皇帝(ハプスブルク家)に、新しく生まれる統一ドイツの初代皇帝になってほしい」と熱望していました。

当時はオーストリアが「公式国歌」、ドイツは「民間のお気に入り愛国歌」として、本家オーストリアの威厳は保たれていました。

第一次世界大戦(1918年)

1918年に大戦に負けてオーストリア帝国が崩壊したため、それまでのハイドンの曲「皇帝万歳」の歌が歌えなくなってしまいました。
さらに当時は、「これからは民主主義の新しい時代だ!古い帝国のイメージが強いハイドンの曲とはおさらばしよう」という政治的な雰囲気もあり、1920年にこの全く新しい曲を国歌に制定したのです。

曲名 『ドイツ=オーストリア、汝壮麗なる国よ』
作曲者 ヴィルヘルム・キーンツル(Wilhelm Kienzl )


1922年 民主化されたドイツ(ワイマール共和国)が、ホフマンの『ドイツの歌』を正式に「ドイツ国歌」に指定。

1929年 一度別の曲にしていたオーストリアも、不評だったこともあり、またハイドンへの愛着を捨てきれず、新しい平和の歌詞をつけて国歌に復活。

ここから1938年までの16年間、「まったく同じメロディを、隣り合う2つの国がそれぞれの公式国歌として同時に使う」という前代未聞の状態が続きました。
国際イベントでこの曲が流れると、両国民がそれぞれ全く違う歌詞を頭に浮かべて聴くという、奇妙な時代だったのです。

「国歌の悲劇」 第二次世界大戦

1938年、ドイツがオーストリアを併合した事によって「ハイドンのメロディ」をめぐる歴史が最悪の形で結末を迎えることになります。

  1. オーストリア国歌の禁止 併合されたことで「オーストリア」という国自体が消え、ドイツの「オストマルク(東部地域)」という地方に格下げされました。そのため、オーストリアが歌っていた独自の歌詞(ハイドンのメロディに乗せた平和の歌)は全面的に禁止されました。

  2. ナチスによる独占 これにより、ハイドンの美しいメロディは、完全に「大ドイツ帝国(ナチス)」の国歌、およびナチスの突撃隊の歌として独占され、世界中にその恐怖のイメージとともに響き渡ることになってしまいました。

オーストリアの人々にとって、1797年にハイドンが自国のために作ってくれた大切な宝物が、この1938年3月を境に「侵略者(ナチス)のシンボル」へ完全に塗り替えられてしまったのです。

オーストリアが使わなくなった理由
"Anschluß"- Der Anschluss Österreichs an das Deutsche Reich

併合の記憶 1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)しました。この時、ナチスはこのメロディを「ドイツの力」の象徴として大々的に使用しました。

戦後の決別 第二次世界大戦後、ナチスの支配から解放されたオーストリアは、「ドイツと同じメロディ(ナチス時代の記憶)」を使い続けることを嫌いました。

新しい国歌へ 1946年、オーストリアはハイドンの曲を捨て、ヨハン・ホルツァー (Johann Holzer ) 現在の国歌『山岳の国、大河の国』を新しく制定しました。


現在のオーストリアの国歌 『山岳の国、大河の国』


「新しい国歌」の歌詞も、2012年に新しく書き換えられました。

1946年にパウラ(女性詩人)が書いた元の歌詞には、「偉大な息子たちの故郷(Heimat bist du großer Söhne)」という一節がありました。当時は「息子たち=オーストリアを支える国民全体」というニュアンスでしたが、21世紀に入ると国会や国民の間で次のような議論が巻き起こりました。

「女性の社会進出が進んだ現代において、国歌が『息子(男性)たち』だけを称えているのはおかしい。歴史を支えてきた『娘(女性)たち』の名前も入れるべきだ」

オーストリア国内では大激論に

この変更は、すんなり決まったわけではありませんでした。
「伝統ある歌詞を政治的な理由で変えるな」という保守派や、国民的なポップスターがコンサートでわざと古い歌詞で歌って物議を醸すなど、オーストリア国内を二分するほどの大論争になりました。

しかし、「女性の権利を認め、未来へ進む国の姿勢を示す」として、現在は新しい歌詞がすっかり定着しています。

現在のドイツ国歌

ドイツは現在もハイドンのメロディを国歌として使い続けていますが、かつての領土拡大を連想させる「1番(ドイツよ、すべてのものの上にあれ)」は歌わず、民主主義を象徴する 3番(統一と正義と自由)のみを公式な歌詞としています。




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綾 クレバーン  🎶  ウィーン在住 ピアニスト もしこの記事が、あなたの時間や心に少しでも価値を届けられたなら、とても嬉しく思います。 応援のお気持ちとしてのチップは、これからの創作活動の大きな励みになります。 いただいたお気持ちは、次の作品づくりに大切に活かしてまいります。 本当にありがとうございます。