ジークムント・フロイト博物館 ウィーン-人生の光と影
精神分析学の創始者として世界的に有名なジークムント・フロイト。
彼が1891年から、ナチスによる亡命を余儀なくされる1938年までの約47年間、家族と暮らし、患者を診ていた建物(ウィーン9区 Berggasse 19)が、現在はそのまま「フロイト博物館」になっています。

『夢判断』『精神分析学入門』『自我とエス』といった歴史的な著作の数々も、すべてここで執筆されました。
診療所の待合室では、世界初の精神分析学研究会である名高い「水曜日の心理学サークル」も催されてました。


2020年の大規模リニューアルによって、現在の地上階はとてもお洒落で雰囲気の良いカフェハウスやお土産売り場になりました。
今回は、フロイトの人生を変えた「2つのフロア(光と影)」についてお届けします。



反対側は診療所の入り口があります
誰もが知る全盛期の舞台: 中二階 住居と新しい診察室
展示のメインとなる「中二階 Mezzanin」
ここは、世界的に有名になったフロイトが実際に暮らし、数々の著名な患者を診察していた場所です。
このフロアは、フロイト一家の「プライベートな住居(左側)」と、患者を迎える「診察室・待合室(右側)」が同居する構造になっています。












有名な「精神分析のカウチ(寝椅子)」のオリジナルは、ロンドンに亡命する際にフロイトが持っていったため、現在はロンドンのフロイト博物館にあります。
しかし、ここウィーンの館内にも、豪華な待合室や、かつて世界中から弟子や文化人が集まった当時の空気感が生々しく残されています。





しかし、この華やかな全盛期の部屋以外に「不思議なフロア」があります。
孤独と借金、どん底の原点: 中一階のちょっと暗い部屋
地上階から数段階段を上がったところにある、少し薄暗くて独特な雰囲気が漂うフロア。
無名時代のフロイトが戦っていた「昔の最初の診療所」です。
今でこそ天才と称えられるフロイトですが、1891年にこの建物に引っ越してきた当時はまったくの無名でした。
子供が3人いて、借金を抱え、経済的にもどん底。
そんな時代に必死の思いで最初に開いた診察室が、まさにこの「中一階の暗い部屋」でした。
保守的なウィーンの医学界からは「あんなものは学問ではない」と異端児扱いさていたのです。

彼はこの部屋で、世間から冷遇されながらも、人間の心の闇と向き合い続けました。
そして1899年、ついに歴史的名著『夢判断』を書き上げ、世界を揺るがす「精神分析学」を誕生させたのです。
1891年(35歳):無名・どん底のスタート
引っ越してきた当初、お金がないフロイトは、このフロアの半分のスペースしか借りていませんでした。
その狭い部屋の中に、家族の生活スペースと、初期の小さな診察室を同居させていました。
当時、この9区はウィーン大学医学部が集まる「医療の聖地」であり、最新の高級住宅街でした。
医師として成功するため、妻の実家の持参金を切り崩し、親友から借金をして、無理をしてこの一等地にオフィスを構えたのが始まりでした。

1906(1908) 年以降:世界的な名声と成功
名著『夢判断』が出版され、世界的な名声を得たフロイトは、徐々に経済的にも成功を収めていきます。
まずはこの中一階の隣の部屋を買い足してワンフロアを広く使っていましたが、その後1908年には、さらに上の階である豪華な「中二階」へと診療所と住居をまるごと移転させたのです。
閉じたそれまでの中一階の診療所はその後、妹や長男の家族の住居となりました。

フロイト一家が暮らした部屋の上層階(日本の3階・4階にあたるフロア)には、現在、約40,000冊以上の蔵書を誇る、ヨーロッパ最大(世界でも2番目)の精神分析学の専門図書館や研究スペースが広がっています。
ナチス・ドイツによるオーストリア併合の後、1938年6月にフロイトは亡命を余儀なくされ、生涯最後の1年余をロンドンで過ごしました。
末期癌の症状に苦しんでいたフロイトは、友人であった医師に依頼してモルヒネの過量投与を受け、人生に終止符をうちました。83才でした。

後に、この建物はナチス政権の時代、ユダヤ人の臨時収容施設として使用され、79人が収容され、最終的な強制収容所へと送られました。
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